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トシガミ《年神》

トシガミ《年神》

『古事記』表記大年神/御歳神
『日本書紀』表記なし
別名歳神、など
祭神名大年神、歳神、年神、他
系譜(父)須佐之男命
(母)神大市比売
(妃)香用比売、伊怒比売、天知迦流美豆比売
(子)御年神、大国御魂神、韓神、大山咋神、他
属性来訪神、祖霊、穀物神
後裔三歳祝、など
祀られている神社(全国)葛木御歳神社(奈良県御所市)、飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)、など
祀られている神社(名古屋)斎穂社(守山区)、伊奴神社(西区)

知ってるつもり? のトシガミさん

トシガミは馴染みのないようで実は馴染み深い神だ。
習慣化している年末年始の行事の多くがトシガミと関係がある。
年末に大掃除をするのはトシガミを迎える準備のためで、鏡餅を飾ったりおせち料理を作ったりするのもトシガミさんのためだし、門松はトシガミさんを迎える準備が整ったことを示す合図とされる。
正月は火を使わないとか、掃除をしないといったことも、家にいるトシガミさんに気を遣ってのことだ。
神社で小正月に行う左義長(どんど焼き)は煙に乗せてトシガミを送り出すためのものでもある。
そんなトシガミさんだけど、じゃあ一体トシガミって誰なの? というとほとんど誰も答えられないと思う。祖先の霊という説もあるけど、そんなのは後付けでしかない。
結論としてはよく分からないということになるのだけど、分かることだけでも拾い集めて知っておくことは無駄じゃない。少しでも知っていれば年末年始の過ごし方や気持ちも違ってくるはずだ。
まずはいつものように『古事記』、『日本書紀』から見ていくことにしよう。

『古事記』での主役は大年神

『古事記』は須佐之男命(スサノオ)が櫛名田比売の次に娶った神大市比売(カムオオイチヒメ)との間に大年神(オオトシ)が生まれたといっている。
神大市比売は大山津見神(オオヤマツミ)の娘で、妹(?)に宇迦之御魂神(ウカノミタマ)がいる。
神大市比売は”神一族”の”一”の姫の名を持つ人物だ。それが須佐之男と結びついているということには意味がある。その二つの一族の子が大年神ならば、大年神は系譜の上でも重要な存在ということになる。

その後、大年神は意外なところで登場する。
大穴牟遅(オオアナムジ/大国主)と小名毘古那(スクナヒコナ)がともに国作りをしている中、小名毘古那は常世国去ってしまい途方に暮れる大穴牟遅のもとに海の向こうから光ながらやってくる神がいた。そして、自分を祀れば国作りは上手くいくだろうと告げた。
大国主神がどこに祀ればいいかと訊ねると、倭(やまと)の東の山の上にいつき奉れという。これが御諸山(みもろやま)の上に坐す神だといっているので、一般的には大物主神(オオモノヌシ)のこととされるのだけど、何故かこの後、大年神の系譜が書かれているので、あれ? と思う。
海の向こうからやってきて倭の御諸山に祀ったのは大年神なのか?
その系譜は、神活須毘神(カミイクスビ)の娘の伊怒比売(イノヒメ)を娶って生まれたのが大国御魂神(オオクニミタマ)で、続いて韓神(カラ)、曽富理神(ソホリ)、白日神(シラヒ)、聖神(ヒジリ)が生まれ、香用比売(カヨヒメ)を娶って生まれた子が大香山戸臣神(オオカグヤマトミ)で、次に御年神としている。
更に系譜は続き、天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)を娶って生まれたのが奥津日子神(オキツヒコ)で、次に奥津比売命(オキツヒメ/別名大戸比売神(オオヘヒメ))が生まれたとする。
この後も子供たちの名が続き、最終的には大年神には16神の子がいるといっている。この中には若年神(ワカトシ)という名の神もいる。

『日本書紀』はトシガミに触れていない

『日本書紀』は第八段本文で、素戔鳴尊(スサノオ)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して奇稻田姫(クシイナダヒメ)と結ばれ、大己貴神(オオナムチ)が生まれ、その後根国に行ったとだけ書く。
一書第一では、大国主神を素戔鳴尊の五世孫とし、一書第二では大己貴命を六世孫とする。
一書第四、第五の別伝承では素戔鳴尊の子として五十猛命(イタケル)、大屋津姫命(オオヤツヒメ)、枛津姫命(ツマツヒメ)が出てくるも、その母についての言及はなく、トシガミやそれに類するような神は登場しない。神大市比売も出てこない。
『古事記』が大年神の弟としている宇迦之御魂神(ウカノミタマ)については倉稲魂命と表記して、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)がともに神生みをしている最中、伊弉諾尊が飢えたときに生まれたとしている。
なので、宇迦之御魂神と倉稲魂命を同一とするのは無理があるように思う。

