富士と浅間というキーワード
読み方 | ふじせんげん-しゃ(うえのやまちょう) |
所在地 | 瀬戸市上之山町1丁目 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明(木花開耶姫?) |
アクセス | 愛知環状鉄道「山口駅」から徒歩約22分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 4月第4日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 辿り着くのが困難な瀬戸市上之山町の冨士浅間神社 |
ここも富士山
瀬戸市にも富士山があると言ったらそんな馬鹿なと信じてもらえないかもしれない。
いや、実際に富士山はあるのだ。
町名で言うと、上之山町(うえのやまちょう)に富士山はある。
正式名かどうかは分からないのだけど、地元では富士山と呼ばれている。
江戸時代の書にも”富士ノ峰”とあるので、古くからそうだったということだ。
その富士山の山頂付近に富士浅間神社がある。
富士山にあるのだから富士浅間神社なのは当然と思うかもしれないけど、そうとも言い切れない。
Setopedia(瀬戸ペディア)にはこう書かれている。
元は掛下の神明社の末社であった。
かつては上之山に拠点を持っていた一族が祀っていたとのことであるが、明和4年(1767)、猿投山に大崩落をもたらした集中豪雨によって山口川が氾濫し、低地にあった旧集落が砂入りになり、一族は村北西に移住して今林を開いたと伝えられている。
地元では「お富士山」と呼び親しみ、子授けの神としても信仰され、大祭は4月第4日曜日にある。
掛下というのは上之山町のすぐ北西、矢田川左岸の地名で、今も掛下町として町名を残している。
かつては欠下と表記していた。
この掛下(欠下)に神明社があり、冨士浅間社はその末社だったという。
上之山に拠点を持つ一族が祀っていたというのも気になるのだけど、問題は最初から今の富士山にあったのか、掛下にあったものを富士山に移したかということだ。
明和4年(1767年)の洪水をきっかけに低地にあった集落は山麓の方に移っていった。
『尾張徇行記』(1822年)は今林・屋形島・北山島(本郷)・屋頭島・南嶋の5つのシマに分かれたといっている。
もし掛下にあったのであれば、集落が移ったときに一緒に持っていってもよさそうなものだ。
そうしなったということは、最初から富士浅間は富士山に祀れていて、この場所に祀ることに意味があったと推測できる。
今林は矢田川を越えた北で、富士浅間とは直線距離で1.5キロほど離れている。
集落の神社というのであれば、この距離はちょっと遠すぎる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にも富士浅間は載っており、前々除(まえまえよけ)になっているので1608年の備前検地以前からあったのは間違いない。
『尾張徇行記』(1822年)の頃になると、八剣、浅間、山神はいずれも神明の摂社となっている。
神明は境内が三町七反五畝というから相当広かったようだ。1町は3,000坪、1反は300坪なので1万1,000坪以上になる。バンテリンドームの敷地面積より少し狭いくらいで、熱田神宮が6万坪なので、あの6分の1と考えるとなかなかの広さだ。
その神明社は大正元年に山口の八幡社(八幡町)に合祀されて残っていない。
『尾張志』(1844年)は、「富士ノ社 富士ノ嶺にあり」と書いている。
富士浅間だったのか、浅間だったのか、富士だったのか、江戸時代までははっきり定まっていなかったのかもしれない。
江戸時代後期の時点で富士社(浅間)は”富士ノ嶺”にあったことははっきりしている。
富士と浅間
『寛文村々覚書』に”富士浅間”とあるので、江戸時代前期にはそう称していたことは分かるのだけど、ではどう呼んでいたのかというと、意外と難しい。
我々現代人はたいてい(山梨県周辺の人を除いて)何の疑問もなく”フジセンゲン”と読む。
駿河国一宮の富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市/公式サイト)も”センゲンタイシャ”だし、そのへんにある浅間神社も普通に”センゲンジンジャ”だからだ。
しかしながら、山梨県側では”アサマ”と読むところがある。
甲斐一宮の浅間神社(山梨県笛吹市/公式サイト)もそうだし、河口湖浅間神社(富士河口湖町)も”アサマ”神社だ。
浅間山は今でも”アサマヤマ”だ。
”アサマ”に”浅間”という字を当てて、後に”センゲン”と読むようになったという経緯がある。
