尾張氏母方の祖なのか?
『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』には登場せず、『先代旧事本紀』(平安時代初期)や尾張氏の系図上に現れる女神。 人物関係が非常にややこしいので整理するために箇条書きすると以下のようになる。
1)尾張氏一族とされる海部氏系図では尾張氏祖の天火明命(アメノホアカリ)の妃で、子に尾張氏二代の天香具山命(アメノカグヤマ)がいるとなっている。 それを信じるなら、アメノミチヒメは尾張氏の母方の祖という言い方ができる。
2)アメノミチヒメの父について海部氏系図は大己貴神(オオナムチ)とする。 『先代旧事本紀』は、父を対馬縣主の祖・天日神命(アメノヒノカミ)としている。 天日神には天照魂命(アメノテルミタマ)という別名がある。
3)アメノホアカリには佐手依姫(サデヨリヒメ)という妃もおり、この間に穂屋姫(ホヤヒメ)がいる。 アメノカグヤマとは母違いの兄妹ながら二人は婚姻し、尾張氏三代天村雲命(アメノムラクモ)をもうけたとなっている(海部氏系図)。 サデヨリヒメは素戔嗚尊(スサノオ)の娘といい、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)や瀬織津姫(セオリツヒメ)と同一という説がある。
4)海部氏系図では、スサノオと奇稲田姫(クシナダヒメ)との間の子である大屋津姫(オオヤツヒメ)とアメノカグヤマが婚姻したことになっており、二人の間に熊野高倉下(クマノノカタクラジ)がいる。
5)『先代旧事本紀』は天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊として天火明命(アメノホアカリ)と饒速日命(ニギハヤヒ)を同一のように扱っている。 海部氏系図ではアメノホアカリの子でアメノカグヤマの弟として可美眞手命(ウマシマデ)が書かれている。 『先代旧事本紀』では味間見命(ウマシマミ)をアメノカグヤマの異母兄とする。 『古事記』では邇芸速日命(ニギハヤヒ)がヤマトの豪族・那賀須泥毘古(ナガスネヒコ/『日本書紀』では長髄彦)の妹の登美夜須毘売(トミヤスヒメ/『日本書紀』では三炊屋媛(ミカシキヤヒメ))との間に宇摩志麻遅命(ウマシマジ)が生まれたといっており、系図とは違う伝承となっている。 ウマシマジ/ウマシマデは物部氏の祖とされる。
6)天道日女(アメノミチヒメ)の別名に、屋乎止女命(ヤオトメ)、高照光姫(タカテルヒメ)、高光日女(タコヒメ)、祖母命(ソボ)などがある。
何が本当で何が本当ではないかの判断がつかない。あるいは、どこまでが本当で、どこからが作り話なのか。 尾張氏が祖とした天火明(アメノホアカリ)なる人物がいたには違いない。その人の妻がいたから子供が生まれたわけで、妻は一人ではなく二人以上だったのかもしれないし、それぞれに子供がいたとしてもおかしくはない。 ここで問題となるのは、アメノミチヒメの一族はどこの人たちだったかということだ。 古代が女系社会だったことを考えると、アメノミチヒメの一族は重要な鍵を握っている。 尾張氏の内だったのか外だったのか。近しい関係だったのか遠い関係だったのか。 尾張氏の祖とするからにはその前の世代とは何らかの断絶のようなものがあったと考えられる。アメノホアカリの世代で枝分かれしたと考えるのが自然だ。 そこにアメノミチヒメの一族は深く関わっているのではないか。
『丹後国風土記』から見える豊受との関連性