『古語拾遺』は御歳神の解説をする

『古語拾遺』は後書き( 跋)の前に御歳神について書いている。
題名通り洩れた古い話を拾うというのが『古語拾遺』の趣旨なので、斎部広成(いんべのひろなり)はこのことは書いておかないといけないと思ったのだろう。
それがまたちょっと変わった話で、意味はよく分からないのだけど何かヒントを示しているような内容になっている。それはこうだ。
神代(かみよ)の昔、 大地主神(オオナヌシ)が田を作っている人に牛を与えたところ御歳神(ミトシノカミ)の子が田にやってきてその肉に唾を吐いて帰っていき、それを父である御歳神に報告した。
すると御歳神は怒って田に蝗(おおねむし)を放つと苗はたちまち枯れてしまった。
困った大地主神は占い(卜)をしたところ御歳神の祟りという結果が出たため、白猪(しろい)、白馬(しろうま)・白鶏(しろかけ)を供えて祀った。
御歳神は意にかなったと喜び、蝗を祓う方法を教え、それ以来、穀物がよく実るようになったという話だ。

現在の神祇官が白猪、白馬、白鶏を奉って御歳神を祀る由縁がここにあるとも書いているので、平安時代初期には国家的に御歳神を祀っていたことが分かる。
『延喜式』(927年)の祈年祭条でも御歳神に白馬、白猪、白鶏を捧げると定めている。
それにしても、どうして御歳神は田を作る人が牛を食べることを嫌ったのかという疑問が残る。
そもそも、昔の人は本当に牛を食べていたのだろうか。
牛といいつつ我々が思う牛とは違うのか、あるいは普通に牛肉を食べていたのか。
もしくは、牛を生け贄として捧げていたということか。
あと、白い猪と白い馬と白い鶏を捧げたら御歳神が喜んで許したというのもよく分からない。
白馬も当時はそんなにはいなかっただろうし、白いニワトリは今では当たり前だけど古くは違った。白い猪なんてめったにいるものではないし、いたとしても捕まえるのは大変だ。
それを平安時代を通じて神祇官で行っていたというのは本当だろうか。

『古事記』がいう御年神と『古語拾遺』の御歳神が同じと仮定した場合、御歳神は大年神の子ということになる。
大年神と御歳神の性格分けが厳密に行われていたのかどうかは分からないのだけど、トシガミということでいえば実りや食物を司る神と考えられていただろうか。
大年神の妹の宇迦之御魂神は穀物の女神とされたようだから、そのあたりも含めて似たような性格付けがなされていた可能性はある。
”歳”または”年”神という名前からするともう少し広い意味で捉えられていたかもしれない。
宇迦之御魂神は稲荷神と習合して民間で広く祀られたのに対して、トシガミは国家の祭祀に組み込まれたといういい方でもできそうだ。
ただ、それが新年に各家庭にやってくる神とされた経緯についてはよく分からないとしかいえない。

『先代旧事本紀』に出てくるのは大年神

稲倉魂命については伊奘諾尊が飢えて力のない時に生まれたと『日本書紀』と同様のことを書いている。
しかし、別の箇所では素戔烏尊が大山祇神の娘の神大市姫を娶って大年神と稲倉魂神が生まれたとしていて矛盾がある。
大己貴命が国作りをしているときに海の向こうからやってきた神に関しては、あなた(大己貴命)の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)・術魂(じゅつみたま)だとし、三諸山に坐す大三輪大神とだけ書く。
大物主神とも、大年神ともいっていない。
大年神に関する系譜はないため、御歳神は出てこない。

後裔について

『古事記』系譜にある大年神の16柱の子がどのような氏族につながっていったのかはよく分からない。
伊怒比売との子の大国御魂神などは気になるところだし、韓神、白日神、聖神などは名前に引っかかりを感じるところだけど、ここではそこまで追求しないでおく。
それよりも気になるのは、『新撰姓氏録』にある三歳祝(みとしのはふり)の存在だ。
三歳はやはり御歳のことだろうけど、その三歳神(御歳神)を祀る一族がいて、それを大物主神五世孫の意富太多根子命の後としているのだ(未定雑姓大和国)。
やはり大物主神と大年神は同一もしくはどこかでつながっているらしい。
意富太多根子命(大田田根子)といえば、崇神天皇時代に大物主神が祟ったため探し出されて大物主神を祀ったと記紀が伝える人物だ。その末裔が御歳神を祀っていたことの意味は小さくない。
『古事記』は、意富多々泥古命は神君(ミワノキミ)と鴨君(カモノキミ)の祖先といっており、『日本書紀』も三輪君(ミワノキミ)の始祖とあり、認識としては一致している。
ただ、『先代旧事本紀』は大田々禰子(またの名を大直禰子)を都味歯八十事代主(ツミハヤエコトシロヌシ)の九世孫としており、出雲神門臣(カムト) の娘の美気姫(ミケヒメ) をめとって一男・大御気持命(オオミケモチ)が生まれたと書いている。
こうなるともう、大物主神も八十事代主神も大国主神も大年神も全部いっしょくたになって頭が混乱してしまう。
ひとつ頭に入れておきたいのは、意富太多根子命の後裔に鴨氏がいるということだ。

