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御鍬神社(掛下町)

鍬は何の象徴か

読み方おくわ-じんじゃ(かけしたちょう)
所在地瀬戸市掛下町 地図
創建年大正3年(1914年)?
旧社格・等級等
祭神素戔嗚尊?(スサノオ)
アクセス愛知環状鉄道「山口駅」から徒歩約17分
せとコミュニティバス「大坪町」より徒歩約12分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 9月中旬(要確認)
神紋
オススメ度
ブログ記事

鋤は農作業の基本

 御鍬神社を初め御嶽神社と思っていた。
 よく見ると全然違うのだけど、ぱっと見は似ている。
 鍬(くわ)といっても最近はまったく目にすることがなくなったのでピンと来ない人も多いかもしれない。
 よく似た農具に鋤(すき)もあるから、区別が付かなかったりする。
 柄に対して刃が直角に付いているのが鍬で、水平なのが鋤だ。
 刃の形状の違いと思いがちだけどそうではない。一枚刃でも三つ叉でも直角なら鍬だ。
 そもそも用途が違う。

 鍬という名前が付いているなら鍬にまつわる神社だろうと思う。
 当たらずといえども遠からずというか、似て非なるというか。
 鍬は象徴かというと必ずしもそうではなく、実際に鍬を祀った例もあっただろうと思う。
 鍬は農作業に不可欠な道具で、かなり古くからあったと考えられている。
 畑にしても田んぼにしても、まずは鍬で土を掘り起こさないと始まらない(田起しとも)。
 1万5千年ほど前に東南アジアで芋作りに使われたのが起源とされているけど、おそらく日本ではもっと古い縄文、もしくはそれ以前からあったのではないかと思う。
 日本国内の製鉄技術も、考えられているよりずっと古い。
 鍬に対する一種の信仰のようなものも古代からあったと考えていいのではないか。

伊勢が起源というのは本当か?

 名古屋市内では港区福屋に一社だけ御鍬神社が残っている。
 名東区の神明社(猪子石)にも境内社として「鍬ノ神ノ社」があると『尾張志』(1844年)は書いている。
 おそらくかつてはもっとあったはずだけど、農業が廃れていく中で神社の統廃合もあって、だんだん減っていったのではないかと思う。
 岡崎市針崎町にある御鍬神社はなかなか立派なようだ(未参拝)。

 福屋の御鍬神社のところで、どうやら伊勢に起源があるようだと書いた。
 伊勢の神宮(公式サイト)外宮の御田植初め神事から発祥したもので御師(おんし)が広めたものという説や、神宮別宮の伊雑宮(いざわのみや/公式サイト)から発したものという説がある。
 このときはそれでなんとなく納得したのだけど、御鍬神社の分布を見ると、どうやらその説は怪しいと思えてきた。
 というのも、お膝元の三重県には御鍬神社がほぼないのだ。
 一方で愛知県と岐阜県に集中しており、関係社も含めると100社を超えている。
 もう少し細かくいうと、愛知県の三河地方と岐阜県の南部に固まっている。
 更にいえば、愛知県と岐阜県以外にはほとんどなく、東は静岡県西部、西は滋賀県東部までしか広がっていない。
 ここまで極端に偏っている神社は珍しい。
 この分布からすると、どう考えても発祥は愛知県三河か岐阜県南部ということになる。
 御鍬神社としての起源は江戸時代に入ってからのようで、さほど古くはないというのも特徴として挙げられる。

洲原神社から?

 御鍬神社境内に説明板があり、以下のように書かれている。

大正3年1月掛下島の一同が津島神社分神をまつり、災厄と疫病除を願い島の授福を祈願のため建立しました。
また大正4年4月に五穀豊穣を祈り、須原神社を合祀し御鍬神社としました。祭日は9月中旬に行われます。

 これが事実だとすると、創建は大正時代初期ということになる。
 掛下はかつて欠下と表記された土地で、山口村の枝郷のような位置づけだったのだろう。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると位置関係が分かる。
 本郷があったのは今の愛知環状鉄道「山口駅」の東で、本郷から見ると欠下は南西の山の麓ということになる。
 欠下の集落がいつ頃できたのかは調べがつかなかったのだけど、江戸時代にはあったのではないかと思う。
 大正時代になって神社を創建する例はあまりなくて、これはたぶん、欠下の神明社が山口八幡社に合祀されたことと関係がありそうだ。