『丹後国風土記』逸文に、京都舞鶴にある山口神社の由緒に関する話がある。要約すると以下のような内容だ。 天香語山命(アメノカゴヤマ)が倉部山(三国山)に神庫を作って神宝を収蔵し、長い梯子(はしご)を設けたのでそこを高橋郷と呼ぶようになった。 現在は峰に天香語山命を祀る天藏神社がある。 その麓には山口坐御衣知祖母祠が置かれ、これは天道日女(アメノミチヒメ)が年老いてこの地にやって来て、麻を績いだり、蚕を養ったりして人々に教えたので後に祀られたという。 また、8人の天女が眞名井(まない)で水浴びをしているとき、老夫婦がひとりの天女の羽衣を盗んだので天に帰れなくなり、仕方なく天女は老夫婦の家で酒を作って富ませたにもかかわらず追い出されてしまい、奈具村に辿り着いて祀られるようになったという話が、同じく『丹後国風土記』逸文の奈具社の由緒として書かれている。
海部氏系図で知られる海部氏は丹後国の一宮・籠神社(web)の社家として知られる(丹後国の国造も兼ねていたともされる)。 籠神社はもともと眞名井原で豊受大神(トヨウケ)を祀ったのが始まりで、創祀は天火明(アメノホアカリ)もしくは天香語山(アメノカゴヤマ)という話がある。 天道日女(アメノミチヒメ)の別名の屋乎止女(ヤオトメ)が八乙女を意味しているとすれば、丹後国の羽衣伝説ともつながりそうだ。 アメノミチヒメはトヨウケかもしれないし、トヨウケに仕える巫女とも考えられる。 アメノカグヤマには天香山姫(アメノカグヤマヒメ)という女子がいたとされ、カグヤマ姫がカグヤ姫の話ともつながってくるかもしれない。 ちなみに、丹波は古くは「たには」と読み、天火明が開拓した”田庭”から来ているという説もある。
いったん整理してみる
天道日女(アメノミチヒメ)は、尾張氏の祖とされる天火明(アメノホアカリ)の妻で、尾張氏二代の天香語山(アメノカゴヤマ)を生んだという前提が崩れてしまうと話が進まないので、とりあえずそれは確定としておく。 アメノミチヒメの父は大己貴神(オオナムチ)または天日神命(アメノヒノカミ)。 問題はやはりアメノミチヒメの父方で、オオナムチなら国津神だし、アメノヒノカミなら天津神となり、その違いは大きい。 アメノミチヒメという名前からしても”天”の一族には違いない。 尾張氏の一族がアメノホアカリを祖としたことには理由があるはずで(たとえ系図上のことだけだったとしても)、その初代の妻となるからには有力な一族の娘だったのだろう。あるいは、その一族の娘に婿入りしからこそ尾張氏として成立し得たとも考えられる。 だとすると、記紀が伝えるところの国津神としてのオオナムチの娘というのはちょっとどうなんだろうと思う。かといってアメノヒノカミなる人物の娘というのもちょっとピンとこない。 父をオオナムチとしていても、高天原の中心一族の娘だったのではないかと推測する。
次に豊受(トヨウケ)とのつながりについて考えてみる。 籠神社がもともと眞名井原でトヨウケを祀っていたという話はそれなりに根拠があると感じる。雄略天皇の時代に伊勢に移して祀ったのが伊勢の神宮の外宮(豊受大神宮/web)だという話も一定の説得力がある。 最初に祀ったのがアメノホアカリもしくはアメノカゴヤマだという伝承をそのまま事実とすることはできないにしても、そういう伝承が語り伝えられたのには必ず理由があって、それに類する出来事があったと考えていい。 尾張氏の一族が丹後国に移り住んで祖神を祀って今の籠神社につながっているという事実は動かない。 『丹後国風土記』が伝える八乙女の羽衣伝説とアメノミチヒメの別名が屋乎止女という符号からしても、アメノミチヒメとトヨウケがまったくの無関係とは思えない。 もし、アメノミチヒメとトヨウケが同一人物だったとしたらどういうことになるのか?
アメノミチヒメは瀬織津姫と同一?
