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カナヤマヒコ《金山彦神》

カナヤマヒコ《金山彦神》

『古事記』表記 金山毘古神
『日本書紀』表記 金山彦神
別名 不明
祭神名 金山彦命・他
系譜 (親)伊弉冉神(イザナミ)
(対)金山毘売神/金山姫神(カナヤマヒメ)
属性 鉱山、金属加工、製鉄、他
後裔 不明(金屋子?)
祀られている神社(全国) 南宮大社(岐阜県不破郡)をはじめとする全国の金山神社、金屋子神社(島根県安来市)、黄金山神社(宮城県石巻市)、御金神社(京都府京都市)、など
祀られている神社(名古屋) 金山神社(金山町)(熱田区)、金山神社(長戸井町)(中村区)、金神社(山田天満宮内)(北区)、琴飛羅社(星﨑)(南区)

本当に金属関連の神なのか?

 一般に鉱山や金属の神とされ、岐阜県不破郡垂井町にある南宮大社(web)をはじめとして全国の金山神社で祀られる。
 それで済めば話は簡単なのだけど、カナヤマヒコは本当に金属の神なのだろうかという疑いを持つと、とたんにその正体は謎めいてくる。
 そこでまずは『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』がどう書いているかについて、違いなども確認しつつ読んでみることにする。

 

歴史書が伝えるカナヤマヒコ誕生の話

 伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)はともに多くの神を生み、イザナミは火の神の迦具土神(カグツチ/火之夜芸速男神/火之炫毘古神/火之迦具土神)を生んだ際に火傷を負って病み伏せってしまい、亡くなるまでに更に何人かの神を生む。その最初の神がカナヤマヒコだ。
『古事記』はこう書いている。

 此の子を生みしに因りて、美蕃登炙かえりて病み臥せり。
 多具理邇生れる神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神。

 ”美蕃登炙”は、蕃登(ほと)、つまり女陰が炙(あぶ)られて病気になって伏せってしまい、”多具理邇”から生まれたのがカナヤマヒコとカナヤマヒメだといっている。
 ここで問題になるのはやはり、”多具理邇”(たぐりに)が何を意味するかだろう。
 作者の太安万侶(おおのやすまろ)は「多具理邇の此の四字は音を以いる」という注釈を付け加えている。つまり、文字に意味はなくて「たぐりに」と読みますということだ。
 では”たぐりに”とは何かといえば、これも一般的な解釈として「吐(たぐ)る」から来ているのだろうとされている。
 邇(ニ/ジ)が何を意味するのかがちょっと分からないのだけど、物(モノ)ということか。
 要するに、吐いたものということで吐瀉物(としゃぶつ)ということだ。
 あるいはもっと別の意味があるのかもしれない。字は違うけど八尺瓊勾玉の”瓊”であり、邇邇藝命(ニニギ)の”邇”とすると、”タグリ”+”ニ”ということになり、神璽や国璽のように”宝”のような意味を持つのかもしれない。
 あと、ここでは金山毘古神と金山毘売神の男女一対で生まれたとしていることに注意が必要だ。
 この後、大便(屎)から波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコ)と波邇夜須毘売神(ハニヤスヒメ)が、尿から弥都波能売神(ミツハノメ)と和久産巣日神(ワクムスビ)が生まれ、ワクムスビの子が富宇気毘売神(トヨウケ)だと『古事記』は書いている。

 次に『日本書紀』を見てみる。
 本文にはカグツチ云々という話がないので、当然カナヤマヒコは出てこない。
 一書第二にカグツチ(軻遇突智)が生まれてイザナミ(伊弉冉尊)は焼け焦げて死んでしまい、このとき土の神の埴山姫(ハニヤマヒメ)、水の神の罔象女(ミズハノメ)が生まれ、カグツチがハニヤマヒメを娶って稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとあるのだけど、ここではカナヤマヒコは登場しない。
 カナヤマヒコは一書第四に出てくる。その部分の原文はこうだ。

