作られたストーリー
宮簀媛についての伝承は多く、すべてが本当ではないにしても何らかの実在性といったものが感じられる。 ある時期の尾張に、確かに宮簀媛に当たる女性がいたのだろうと思う。 しかし、史料と伝承がごちゃ混ぜになって一つのストーリーとして語られるのはいいことではない。そうなってしまうともはや空想の作り話になってしまう。 まずは各史料を読んで、どの書がどんなふうに書いているか、切り分ける作業から始めたい。 その後、伝承についても考え合わせることにする。
『古事記』の中の美夜受比賣
記紀その他も、日本武尊(ヤマトタケル)関連で宮簀媛は語られる。 まずは『古事記』から見ていこう。
第12代景行天皇こと大帯日子淤斯呂和気天皇(オオタラシヒコオシロワケ)に、西の熊曽建(クマソタケル)討伐を命じられた皇子の小碓命(オウス)は、それを成し遂げたときに倭建命(ヤマトタケル)と名を改めた。 出雲で出雲建(イズモタケル)を討って戻ると、休む間もなく東の荒ぶる神やまつろわぬ人を征服するよう命じられる。 このときお供として付けられたのは吉備臣(きびのおみ)の祖の御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)と 比比羅木之八尋矛(ひひらきのやひろほこ)だった。 天皇は自分に死ねというのかとこぼしつつ出発した倭建命は、東へ向かう途中で伊勢大御神宮(web)に寄って 姨(おば)の倭比売命(ヤマトヒメ)にひとしきり愚痴った後、草那芸剣(クサナギノツルギ)を賜って尾張へ向かった。 そこで美夜受比賣(ミヤズヒメ)と出会うことになる。その部分の原文は以下のようになっている。 「到尾張國 入坐尾張國造之祖美夜受比賣之家 乃雖思將婚 亦思還上之時將婚 期定而幸于東國」 尾張国造の祖の美夜受比賣の家に入って婚姻しようと思ったのだけど帰りでいいかと思い直して約束だけして東へ向かったということだ。 ここは重要なポイントなので後ほど検討することにして先へ進める。
東国の平定を終えた倭建命は信濃を越えて尾張国に戻り、約束したとおり美夜受比賣のもとを訪れた。 出迎えた美夜受比賣は酒と食事でもてなしていると、美夜受比賣の衣の裾に月経の血がついているのを見つけた倭建命は、こんな歌を歌ったという。 「比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理」 ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くび) 弱細(ひはぼそ) 撓(たわ)や腕(がなひ)を 枕かむとは 我(あれ)はすれど さ寝むとは 我(あれ)は思へど 何が著(け)せる 襲(おすひ)の裾(すそ)に 月立ちにけり 天香具山の上を渡る鵠(くぐい=白鳥)の細い首のようにか弱い腕を枕に寝たいと思ったらあなたの衣の裾に月が立ってしまったなといった意味だ。 それに対して美夜受比賣も歌で返した。 「多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 阿良多麻能 都紀波岐閇由久 宇倍那宇倍那宇倍那 岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多多那牟余」 高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾(うべ)な諾(うべ)な 君待ちがたに 我が著せる 襲(おすひ)の裾に 月立たなむよ 日の御子よ、私の大君よ、年を経れば月も経ます、私の衣にも月が立ちましたといったところだろうか。 月経を月日と空の月を掛けて上手い返しで気が利いている。 そうして二人は交わり(御合)、倭建命は草那芸剣を美夜受比賣のもとに置いて伊服岐(いふき)の山の神を取りに行ったという。 そこで山の神の怒りに触れてすっかり体調を崩した倭建命は命からがら逃げ出し、伊勢方面へ向かうことになる。 その途中でこんな歌を歌っている。 「袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁」 尾張(おはり)に 直(ただ)に向へる 尾津(おつ)の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 あせを 尾張国に向かって立つ尾津の崎の一つ松よ、おまえが人なら刀を帯びさせ衣を着せてやろうという意味だけど、この歌の意図はよく分からない。 行き道の途中にここで食事をとったときに忘れた刀が帰りもそのまま残っていたのでこの歌を歌ったとあるのだけど、美夜受比賣の家に草那芸剣を置いていったのみならず、持っていた自分の刀も食事をして置いたときに忘れてしまうなんて間抜けすぎないか。忘れたことに気づいた時点で取りに戻るか誰か取りに行かせないと。 倭建命はどこか抜けたお馬鹿さんのように描かれていて、『古事記』の作者のちょっとした悪意のようなものが感じられる。
伊勢の能煩野(のぼの)に到ったとき、あの有名な「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」という歌を歌った。 これに続いて3つの歌を歌うのだけど、その最後はこうだ。 「嬢子(おとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」 あの美夜受比賣の家に置いてきた草那芸剣さえあればと。 しかし、後悔先に立たずで、ついに力尽きて亡くなってしまった。 倭から皇后と子供たちがやってきて倭建命の墓を作って泣いていると八尋(やひろ)白智鳥(しろちどり)になって浜に向かって飛んでいったのだった。
続いて倭建命の皇妃や子供たちに関する系譜が書かれているのだけど、ここに美夜受比賣は入っていない。 子供がいなかったから載らなかったのか、他の妃とは扱いが違うのか。 なんとなく現地妻的な扱いにも感じられる。 倭建命が去った後、草那芸剣や美夜受比賣がどうなったかについては何も書かれていない。 それは『日本書紀』も同様で、熱田社創建に関して記紀は何も書いていないということだ。
『日本書紀』が語る宮簀媛
続いて『日本書紀』を読んでいこう。 日本武尊関連は『古事記』との違いがいろいろあるのだけど、宮簀媛に関していうと、東征の行き道で尾張に寄って宮簀媛と会ったという話はない。ただ、帰り道で尾張に還ったといっているので、設定としては行きにも寄ったということになってはいる。 天皇がお供として付けたのは天皇は吉備武彦(キビノタケヒコ)と大伴武日連(オオトモノタケヒノムラジ)、 そして膳夫(かしわで)の七掬脛(ナナツカハギ)だった。 建稲種はここでも出てこないということだ。 東の蝦夷たちを従えた日本武尊は信濃を経由して尾張まで戻ってきて、尾張氏の女の宮簀媛を娶って、しばらくの間留まって何ヶ月か経ったといっている。 原文はこうだ。 「日本武尊 更還於尾張 卽娶尾張氏之女宮簀媛 而淹留踰月」 宮簀媛を”尾張氏の女”といういい方をしている。 『古事記』が宮簀媛(美夜受比賣)を尾張國造の祖としているのに対して『日本書紀』はそうはいっておらず、 月の歌を交わしたという話もない。 『古事記』の”美夜受比賣の家に入った”という書き方と、”尾張氏の女を娶った”というのもニュアンスとしてはだいぶ違っている。 共通しているのは、草薙剣を宮簀媛のもとに置いたまま五十葺山(伊吹山)の荒ぶる神を討ちに行って返り討ちに遭い、最後は伊勢の能褒野で力尽きて亡くなってしまったということだ。 『古事記』とのもう一つの違いは、体調を崩した日本武尊が下山した後、いったん尾張に還ったものの宮簀媛の家には入らず伊勢方面に向かったとしている点だ。 どうしてこんなルートを進んだのかよく分からないのだけど、そのあたりについては日本武尊の項で詳しく書くことにしたい。 宮簀媛がこの後どうなったかについては何も書かれないものの、草薙剣についてはずっと後の天智天皇のときに熱田から盗まれ、天武天皇を祟ったとして再登場する。
