影の薄い存在
ツクヨミ、あるいはツキヨミについては分かっているようでよく分からない。そもそも得られる情報が少ないのでイメージを抱きづらい。 三貴神のひとりとされながら個性が強い天照大神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)に挟まれて影は薄く、何をしたのかもほとんど伝わっていない。 子孫についての情報もほぼない。 それはもしかすると早死にしたからかもしれない。ひょっとするとツキヨミこそが天の一族の正統後継者だったのではないか。それが早世してしまったために天照大神が後を継ぐことになったと考えるとわりと納得がいくのだけどどうだろう。
母がイザナミとは限らない
ところでツキヨミの母は誰でしょうという問いに即答できるだろうか? え? イザナミでしょ? というのが大半だろうけど、そういっているのは『日本書紀』の本文で、『古事記』や『日本書紀』一書はそうは書いていない。 共通するのはイザナギから生まれたとすることだけで、『古事記』はイザナギが死んだイザナミを追いかけて黄泉の国へ行って戻ってきてからイザナギから生まれたことになっているので、そのときはすでにイザナミは死んでいる。なので、必然的に母はイザナミではないということになる。 あるいは、表には出ていないイザナギの第二妻とでもいうべき存在がいたのではないだろうか。
そのあたりのことを頭に入れつつ、『古事記』、『日本書紀』が何を書いているかを見ていくことにしたい。 その後、記紀以外にも目を向けてみる。
『古事記』が語ることの意味
伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)は協力して国や神々を生み、伊邪那美命は火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤオ)、またの名を火之炫毘古神(ヒノカガヒコ)、またの名を火之迦具土神(ヒノカグツチ)を生んだ際にホトを火傷(美蕃登炙)したことが原因で病気になって亡くなってしまう。 伊邪那美命を追いかけて黄泉国(よみのくに)へ行った伊邪那岐命は、変わり果てた伊邪那美命の姿を見て逃げ帰ってきた。 自分はなんと穢(けが)れた国に行ってしまったのかとつぶやきつつ伊邪那岐命は竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはぎがはら)で禊(みそぎ)を行った。 その際、身につけていた服や持っていた杖などから多くの神が成っている。その数は12柱になる。 続いて八十禍津日神(ヤソマガツヒ)と大禍津日神(オオマガツヒ)が成った。 更に、神直毘神(カムナオビ)、大直毘神(オオナオビ)、伊豆能売神(イヅノメ)が、底津綿津身神(ソコツワタツミ)、底筒之男命(ソコツツノオ)、中津綿津身神(ナカツワタツミ)、中筒之男命(ナカツツノオ)、上津綿津身神(ウワツワタツミ)、上筒之男命(ウワツツノオ)が成った。 この後生まれたのが三貴神と呼ばれる神で、伊邪那岐命が左目を洗ったときに天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、右目を洗ったときに月読命(ツキヨミ)が、鼻を洗ったときに建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)が成った。 吾は三柱の貴い神を得たと喜んだ伊邪那岐命は、天照大御神に御頸珠(みくびたま)を授けて高天原をしろしめすよう事依(ことよさせ)、月読命には夜の食国(おすくに)を、建速須佐之男命には海原をしろすめすよう事依たのだった。
以上が『古事記』に書かれた月読命についての記述だ。 具体的に何をしたかについては何も書かれていない。 解釈は後回しとして、次に『日本書紀』を読んでみることにしよう。
『日本書紀』の本文と一書の大きな違い