 一書曰、伊弉冉尊、且生火神軻遇突智之時、悶熱懊悩。
 因爲吐。此化爲神。名曰金山彦。
 次小便。化爲神。名曰罔象女。
 次大便。化爲神。名曰埴山媛。

 爲吐、小便、大便と、ずいぶん直接的な表現になっている。あまり文学的とはいえない。
『古事記』との違いを挙げると、カナヤマヒコ単独でカナヤマヒメの名前がないことと、大便と小便の神の順番が逆になっていることだ。
 大便の神は女神のハニヤマヒメ単独で、小便の神としてワクムスビが出てこないところにも違いがある。

『先代旧事本紀』の該当箇所も読んでみる。
 イザナミ(伊弉冉尊)がカグツチ(火産霊迦具突智/火焼男命神/火々焼炭神)を生んだとき女陰が焼けて病の床に伏すことになり、熱に苦しんで嘔吐した神からカナヤマヒコ(金山彦神)とカナヤマヒメ(金山姫神)が生まれ、小便から罔象女神(ミツハノメ)が、大便から埴安彦(ハニヤスヒコ)と埴安姫(ハニヤスヒメ)が、次に天吉葛(アメノヨサツラ)、次に稚産霊神(ワカムスヒ)が生まれ、この稚産霊神の子が豊宇気比女神(トヨウケ)と書いている。
 ”因爲吐”は『日本書紀』一書第四と同じ表現で、金山彦とともに金山姫が生まれたとするのは『古事記』と同じだ。
『先代旧事本紀』は基本的に『日本書紀』を参照して書かれていると思われるのだけど、ときどきこのように『古事記』との合わせ技のようなところもある。

 以上のように記紀や『先代旧事本紀』はカナヤマヒコを金属の神とは一言も書いていない。ただ吐瀉物から生まれた神としているだけだ。
 後世の人間が恣意的な解釈をして金属の神として祭り上げただけという点を明確に認識しておく必要がある。

 

カナヤマヒコは”カナ”

 再び『古事記』に戻ると、カナヤマヒコ(金山毘古神)について太安万侶はこんな注釈を付けている。

「金山毘古神(訓金云迦那 下效此)」
 
 金は迦那(かな)と読んでください、以下も同じですよということだ。
 奈良時代の人間は金を”かな”とは読まなかった(読めなかった)ということなのか、”かね”でも”きん”でも”こん”でもなく”かな”という名前ということを示しておきたかったのか。
 当時の日本人にとって金といえば当然お金のことではなく、ゴールドの金のことでもなく、おそらく鉄を連想したのではないかと思う。
 金印や国外から持ち込まれた仏像の金箔で一部の人間は金を知っていたとしても、金を広く一般の人が目にしたのは752年の奈良東大寺(web)の大仏(東大寺盧舎那仏像)を見たときだろう。作られた当時、大仏は全身金ぴかだったから、初めて目にした人たちはずいぶん驚いたに違いない。
 日本における金の発見は『続日本紀』を信じるなら749年で、『古事記』、『日本書紀』完成の後だ。
 ただ、金属製品の歴史は古代シュメールや古代エジプトなどに遡るので、日本にももっとずっと早い段階で伝わっていた可能性はある。
 脱線ついでに鉄の歴史についても少し書いておくと、弥生時代の紀元2世紀には入ってきていたようで、日本独自の”たたら製鉄”が始まったのは5世紀くらいといわれている。
 ただし現在の通説は新発見や研究によってどんどん覆されているので、今後更に時期は早まるかもしれない。

 話を元に戻すと、金山毘古神の名前はカナヤマヒコで確定ということでいいと思う。少なくとも記紀の作者たちの認識はそうだったということだ。
 カナ+ヤマヒコなのか、カ+ナ+ヤマヒコなのか、カナヤマ+ヒコなのかについては、後ほど再検討することにしたい。

 

南宮大社はなぜカナヤマヒコを祀ったのか?