祓(はらえ)の女神である瀬織津姫(セオリツヒメ)は裏古代史で人気の神だ。誰々の別名だとか、何神と同一だといった説が数多くある。 アメノミチヒメもその一人で、いつ誰が言い出したのかは分からないけど、アメノミチヒメはセオリツヒメの別名という説がある。 セオリツヒメは記紀などには登場せず、大祓詞の中で、速開都比売神(アヤアキツヒメ)、気吹戸主神(イブキドヌシ)、速佐須良比売神(ハヤサスラヒメ)ともに祓戸大神(祓戸四神)として登場する。 もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す役割を負っている。 鎌倉時代に成立したとされる伊勢の神宮の経典、神道五部書(『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』、『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』、『倭姫命世記』、『豊受太神宮御鎮座本紀』、『造伊勢二所太神宮宝基本記』)などは、伊勢の神宮別宮の荒祭宮で祀る神を瀬織津姫と書いている。 古くは、内宮の東西正宮は東に天照大神、西に瀬織津姫を祀っていたという。 現在は式年遷宮のたびに東西を移ることになっているけど、元々はアマテラスとセオリツヒメを祀っていたようなのだ。 これは一体、何を意味しているのか。 天照大神の荒御魂を祀ることでで知られる兵庫県西宮市の廣田神社(web)は、戦前までは瀬織津姫を祀るとしていた。 現在は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカイツヒメ)を主祭神とし、伊勢神宮内宮の第一別宮である荒祭宮祭神と同体としている。 伊勢の内宮別宮・荒祭宮の祭神は天照大神の荒魂としているのだけど、これは今でも瀬織津姫のことと考えていいのではないかと思う。 アメノミチヒメがトヨウケのことで外宮で祀られ、別名のセオリツヒメは内宮の別宮で祀られているとしたらどういうことになるのか。 頭がこんがらがってよく分からなくなる。
同一説と別人説
同一説について考えているとき思いついたことがある。 それは、名前を継ぐことで地位も引き継いだのではないかということだ。 分かりやすい例でいうと天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊がある。 天火明と饒速日は同一人物ではなく、天火明の地位を饒速日が継いだことで天照國照彥天火明櫛玉饒速日になったのではないだろうか。 地位を継ぐということは、土地も人間も神も名前も奪うということを意味する。ときには一族そのものを取り込んでしまうこともあっただろう。 天火明と天道日女との間に生まれたのが天香語山で、天火明の地位を継いだ(殺したのかもしれない)饒速日と天道日女との間に生まれたのが可美眞手命だったとすると、海部氏系図の親子兄弟関係の説明がつく。 『先代旧事本紀』は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天上で天道日女との間に天香語山を生み、天降って御炊屋姫との間に宇摩志麻治命を生んだと書いているけど、御炊屋姫は天道日女のことではないだろうか。 『日本書紀』は名前や設定を変えて、このへんのことを伝えようとしている箇所がある。 天若日子(アメノワカヒコ)と味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)の話だ。 国譲りのために派遣されたアメノワカヒコは顯国玉(ウツシクニタマ=オオクニヌシのこととされる)の娘の下照姫(シタテルヒメ)と結婚して高天原に報告しなくなる。 使者を送られるも、その使者を殺してしまったアメノワカヒコはタカミムスビの放った矢によって射殺されてしまう。 高天原のときにアメノワカヒコと友達だったアジスキタカヒコネが葬儀に参加したところ、アメノワカヒコと”そっくり”なアジスキタカヒコネを見てワカヒコの妻子や親族はワカヒコが戻ってきたと喜び、使者に間違われたアジスキタカヒコネが怒ったという話だ。 下照姫の別名が高姫で、天道日女の別名が高照光姫/高光日女となると、アメノワカヒコはアメノホアカリのことではないかと思ってしまっても無理はない。
地位と名前を継ぐという以外に、途中で名前を変えるパターンと、ひとつの名前を複数人が継ぐ(共有する)というパターンがある。 たとえば、オオクニヌシやスサノオなどは一つの象徴名として複数人が名乗ったか継いだ可能性がある。 ヤマトタケルやタケウチノスクネなどもそうかもしれない。 名前を変えることついては、高天原時代とよそへ移ってからと違う名を名乗った例がありそうだ。それが別名として伝わっているのではないかと思う。 中には特徴を表す異名といったものもあるだろう。 そのへんは難しくて分からないとしか言いようがないのだけど、トヨウケ、アメノミチヒメ、セオリツヒメといったあたりも、同一人の別名という可能性はあるように思う。 『播磨国風土記』には天道日姫に似た名前の道主日女命(ミチヌシヒメ)が出てくるけど、これも同一のような違うようなでよく分からない。 ここでは天目一箇神(アメノマヒトツ)との間に子供が生まれたという話が語られる。
天道日女を祀る神社
天道日女命(アメノミチヒメ)を祀る神社は全国的に見ても数少ない。 上にも書いたように『丹後国風土記』に書かれた由緒が元になった山口神社(京都府舞鶴市堂奥)や愛媛県松山市高田甲の櫛玉比賣命神社(くしたまひめ-じんじゃ)くらいではないかと思う。 山口神社は倉部山の上に天香語山命を、麓の山口坐御衣知祖母祠で天道日女命を祀る。 櫛玉比賣命神社は国津比古命神社と対になっていて、国津比古命神社で天照国照日子天火明櫛饒速日尊を祀っている。 どちらの神社も夫婦、または母子関係で祀られているということだ。 興味を惹かれるのは、櫛玉比賣命神社の祭神が天道日女命と御炊屋姫命(ミカシキヤヒメ)となっていることだ。 『古事記』では登美夜毘売(トミヤヒメ)になっているのだけど、記紀ともに話としては同じで、ニギハヤヒが大和の豪族、那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)の妹と結婚して宇麻志摩遅命(ウマシマジ)を生んだといっている。 そうなると、ニギハヤヒ、ウマシマジ、アジスキタカヒコネの関係はどうなるのか。 たくさんの登場人物がいるように思えて、実際は4、5人の単純な話のようにも思える。
青衾神社とは何なのか?
