竹の一族の宿禰
第12代景行天皇から成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、第16代仁徳天皇まで仕えたと記紀その他が伝える伝説の大臣で、昭和18年と昭和33年に発行された一円札の肖像にも描かれた、日本の歴以上なじみ深い人物の一人だ。 しかし、その実体はぼんやりとしていてよく分からない。 武内宿禰は必ずしも個人名ではないだろうし、おそらく一人でもない。読み方も、”たけうち-の-すくね”なのか、”たけ-の-うち-の-すくね”なのか、”たけしうち-の-すくね”なのかも、はっきりしない。 この”タケ”は竹の一族を示しているということは建稲種命(タケイナダネ)の項で書いた。武内宿禰も例外ではなく、竹の一族の宿禰(スクネ)という意味になる。 宿禰は天武天皇時代の684年に制定された八色姓(やくさのかばね)の第三位(一位は真人、二位は朝臣)で、 主に連(むらじ)姓の神別氏族に与えられたのだけど、それより古い時代は別の意味を持っていた。 土師氏(はじうじ)の祖とされる野見宿禰(ノミノスクネ)なども一例で、一種の尊称、もしくは役職名のようなものと考えられる。 武内宿禰の子もすべて何々宿禰なので(『古事記』)、タケが竹一族のことであれば、内(ウチ)が名前の部分ということになり、読み方としては”タケ-ノ-ウチ-スクネ”かもしれない。 もしくは、竹の一族の宿禰という総称で、武内宿禰という名前自体に実体はないともいえる。 であるならば、何人かいたであろう武内宿禰の中で、他の名で知られている人物もいるはずだ。 竹の一族であるならもともとは尾張の人間のはずで、それが天皇側についたということは、尾張側からみると裏切りと映ったかもしれない。しかも、天皇家に深く入り込み、天皇家を乗っ取るようなこともしている。 応神天皇(ホムタワケ)は武内宿禰の子という話もまんざらでたらめではないように思う。
出自についての異説
『古事記』で最初に建內宿禰の名が出てくるのは大倭根子日子國玖琉命(オオヤマトネコヒコクニクル/第8代孝元天皇)の子孫について書かれたところで、若倭根子日子大毘々命(ワカヤマトネコヒコオホビビ/第9代開化天皇)が天下を治めた時代、大倭根子日子國玖琉命の子の比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコト)が尾張連(おわりのむらじ)等の祖の意富那毘(オホナビ)の妹の葛城高千那毘売(カツラギノタカチナヒメ)を娶って 味師内宿禰(ウマシウチノスクネ)が生まれ(山代の内臣の祖)、木国造(きのくにのみやつこ)の祖の宇豆比古(ウヅヒコ)の妹の山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って生まれた子が建内宿禰と書いている。 なので、孝元天皇から見ると建内宿禰は孫になるということだ。 建内宿禰の子は男子7人、女子2人の9人ともいっている。
『日本書紀』は孝元天皇の子の系譜に比古布都押之信命に当たる子は登場しないため、ここで武内宿禰の名は出てこない。 出てくるのは第12代景行天皇のところで、大碓皇子(ヲオウス)と小碓尊(ヲウス)の双子が生まれたという話に続いて、景行天皇が紀伊国を行幸したときに神を祀るため占ったところよくない結果が出たので行幸をとりやめ、屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロ)を遣わして祀らせ、屋主忍男武雄心命は阿備柏原(あびのかしはら)に9年住んで紀直(きいのあたい)の遠祖の菟道彦(ウジヒコ)の娘の影媛(カゲヒメ)を娶って武内宿禰が生まれたと書く。 紀伊国/紀国の宇豆比古/菟道彦の妹の山下影日売/影媛が建内宿禰/武内宿禰の母というのは共通するものの、父親が違っている。 『古事記』は孝元天皇の子の比古布都押之信命とするのに対して、『日本書紀』は屋主忍男武雄心命とする。 屋主忍男武雄心命の父についての記述はないものの、孝元天皇の子の彦太忍信命(ヒコフツオシノマコト)を武内宿禰の祖父としているので、屋主忍男武雄心命は彦太忍信命の子になるのかもしれない。