 最初に書いたように、カナヤマヒコを祀る最も有名な神社は岐阜県不破郡垂井町にある南宮大社だ。
『延喜式』神名帳(927年)には”仲山金山彦神社”とあり、美濃国一宮で、美濃国で唯一の名神大社だった。
 あれ? 仲山金山彦神社なの? と戸惑う人も多いだろう。
 国府の南だから南宮と呼ばれたというのが通説なのだけど、個人的にはちょっと疑わしいと思っている。
 ちなみに国府というのは奈良時代に律令制が敷かれた際に、地方行政官庁の国衙(こくが)が置かれた場所を指す。今でいう県庁所在地のようなものだ。
 平安時代以降、律令制は崩壊していき、国府も律令時代ほど機能しなくなっていったことを考えると、国府の南だから南宮と呼ばれたというのはやや不自然に思える。
 平安時代の『続日本後紀』や『日本三代実録』も仲山金山彦大神や中山金山彦神で、南宮としているものはない。
 南宮大社と改称したのがいつなのかの調べがつかなかったのだけど、もともと南宮と称されていたものを平安時代に仲山金山彦神社と改称して、その後、再び南宮に戻したということだろうか。
 神社社伝は、神武東征のときに金鵄(金色のトンビ)を遣わせて八咫烏(ヤタガラス)を助けて戦勝をもたらしたことから神武即位後に府中に祀られるようになったものを、第10代崇神天皇の時代に美濃仲山の麓の現在地に移したと伝えている。
 ここでいう金鵄とは、カムヤマトイワレビコ一行が長髄彦(ナガスネヒコ)戦で苦戦しているときに、カムヤマトイワレビコの弓弭(ゆはず)に止まって雷(いかずち)のように輝いたことで長髄彦は眩惑されて勝利を収めたというあの金鵄のことだ。
 それをどうして美濃国に祀ったのかや、どうしてそれがカナヤマヒコとされたのかなど、よく分からないことが多い。
 金鵄というのは美濃国の首長か一族の象徴で、それがカナヤマヒコとつながるということだろうか。
 いずれにしても、平安時代までに南宮大社でカナヤマヒコを祀るという共通認識が確立されていたことは間違いなさそうだ。
 彦火火出見命(ヒコホホデミ)を一緒に祀り、本殿左右の境内社の祭神が天火明命(ホアカリ)、火須勢理命(ホスセリ)、瓊瓊杵尊(ニニギ)と木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)となっているところからして尾張氏が深く関わっていることが分かる。

 平安時代末の1180年頃、後白河法皇によって編纂されたとされる『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)という歌謡集(現存するのは一部)に、気になる歌が載っている。

「南宮(なんぐ)の本山は、信濃国とぞ承(うけたまは)る、さぞ申す、美濃の国には中の宮、伊賀の国には幼き児(ちご)の宮」

 信濃国の本山が諏訪大社(web)、美濃国の中宮が南宮大社、伊賀国の稚児宮が敢國神社(あえくにじんじゃ/web)のこととされる。
 これは一体どういうことなのかと、しばし考えてしまう。
 諏訪大社の祭神は一般的に建御名方神(タケミナカタ)とされる。だとすれば、タケミナカタとカナヤマヒコは深い関係にあるということか。
 たとえばタケミナカタが親で、カナヤマヒコが子、その子が敢國神社に祀られていると解釈することもできる。
 敢國神社は伊賀国の一宮で、現在の祭神は大彦命(オオヒコ)とされている。
 配神として少彦名命(スクナヒコナ)と金山比咩命(カナヤマヒメ)を祀っている。
 古くは南宮山(伊賀小富士)に対する信仰から始まったと考えられており、かつては敢国津神とされていた。
 大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子で、四道将軍の1人として北陸道へ派遣されたと『日本書紀』は書いているのだけど、祭神として後付けかもしれない。
 伊賀地方で力を持っていた阿閇氏(敢氏/阿閉氏/あべうじ)が氏神として祀ったことで祭神が変わったとも考えられる。
 敢國神社自体が南宮大社からの勧請で建てられたという説もある。
 タケミナカタ(建御名方神)は『古事記』や『先代旧事本紀』に出てくるものの『日本書紀』には出てこない。
『延喜式』神名帳や国史で諏訪の神は南方刀美神となっており、ここでも”南”が入る。そのため諏訪大社もまた南宮と呼ばれることがあった。
『梁塵秘抄』がいう3社の関係性と、それぞれ南宮と呼ばれていることは偶然とは思えない。南宮大社が国府の南にあるから南宮という説明に納得できないのはこのことがあるからだ。