『先代旧事本紀』の無関心
『先代旧事本紀』の「天皇本紀」は歴代天皇の事績を簡単にまとめたような内容なので情報が少ないのだけど、 日本武尊に対する冷淡な態度はちょっと引っかかる。 日本大足彦忍代別尊(景行天皇)のところで小碓尊(日本武尊)について触れているものの、東征については、日本武尊は東の夷を平らげて還ろうとしたけど還ることができず尾張で亡くなったとだけ書いている。 尾張で亡くなった? 『先代旧事本紀』はときどき本当のことをポロッと漏らすことがあって、これなどもそれではないかと思わせる。 これが本当だとすると、記紀が語るような伊吹山の神を倒しにいって返り討ちにあって伊勢の能褒野で亡くなった後、白鳥になって飛んでいったというあの話は全部作り話ということになる。 東征自体が作り話といえばそうなのだけど、『先代旧事本紀』が記紀に逆らってあえて日本武尊は尾張で亡くなったと書いているということは明かな意図があったということだ。 一言で済ますにしても、記紀にならって伊勢で亡くなったとすればよかっただけなのにそうしなかった。 もし日本武尊が尾張で亡くなったのであれば、尾張に墓があってもよさそうで、実際、熱田の白鳥古墳などもそういった伝承があって、まんざらデタラメでもないのかもしれないと思ったりもする。
『古語拾遺』で斎部広成がこだわったこと
『古語拾遺』も天皇に関する記事はどれも短いのだけど、纏向日代朝(景行天皇)のところで日本武尊の東征については割としっかり書いている。 その中で、草薙剣が尾張国熱田社にある経緯を説明しつつ、それを朝廷がちゃんと奉っていないと憤っている。 原文では「其草薙釼 今在尾張国熱田社 未叙禮典也」となっていて、これは 「遺りたること」の第一にも書いている。その部分はこうだ。 「況復 草薙神釼者 尤是天璽 自日本武尊愷旋之年 留在尾張国熱田社 外賊偸逃 不能出境 神物靈驗 以此可觀 然則 奉幣之日 可同致敬 而 久代闕如 不修其祀 所遺一也」 言うまでもないことですがという前置きの後、草薙神剣は天璽(あまつしるし)です。日本武尊が凱旋してとどまったとき尾張国の熱田社に置かれることとなり、賊が持ち出そうとしても持ち出せなかったことからしても神の霊験はあらたかであります。ですので敬意を払って幣帛を奉るべきなのに古くからそれが行われていません。これは遺りたる一つです、といった内容だ。 『古語拾遺』が書かれた807年当時、本当に熱田社に朝廷から奉幣が行われていなかったかどうかは分からないのだけど、『日本紀略』(平安時代末)によれば従四位下の神階が与えられたのは弘仁13年(822年)であることからすると、熱田社に対する朝廷の扱いは低かったのかもしれない。
『熱田太神宮縁起』は話を盛っている
以上を踏まえた上で、熱田神宮の縁起書である『熱田太神宮縁起』(尾張国熱田太神宮縁記)について見ていくことにする。 奥書によると、貞観16年(874年)に、神宮別当の尾張連清稲(守部宿彌清稲)が熱田社に縁記がないことを嘆いて古記や老人達の伝承(遺老之語)を集めて草稿を作り、寛平2年(890年)に藤原朝臣村椙が語句を改めてまとめたものとしている。 この奥書についてはいくつか問題が指摘されているのだけど、ここでは何が書かれているかが大事なのでそれを読むことにしよう。
大碓命と小碓尊の話は記紀に準じており、東征に出るまでの流れも共通している。 記紀との大きな違いは、景行天皇の命で日本武尊に従ったのが吉備武彦(キビノタケヒコ)と建稲種公(タケイナダネノキミ)になっている点だ。 『古事記』は吉備臣の祖の御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)となっており、『日本書紀』は吉備武彦と大伴武日連(オオトモノタケヒノムラジ)となっている。 加えて膳夫の七掬脛(ナナツカハギ)が付けられたということも『熱田太神宮縁記』は共通する(七拳脛)。 