『古事記』が語る建内宿禰
事績について、まずは『古事記』から読んでいくことにしよう。 建内宿禰が具体的な形で登場するのは第13代成務天皇のところで、成務天皇は建内宿禰を大臣として、国造(くににみやつこ)と県主(あがたぬし)、国境を定めたという記述だ。 ただ、『古事記』の成務天皇に関する記事はごく短く、成務天皇の実在を疑う説もある。
次に登場するのが次の第14代仲哀天皇のところで、建内宿禰が最も重要な役割を果たしたときでもある。 仲哀天皇が熊曽国(くまそのくに)を討つべく筑紫(つくし)の訶志比宮(かしいのみや)にいたとき、神の言葉を聞くため、仲哀天皇が琴を弾き、息長帯日売命(オキナガタラシヒメ/神功皇后)が神懸かりし、建内宿禰大臣が沙庭(さには)となったとある。 沙庭は審神者とも書き、神託を受けて解釈して伝える役割のことをいう。 非常に重要な役目で、審神者の解釈次第で神託はまったく違ったものになり得る。 ここでいうと、仲哀天皇が琴を弾いて神を呼び出し、息長帯日売命が神懸かって口走った言葉を建内宿禰が解釈したという構図だ。 神は西に豊かな国があるからお前に与えようと言うも、仲哀天皇はその言葉を信じなかったため神を怒らせてしまい、気づくと仲哀天皇はその場で急死していた。 驚きつつも建内宿禰は仲哀天皇の亡骸を殯宮(もがりのみや)に移して罪、穢れを祓う準備をして神命を待った。 建内宿禰は息長帯日売命のお腹にいる子は男か女かと訊ねると神は男だと答え、あなたの名を教えて欲しいと請うと、神は天照大神(アマテラス)の意思であり、底筒男(ソコツツノヲ)、中筒男(ナカツツノヲ)、上筒男(ウハツツノヲ)の三柱の大神(住吉三神)だといったとある。
神の言葉を受けた息長帯日売命は海を渡って西へと向かい、新羅国(しらきのくに)を降伏させ、新羅の国主の家の門に杖を立てて墨江大神(スミエノオオカミ)の荒御魂(あらみたま)を祀り、百済国(くだらのくに)を渡(わたり)の屯家(みやけ/直轄地)として戻ったといっている。 帰国後に息長帯日売命は皇子(応神天皇)を産み、国内の反乱を鎮めた。 そして次に奇妙な逸話が語られる。 建内宿禰は皇子の禊(みそ)ぎをするために淡海(あふみ/近江)や若狭国を巡って高志(こし/越国)の前の角鹿(つぬが/敦賀)に仮宮を造って滞在したという。 そしてその夜、伊奢沙和気大神命(イザサワケノオオカミ)が夢に出てきて、吾が名をその子のものと換(易)えたいといい、建内宿禰は恐れ多いと恐縮しつつ承諾すると、明日の朝、浜へ行けばそのしるしがある(幣献)というので行ってみると、鼻が傷ついた(鼻毀)入鹿魚(いるか)がたくさんいて、これは神が我に与えた御食(みけ)に違いないということになったという話だ。 その神に御食津大神(ミケツオオカミ)と名づけ、今の気比大神(ケヒノオオカミ)のことだとも書いている。
何が奇妙かといえば、まず皇子(太子)の禊ぎのために建内宿禰が連れ回しているという点が第一に挙げられる。 この時代の子供、特に天皇の世継ぎとなるような子は母親の実家が養育するのが慣わしで、そうなると息長帯日売命(神功皇后)の父である息長宿禰王の家で育てるのが普通だ。 父とされる仲哀天皇はすでに亡くなっているので何もできないとしても、建内宿禰がそれをしたということはある種の資格があったということで、そうなるとやはり皇子(応神天皇)の父親は建内宿禰なんじゃないかと勘ぐりたくなる。 あるいは、神託を受ける際に沙庭を務めていることから、建内宿禰は神官として皇子に従ったということかもしれない。 では、何故それが越国だったのかというのも謎の一つだ。 角鹿の伊奢沙和気大神とは何者なのかが最大のポイントではあるのだけど、その正体はよく分からない。