第五段は伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が神々を生む話で、海、川、山などに始まり、三貴神が誕生するまでが描かれている。 本文に関していうと、『古事記』と大きく違っているのが、三貴神を伊弉諾尊と伊弉冉尊が生んだことになっている点だ。 大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、伊弉諾尊と伊弉冉尊は話し合って天下の主を生むことにした。 そうして生まれたのが太陽の神である大日孁貴(オオヒルメノムチ)、別伝では天照大神(アマテラスオオミカミ)、または天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメ)だった。 伊弉諾尊と伊弉冉尊は大日孁貴に天のことを授けて天に送った。 次に月の神が生まれた。一書が云うにはとして、月弓尊、月夜見尊、月讀尊の名を挙げている。 この子も光り輝いていたので日神に配すために天に送った。 次に蛭兒(ヒルコ)が生まれたのだけど、三歳になるまで足が立たなかったので天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)に乗せて流し、次に素戔鳴尊(スサノオ)が生まれた。 しかし、素戔鳴尊は泣きわめいてばかりいて人々が困ってしまったので根国に追放することになる。
一書第一は、伊弉諾尊が単独で三貴神を生んだという話になっている。 左手に持った白銅鏡(まそかがみ)から大日孁尊が、右手に持った白銅鏡から月弓尊が、また首を回したときに素戔鳴尊が成ったとする。 大日孁尊と月弓尊は性質が明るく麗しかったので天地を照らし、素戔鳴尊は残忍だったので根国を治めるように命じたという。 ここで特徴的なのは、大日孁尊と月弓尊を同列、同等に扱っているところだ。それと、太陽神、月神という言い方はしていない。
一書第六は『古事記』と共通する部分が多いのだけど違っているところもある。 黄泉国から戻ってきて禊ぎをした伊弉諾尊が左眼を洗ったときに天照大神が、右眼を洗ったときに月讀尊が、鼻を洗ったときに素戔鳴尊が生まれたというところまでは同じで、違っているのは月讀尊に滄海原(あおうなばら)を治めるよう命じたという部分だ。 『古事記』では海原を治めるように命じられたのは建速須佐之男命だった。
第五段の最後、第十一に月夜見尊の事績に関する唯一の話が書かれている。 高天原を治めるように命じられた天照大神に配された月夜見尊に対して天照大神が遣いを命じた。 葦原中国にいる保食神(ウケモチ)のところへ行ってきてほしいと。 出迎えた保食神は月夜見尊のために口から飯や魚、獣などを出して饗そうとすると、なんと穢らわしいと顔色を変えて怒り、月夜見尊は剣を抜いて保食神を殺してしまった。 月夜見尊が天に戻ってそのことを報告すると、今度は天照大神が激怒して、汝は悪い神で、二度と顔を見たくないと絶縁宣言。これが昼と夜が分かれた興りだといっている。 天照大神は天熊人(アメノクマヒト)を遣いにやって見に行かせると保食神は確かに死んでいた。 しかし、保食神の頭や体から牛馬や稲、粟などの五穀が生まれていたので天熊人はそれらを持ち帰った。 天照大神は喜び、これは地上で人々が生きる糧になるといい、種を植え、蚕を飼った。 これとほとんど同じ話を『古事記』は須佐之男命と大気都比売神(オオゲツヒメ)の話としている。 どうして登場人物と設定を変えたのかは分からないけど、おそらく『日本書紀』の方が後出しなので、『日本書紀』はあえて月夜見尊としたということなのだろう。
『日本書紀』はもう一箇所、月神が登場部分がある。月神としか書いていないので月夜見尊とは断定できないのだけど、それは第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)記で、話はこうだ。 顕宗天皇即位3年、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)が命を受けて任那(みまな)へ行った。そのとき月神が人に神懸かって、自分(月神)を奉れば福があると告げた。 そこで使者(事代)は京(みやこ)に戻って事の次第を報告し、山背国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を月神に奉ったという。 その祠に仕えたのが壱岐県主(いきのあがたぬし)の祖の押見宿禰(オシミノスクネ)だったとも書いている。
記紀以外も二神親説
『古語拾遺』と『先代旧事本紀』は、伊奘諾神と伊奘冉神がともに日神、月神、素戔鳴神を生んだとしている。 これは『日本書紀』の本文にならっているということだ。 こうして比べてみると、『古事記』の黄泉国へ行った後に禊ぎをした際に伊邪那岐命が単独で三神を生んだという伝承が独自のものといういい方ができる。 ただ、『日本書紀』の一書にも『古事記』と似た内容があるから、いくつかあった伝承のうちのどれを採用したかという違いともいえる。
ツキヨミのかすかな痕跡
記紀以外でいうと、『山城国風土記』逸文の中に月読尊の名が出てくる。 月読尊が天照大神の命を受けて豊葦原中国の保食神の元へ向かう途中で湯津桂に立ち寄ったことが地名の由来というものだ。 山背国(山城国)と月神(月読尊)は何かゆかりがあるのだろう。