記紀と『熱田太神宮縁記』の一番大きな違いは視点で、天皇側から見た記紀と尾張氏側から見た『熱田太神宮縁記』では同じ物語でも違う見え方になるということはあり得る。 尾張側からするとここで建稲種が出てこないと話が始まらないので、ここで出してきたということだ。 のニュアンスでいうと、建稲種は天皇や日本武尊近くに従っていて、東征の最初からお供だったような書かれ方をしている。尾張にいて日本武尊を出迎えたという感じではない。 日本武尊が伊勢の神宮に立ち寄って草薙剣を受け取って尾張に至ったとき、稲種公はこんなことを言ったという。 氷上邑(ひかみのさと)は自分の故郷なので、どうか立ち寄って休んでいってくださいと。 その熱心な誘いに乗って氷上邑を訪れた日本武尊は一人の美しい乙女を見つけて名を尋ねると、稲種公の妹君の宮酢媛(ミヤスヒメ)という。 一目で気に入った日本武尊は稲種公に命じてその女を娶り、久しく氷上邑にとどまって離れがたいほどだったといっている。 それでもあまりのんびりしてる場合ではないので、東征の続きをすることとなり、稲種公と相談して日本武尊は海道を、稲種公は山道をそれぞれ進んで板東で落ち合おうと約束して出発した。 約束通り二人は甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)で合流し、帰りは道を変えて日本武尊が山道を、稲種公が海道を行って尾張の宮酢媛の屋敷で会うことにした。 日本武尊が篠木(しのぎ)というところで食事をしているところに稲種公の従者の久米八腹(クメノヤハラ)というものが慌てた様子でやってきて告げるには、稲種公が海に落ちて亡くなったという。 日本武尊は突然の知らせに悲しみの涙を流しながら事情を訊ねると、駿河の海で可憐に鳴く美しい鳥を見てあれはなんという鳥か訊ね、鶚駕鳥(みさごどり)というので、あれを捕らえて日本武尊に献上しようと言いだし、船の帆を上げて追いかけたところ、波風が荒くなり、船が傾いて稲種公は海に落ちてそのまま亡くなってしまったのだった(「現(うつつ)や、現や」と嘆いたという場所は現在の春日井市内津峠(うつつとうげ)とされ、建稲種命を祀る内々津神社がある)。
悲しみの中、尾張に戻った日本武尊を出迎えた宮酢媛は食事と酒でもてなし、宮酢媛の衣裾が月水に染まっているのを見た日本武尊は歌を歌い、宮酢媛がそれに返歌するというのは『古事記』に倣っている。 ただ、歌の内容は一部違っていて、『古事記』では「ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くび)」となっているのに対して、『熱田太神宮縁記』では「まそぎ 尾張の大和 をちこちの山の峡由(かひよゆ)と 視わたる日 かはのは」となっている。 後半の内容はほぼ同じなのだけど、一部違っている部分もあってまったくの丸写しではないことが分かる。 宮酢媛の返歌も少し違っている部分がある。 『古事記』は「高光る 日の御子」なのに『熱田太神宮縁記』では「八富知し 我が大君 高光る 日の御子」になっていたり、後半部分にも違いが見られる。 更に違っているのは、宮酢媛の返歌に対して日本武尊が更に次の歌を返している点だ。 「鳴海浦を 見遣れば遠し 日高路に この夕潮に 渡らへむかも」 これは日本武尊が甲斐の国の板折宮で宮酢媛を恋しく思って歌ったものというのだけど、それをここに入れるのはちょっと違和感がある。 当時、熱田と氷上邑との間は年魚市潟(あゆちかた)と呼ばれる干潟の海で、遠くに見える氷上邑の宮酢媛を思いながら日が暮れたけど早く渡っていきたいという内容なのは分かる。 ただ、それなら板折宮のときの記事に入れればいいことで、ここに入れるのは変だ。 日高路(ひたかち)が直歩行(ひたかち)に掛かっているのはいいとして、言うまでもなく甲斐国から尾張国の海など見えるはずもなく、板折宮で年魚市潟を歌ったというの納得できない。 俗謡を当てはめただけといえばそうなのだろうけど、『熱田太神宮縁記』の意図を掴みかねる。