イザ(イサ)という名からしてイザナギ・イザナミ(伊弉諾尊・伊弉冉尊)に関係がありそうで、”ワケ”というならそこから分かれた(分家)の一族だろうか。 応神天皇のホムダワケ(誉田別)とは”ワケ”つながりでもある。 何故、イザワワケはホムタワケと名を交換したいと申し出たのか? イザサワケが交換前の名なのか交換後の名前なのかも分からない。 交換したというなら、イザサワケはホムタワケになっているはずで、交換後というならホムタワケは元々イザサワケだったということになる。 名は体を表すという言葉があるように、古代において名は人格そのものだった。名を交換するということは、人そのものが交換された可能性がある。 禊ぎをすることイコール生まれ変わるということであれば、ここで皇子は入れ替わっているのではないか。
大和に戻った皇子を出迎えた息長帯日売命は醸した御酒(みき)で歓迎し、歌を歌う。 この御酒は我が醸したものではない、酒を司る常世の少名御神(スクナミ)が醸したものだといった内容の歌だ。 少名御神というのはおそらく少彦名神のことだろうけど、ここで唐突に少名御神(少彦名)の名が出てくることにも違和感を抱く。 当然ながらこれは単なる宴会などではなく儀式だ。わざわざ常世にいる少名御神の名を持ちだしてきていることは何かを象徴している。 その歌に対して返しの歌を歌ったのは皇子ではなく建内宿禰だったのも不思議であり不自然に感じる。 建内宿禰、しゃしゃり出すぎだろうと思う。 歌の内容も、この御酒を醸した人は楽しく歌い踊って醸したのだろうか、さあ、楽しく飲もうといったような内容のないものだ。
いろいろと釈然としないまま仲哀天皇記はここで終わり、応神天皇記へと移っていく。 『古事記』は息長帯日売命(神功皇后記)として独立させておらず、息長帯日売命の死に関する記述もない。 『古事記』の中の息長帯日売命がやったことといえば、仲哀天皇の死を受けて神託に従い新羅を征伐し、帰国後に国内の反乱を鎮めて応神天皇にバトンタッチしたという流れで、この点で『日本書紀』とは大きく違っている。『日本書紀』では死ぬまで摂政を続けている。
この後の建内宿禰はところどころで名前が出てくるくらいで大きな活躍はしていない。 主に大臣(おおおみ)としての役割を果たしたといった程度で、応神朝でいえば、応神天皇と女性の間を取り持ったり、渡来した新羅人を率いて百済池を作ったり、天皇の行幸に従って歌を歌ったりといったことが書かれている。 次の仁徳天皇記では、天皇が日女島(ひめしま)を訪れたときに島の雁が卵を産んだことを珍しく思い、世の長人(ながひと)の建内宿禰を呼んで、倭国(やまとのくに)で雁が卵を産むなんてことを聞いたことがあるかと訊ねると、建内宿禰は自分は世の長人ですが未だ聞いたことがないと答えたとある。 何故か、このやりとりが歌になっているのも意味深で、更に建内宿禰は琴を譲り受けて天皇を寿(ことほ)ぐ歌を歌っていることからも何らかの儀式めいたものを感じる。豊明(とよあかり)のための行幸だったり、日女島だったり、雁や卵、歌、琴といったものすべてが何かを暗示している。
『古事記』における建内宿禰の出番はこれで終わり、この後どうなったとか、死に関する記述はない。
『日本書紀』がいう武内宿禰について
『日本書紀』についても順番に見ていくことにしよう。 系譜については上にも書いたように、孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇)の子の彦太忍信命(ヒコフツオシノマコト)を武内宿禰の祖父としつつ、父を屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロ)、母を紀直(きいのあたい)の遠祖の菟道彦(ウジヒコ)の娘の影媛(カゲヒメ)としている。