 

北緯35度並びは偶然か?

 レイラインという言葉を聞いたことがある人も少なくないと思う。
 1920年代にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが言い出したことで、有名な遺跡が直線上に並んでいることからそれをレイライン、光の道と名付けて、意図してその場所に建てたのではないかというものだ。
 日本でも北緯34度や35度に重要な寺社などが並んでいるということで一時話題になったので覚えているかもしれない。
 個人的にはあまり好きではなくて信じてもいないのだけど、上の3社が北緯35度と34度にあるとなると、少し気になってくる。
 緯度の1度は約111kmだから多くの神社がその中に入ってしまい、そんなものはこじつけでしかないと笑い飛ばしてしまうのは簡単だ。
 ただ、北緯35度の太陽の軌道を古代の人たちが意識していた可能性は否定できない。
 たとえば北緯35度上にある神社を並べてみると以下のものがある。

 香取神宮 北緯35度53分
 鹿島神宮 北緯35度58分
 富士山本宮浅間大社 北緯35度13分
 諏訪大社 本宮 北緯35度59分
 真清田神社 北緯35度18分
 熱田神宮 北緯35度7分
 南宮大社 北緯35度21分
 籠神社 北緯35度34分
 賀茂別雷神社 北緯35度3分
 賀茂御祖神社 北緯35度2分
 出雲大社 北緯35度24分07秒)

 これらとは別に北緯34度の神社群がある。

 伊勢神宮内宮 北緯34度27分
 伊勢神宮外宮 北緯34度29分
 石上神宮 北緯34度35分
 大神神社 北緯34度31分
 敢国神社 北緯34度47分
 住吉大社 北緯34度36分

 天皇家に近い神社が北緯34度にあり、外様というか天皇家の外の一族の神社が北緯35度にあるとするのは恣意的な解釈に過ぎないのか。
 結論めいたことは言えないのだけど、諏訪大社、南宮大社、敢國神社の関係性と南宮については頭に入れておいていいと思う。
 ちなみに、35度線上の東に富士山、西は大山で、中間に伊吹山があり、南宮大社の本殿は伊吹山を背にするように少し傾けて建てられている。それもたまたまだろうか。

 

カナヤマヒコの名前について

 以上を踏まえた上で、あらためてカナヤマヒコの名前について考えてみる。
 上にも書いたように『古事記』の中で太安万侶が金山毘古神の”金”は”迦那”と読みますとわざわざ書いていることからして”カナ”とすることを前提とする。
 ”カナ”はこれで一語なのか、”カ”+”ナ”に分解できるのかがひとつ問題としてある。
 繰り返しになるけど、カナ+ヤマヒコなのか、カ+ナ+ヤマヒコなのか、カナヤマ+ヒコなのかの判断は私にはつかない。
 一文字ずつ意味を当てはめようとすればできるのだろうけど、そもそもカナヤマヒコというのが本名に当たるものなのか通称なのかも分からないというのがある。
 カナヤマヒコは一人の名なのか、複数人の総称なのか。
 ”カナ”が何を意味するのかも分からないとしか言いようがない。山(ヤマ)に掛かるのは間違いないから、カナのヤマとは何を意味しているのかを考える必要がある。
 地名なのか、人名なのか、一族の名なのか、それ以外なのか。
 カグツチの”カ”と関連があるのかないのか。
 他にも鹿嶋神、香取神、香香背男など、頭に”カ”のつく神がいるけど、カナはその派生なのかどうか。