この後、伊吹山の神を退治しに行って返り討ちにあって伊勢の能褒野で日本武尊は亡くなるのだけど、『熱田太神宮縁記』は記紀が触れなかった草薙剣と宮酢媛についても語っている。 それはこんな話だ。 日本武尊が夜中に厠(かわや)に行ったとき、身につけていた草薙剣を解いて厠近くの桑の木に立てかけたまま忘れて寝床に戻って寝てしまった。翌朝、思い出して取りに戻ると桑の木全体が目を射るように光り輝いていた。それでもかまわず持ち帰った日本武尊がその話を宮酢媛にすると、桑の木は特に変わったことがないから剣のせいでしょうと答えた。 しばらく後、日本武尊は宮酢媛に、自分は先に都に帰って後から迎えるから、この剣を置いていく。宝とし、床の守りとするようにと伝えた。 それを聞いた大伴建日臣は、それはなりません、これから行く伊吹山には荒ぶる神たちがいるのに、その剣の霊気がなければ退治することは難しくなるでしょうと日本武尊をいさめた。 それに対して日本武尊は言うことを聞かず、剣がなくても足で蹴り殺してしまえばいいだろうと強がった。 日本武尊が亡くなったことに対して宮酢媛が嘆き悲しんだといった記述はなく、日本武尊が昇天後も独り寝を守り、神剣(草薙剣)を安置していたといい、歳を取った宮酢媛は親族一同を集めて神剣をどうするかを相談することにした。 自分は年老いて老い先が短い。私がこの世を去る前に神剣を奉る場所を決めておかなければいけないと。 相談の結果、熱田の地と決まり、社を熱田社と名づけたという。 熱田の由来については、楓(かえで)の樹が自然に燃えて水田の中に倒れ、燃える炎はいつまでも消えずに水田が熱いままだったので熱田と呼ばれたという話を書いている。
時は流れて天命開別天皇(天智天皇)の時代に新羅の僧の道行が神剣を盗もうとして果たせず、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)の晩年に病気の原因を占ったところ、草薙剣の祟りと出たので熱田社に還したという記事があり、氷上姉子天神の創建由来にも触れている。 草薙剣を納めた熱田社については、宮酢媛と建稲種公に縁がある人物を七人選んで一人を長として社守(やしろもり)を置き、宮酢媛がこの世を去って後、氷上邑に祠を建てて氷上姉子天神と名付けて祀ったという。 ここの神主を尾張氏一族の海部氏(あまべうじ)としたとも書いている。 稲種公の系譜にも触れ、火明命十一世孫で尾張国造の乎止與命と真敷刀婢命の子とし、熱田明神を尾張氏神として宮酢媛と建稲種命を大宮(熱田社)の相殿神としたともいっている。
以上、見てきて分かることは、『熱田太神宮縁記』は『古事記』と『日本書紀』を元にかなり話を盛っているということだ。半分くらいは作り話というか脚色といってもいい。 古記を参照しつつ古老にもいろいろ話を聞いてまとめたとはいっているものの、書かれた内容をそのまま真実として受け取ることはできない。 『熱田太神宮縁記』がいつどの段階で広く一般の目に触れるようになったのかは分からない。奥書によると、写しを三通作って一通を朝廷に献じ、一通は社家に贈り、一通は国衙(こくが)に留めたという。 そこから更に写本が作られ、孫、ひ孫写本となっていくうちに誤字脱字や省略、加筆などもあったと想像できる。我々が今目にすることができるのは江戸時代初期の写本なので、オリジナルとはかなり違っているのかもしれない。 ただ、いずれにしてもこの『熱田太神宮縁記』が与えた影響は小さくなくて、ほとんど公式の由緒のようになっている部分もある。 しかし、それは危うくて、我々はもう少し引いた目線でこの話を受け止めないといけない。 記紀の宮簀媛の話からして本当ではないのに、そこから作られた話をあたかも真実のように語るのは間違っている。 少なくとも、記紀に書かれていることと、『熱田太神宮縁記』が書いていることは切り離さないといけない。
宮簀媛の立ち位置と役割
