初めてこの神社を訪れたときの感想は、いいんだか悪いんだかよく分からない神社だな、というものだった。古いといえば古そうだし、新しいといわれればそうも見える。創建年代の予測がさっぱりつかなかった。 でも、何か感じるものはあった。なんかくすぶってるな、といったような感覚だ。それは過去の栄光とともに人々に忘れ去れてしまった往年のスターを見るのに似ていた。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。 「創建は養老二年(718)2月15日と伝える。『棟札』貞享元年(1684)甲子十二月吉日奉上葺社当社諏訪大明神本地 建御名方命と記るす。明治5年7月28日、村社列格する。明治41年12月21日許可をうけ明治42年1月6日に字宮浦1108番地、村社熊野神社を又字西田1432番無格社素戔嗚社を合祀した」
奈良時代初期の718年創建というのを信じていいかどうかがひとつポイントとなる。2月15日という日付も伝わっているというのであれば口伝ではなく何らかの記録を神社が持っているということだろうか。 神社がある志段味エリアは名古屋最大の古墳密集地帯で、神社は古墳がある丘陵地帯の裾野に位置している。 この神社を建てたのが古墳を築造した集団であるとすれば、8世紀初頭の築造というのは早すぎることはない。むしろ遅すぎるくらいだ。 志段味古墳群は4世紀前半から7世紀後半にかけて築造された100基以上の古墳からなっている。7世紀に古墳の築造が終焉し、それに取って代わったのがこの神社だった可能性はある。 ただし、その場合、祭神はタケミナカタ(建御名方命)だったかどうかということになる。 志段味古墳群の中で最古の古墳と考えられているのが東谷山山頂にある尾張戸神社古墳で、4世紀前半の円墳とされる。それに続くのが白鳥塚古墳で、こちらは4世紀後半の前方後円墳だ。全長115メートルと、愛知県では三番目の大きさで、この頃からすでにヤマト王権と深く関わっていたことがうかがえる。 志段味にいた勢力は一時期の空白期間を挟んで300年間以上の長きにわたって古墳を築造し続けた。古墳の築造をやめて間もなく、この地に神社を建てたのはその一族だったのか違ったのか。 もし最初からタケミナカタを祀る諏訪社を建てたのであれば、それは志段味の地に土着した勢力とは別の勢力とも考えられる。タケミナカタは天孫族に国を譲り渡すことになったオオクニヌシ(大国主命)の次男だ。タケミカヅチ(武甕槌/建御雷神)に敗れて信州の諏訪まで追われ、諏訪大社(web)の神となった。出雲の一派が諏訪へ逃れていく途中に一部が尾張の志段味に住みついたということがあっただろうか。 志段味の勢力を尾張氏と見るかどうかによっても考え方は変わってくる。
718年創建という歴史を持つ神社ということであれば、『延喜式』神名帳(927年)に載っていてもおかしくない。しかし、尾張国の『國内神名帳』にも諏訪社はない。 津田正生は『尾張国神社考』の中で、志段味の諏訪明神は『延喜式』神名帳の山田郡澁川神社だといっている。 そんなバカなと思う人が大半だろうけど、私は検討する価値がある説だと思う。 現在、山田郡澁川神社は尾張旭市印場の澁川神社(web)ということになっている。しかし、津田正生は印場の澁川神社は山田郡坂庭神社だとする。 『延喜式』神名帳の山田郡澁川神社は「山田荘志段見村諏訪明神のやしろ是なるべし」と言い切り、その根拠としてこう説明する。 「いま志段見村と書はかな書也。正字下垂水(しだみ)のいひ也。尾張山の水の雫(したた)りおつる處也。故に下垂水と呼。集説本に澁河神社を印場村に引たるは非なり」 志段見は当て字で、尾張山(東谷山のこと)の水がしたたり落ちる場所という意味で本来は下垂水という字だったといっている。 更に付け加えて、印場の八處明神の社人が、曾父川(そぶかわ)とよふ畔名(あざな)もあるというのは偽で、澁川は實志談上中下の三村をいうとする。 『尾張国地名考』の中ではこう書いている。 「中志太水に諏訪の原の地名あり 是は尾張山より雫水所々に淀て小さき湖水をなせるによりて也 湖水を洲廻(すわ)といひ其邊の廣野を原といふことに諏訪明神を祀る」 尾張山(東谷山)から流れ出た水が湧き水となってできた小さな湖水を洲廻(すわ)といい、そこに社を祀ったので諏訪明神ということになったのだと。