 吐瀉物を溶かした金属に見立てて、火神によって熱せられた金属を土で作った鋳型に流し、水で冷やしてできた鉄で耕作をして作物を作るといった解釈は後世の人間の勝手な解釈でしかない。
 記紀の作者がそれを意識して書いたとしたら、我々は彼らにミスリードされているかもしれない。
 あるいは、金山から鉱山の神とする考え方もある。
 ただ、南宮山で鉱物が採れたという話も聞かないし、美濃国で製鉄が盛んだったわけでもないので、この説も納得しかねる。

 事実としてあるのは、『延喜式』神名帳をはじめとして国史に仲山金山彦神社が出てきているということだ。
 この社名でカナヤマヒコ以外を祀っていたとは考えにくいので、遅くとも平安時代初期までには南宮大社(仲山金山彦神社)ではカナヤマヒコを祀るという認識があったということだろう。
 南宮大社社伝の神武天皇を助けた金鵄云々というのは『日本書紀』以降の後付けだろうけど、そういう伝承が生まれる何かがあったはずで、まったくの作り話や妄想から神社は建たない。
 しかも、美濃国一宮で名神大社ということは、国が認めた霊験あたらかな官社だったということだ。
 イザナミの子だから大事にされたといったことではないはずだ。
 現実的に考えれば南宮山に対する古い信仰から始まり、この地を開拓した首長を祀る信仰があわさって南宮大社創建につながったと推測するのが妥当だろう。ただし、妥当な推論が正しいとは限らない。
 現在の感覚ではちょっと信じがたいのだけど、約6000年前の縄文海進の頃は今の大垣市あたりまで入り海になっていて、人々は海岸線で暮らしていた。海津市などはその頃の名残の地名で、貝塚も複数見つかっている。
 彼らが南宮山を見て神聖さを感じていたとしても不思議はないし、何らかのカミマツリも行っていたかもしれない。その延長線上に南宮大社があると考えると、単なるカナヤマヒコの神社ではないということになる。

 推測が許されるなら、カナヤマヒコはやはり通称で、それに相当する人物がいて、別の名前で知られる一族の王だったというのはどうだろう。
 確かな根拠があるわけではないのだけど、気になっているのはトヨタ自動車(web)の社内神社である豊興神社(ほうこう神社/1925年)の祭神が金山彦神、金山比賣神、熱田神宮草薙神剱になっていることだ。
 自動車会社だから金属加工の神ともされるカナヤマヒコを祀るのは自然と思う人が多いだろうけど、他でも書いたように豊田一族は三河の”トヨ”の王族だから、祀るとすればその一族の祖神の方が自然だ。
 ひょっとするとカナヤマヒコというのはトヨ一族の祖神なのではないかと考えるのだけどどうだろう。まったく的外れかもしれないし、かすっているかもしれない。あるいは、芯を食っているかも。
 豊興神社で草薙神を祀っていることからも分かるように、トヨ一族は尾張国の尾張氏とも縁が深い。
 三河のトヨの一族が美濃国の開拓を行い、その首長がカナヤマヒコと呼ばれ、後裔がカナヤマヒコという名で祀ったのが南宮大社の一側面と考えると、個人的にはすっきりする。
 南宮山の北西約12kmに伊吹山がある。日本武尊(ヤマトタケル)が命を落とす要因になった山であり、息吹から製鉄のときのフイゴが由来とする説がある他、美濃国の豪族・伊福部氏(いおきべ/いふくべ)との関係も指摘される。
 近くにある延喜式内社の伊富岐神社(web)は美濃国の二宮とされ、多多美彦命(タタミヒコ)の名で伊吹山の神を祀る。
 一緒に尾張氏の祖とされる天火明命(アメノホアカリ)も祀っている。
 美濃国三宮の伊奈波神社(いなばじんじゃ/web)は、垂仁天皇の第一皇子で、この地を開拓したとされる五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)を祭神とする。
 ここは物部色が濃くて複雑なのだろうけど、カナヤマヒコについて考察する場合、これらの要素を総合的に見ないといけないと思う。