アサマがセンゲンに変わっていったのはおそらく江戸時代くらいからで、それでも江戸時代の人たちは普通に”アサマ”と呼んでいたのではないかと思う。
そもそも富士山で祀る神社がどうして”浅間”社なのか? ということだ。
”アサマ”の語源には諸説あってはっきりしないのだけど、一般に言われている説はたぶんどれも正しくない。
アイヌ語由来とかマレー語由来などといった説があるけど、そんなわけがない。
ただ、共通しているのは火山に関係しているだろうということだ。
説の一つに、三重県伊勢の朝熊山が関係しているのではないかというものがあり、これはけっこういい線を突いている可能性がある。
朝熊山(555m)は伊勢市と鳥羽市にまたがる山で、現在は”あさまやま”と読ませている。
正式名を朝熊ヶ岳(あさまがたけ)という。
しかし、古い記録には”あさくま”とあり、もともとは”あさくま”だったかもしれない。
この朝熊山は伊勢の神宮(公式サイト)とのゆかりが深く、伊勢音頭の一節で「伊勢へ参らば朝熊をかけよ。朝熊かけねば片参り」とも歌われた。
神宮の鬼門を守る山とされる。
その伊勢の神宮を守る山を”アサクマ”もしくは”アサマ”と名づけたというのであれば、そこに意味がないわけがない。
”熊”はいつも書くように”雲”が転じたもので、本来は朝雲=アサクモと呼ばれていたかもしれない。
これはアサ+クモではなく、ア+サ+クモだろう。
サはどこどこへという助詞とすると、アの方にあるクモ(雲)ということになる。
雲から出ると出雲になり、三重県には奈良県との県境にある三峰山を源流とする雲出川(くもずがわ)もある。あそこまでいくと雲の外ということだ。
”ア”が何を意味するのかはいったん保留としたい。
だいぶ話がズレたので戻すと、どうして富士と浅間は対の関係のようになっているのかということだ。
それを考える前に、富士についても改めて検討する必要がある。
富士も”フジ”と読んで疑わないけど、もともとは濁らない”フシ”だった。
”不死”にも通じるけど、”不二”とも表記する。
これはなかなか信じてもらえないと思うのだけど、富士山はかつて”第二”の山だった。”第一”の山は御嶽山だった。
”オンタケ”、”フシ”、”アサマ”と、この関係を解き明かさないと真相は見えてこない。
アサマの神がコノハナサクヤヒメであること
富士浅間系の神社ではほぼすべてでコノハナサクヤヒメを祭神としている。
面白いのはどこもたいていはコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)という祭神名で祀っていることだ。
記紀を読むと分かるのだけど、それは別名であって、本来の名前は別にある。
『古事記』は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』は神吾田津姫(カムアタツヒメ)または神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)といっている。
神(カム)は神一族に属していることを示している。カミムスビ《神皇産霊尊》やカムヤマトイワレビコ《神日本磐余彦天皇》などがそうだ。
ここで重要ななのは”アタ”のヒメという名前であるということだ。アタツの”ツ”は格助詞で、”の”のようなものなので考える必要はない。
この”アタ”とは何かというと、ここに”ツ”が落ちているか、隠されているかもしれない。
本当の名前は”アツタ”のヒメではないのかということだ。
アツタは熱田と書いてしまうから分かりづらいのだけど、分解すると”ア+ツ+タ”になる。
格助詞の”ツ”は時間や場所、属性に限られるという特徴がある。
天津神といえば天に属する神だし、葦原中国は”ツ”の字は抜けているけど”アシハラノナカツクニ”と読みには入っていて、この場合は葦原の中の国という意味になる。
現在この”つ”はほとんど使われなくなったのだけど、マツゲ(睫毛)は本来”目の毛”という意味の言葉だ。
つまり、アタツヒメ=アツタヒメは、”ア”という場所、または”ア”に属するヒメという意味の名前ということになる。
ここで”アサマ”または”アサクマ”の”ア”とつながってくる。
”ア”のヤマで”ア”のヒメを祀ったのであれば、それは自然なことといえる。
”ア”が何を意味するかは分からないのでとりあえず保留としたい。
”田”をどう解釈するかを何度か聞いているのだけど、なんとなく理解できずにいて、田んぼの田という意味ではなくて、神とか天とか龍とかいう意味だったと思う(今度またちゃんと聞いておきます)。
富士山で富士浅間を祀ること
この菱野(山口)の冨士浅間社がいつ頃創建されたかを推測するのは難しい。