第13代成務天皇(稚足彦天皇)の記事では、武内宿禰と成務天皇は同じ日に生まれ、即位3年に武内宿禰を大臣としたある。 第14代仲哀天皇(足仲彦天皇)のところでは、天皇が熊襲を討つかどうかで話し合いになり、皇后(氣長足姫尊)が神懸かりして熊襲は討つ価値がないから膂宍之空国(そししのむなくに)の宝の国である栲衾新羅国(たくぶすましらきのくに)を討てというも、天皇はそれを聞き入れずに熊襲を討とうとして勝つことができず、病気になって亡くなってしまう。 ある伝えでは、敵の矢に当たったともいうと書いている。 この神と天皇、皇后との一連のやりとりの中で武内宿禰は出てこないものの、神功皇后記の記事に出てくる(後述)。 天皇が崩御した後、仲哀天皇の死を隠した上で穴門へと移し、豊浦宮(とゆらのみや)で秘密の殯(もがり) をしたといっている(无火殯斂)。 このとき、皇后(氣長足姫尊)が集めたメンバーは大臣の武内宿禰、中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)、大三輪大友主君(オオミワノオオトモヌシノキミ)、物部膽咋連(モノノベノイクヒノムラジ)、大伴武以連(オオトモノタケモツノムラジ)という軍事、政治の大物たちで、仲哀天皇の死を隠したというあたりに何やら陰謀めいたものを感じる。ひょっとするとクーデターだったのかもしれない。
この後、『日本書紀』は氣長足姫尊(神功皇后)記を独立させて、非常に詳しく長々と書いている。 いつも書くように、『日本書紀』で口数が多すぎるときはたいてい嘘か脚色で、嘘つきの言い訳に似ている。 『日本書紀』の氣長足姫尊は摂政という立場のまま息子の誉田別(応神天皇)に帝位を譲ることなく、即位69年に100歳で崩御したと『日本書紀』はいっている。
『古事記』では仲哀天皇が琴を弾いて息長帯日売命が神懸かりして、その言葉を沙庭(さには)を務めた建内宿禰が解釈して伝えるという構図だったのが、『日本書紀』では違っていて、仲哀天皇が崩御した後、改めて神託を受けたという話になっている。なので、役割も違ってきている。 仲哀天皇が神の言葉を聞かずに亡くなったことに対する罪穢れを祓うために斎宮(いつきのみや)を小山田邑(おやまだむら)に作り、息長帯日売命自らが神主となって神託を受けることになる。 そのとき、武内宿禰が琴を弾き、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を審神者(さには)としたとある。 つまり、武内宿禰が天皇の代わりを務めたということだ。 ここではいろいろな神が出てきて、最後に表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男神(ソコツツノオ)の三神が登場し、最終的には海を渡って新羅国を討つことになるのだけど、そこに至るまでにあれこれエピソードが挟まれていて物語としては上手く整理されていない。無理矢理話を膨らませて長引かせたような取って付けたような印象も受ける。 そのあたりについては神功皇后の項に書いた。
帰国後に起きた仲哀天皇王子で誉田別皇子の母違いの兄弟でもある麛坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)の反乱の場面では、武内宿禰が息長帯日売命側の軍の指揮を執っている。 忍熊王との決戦では武内宿禰は敵軍をだまし討ちにして忍熊王を自死に追い込み、勝利の歌を歌っている。