 欠下には明治時代まで神明社があった。
『愛知縣神社名鑑』によると、大正元年12月12日に字海上344番地の多度社と字南山60番地の神明社を山口八幡神社に合祀したという。
 この神明社はかなり大きな神社だったようで、『尾張徇行記』(1822年)には山口村の八剣、浅間、山神は神明の摂社で、境内は三町七反五畝とある。
 1万坪以上なので相当な広さだ。
 字南山60番地がどこなのかは分からないのだけど、御鍬神社の西に神明川と神明砂防池があることからすると、今の南山口町のどこかだろうか。
 摂社だった八剣、浅間、山神のうち、浅間だけは富士浅間神社として上之山町に現存している。

 話を戻すと、そもそも祀ったのは津島神だったようだ。
 かつては牛頭天王だっただろうけど、大正時代なので神仏分離令以降の素戔嗚尊(スサノオ)ということになるのだろう。
 問題は洲原神社(須原神社/公式サイト)だ。
 洲原神社は岐阜県美濃市にある古社で、養老元年(717年)に泰澄が元明天皇の勅命を受けて祀ったのが始まりとされる。
 泰澄が加賀国白山で修行をしているときに感応ということで、白山大神(明神)を祀ったという。
 現在の祭神は伊邪那岐命(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)、大穴牟遅命(オオナムチ)となっているのだけど、これは後付けだろう。
 それにしても、どうして洲原神社をあわせ祀ったことで御鍬神社の社名になったのかだ。

洲原と御鍬の関係は?

 洲原神社も古い神社ということで御田植祭が行われているから、そこに鍬が関わってくるというのは考えられる。
 しかしながら、大正時代に洲原神社から勧請して御鍬神社という社名にしたというのがよく分からない。
 この当時の欠下の人たちは洲原神社が御鍬神社の本社という認識だったのだろうか。
 分布からすると美濃は御鍬神社の密集地で、中心地の一つという見方はできる。
 ただ、そうなると尾張ではなく三河に密集していることをどう見るべきかという問題も出てくる。
 渥美半島にはほとんどなく、尾張側の知多半島には点在している。
 単に鍬を象徴とする農耕神信仰ということでは説明がつかない。
 尾張の中心地が空白で、その周辺部に集まっているのには何か理由があるはずだ。

南山城について

 中世の瀬戸にあった城の一つに南山城がある。
 その推定地の一つが、ここ御鍬神社境内だ(他にも市営南山住宅の北や宮地町も候補地とされる)。
 詳しいことは伝わっていないものの、山田重忠の子の山田重継の居城だったという。
 山田重忠は瀬戸にもゆかりがあって、名古屋神社ガイドの中でもたびたび登場しているけど、子の重継についての足跡はほとんどない。
 南山城は、40メートル四方に堀を巡らせていたと伝わるも、名古屋城築城の際に資材が運ばれたという話も伝わっている。
 だとすると、長らく館城として残っていたのだろう。
 山田重忠・重継の父子は1221年の承久の乱で命を落としたとされるので(死なずに瀬戸に戻ったという説もある)、南山城が築城されたのは鎌倉時代前期あたりと考えられる。
 山口の八幡社は山口神社に山田重忠が八幡を勧請したともされるので、山田氏が瀬戸のこのあたりも治めていただろう。

行き方の説明

 行く前に地図を見ただけでは場所が分からなかったので、写真を交えて行き方を紹介しておきます。

 東の「大坪町」交差点から西へ行くか、西の「南山口町」交差点を東に行くかして、大沢耐火を目指す。
 上の写真のように、案内看板が出ている。
 これは親切だ。というか、この案内がなければここには突っ込んでいけない。完全に会社の敷地っぽい。

 少し進むと分かれ道があって、左が正解。
 ここにも案内板がある。

 ここまで来ればもう迷うことはない。
 ちょっとした山道を3分ほど歩くと辿り着く。

まだ見えてこない

 これまで二度にわたって御鍬神社とは何かを考えてきたけど、いまだその正体は見えてこない。
 どうやら伊勢とは関係がなさそうというのは感触として持っている。
 洲原神社との関連について気になるので、引き続き心に留めておくことにする。
 鍬と桑の”くわ”つながりで、そっち系との関わりというのも何かあるのかもしれない。


作成日 2025.3.14

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