中世という可能性もあるけど、起源としては古代に遡ることも考えられる。
富士浅間を祀ったから富士山(富士峯)と呼ばれるようになったと考えるのが普通だけど、個人的には逆ではないかと思っている。
そもそもここを富士峯などと呼んでいて、そこに社を祀ったから富士の社と呼ばれたのではないかということだ。
富士山にしても御嶽山にしても、全国に何々富士とか御嶽(御岳)と名づけられた山は多い。
形が似てるからという理由が挙げられることが多いのだけど、それも私は違うと考える。
富士(不二)や御岳というのはそもそも固有の山を指す名称ではなく、総称のようなものだったのではないだろうか。
ある種の記号のようなものだ。
当然ながら”フシ”や”オンタケ”という音に意味があり、同時に当てた字にも意味があると考えられる。
”オンタケ”についていえば、”御”という冠を付けたということで、英語でいう”THE”とか”ミスター”みたいな愛称というか総称みたいなものだろう。
単純にいえば”おやま”だ。
その土地に住む人にとってはオヤマといえばどの山を指すのか決まっている。
今の御嶽山が御嶽山と呼ばれるようになるのはだいぶ後の時代だと思う。
富士(不二)もそうだろう。
”フシ”という音が何を意味しているのかは分からない(思いつかない)のだけど、”富”という字を当てたことには何か理由があるに違いない。
富士の富は”うかんむり”か”わかんむり”かという問題もあるのだけど、分解すると、ワ(点)+一+口+田になる。
ここに何かありそうな気もする。
他にも”フ”に当てられる字はたくさんあるから、その中にも何か意味が隠されているかもしれない。
府、符、婦、賦、父、布、扶…。
尾張に原型
古代人の地理把握能力は我々の感覚では計り知れないものがある。
どうやっていたのか分からないけど、狭い範囲ではなくかなり広大な範囲を正確に把握していた感がある。日本列島のほとんどや遠い島まで知っていたのではないか。
縄文時代の遺跡から遠く離れた限られた産地の遺物が見つかるとか、いわゆるレイラインと呼ばれるような配置も衛星でしか分からないようなところまで把握してないとできないものだ。
古代人は現代人が失ってしまったある種の超能力を持っていたのではないかと私は本気で思っている。
縄文人は半分霊体で空を移動することができたなんてのも笑い話ではないかもしれない。
これは信じてもらえないであろうと思いつつ書くけど、1万6,000年前に異星からやってきた者たちが母星の高天原を地球に移した(写した)のが地上の高天原で、それが日本の中心である尾張だったと聞いている。
尾張に世界の原型(プロトタイプ)があるということだ。
書いている私が半信半疑なのでそんなはずがないと反論されても困るのだけど、全国各地にある有名神社の原型が尾張にあるというのはわりと信憑性が高い気がしている。
たとえば出雲大社の原型は一宮市の真清田神社で、熊野大社の原型は天白区島田の島田神社といった具合だ。
表立っては言っていないけど、それぞれの神社の関係者は聞き知っているのではないかと思う。
なんで急に話が飛んだかというと、伊勢の神宮と朝熊山の原型が尾張にあるのではないかと思ったからだ。
神宮の内宮と朝熊山の位置関係は西と東(北東)で、距離は5キロほど離れている。
原型はもっとスケールが小さいので、そこまで離れてはない場所に神宮系の神社を探すと、富士浅間神社の2.5キロほど南西の長久手北熊に神明社(北熊)が見つかる。
北熊は”雲”の北で、雲は青少年公園(モリコロパーク)に封印したのではないかと個人的に考えているといったことを神明社(北熊)のところで書いた。
あるいは、東西の関係でいうと、4.5キロ西に石作神社がある。
ここは尾張氏系の神社で、江戸時代までは神明と呼ばれていた。
更に、長久手には別の富士浅間もあった。
そんなのはこじつけでしかないと言われてしまうとその通りなのだけど、当時の配置には必ず意味があったはずで、それを崩さずに別の場所に写すときは拡大コピーをするという特徴があって、その法則に当てはめると、尾張には各地の原型がたくさん見つかる。
もちろん全部が全部そうではないだろうけど、そういう視点を持っておくと様々な関係性が見えてくる。
尾張東部でいうと、守山区から尾張旭、長久手、瀬戸の西部までは一つの地域として把握する必要がある。市町村の境界線に惑わされると本来の姿が見えなくなる。
一つキーワードを挙げると、愛知を中心とした場所は”中京”と呼ばれている。その東が東京で、西はもともと西京と呼ばれていた。
これは中京を写したから東の京、西の京ということで、ただ単に中央や東西という位置関係のことではない。
どうして四国は”四”で、九州は”九”なのか?