 

カナヤマヒメと金屋子のこと

 カナヤマヒコと比べるとカナヤマヒメの存在感が弱くて影が薄いのも気になる。
 南宮大社ではカナヤマヒメは祭神に入っていない。
『古事記』には出てくるのに『日本書紀』には登場しない。
 普通に考えればカナヤマヒコの対になる女神が必要と思うのだけど、どうして『日本書紀』は書かなかったのだろう。
 いたとして、兄と妹なのか夫婦なのか、その両方でもあるのか。

 中国地方限定の神に金屋子(カナヤコ)という神がいる。
 カナヤマヒコとカナヤマヒメの子とされ、中国地方では古くから製鉄の女神として信仰されてきたという。
 島根県安来市の金屋子神社(web)をはじめ、1200社ほどあるというからちょっとした勢力だ。
 もともとはカナヤマヒコとは関係のない神だったという説もあり、よく分からない。

 その他、カナヤマヒコの後裔については知られていない。『新撰姓氏録』にも関係を思わせる氏族は見当たらない。

 

カナヤマヒコを祀るその他の神社

 南宮大社から直接の勧請だったのかそうでなかったのは定かではないものの、金山神社という社名などでカナヤマヒコやカナヤマヒメを祀る神社が全国にある。ただ、その数は多くなく、中部地方が中心で、次に多いのが関東地方、関西や中国、九州に少数ある程度だ。
 この神社分布を見ても地方神の性格が濃く、金属全般の神というほどの信仰の広がりは見られない。

 名古屋では熱田区の金山神社(金山町)、中村区の金山神社(長戸井町)の他、北区の金神社(山田天満宮内)、南区の琴飛羅社(星﨑)がカナヤマヒコ(金山彦)を祭神としている。中川区にある金山神社(玉船町)の祭神は不明ながら、おそらくカナヤマヒコだろう。カナヤマヒメを祀る神社は名古屋にはない。
 金山総合駅がある熱田区金山の地名は、この金山神社が由来とされる。
 この神社は熱田社の修理を担当する鍛冶職、尾崎彦四郎の祖・善光が承和年中(834-847年)に金山彦命を自宅に祀ったのが始まりとされている。
 しかし、それをそのまま信じていいかどうか。
 室町時代に尾崎家が熱田の中瀬町に移ることになったため、邸の跡に社殿を建てたと伝わる。
 ただ、その程度のことで金山という地名にまでなるだろうかと考えると、もっと古くて深いゆかりがあったのではないかと思える。

 

カナヤマヒコは確かにいる

 以上見てきたように、カナヤマヒコを金属の神とするのは一面的すぎる見方で、他の名で知られる人物の一側面を表す通称ではないのかというのが個人的な考えだ。
 そういう意味でいうと、金属加工や鉱山、製鉄の神としてカナヤマヒコを祀ることは間違いではないのだろう。
 古代において鉄を制す者は国を制すといったことがあった。
 各地にいたそういう首長たちを総合して昇華させた存在がカナヤマヒコといえるのではないだろうか。
 記紀の作者たちが作り出した架空の人物が一人歩きしたというだけではない。ある種の共通イメージがなければそれを神として祀ることは行われないだろうし、神社として千年以上存続することはなかったはずだ。
 カナヤマヒコは金属の神という宿命的存在として現代を生きる人々の信仰対象となっている。それは紛れもない事実であり現実だ。

 

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