三歳祝関連で書いておくと、『日本三代実録』(貞観8年(866年)条)に、三歳神には古くから神主がなかったため新たにこれを置いたところ祟りがあったので停止したという記事がある。
これが事実だとすると、平安時代前期まで三歳神には神主(祝)がいなかったということになり、更にその頃あらたに神主を置いたら祟りがあったのでやっぱりやめたということになる。
よく分からない話なのだけど、大物主神にしても三歳神(御歳神)にしても、何らかの理由で恨みのようなものがあって祟る神として扱われているということがいえる。それは同時に祟られる側に心当たりがあるということを意味する。その要因は国譲りのあたりなのだろうという推測はできる。

信仰と神社

大年神と御歳神を完全に切り分けるか一体として考えるべきかは難しいところなのだけど、大年神系の神社と御歳神系の神社があって、その性格は少し違っているように思う。
上に書いたように、国家的祭祀として祀っていたのは御歳神で大年神ではない。御歳神はその年の収穫のよしあしを左右するほど力があると考えられていたという事実は重い。

御歳神を祀る神社の総本社とされるのが奈良県御所市にある葛木御歳神社(web)だ。
『延喜式』神名帳(927年)に「大和国葛上郡 葛木御歳神社 名神大 月次新嘗」とある神社で、名前からしても御歳神を祀っていたと思われる。
現在は主祭神として御歳神を、相殿神として大年神と高照姫命を祀るとしているのだけど、『延喜式』では一座になっているので平安時代の祭神は一柱だった。
気になるのは『先代旧事本紀』の記事で、「高照光姫大神命 坐倭国葛上郡御歳神社」といっていることだ。
もともとの祭神は御歳神ではなく高照光姫(高照姫)だったのかもしれない。
高照姫は下照姫(シタテルヒメ)や天道日女(アメノミチヒメ)と同一視されることがあって、もしそうなら非常にややこしいことになるので、ここでは深追いしないことにする。
葛木御歳神社は、上鴨社の高鴨神社、下鴨社の鴨都波神社に対して中鴨社と称されたということも何かヒントになりそうだ。
上にも書いたように、御歳神(三歳神)はどこかで鴨とつながっている。
『延喜式』神名帳には「大和国高市郡 御歳神社」も載っており、大和国には御歳神関係の一族が一定数いたことが分かる。

その他の御歳神神社としては、岐阜県高山市一之宮町一の宮上に鎮座する飛騨一宮水無神社(web)がある。
『延喜式』神名帳では小社ながら飛騨国一宮とされた神社だ。
この神社の主祭神が御歳大神とされる。
飛騨国は古くから尾張国と関係が深く、太平洋戦争末期に熱田神社の草薙剣を一時、飛騨一宮水無神社に疎開させたこともあった。
もともと近くの位山(くらいやま)をご神体としており、現在でも天皇即位にともなう大嘗祭で使う笏(しゃく)は位山で採れた櫟(いちい)の木で作ることが決まっている。
つまり、尾張氏と天皇家と両方の関わりが深い飛騨一宮水無神社で御歳神を祀っているということだ。その意味は決して小さくない。

奈良県天理市の大和神社(おおやまとじんじゃ/web)も、御年大神という名で御歳神を祀っている。
『日本書紀』がいうところの崇神天皇時代に天皇皇女の渟名城入姫(ヌナキイリヒメ)によって大倭国の笠縫邑(かさぬいむら)で祀られたというあの神社だ。
主祭神の本大国魂大神は大地主大神とも呼ばれており、『古語拾遺』が御歳神と対立した神として描いたあの神とすると、何かそのへんの絡みもありそうだ。
もう一柱の祭神の八千戈大神(ヤチホコノオオカミ)は大国主神の別名とされるものの一つで、この三柱の組み合わせはなかなかだ。上手くやれているのだろうかとちょっと心配になる。
鹿児島県霧島市の大穴持神社は『延喜式』神名帳に載る式内社(大隅国囎唹郡大穴持神社)で、大己貴命、少彦名命、大歳神という組み合わせで祀っている。
『延喜式』では一座だから、少彦名命と大歳神は後付けだろうか。