宮簀媛の立ち位置についてあらためて考えてみたい。 『古事記』は尾張国造の祖といい、『日本書紀』は尾張氏の女とだけ書いている。 上にも書いたように、どちらも尾張における日本武尊の現地妻的な扱いになっていて、日本武尊の系譜には入れてもらっていない。 『熱田太神宮縁記』でも子供がいたという話はなく、日本武尊が去った後は草薙剣とともに独り身を守ったことになっている。 なので、普通に考えると直接の後裔はいなかったということだ。 にもかかわらず、『古事記』はどうして”尾張国造の祖”という扱いをしたのだろう? 『先代旧事本紀』は「国造本紀」の中で成務朝に天火明命十三世孫の小止与命を国造に定めたと書いている。 成務天皇は景行天皇皇子で、日本武尊の異母弟(母は八坂入媛)なので世代的に無理があるのだけど、乎止与が初代尾張国国造という方がしっくりくる気がする。もしくは建稲種でもよかったのではないか。 宮簀媛を登場させなかった『先代旧事本紀』と、建稲種を出さなかった記紀と、それぞれの意図はよく分からないのだけど、なんとなくこのあたりに誤魔化しの思惑が見え隠れする。
あと、個人的に気になったのは、『古事記』も『日本書紀』も日本武尊が尾張国の”宮簀媛の屋敷”に入ったとかとどまったといういい方をしていることだ。 『古事記』に東征から倭建命が戻ったときに美夜受比賣の衣の裾に月経の血がついていたので歌を交わしたというのがあったけど、あれは初潮を迎えたことの象徴とも考えられる。 だとすれば、美夜受比賣の設定年齢は10代前半ということになり、そんな年齢で親元を離れて一人暮らしをするだろうかという疑問を抱く。 『熱田太神宮縁記』は稲種公は天皇の命で日本武尊に従い、故郷の氷上邑に案内したという書き方をしているので、稲種公は尾張に住んでいないという設定になっている。 乎止与の屋敷という書き方をしていないので、乎止与も不在らしい。 しかし、少なくとも乎止与の妻で宮簀媛の母とされる真敷刀俾はいたはずで、だとすれば、宮簀媛は母親の真敷刀俾と同居していただろうから、真敷刀俾の屋敷といういい方になるんじゃないだろうか。しかし、そうはなっていない。 このあたりの家族構成が不明で、状況設定も不完全なので最後まで違和感が残った。
宮簀媛はいたのか?
草薙剣が熱田社で祀られることになったとするためには宮簀媛の存在が不可欠だ。実際は草薙剣は尾張から移動していなかったのかもしれないけど、移動したことにした以上、宮簀媛抜きに草薙剣が尾張にとどまった理由の説明がつかない。 だから、宮簀媛というのは日本武尊東征話とともに作られた架空の人物なのではないかとも考えられるのだけど、尾張において宮簀媛の実在感といったものは強く、ただ単に物語上だけの存在とも思えない。 やはり、宮簀媛に相当する人物はいただろうというのが個人的な感触だ。 ただ、それが特定の一人を指すかというとそうでもない気がする。 そもそもミヤスヒメという名前は個人名ではない。 ミヤスの女という意味で、ミヤスは宮を意味しているかもしれないし、ミヤスという土地、または一族のことかもしれない。 そうだとすれば、ミヤズヒメと呼ばれた女性は複数人いたことが考えられる。 真敷刀俾もミヤスヒメの一人だったのではないか。 もしかすると建稲種の妻とされた玉姫もそうだったかもしれない。 もちろん、建稲種の妹がそう呼ばれていた可能性は充分ある。
宮簀媛は乎止姫
手元にある尾張氏家の系図を見ると、建稲種の別名を大名方王とし、妹に小止姫(オトヒメ)を載せている。 小止姫の別名として大中津姫と宮津姫の名を挙げる。 更に驚くのは、この小止姫を仲哀王子(仲哀天皇)の妃としていることだ。 仲哀天皇の皇后は神功皇后がよく知られているけど、前妻は大中津姫で、それは『古事記』、『日本書紀』にも出てくる。 仲哀天皇は日本武尊の皇子とされるのだけど、日本武尊像の一人でもあるので、その日本武尊こと仲哀王子と建稲種の妹の小止姫=大中津姫=宮津姫との婚姻関係があったというのはあり得ることに思える。 尾張氏家系図には小止姫と仲哀王子との間に香坂王が書かれており、これも記紀の大中津姫の系譜に合致する(記紀は忍熊王を弟に挙げる)。 小止姫は音姫であり、音は日立なので、日立姫ともなり、日立=尾張なので、尾張の姫ということになり、大中津姫は”中の姫”という意味で、これも矛盾しない。 仲哀王子の後妻である神功皇后の子が応神天皇こと誉田王で、この誉田王によって香坂王は討たれたと記紀がいっているのは、「さるかに合戦」として知られる話だというのは建稲種の項に書いた。 真敷刀俾のところでも本当の系譜について書いたけど、このへんの人物関係はなかなか複雑で説明するのも理解するのも難しい。