『出雲国風土記』に出てくる伊佐奈枳命(イサナキ)の子の都久豆美命(ツクツミ)を月読尊とする説がある。
『続日本紀』にも一箇所、月読神が出てくる。 第49代光仁天皇(在位770-781年)のとき、暴風雨が吹き荒れたので占(卜)ったところ、伊勢の月読神の祟りという結果が出たので、毎年9月に伊勢に馬を奉納するようになったという内容だ。
『皇太神宮儀式帳』(804年)に、月讀命の姿について、「御形ハ馬ニ乘ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ」という記述がある。 大刀を持って馬に乗る男性というのだけど、そういう像があったのか、絵が描かれていたのか、いずれにしても 奈良時代までには月読神のイメージができあがっていたということなのだろう。
ツキヨミ関連の神社
ツキヨミを祭神とする神社についていうと、これが意外と少ない。なんだかんだで他の神々たちと一緒に祭神の一柱として数えられてはいるものの、ツキヨミを主祭神として祀る独立した神社は数えるほどしかない。 伊勢の内宮(皇大神宮)の別宮のひとつの月讀宮や外宮(豊受大神宮)別宮の月夜見宮が代表的なものといえるだろうか。
京都には3社ほどツキヨミ関係の神社があるのだけど、京都市の月読神社(web)は延喜式内の名神大社とされる古社だ(葛野坐月讀神社)。 ただし、現在は松尾大社(web)の摂社という位置づけになっている。 この神社は長崎県壱岐市(いきし)の月讀神社から勧請されたという話があるのだけど、上に書いたように『日本書紀』の顕宗天皇記に月神が人に神懸かったので山背国葛野郡の歌荒樔田に祀り、それを壱岐県主の祖の押見宿禰が仕えたとあるので、それが事実に基づいているなら京都(山背)の月読神社の方が先に思える。 長崎県壱岐市(いきし)の月讀神社も延喜式内の名神大社とされているのだけど、これは江戸時代に間違った神社に比定してしまったもので、本来は同じ壱岐市の男岳にあった月読神社(現・箱崎八幡神社)ではないかともいわれている。 いずれにしても壱岐氏とツキヨミは近しい関係にあって、名神大社とされているくらいなので古くからある格式のある神社と考えられていたことが分かる。 ただ、これらの神社で祀られている月神が果たして記紀がいうツキヨミのことなのかというとそうともいえない部分があって、そのあたりは少し注意が必要だ。 面白いのは壱岐市の月讀神社の祭神が月夜見命、月弓命、月読命の三柱になっていることだ。 『延喜式』神名帳には「壱岐郡 月読神社」(一座)とあるので、本来は一柱の神を祀っていたはずが、いつからか同じ神を違う3つの名前で祀るというちょっとおかしなことになってしまった。そのあたりにも混乱が見られる。
他にもツキヨミを祀るとする神社は全国に点在するのだけど、記紀神話のツキヨミを祀るために建てられたところは少ないか、まったくないのではないかと思う。 もっと普遍的な月神から発しているか、もともと違う神を祀っていたのをツキヨミに仮託したか、もしくは民間信仰から発した月神もありそうだ。
妻や子はいなかった?
ここまで見てきたようにツキヨミの存在感は薄い。子や後裔についても分からない。 『新撰姓氏録』にもツキヨミの後裔を名乗る一族は載っていない。 もし存在したとしても、婚姻前に早死にしたか、あるいは別の名前で知られる誰かということになるだろうか。
月を読むからではない
ツキヨミという名前から月を読むと解釈する説があるけど、個人的にはそれは信じない。 ツクヨミと読めば意味が通らない。 地球を回っている星としての月を神格化したというのも違うと思う。 ツキヨミという名を与えられたのは、むしろ黄泉との関係ではないだろうか。 『古事記』がいうように、伊邪那岐命が黄泉国へ行って戻ってきたときに生まれたとすれば、黄泉にツクという意味に取れる。 黄泉をどう解釈するかは難しいところなのだけど、黄泉は黄色い泉と書くように黄身の部分を指す。黄身の周りには白身がある。黄身は中心だ。
陰の存在として
ツキヨミは非常に重要な存在だということを聞いている。 アマテラスを支える立場であり、ある意味では裏天皇のような存在といえるだろうか。 陰陽でいえば陰の部分だ。 ツキヨミがいるからこそ、アマテラスは陽でいられる。 表には出てこなくてもツキヨミはずっといたのかもしれない。 現代においてもだ。
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