三重は”三”、青森はどうして”六”なのか?(陸奥)
日本語はとても高度な言語なので、言葉遊びのように隠し事をするのにも便利だ(日本語の原型も母星から持ってきたと聞いている)。
地名や神様名もそうだけど、分かりやすく隠していたり、複雑に隠したり、逆に分かりやすいようにミスリードしたりといったことをやっていて、正解を見つけるのは難しい。
ただ、確実に言えるのは、我々が思いつく程度のことは当然やっているということだ。
だから考えすぎということはあり得ない。
考えすぎるであろうことを見越して裏の裏をかいていたりするので、たぶん現代人では太刀打ちできない。
古代人の知恵というのは恐ろしくもある。
上之山町の変遷について
冨士浅間神社があるのは上之山町1丁目で、上之山町は2丁目、3丁目もあってわりと広い地区の地名となっている。
町名としては昭和56年(1981年)に誕生したのだけど、古くは山上峠と呼んでいて、それが上之山に転じたとされる。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、このあたりの地形が分かる。
富士浅間神社がある場所が富士山(富士峯)の山頂近くで、その東に川が流れて、川沿いが狭い耕作地になっている。
矢田川の支流の一つで薬師川といっているのだけど、その由来については調べがつかなかった。どこかに薬師にまつわる寺か祠がある(あった)のだろう。
この川が丘陵地を削ったところに道を通していて、それが今の155号線になった。
おそらくこの道は古くからあったはずで、瀬戸の山口と長久手の八草を結ぶ貴重な道だったに違いない。
その道の高い場所を山上峠と呼んだのだろうけど、もしかしたら山神峠だったかもしれない。
このあたりで古い時代の窯跡(広久手古窯址群)が見つかっており、少なくとも古墳時代にはこのへんに人がいたことが分かる。
起源を遡ればもっと古いだろうと思う。
神社の南から西にかけては今も手つかずの丘陵地がそのまま残っていて、愛知県陶磁美術館(公式サイト)があるくらいだ(昭和53年開館、現在休館中)。
なんでこんな場所に建てたのか謎で、何か隠したんじゃないかと疑いたくなる。住宅地として開発される前に先手を打ったとも考えられる。
時代は飛んで1968-1973年(昭和43-48年)。
この頃はまだ大きな変化は見られない。
神社東の丘陵地の麓に民家が少し増えているものの、東西をつなぐ248号線はまだできておらず、愛知環状鉄道も通っていない。
ただ、北側の大坪町や掛下の田んぼは区画整理が済んでいる。
次の1976-1980年では愛知環状鉄道の線路だけは描かれているものの、最寄りの山口駅開業は昭和63年(1988年)まで待たねばならなかった。
神社東の上之山町2丁目に大規模な住宅ができるのは1990年代以降のことで、まだ新しい。
2005年の愛知万博でこのあたりも多少は変わったものの、それほどインパクトのある変化ではなかった。
海上の森がまがりなりにも守られたことはよしとしたい。
いつ誰が
結局のところ、この冨士浅間神社をいつ誰が何の目的で祀ったかという問いに対する答えは出なかった。
分からないといえばまったく分からない。
上之山に住んでいた一族が祀ったという証言は一つのヒントではあるものの、決定的な情報とまではいえない。
一つ気になったのは、子授けの神として信仰されたという話があることだ。
富士浅間と子授けはまったく関係がないように思えるけど、こういう伝承には必ず何らかの根拠があるので無視できない。
子授けというからには女神だろうという推測はできるのだけど、それをコノハナサクヤヒメと認識していたかというとちょっと疑わしい。
尾張氏系のお母さん的な人が祀られていて、その人に願いにいったと考えるとしっくりくるけど、それが真実という根拠は何もない。
金谷さんちの神社?