死後に氷上姉子天神となる
氷上邑で草薙剣を守っていた宮酢媛は死後に氷上姉子天神として祀られたという『熱田太神宮縁記』は間違っていないかもしれない。 それが現在の氷上姉子神社とされる。 ここで引っかかるのは”姉子”の部分だ。 現在は”あねご”と読ませていて、いわゆる”姉御”のような捉え方をしているわけだけど、文字通りであれば”姉の子”だし、古代における”姉”が現代の姉妹の姉と同じかどうかは分からないというのもある。 宮簀媛に姉妹は知られていないし、『熱田太神宮縁記』は建稲種の妹としているので姉妹の姉という意味ではなさそうだ。 ”あねこ”の当て字かもしれないけど、だとしたら”あねこ”は何を意味するのか。 氷上邑は火上の里とも表記され、『延喜式』神名帳(927年)には「尾張国愛智郡 火上姉子神社」とあり、『尾張国内神名帳』では「氷上姉子天神」となっているのだけど、いずれにしても古くから”姉子神社”だったことが分かる。 想像を巡らせるならば、氷上里で宮簀媛は長く生きて崇敬されて姉子と呼ばれて、そのまま姉子天神として祀られたのかもしれない。 しかし、熱田にある高座結御子神社も”御子”と”子”が付くことからすると、姉に当たる人物の子という認識だったとも考えられる。
これは聞いた話なのだけど、建稲種は仲哀王子たちとの争いに敗れて矢作川で殺され、幡豆の海に流れ着いた遺体を引き揚げて氷上の里に持ち帰って埋めて祀り、後に熱田社に移したのだという。 つまり、氷上姉子神社はもともと建稲種を埋めて祀ったのが起源であり、氷上姉子神社が熱田社の元社といわれるのはそういう経緯からだというのだ。 いきなりそんな話をされても信じられないだろうけど、いろいろ聞いた話を考え合わせるとあり得ることだと思える。 熱田神宮の相殿神に宮簀媛命と建稲種命が入っていることからしてもそうだ。そんなことでもなければ、宮簀媛命はともかく、建稲種命が熱田神宮で祀られていることの説明がつかない。 大胆な推理が許されるならば、宮簀媛と日本武尊の話の大部分は宮簀媛と建稲種の話で、草薙剣はもともと建稲種が先祖から引き継いでいた家宝だったのかもしれない。 草薙剣の話をすると長くなるので控えるけど、建稲種と草薙剣はセットだったとしたらどうだろう。 草薙剣自体が運命に翻弄されるようにいろいろな人の手に渡り、それを手にした人間はあたかも草薙剣によって翻弄されたかのような結末を迎えている。八岐大蛇、素戔嗚尊、天照大神、倭姫、日本武尊。ほとんど誰も幸せになっていないような気さえする。 ある種の魔剣のような扱いを受けて誰かが社(宮)で祀って封じる必要に迫られたのではないか。 それが宮簀媛だったとすれば、宮簀媛は大きな霊力を持っていたのだろう。 逆に、大きな霊力を持った女性を宮簀媛と呼んだのかもしれない。 宮簀媛は宮主姫だったとも考えられる。 姉子の由来はよく分からないけど、何らかの神を祀っていた人が死後に祀られる側になるのはよくあることで、 宮簀媛に当たる女性もそうだったのだろうといういい方はできると思う。
一人歩きする宮簀媛の虚像