話が前後するけど、氣長足姫尊と皇子(誉田天皇)、大臣の武内宿禰について確認しておくと、誉田天皇が生まれたのは氣長足姫尊が新羅から戻った仲哀天皇即位9年の12月のことだ。 仲哀天皇が神託を無視して熊襲を討とうとして失敗したのが仲哀天皇即位8年の9月。仲哀天皇が崩御したのが仲哀天皇即位9年の2月とある。 しかしこれはおかしな話で、仲哀天皇が神託を受けたときには氣長足姫尊のおなかにはすでに子供がいたという設定なので、皇子が産まれるまで1年3ヶ月以上も妊娠していたことになってしまう。産まれるのを遅らせるために石を腰に挟んだ(取石插腰)といっているけど、どう考えても無理がある。 神託のときに出てきた住吉三神を祀る住吉大社(web)に伝わる縁起書『住吉大社神代記』に、仲哀天皇が崩御した夜に、神功皇后(氣長足姫尊)と住吉大神と密事(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ)という記述がある。 ここでは武内宿禰の名は出てこないものの、武内宿禰が住吉大神の代わりを務めたとすると、即位9年の2月に妊娠して12月に出産したことに違和感はなくなる(実質的な妊娠期間は9ヶ月前後)。
話を戻すと、武内宿禰が忍熊王を討伐したのは仲哀天皇即位10年に3月で、同じ年の10月に氣長足姫尊が摂政となり、この年を神功皇后(摂政)即位1年としている。 同時に神功皇后は皇后から皇太后になっている。 摂政3年に誉田皇子を皇太子とし、磐余(いわれ)の若桜宮(わかさくらのみや)に都を移したという。
少し時間が空いて摂政13年2月に、武内宿禰に命じて皇太子を連れて角鹿(つぬが)の笥飯大神(ケヒノオオミカミ)に参拝させたという記事がある。 『古事記』では帰国後に国内の反乱を鎮めてすぐに角鹿に仮宮を造って夢に出てきた伊奢沙和気大神命と名を換えたという内容になっているので、時期がだいぶ違っている。 『日本書紀』では摂政13年なので皇太子は14歳くらいになっている。 名を換えた云々ということは書かれていない。 角鹿から帰った皇太子を迎えた皇太后が宴でもてなし、御酒の歌を歌い、皇太子に代わって武内宿禰が歌を返すというのは『古事記』と共通している。
時は流れて摂政47年、百済からの使者が持ってきた貢ぎ物が少ないので事情を聞くと新羅が邪魔をしたせいだと判明し、武内宿禰に対応策を講じるよう命じたという記事がある。 摂政51年の記事にも武内宿禰の名前が出てくる。
誉田皇子が天皇に即位し(応神天皇)、即位7年、天皇は武内宿禰に命じて渡来した高麗や百済、新羅を率いて池を造らせたとある。 即位9年には武内宿禰が最大のピンチに陥る。 筑紫で百姓の視察をしているとき、弟の甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)が兄を陥れようと企み、あやうく殺されそうになる。 そのとき、武内宿禰に似た壱岐直(イキノアタイ)の祖の真根子(マネコ)という人物が身代わりになって死んで救い、後に探湯(くかたち)によって身の潔白が証明されて助かったというものだ。 怒った武内宿禰は甘美内宿禰を殺そうとしたところ天皇が救い、甘美内宿禰は紀直の祖の奴隷になったという後日談も付け加えられている。 このエピソードの意味がよく分からないのだけど、そもそもこのとき武内宿禰は何歳なんだという話だ。
更に次の仁徳天皇記にも武内宿禰は出てくる。 仁徳天皇が産まれたとき、同じ日に武内宿禰の子も生まれ、二人は名を交換したというのだ。 皇子が産まれた産殿には木菟(つく)が、武内宿禰の子の産殿には鷦鷯(さざき)が飛び込んだので、皇子の名を大鷦鷯とし、武内宿禰の子を木菟宿禰と名づけたといっている。 名の交換といえば、誉田皇子と伊奢沙和気大神命の話が思い浮かぶ。あれは『古事記』だけの話だった。
仁徳即位50年の記事に、茨田堤(まむたのつつみ)で雁が子を産んだという報告があり、不思議に思って天皇は歌で武内宿禰に問うたというのがある。 あれ? これってどこかで聞いた話だなと思ったら、『古事記』では応神天皇のところで出てきた記事だ。 汝は世の長人だけど聞いたことがあるかと天皇が歌い、我は聞いたことがないと歌で答えたというあれだ。 『古事記』の日女島と『日本書紀』の茨田堤が同じか違うかは分からない。
これが最後の記事となり、死に関する記述がないのは『日本書紀』も同じだ。
記紀以外は重視してない?
