鏡作の女神?
『古事記』では伊斯許理度売命(イシコリドメ)、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊命(イシコリトベ)と表記される。 天照大神(アマテラス)が天岩戸に隠れた際に八咫鏡(やたのかがみ)を作ったことから鏡作りや鋳造の神とされる。 邇邇藝命(ニニギ)が天孫降臨するときに従った五伴緒神(いつとものおのかみ)の中の一柱。 一般的に女神とされているけど本当にそうなのだろうか。
歴史書の中のイシコリドメ
『古事記』の天岩屋隠れの場面で出てくる。 建速須佐之男命(スサノオ)の高天原での乱暴狼藉に耐えきれなくなったアマテラスは天岩屋に隠れてしまい、世界は真っ暗になる。 困った神々は天安河に集まって相談し、高御産巣日神(タカミムスビ)の子の思金神(オモイカネ)が策を講じた。 それぞれの神が祀りのための準備を進める中、天安河の上流の天の堅石と天の金山の鉄を材料に、鍛冶屋の天津麻羅(アマツマラ)と鏡の神の伊斯許理度売命(イシコリドメ)は鏡作りを担当した。 石で鏡の型を作って、そこに溶かした鉄を流し込んで鉄製の鏡を鋳造したということのようだ。 遺跡から発掘される鏡は銅製が多いのだけど、稀に鉄製もあるので、まったくない話ではない。 このとき作られた鏡はアマテラスの分身ともいえる三種の神器のひとつの八咫鏡になるので非常に重要なものだ。
『日本書紀』の天石窟隠れは第七段に書かれている。 本文では祭祀具を作った神は登場せず、思兼神(オモイカネ)が考えた策を天兒屋命(アメノコヤネ)と太玉命(フトダマ)が行い、天鈿女命(アメノウズメ)が踊ってアマテラスは出てきたという話になっている。 石凝姥(イシコリドメ)が出てくるのは一書第一で、鍛冶工となって天香山の金を採って日矛を作ったといっている。 ”日矛”は文字通り矛(ほこ)のことなのか、それとも日矛の鏡ということなのか。 続けて立派な鹿(眞名鹿)の皮を剥いで天羽鞴(あめのはぶき)という火を起こす鞴(フイゴ)を作り、このフイゴで作った鏡が紀伊国の日前神(ひのくま)とも書いている。 一書第二は、鏡を作ったのは鏡作部(かがみつくりべ)の遠い祖先の天糠戸(アメノヌカト)といっており、イシコリドメの名は出てこない。 ただ、一書第三に鏡作(カガミツクリ)の遠い祖先の天拔戸(アマノヌカト)の子供の石凝戸邊(イシコリトベ)が八咫鏡を作ったとあるので、天糠戸/天拔戸と石凝姥/石凝戸邊は親子ということになりそうだ。 気になったのは一書第二の記述だ。 日神(アマテラス)が岩戸を少し開いたとき鏡を差し出したら岩戸に当たって傷がついてしまって、その傷は今でもあって伊勢の大神として祀られているといっていることだ。 単なる思いつきで挿入したエピソードとは思えない信憑性がある。伊勢の神宮(web)にある鏡には本当に傷があるのだろうか。
『古語拾遺』(807年)は祭祀具作りを担当した神たちについて詳しく書いている。 その中で石凝姥神(イシコリドメ)はやはり鏡を作ったことになっていて、天糠戸命(アメノヌカト)の子で作鏡(かがみつくり)の遠祖としている。 違っているのは、材料を天香山の銅(あかがね)としている点だ。それで”日像之鏡”を作ったとする。 鉄鏡と銅鏡では意味が違うのかどうかはよく分からない。
『先代旧事本紀』(平安時代初期)も同じようなことを書いているのだけど、違っている部分もある。 石凝姥が天金山の銅で日矛を作ったものの出来具合がもうひとつで、紀伊の日前神(ヒクマ)として祀られているといい、天糠戸を石凝姥の子としつつ天香山の銅を採って日像(ひのみかた)の鏡を作らせたら出来がよかったのだけど、窟戸に触れたときに小さな瑕(きず)がついてしまったといっている。 これが伊勢の大神として祀られている鏡で、八咫鏡または真経津鏡(まふつ)ともいうとする。
五柱の中の一柱
記紀において次にイシコリドメが登場するのがニニギの天孫降臨の場面だ。 『古事記』は”五伴緒”(いつとものお)、『日本書紀』は五部神としてニニギに従った神として次の5柱を挙げる。
天児屋命/天兒屋命(アメノコヤネ) 布刀玉命/太玉命(フトダマ) 天宇受売命/天鈿女命(アメノウズメ) 伊斯許理度売命/石凝姥命(イシコリドメ) 玉祖命/玉屋命(タマノオヤ/タマノヤ)
それぞれの子孫は、アメノコヤネは中臣連、フトダマは忌部首、アメノウズメは猿女君、イシコリドメは作鏡連、タマノオヤは玉祖連と、ここでも一致しているので、同じ伝承を元に書いたのだろう。 どうしてこの5柱だったのかはよく分からない。祭祀に関わる一族には違いないけど、食物関係や酒関係の神は入っていないし、宮殿関係の神もいない。
『古語拾遺』は天照大神と高皇産靈尊が神勅を下したのは天児屋命、太玉命、天鈿女命の三神だけでイシコリドメの名はない。 『先代旧事本紀』は記紀と同じ天児屋、天太玉、天細女、石凝姥、玉祖を五部伴(いつべのとも)としている。