宮簀媛という存在はいつの頃からか尾張の人たちの心に棲みつき、実在した人物のように語られたのではないかと思う。 『尾張国風土記』(風土記編纂の詔は716年)逸文には熱田社について書かれている部分があり、その内容は『熱田太神宮縁記』と似ている。 それによると、東征を終えた日本武命が尾張の遠祖の宮酢媛命を娶り、剣を厠近くの桑の木に掛けて忘れたところ、剣が光って取れなくなってしまったので、宮酢媛命がそこに社を建てて斎き奉ったといい、これを熱田社の由来としている。 『熱田太神宮縁記』とは微妙に違っているものの、日本武尊が剣を宮簀媛に預け、宮簀媛がそれを祀ったという物語の基本形は共通している。 それからすると、奈良時代以前にはこの話はよく知られるものとなっていた可能性が高い。 平安時代以降、様々な話が付け加えられて語られたであろうことは想像できる。 江戸時代末にまとめられた尾張の地誌の中でもそれは見られる。 『尾張名所図会』(1844年)は布曝女町(今の松姤社があるあたり)で日本武尊は川辺で布を晒している宮簀媛に出会い、氷上の里への道を尋ねたら宮簀媛は耳が聞こえないふりをして答えなかったといった話を書き、『尾張志』(1844年)は日本武尊の東征中、宮簀媛は門を閉じて誰とも会わず、誰の声も聞かずに日本武尊の無事の帰還を祈願したといったような話を紹介している。
草薙剣の守り手として
尾張以外で宮簀媛を祀っている神社がどれくらいあるのかは把握していないのだけど、その数はごく少ないはずだ。 福岡県鞍手郡の八剣神社で日本武尊とともに祀られているくらいだろうか。 名古屋でいうと、熱田区の熱田神宮の相殿の他、緑区の成海神社、中村区の七所社(岩塚)、南区の七所神社(笠寺町)、瑞穂区の東ノ宮神社、中村区の八劔社(高須賀)、天白区の八劔社(野並)、西区の十所社(城町)、港区の熱田社(宝神町会所裏)で宮簀媛は祀られている。 守山区の東谷山山頂にある尾張戸神社は宮簀媛が創祀したという言い伝えがある。
気になる話として、奈良県天理市の石上神宮(web)内にある出雲建雄神社の縁起がある。 第40代天武天皇時代に、布留邑智(ふるのおち)という神主が夢の中で「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降って皇孫を保じ諸民を守ろう」 と託宣を受けてそれに従い祀ったのが始まりといい、この女というのが宮簀媛のこととされている。 この出雲建雄神社は新羅の道行によって熱田から持ち出された草薙剣を天武天皇がここに置いて祀ったという話があり、天武天皇の病気の原因が草薙剣の祟りとされたこととも関係がありそうだ。 出てきた神が宮簀媛なのではなく、自分は尾張の女が祀る神といっているので草薙剣の神霊ともいえるし、ある意味では日本武尊であり、建稲種という見方もできる。 草薙剣が持ち出されたとされる686年(朱鳥元年)は天智天皇の在位中ではあるのだけど、首謀者は後に天武天皇となる大海人皇子だったかもしれない。 大海人皇子は名前からも分かるように海人=天人=尾張と関わりの深い人物で、草薙剣を欲したのも理解できる。 しかし、その草薙剣が祟ったということは正当な持ち主ではなかったことも意味している。 祟りというのは祟る方と祟られる方と両方が同じ認識を持たないと成り立たない。 現在、出雲建雄神社は草薙剣の荒魂を祀るとしている。
氷上の里を訪ねて
現在、大高にある氷上姉子神社を訪ねると、ちょっとがっかりするかもしれない。すぐ横に名古屋高速の高架があって、車の騒音が激しすぎてまったく落ち着かない。 『尾張名所図会』がいうところの「社地広大にして、千載の古木枝をたれ、深碧を畳みて、日影を漏さず。青蘇厚く地を封じ、ものさびたるさま、さながら神徳のほども推しはかられて、いと尊くぞ覚ゆる」という頃の面影や情緒はまったく失われてしまった。 氷上姉子神社を訊ねた際は西の火上山に残る元宮を訪ねてほしい。歩いて5分くらいだ。 その空間を満たしている空気感をどう表現すればいいだろう。清浄というだけではない、もっと強いエネルギーが満ちている。 ここに宮簀媛の屋敷があったという言い伝えががあるのだけど、その場に立ってみればそんな話も信じたい気持ちになる。 西の斎山と東の姥神山をあわせて歩けば宮簀媛の存在を肌で感じることができるのではないかと思う。
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