津田正生(つだまさなり)は、尾張国海東郡根高村(愛知県愛西市根高町)の出身で家は酒屋でお金持ちだった。 非常に研究熱心な人で、家業は人任せにして尾張国中をほっつき歩いて地理や神社の研究に明け暮れるような人生を送った。尾張藩士でも、学者でもなく、今でいうところの郷土史家のようなものだ。そういった在野の人でありながら学者や尾張藩士たちとも交流し、江戸時代の尾張地誌の分野では一目置かれる存在だった。 著書も多数あり、『尾張国地名考』などを尾張藩に献上している(1836年)。 『尾張神名帳集説本之訂考』(尾張国地名考)は、尾張藩士で学者の天野信景が1707年に書いた『本国神名帳集説』に対して(勝手に)補足訂正をした書だ。天野信景に敬意を払いつつ、けっこうなダメ出しをしている。尾張藩士でも学者でもない自由な立場だから書けたともいえる。 徹底した現場主義で、尾張国中を歩き回って関係者や村人に聞き込み調査を行い、専門分野ともいえる地名に関する知識から神社の真相に迫ろうと試みた。いうなれば叩き上げのベテラン刑事のようなものだ。刑事の勘ならぬ神社の勘ともいうべきものが津田正生に備わっていたとすれば、津田正生の説に耳を傾ける価値があると思うけどどうだろう。すくなくとも最初から笑い飛ばしてしまうのではなく、自分でも検討してみる必要があると私は考える。 ちなみにというかいうまでもなくというか、江戸時代の通説でも印場の澁川神社(蘇父川天神)が『延喜式』神名帳の澁川神社としていた。
江戸時代に志談村は上志段味村、中志段味村、下志段味村に分かれ、諏訪社があるのは中志段味村だった。 『寛文村々覚書』(1670年頃)の中志段味の神社を見ると、「諏訪明神 権現 山之神両社 社内四反五畝歩 前々除 当所祢宜 市太夫持分」となっている。この権現は熊野権現のことだ。 『尾張志』(1844年)には「諏訪社 中志段味村にあり末社住吉ノ社春日社賀茂社香取社浮須社熱田社鹿嶋社あり」、「くまのの社 同村にあり末社天王社山神社あり」とある。 江戸時代を通じて諏訪社の中に多くの末社が建てられたことが分かる。 『尾張徇行記』(1822年)も上の二書とほぼ同じ内容となっている。勧請の年月は分からず、元禄12年(1699年)にまとめて再建したとある。
名古屋(尾張国)における諏訪明神をどう考えるかというのも重要な点だ。江戸時代まではわりと多くの諏訪明神を祀っていたのに、名古屋市内に現存する諏訪社は5社程度となっている。明治以降に廃れてしまったようだ。 諏訪の神は信州の印象が強いけど、元を辿れば出雲の神だ。出雲国と尾張国は深く関わっているという説がある。ただ、それにしては尾張国における出雲神の存在感はそれほどでもない。『延喜式』神名帳の尾張国の神社の中で明らかに出雲系の神社といえるところはほとんどない。 信州の諏訪大社は最古級といわれるほど古い神社のひとつで、信濃国一宮であり、名神大社でもあった。 もし、志段味に718年に諏訪社を建てたというのであれば、諏訪社として『延喜式』神名帳に載っていてもおかしくはない。あるいは、津田正生のいうようにここは山田郡澁川神社だったのだろうか。 中志段味にあった熊野権現がいつ頃建てられたものだったのかも、少し気になるところではある。
それにしてもこれだけ古い歴史を持つ志段味地区に古い神社が少ないのは何故なのだろう。式内社とされるのは東谷山山頂の尾張戸神社しかない。山の上にあれば里にもあるのが普通で、それがこの諏訪社だったのではないのか。そうだとすれば納得がいくというか、逆にそうでも考えないと古い神社が少なすぎて不自然だ。 勝手塚古墳にある勝手社は南北朝時代に祀られたものでそれほど古くない。他に古い神社といえそうなところは志段味には見当たらない。 志段味に古墳を築造していた勢力は古墳時代の終焉とともに他に移っていったということだろうか。志談村ができたのはそれほど古い時代ではないのかもしれない。
拝殿の横に廿二夜塔(にじゅうにやとう)がある。 室町時代頃から始まったとされる月待行事は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に仲間が集まって月を見ながら飲み食いをして邪鬼を払うという神事だ。 その中でも二十二夜というのは女性の集まりで、今でいうところの奥さまたちの女子会のようなものだった。そういう集まりが神社や寺などで行われていた。二十二夜は主に関東を中心に盛んに行われたようで、愛知県でも一部に風習が伝わって残っている。 特に旧暦の8月に行われていたということで、諏訪社では現在でもこの祭りが引き継がれている。 ここには神楽も伝わっており、獅子頭を被った子供たちが町内を回って神楽太鼓の奉納を行っている。 長い歳月の中で諏訪社を建てた人たちのことは忘れられてしまった。それでも神社はこうして残り、昔ながらの伝統もわずかながら伝わっている。 私が感じた小さなため息のような空気感は気のせいだったのかそうではなかったのか。
作成日 2017.3.18(最終更新日 2019.1.19)
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