記紀以外を見ておくと、『古語拾遺』には登場しない。 『先代旧事本紀』では「天皇本紀」の孝元天皇のところでも、景行天皇ところでも出てこなず、出てくるのは成務天皇のところで、即位3年に武内宿祢を大臣としたという記事がある。 仲哀天皇のところでは、武内大臣が天皇のそばに控えて、皇后のために琴を弾くことを乞い、その後、琴の音が途切れたので火を付けると仲哀天皇はすでに亡くなっており、穴門の豊浦宮で仮の殯をしたといったことが簡潔に書かれている。 『先代旧事本紀』はあまり武内宿祢に関心を払っていないような印象を受ける。
713年に詔(みことのり)が出されたとされる「風土記」における武内宿禰の存在感は薄い。 ただ、『因幡国風土記』逸文に、難波の高津の宮(仁徳天皇時代)55年に大臣武内宿禰は360歳余りで当国(因幡国)に下向し、亀金(かめがね)に双履を残して行方知れずになったという記事があり、なかなか興味深い。 因幡国(いなばのくに)というと大国主神(オオクニヌシ)の稲羽の素兎で知られるあの因幡で、現在の鳥取県東部に当たる。 鳥取県岩美郡にある因幡国一宮の宇倍神社(web)では武内宿禰命を祭神としており、このあたりの伝承とも関わりがありそうだ。 靴を残して行方不明というと、天智天皇が山科(やましな)に馬で出かけたきり帰ってこなかったので仕方なく靴(沓)が落ちていた場所に陵を造ったという『扶桑略記』の記事が思い出される。 靴を残して消えてしまうというのは何かの暗示で、自殺したか殺されたかしたということがいいたかっただろうか。 風土記は大部分が失われているので他の国の風土記には武内宿禰のことが書かれていたのかもしれないけど、それにしても長く天皇の忠臣で超長寿とされる人物が地方で大きな話題にならなかったことはちょっと不自然に思える。
武内宿禰のゆかりの地
武内宿禰の生誕地、本拠地についてははっきりしないものの、なんとなく紀伊国(和歌山県)にゆかりがあるような伝えられ方をしている。 『日本書紀』は景行天皇時代に屋主忍男武雄心命が紀伊国の阿備柏原に遣わされて、現地の紀直の遠祖の菟道彦の娘である影媛を娶って武内宿禰が産まれたとしているし、『古事記』も母の山下影日売を木国造の祖の宇豆比古の妹といっていることからも、生誕地は紀伊国という説が有力となっている。 しかし、いつも書くように記紀はあくまでも設定であって、それをそのまま受け入れていいわけではない。 安原八幡神社(web)の奥宮に武内宿禰の産湯とされる井戸があり武内神社(和歌山県和歌山市)というのがあるものの、紀伊国(和歌山県)に武内宿禰の痕跡が色濃いわけではない。
福岡県久留米市にある筑後国一宮の高良大社(web)が祀っている高良玉垂命(コウラタマタレ)は武内宿禰のことという説がある。 事はそう単純ではないのだけど、無関係というわけでもなさそうだ。 神功皇后や住吉三神とも関わりがあるし、そこに高皇産霊尊(高木神)も絡んでくるのでややこしいことになっているので、ここでは深追いはしないでおく。
その他、高麗神社(埼玉県日高市/web)、鵜甘神社(福井県今立郡)、氣比神宮(福井県敦賀市/web)、住吉神社(山口県下関市/web)、徳威神社(愛媛県西条市)などで祭神の一柱として祀られている。
名古屋では八幡社(枇杷島)(西区)、八幡社(長須賀)(中川区)、和爾良神社(名東区)、若宮八幡社(栄)で祀られる。 このうち、八幡社については応神天皇や神功皇后のおまけみたいな扱いだけど、名東区の和爾良神社は武内宿禰の子孫が祀ったという伝承があってちょっと興味深い。 同じ名東区の貴船社(一社)はこの地を訪れた武内宿禰が白い羽の矢を与えて雨乞いしたのが始まりという話があり、唐突すぎるゆえにある種の信憑性がある。
後裔について
後裔について『日本書紀』は仁徳天皇と同じ日に生まれた子を木菟宿禰としているくらいで他には言及していない。 『古事記』は波多八代宿禰(ハタノヤシロノスクネ)、許勢小柄宿禰(コセノヲカラノスクネ)、蘇賀石河宿禰(ソガノイシカハノスクネ)、平群都久宿禰(ヘグリノツクノスクネ)、木角宿禰(キノツノノスクネ)、久米能摩伊刀比売(クメノマイトヒメ)、怒能伊呂比売(ノノイロヒメ)、葛城長江曽都毘古(カヅラキノナガエノソツビコ)、若子宿禰(ワクゴノスクネ)の名を挙げ、それぞれの後裔を並べている。