名古屋では熱田区の青衾神社が唯一、天道日女命を祀る神社となっている。 創建やその後のいきさつがさっぱり分からない神社で、ほとんど何も分からないと言っていい。 最初から天道日女命を祀る神社として創建されたのか、途中で祭神が入れ替わって天道日女命になったのか。 『延喜式』神名帳(927年)に載るくらいだから平安時代までには格式のある官社になっていたのは間違いない。『尾張国内神名帳』には”正二位 青衾名神”として載っている。 青衾神社については本編をお読みください。
天道はおてんとう?
天道日女と書くと”道”の姫のように思ってしまいがちだけど、天道姫とすると”てんとう-ひめ”、つまり太陽の姫神という名前だということが分かる。 それは天照大神にもつながるし、天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊にも通じる。 あるいは、天の道と考えると天意とか天命の姫といった捉え方もできる。 天白区八事(やごと)に八事天道という地名があり、かつての天道山高照寺と天道社が由来となっている。 現在は五社宮として天照や月読、豊受その他を祀っているのだけど、もしかするとこの土地に天道日女の痕跡が残っているかもしれない。 八事というのは重要な土地で、それを知っている人はそれほど多くないだろう。 その八事にトヨタ自動車会長家の豪邸があるのを知っている方もいると思う。 トヨタ自動車創業家の豊田(とよだ)氏は名前からも分かるように”豊=トヨ”の一族だ。 現在の豊田市は豊田一族の本拠地ということで名付けられたのだけど(昭和34年に改称)、もともとは挙母市(ころも-し)といっていた。 『古事記』の第11代垂仁天皇記に「落別王(オチワケ)は小月之山君(オヅキノヤマノキミ)・三河之衣君(ミカハノコロモノキミ)の祖先である」という記述がある。 この三河の衣氏が地名の由来なのか、逆に地名が先で衣氏が後なのかは判断ができないけど、古くは”衣”とも書いていた。 衣に”挙母”の字を当てたのは、713年に元明天皇が出した”諸国郡郷名著好字令”のときかもしれない。良い字を使って二文字の地名にしろというもので、それまで三文字だったものを二文字にしたり一文字を二文字に変えたりした(泉を和泉にしたり、下毛野・上毛野を下野・上野に変えるなど)。 三河には豊田市の他にも豊橋市、豊川市、豊根村など、豊のつく地名がいくつも残る(豊明市は尾張と三河を分ける境川の尾張側だけど、これも意味がある)。 豊田家は先代会長の章一郎氏のとき、自宅を八事に建てた(だから現会長の豊田章男氏は名古屋生まれの名古屋育ちだ)。 豊田家が八事に居を構えたのは偶然ではないし、その土地が気に入ったからでもない。そういうお告げ(またはお達し)があったからだ。 三河の王であるトヨ一族が尾張の隠された中心地である八事に住むことの意味は小さくない。 歴史というのは本当に古い時代から現在に至るまで思いがけないところでつながっている。
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