ネット検索をしていたら面白いというか興味深い情報に当たった。
かつて山口川の南に住んでいた金谷一族に長らく男子が生まれなかったことに危機感を抱いて、子授け祈願をするため駿河の富士浅間大社から木花開耶姫命の分霊を受けてお堂を建立したというものだ。
もっともらしい話で、なんだそんなことだったのかと納得してしまいそうだけど、こういう表向きの話が事実としてあったとしても、表には出ない真相も必ずあって、語られる伝承だけを鵜呑みにしてはいけない。
この話の時代がいつなのかも全然分からないのだけど、たとえこれが事実だとしても、冨士浅間社の起源とは限らない。
山口川(矢田川)の南というのが具体的にどこなのかも不明ながら、冨士浅間神社がある富士山(富士の峰)は麓から山道を15分も歩いて登らないと行けないような場所にあって、ここに祀る必然性を感じない。
本当に子授けを願ったなら屋敷内でもいいし、せめて集落のある場所にしておかないと参拝が大変になる。
ある時期に金谷一族がこの地を守っていたのは本当だとしても、金谷一族が冨士浅間社を創建したという話にはならないと思う。
行き方の説明
この神社を探し当てるのには苦労した。
地図をプリントして持っていったにもかかわらず、一度目は見つけることができずに行くのを断念して、二度目も同じところをぐるぐる探し回って見つけられず、たまたま庭に出ていた近所の方に声を掛けて行き方を教えていただいてなんとか辿り着くことができた。
まずいけないのが下の写真だ。
155号線の大坪町交差点(地図)から240メートルほど南下したところに右へ入っていく道があって、川に架かる橋の手前に「冨士淺間神社」と「御嶽神社」の社号標が建っている。
事情を知らない人間なら、当然これが入り口と信じて疑わない。
しかし、これが罠で、ここを入っていくとどこへ進んでも民家の庭で行き止まりになる。どこかに抜け道があるんじゃないかと探しても見つからない。
正解の入り口は80メートルほど南から入っていく道だ(地図)。
道なりに130メートルほど進んだところで直角に右に折れると下の写真のところに行き着く。
突き当たりの場所に少しの間なら車を停めておけるかもしれないけど、Uターンが厳しいかも。
ここを左に曲がった先が実質的な入り口になる。
ここからは未舗装の山道を10分ほど歩いて登ることになる。
チェーンが張られているので、またぐか横を行くかする。
チェーンを過ぎて少し行くと左右の分かれ道があって、右は行き止まりで左が正解ルートになる。
更に少し進むと階段があるので、これを登っていく。
わりとしんどい。
雨降りや雨上がりは道が悪くなるので避けた方がよさそうだ。
左側に階段ではない山道ルートもあるのだけど、途中で合流する。
ここまで詳しく説明しておけば迷わず行けると思う。
祭りの日以外はほとんど参拝客もいなさそうなので、ぜひ訪れてあげてください。
鳥居をくぐってすぐ右手にあるのは御嶽社で、冨士浅間神社は左手の階段を登った先なのでお間違えなく。
私は下の御嶽社を参っただけであやうく帰りそうになって冨士浅間神社に呼び止められた(気がした)。
なんとか辿り着けてよかった。
ご近所の方がいなければ行けなかったかもしれない。
ご苦労さんですとも言っていただき、お礼申し上げます。
作成日 2024.9.14