『古語拾遺』が描く三種の神器
記紀の中では以上でイシコリドメの出番は終了し、地上で何をやったかなどについては何も書かれない。 それを補足するように『古語拾遺』はわりと大事なことを書いている。 第10代崇神天皇のときに神体を同じ殿に置くのは恐れ多いとして、イシコリドメと天目一箇神(アメノマヒトツ)の子孫にあらたな鏡と剣を作らせたと書く。 つまり、天岩戸隠のときに作った八咫鏡は伊勢の神宮で祀り、スサノオが八岐大蛇の尾から取り出した草薙剣はヤマトヒメが伊勢で祀っていたものをヤマトタケルが持ち出し、尾張に置き忘れて熱田社(web)で祀っており、その形代をこの時代に作って天皇の皇位継承の証としたということだ。 三種の神器の実質的な始まりをこことする見方も可能となる。 作者の斎部広成(いんべのひろなり)としては、記紀が書き漏らしたことだから書いておかないといけないと思ったのだろう。事実かどうかはともかくとして、少なくとも忌部の家にそういう伝承が伝わっていたということはいえる。斎部広成が勝手に作り話をするとも思えない。 忌部氏は大嘗祭などの重要な祭祀において鏡と剣を奉る役割を担っていたので、このあたりの経緯を明確にしておきたかったという意図があったと推測できる。
イシコリドメの後裔はどうなったのか?
記紀やその他が揃ってイシコリドメは作鏡連(かがみづくりのむらじ)の始祖といっているからそうなのだろうけど、具体的に後裔氏族は何かというとそれが分からない。 三種の神器の八咫鏡を作って天孫降臨に従った五柱の神だから重要ではないはずがないのに、地上に降りてからの足取りが途絶えてしまっている。 『新撰姓氏録』(815年)にもイシコリドメの後裔は載っていないと思う。 早い段階で没落したのか、名前を変えて存続したのか。 いくつかの神社の祭神となっているから、その関係の後裔氏族はいたはずなのだけど。
名前のことでいうと、伊斯許理度売/石凝姥の”トメ/ドメ”は女を意味するので女神というのが通説となっている。 個人的な感覚としては、鋳造と女神が結びつかないので、この説には少し疑問を抱いている。 実際に女性で、誰かと婚姻したことで後裔は夫側につらなったと考えればイシコリドメの足跡が消えているのも納得できるといえばできる。
イシコリドメが祀られる神社
記紀に出てきた話と関わりのある神社として和歌山県和歌山市の日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう/web)がある。 『日本書紀』一書第一はイシコリドメが作った鏡が紀伊国の日前神といっているので、これが日前神宮に当たるだろう。 『先代旧事本紀』はイシコリドメが最初に作った日矛は出来がもうひとつだったので日前神として祀り、 次に作った日像は出来が良くて、これが八咫鏡だといっている。 神社の伝えによると神武2年に紀国造家の祖である天道根命(アメノミチネ)が日像鏡と日矛鏡を賜って祀ったのが始まりという。 『延喜式』神名帳(927年)に日前神社・国懸神社として載っており、名神大社だった。 伊太祁曽神社(web)、丹生都比売神社(web)と並んで紀伊国一宮でもあった。 現在は日前神宮で日像鏡(日前大神)を主祭神として祀り、石凝姥命と思兼命が相殿神となっている。 日矛鏡は國懸神宮で祀る。
奈良県磯城郡にある鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ/web)は鏡作部の居住地に祀られた神と考えられている。 祭神は天照国照彦火明命(ホアカリ)、石凝姥命、天糠戸命となっていることからすると尾張氏と関わりがありそうだ。 美作国一宮で延喜式の名神大社の中山神社(岡山県津山市/web)の他、延喜式内社の荒石比古神社(石川県七尾市/web)、彌尼布理神社(三重県津市)もあり、鏡作部たちの古い足跡はいくらか残っている。 ある時代を境に鏡作りがすたってしまったことも鏡作部やイシコリドメが存在感を失った理由として考えられる。 岩山神社(岡山県新見市/web)、五泉八幡宮(新潟県五泉市)、鞴神社(大阪府大阪市)などでも祭神とされている。
名古屋では東区の社宮司神社(芳野)が唯一、イシコリドメを祀る神社となっている。 尾張藩付家老の竹腰家で祀ったのが始まりとされるのだけど、尾張藩士の竹腰家がイシコリドメを祀るというのはちょっと考えづらい。 ただ、そういう言い伝えがあるのには必ず理由があって、あり得ないと決めつけるのは間違っている。 日前神宮でホアカリとイシコリドメを共に祀る例があることを思えば、尾張とも何らかの関わりがあったかもしれない。
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