『新撰姓氏録』にも後裔の氏族がたくさん載っており、平安時代の京、畿内には武内宿禰の子孫を自認する氏族がたくさんいたことが分かる。 それは葛城氏、蘇我氏、平群氏といった中央豪族たちで、これを見る限り武内宿禰がまったく架空の人物とは思えない。 葛城氏、蘇我氏といえばこの時代には力を失っていたにしても、一時代を築いた有力豪族だ。彼らが祖とするくらいだから知名度や格があったに違いない。 ただ、武内宿祢と建内宿祢の表記が混在していて、それぞれ別の源流という可能性も頭に入れておいた方がよさそうだ。 あと、もうひとつ注目すべきは、孝元天皇の後裔という扱いになっている点だ。 孝元天皇皇子の彦太忍信命の孫としているので、『古事記』の系譜に準じているようだ。 武内宿祢(建内宿祢)の祖ということが孝元天皇に連なるということで重要視されたのかもしれない。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」には、江沼国造(えぬまのくにのみやつこ)を武内宿祢の四世孫の志波勝足尼(しはかつのすくね)とし、伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)を建内足尼の孫の大河音足尼(おおかわとのすくね)としている。 江沼国は今の石川県加賀市と小松市の一部で、伊弥頭国は富山県射水市、氷見市、高岡市、富山市の一部に当たる。北陸にも武内宿祢(建内足尼)の後裔一族の一部が移り住んでいたということなのだろう。
いたかいなかったか?
正体というか実体は不明。個人的にはよく分からない人物、または象徴的存在というのが正直な感想だ。 『古事記』や『日本書紀』はさも重要な人物のように取り扱っているけど、それは本当だろうか。 上にも書いたように、記紀が必要以上に口数が多いときは怪しくて、武内宿禰もその例のような気がする。少し大げさに語りすぎている。 私は『先代旧事本紀』の内容よりも『先代旧事本紀』の態度をけっこう信用していて、武内宿禰に関しても『先代旧事本紀』の素っ気ない態度は案外実情を表しているのではないかと思う。 各国の風土記(逸文にも)に出てないのもそうで、少なくとも地方において武内宿禰はまったく無名の存在だったのではないか。 尾張においても、武内宿禰が古くから信仰の対象になっていた形跡はほとんどなく、重視された感もない。 重要な存在ではなかったからか、あるいは意図的に無視したのか、別の理由があったのか。 何代にもわたって天皇に仕えた忠臣というのに、天皇家が祀った様子もなく、天皇家系の神社でもほとんど祀られていない。
上で応神天皇は武内宿禰の子ではないかということを書いたけど、尾張氏の家にもそのような話が伝わっていると聞いている。 第15代応神天皇から第16代仁徳天皇へと続く系譜は第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)で途絶え(仁徳天皇と同じ”鷦鷯”の名を持つ)、応神天皇5世孫とされる第26代継体天皇(男大迹)に引き継がれた。 即位前の妃が尾張氏の目子媛(めのこひめ)だったことからも分かるように、ここで母方が尾張系の天皇に戻されている。今上天皇まで続く系譜は実質的にここから始まっている。 天皇の王朝交替説といったものは個人的にはまったく信じていないのだけど、血統の交替というのは何度も起きているはずだ。 元を辿れば二系統、もしくは三系統で、そこは外れていないはずではあるのだけど。
武内宿禰は本当の歴史を隠して表向きの歴史を語るために創作されたほとんど架空の人物像かもしれない。 実際にそうだったとしても驚かない。やっぱりそうだよねと思うだけだ。 いやいや、ワシはおるぞと、あの世で叫んでいるだろうか。
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