『古事記』が御歳神の親神とした大年神を祀る神社もいくつかある。
兵庫県西脇市の大歳神社や同じ兵庫県丹波篠山市の大年神社などがそうだ。
東京都台東区にある下谷神社(したやじんじゃ/web)は奈良時代に創建された都内で最も古い稲荷社ともいわれる神社なのだけど、そこの祭神が大年神となっている。
岐阜県高山市の阿多由太神社や静岡県静岡市の大歳御祖神社が祀る大歳御祖命(オオトシミオヤ)は大年神の母である神大市比売命のこととされる。
愛媛県四国中央市にある三津歳神社(みつとしじんじゃ)はそれほど古い神社ではなさそうだけど、御歳神、
大歳神、若歳神の三柱を祀るとしていてちょっと面白い。

名古屋では守山区の斎穂社が大年神と御年神を祀っており、西区の伊奴神社では大年神が祭神に名を連ねている。

トシガミは御歳神なのか大年神なのか?

ここまで見てきてもよく分からないのは、いわゆるトシガミというのは大年神のことなのか、御歳神のことなのか、若年神なども含めた総体なのかという点だ。
『古事記』は明らかに大年神を重視していて、大物主神と同一のような描き方をしている。だとすると大穴牟遅の国作りを手助けした功労者ということになる。
『日本書紀』には大年神や御歳神など、トシガミそのものが出てこないのも引っかかる。
『古語拾遺』では御歳神が重要視されており、『延喜式』(927年)の祈年祭の祝詞は「御年の皇神等の前に白さく」と始まることからも、やはり御歳神を重視していたことが分かる。
『古事記』の系譜を信じるならば、大年神が親で御歳神はその子ということになる。
鎮めの対象となったのはどちらだったのだろう?

”歳”または”年”とは何かということになるのだけど、ここには”三”というキーワードも隠れている。
まず”トシ”についていうと、一年、二年や、一歳、二歳といったような年や歳のことではなさそうだ。しかし、年や歳がまったく関係ないかというとそうでもない。一年というサイクルや年中行事にトシガミは深く関わっている。
祈年祭は”としごいのまつり”と読み、この”トシ”は御歳の”トシ”にかかっていると見ていいだろう。
旧暦の2月4日に行われた豊穣を願う祭り(予祝祭)で、秋の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめさい)と対の関係にあった。
祈年祭の起源は定かではないものの、少なくとも奈良時代には始まっていたもので、平安時代までには国家的な祭事になっていた。
その国家的な祭祀を行うに際してトシガミに祈り願ったというのは重要だ。少なくとも奈良、平安時代の人たちは収穫のよしあしの鍵を握るのはトシガミと考えていたということになる。
しかし、『古事記』の記述からそんなことは読み取れないし、『古語拾遺』が語る物語の意味もよく分からない。
何か具体的な事件があってトシガミ(御歳神)は祟る神になったのか。
『古語拾遺』に名前は書かれていないものの、事件のきっかけを作った御歳神の子も何らかの関わりがありそうだ。
もしトシガミがそんなに重要な存在なら、どうして『日本書紀』は何も書かなかったのか? 口を閉ざしたのか、書くに値しないと思ったのか。

”三”についてはミトシを三歳とすると三のトシとなり、”三”がクローズアップされる。
後裔は三歳祝であり、御諸山は三輪山と呼ばれる。”ミワ”は神とも書く。
『日本三代実録』には三歳神という表記があり、ミトシは御歳でもあり三歳でもあったことが分かる。
三歳を大年、御年、若年とすると、三歳はトシガミ三代のことともとれる。

私たちは何か重大な見落としをしているのかもしれない。
あるいは、大きな勘違いをしているのか。
トシガミのことなど普段はまったく考えないで過ごしている。年末年始に思い出すかどうかだ。
しかし、トシガミは毎年家にやってくる。もしくは出迎えようとしない家にはやってこない。
なんとなく見張られているような、試されているようなところもある。
トシガミとは何なのかという問いに明快な答えはない。
ただ、ぼんやり見え隠れする部分はある。
たぶん、オリジナルは別の名前で知られる誰かなんだろうなという感触はある。
ピタッとハマればなるほどそういうことかと納得できそうな気がする。
トシガミは現代に生きる我々にとっても意外に身近な存在であり、年末年始だけでなくもう少し大事にしていい神様じゃないだろうか。

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