天暦2年(948年)に、この地域の郡司(こおりつかさ)だった藤原某が大和国の春日神社(春日大社/web)から勧請して建てたと伝わる。 または天慶(938年)以前ともいう。 神社は地下鉄上前津駅のすぐ隣にある。上前津は古くは前津と呼ばれており、それは古代すぐ南が海だった頃に津(湊)があったことから名づけられたと考えられている。熱田台地の東側は海が深く入り込んでおり、鶴舞公園の西あたりは浜辺だった。 前津は上前津、下前津に分かれ、中世に小林村と一体化して前津小林村と呼ばれた。 前津の南は古渡で、正木町遺跡や伊勢山中学校遺跡などの弥生時代の遺跡がある他、尾張最古とされる尾張元興寺(願興寺/7世紀中頃)が建てられた地でもある。古渡を古東海道が通っていたと考えられ、古渡には新溝駅があったという説もある。 前津の北西、今は大須と呼ばれているエリアには大須二子山古墳や那古野山古墳といった大型の前方後円墳や日出神社古墳、浅間神社古墳など、古墳が密集していた。 下前津には縄文時代以降の複合遺跡である富士見町遺跡が知られている。 こういった痕跡からして、縄文時代からこのあたりに人が暮らしていたのは間違いない。飛鳥時代、奈良時代を経て平安時代中期の前津がどうなっていたか。
奈良に武甕槌(タケミカヅチ)を祀ったのは藤原不比等とされる。710年というから平城京に遷都された年だ。 藤原不比等は中臣鎌足の次男で、当時の最高権力者だった。平城京遷都を主導し、『日本書紀』(720年)編さんも不比等の意向が強く反映されているといわれる。 祭祀一族としての中臣の祖神は天児屋根(アメノコヤネ)とされる。 アマテラスの天岩戸隠れの際は、岩戸の前で祝詞を読み、アマテラスが岩戸を少し開いたとき布刀玉(フトダマ)とともに鏡を差し出した神だ。邇邇芸(ニニギ)の天孫降臨に従い、中臣の祖となった。 一方で一族の守護神は鹿嶋神とされたタケミカヅチだったらしい。 奈良から遠く離れた常陸国(茨城県)からわざわざタケミカヅチを呼んだ理由はよく分からない。そこに春日社の謎がある。一説では中臣の本拠が常陸国にあったからだともいう。 藤原不比等は御蓋山(三笠山)にタケミカヅチを祀って平城京の守り神とした。 春日神社の社殿を初めて建てたのは768年と社伝はいう。不比等の孫の藤原永手によるとされる(春日大社を名乗るのは昭和21年以降)。 永手はタケミカヅチの他に、鹿島神宮(web)とは対の関係の下総国(千葉県)の香取神宮(web)から経津主(フツヌシ)を、河内国(大阪府)の枚岡神社(web)から天児屋根命と比売神を勧請して四殿に祀った。
奈良の平城京に春日神社を建てるとき、鹿嶋からタケミカヅチは白い鹿に乗ってやってきたという伝説がある。 この白い鹿というのは何かの象徴なのだろうけど、それが何を表しているのかはよく分からない。 鹿は春日神の使いということで奈良では大事にされた。今でも奈良の町にたくさんの鹿がいるのはそのためだ。 前津の春日神社の起源として、このときタケミカヅチが前津の地に泊まったので、後年その場所に春日神社を建てたという話がある。 平城京の春日神社創建が768年で、前津の春日神社の創建が平安時代中期の948年ということもあって、にわかには信じられない話なのだけど、同じような伝承が三重県桑名市の桑名宗社(web)にも伝わっているとなると無視できない。 桑名宗社は桑名神社と中臣神社の二社をあわせた名称で、どちらも『延喜式』神名帳(927年)に載る古い神社だ。 このうちの中臣神社の方がタケミカヅチがとどまった場所に769年に建てられたとしている。平城京の春日神社創建の翌年だ。 ただ、古さでいうと桑名神社の方が先だっただろう。こちらは桑名首(くわなのおびと)の祖神として天津彦根(アマツヒコネ)と天久々斯比(アメノクグシビ)を祀っている。 中臣神社では天日別命(アメノヒワケ)を祀る。これは伊勢中臣氏の祖神とされ、神武天皇東征の際に伊勢津彦を討って伊勢国を平定したとされる神だ。伊勢の神宮(web)の外宮家、磯部氏(度会氏)は同族という。 桑名宗社として春日神四神を祀るようになるのは鎌倉時代後期の1296年以降のことだ。 前津に春日神社を建てたのが郡司の藤原氏だったというのであれば、そこに不自然さはない。 創建が938年以前であれば、関東で平将門が反乱を起こしていた時期と重なる(935-940年)。948年とすれば、平将門の乱の後ということになる。前津の春日神社創建と平将門の乱がつながるかどうかは分からないけど、時代背景を考えると無関係ではないかもしれない。 ついでに書くと、974年には尾張国の国人が国守だった藤原連貞を訴えて解任させるという出来事があり、988年には国司だった藤原元命が郡司や百姓に訴えられるという事件もあった。 春日神社を建てたのは郡司の藤原某というのだけど、実際は国司(または国守)の藤原の誰かだったのではないか。
戦国時代の永禄年間(1558-1569年)、小林城の城主だった牧与三右ヱ門長清が社殿を再建したと『愛知縣神社名鑑』は書いている。 前津小林村には古くからの神社として、春日神社と三輪神社があった。そのどちらも牧長清が関わってくる。それだけでなく、富士浅間神社(大須)や石神社八幡社合殿でも牧長清の名前が出てくる。『張州府志』(1752年)は春日神社は牧長清が勧請したといっている。 一体、牧長清というのはどういう人物だったのか。本当にこれらの神社すべてに関わったのだろうか。 牧長清と小林城については三輪神社(大須)のページに書いた。牧家は斯波氏と同族で、古くから尾張の地にいたとされているので、主要神社の創建に実際携わっているかもしれない。 江戸時代に入り、名古屋城(web)が築城され(1610年)、城下町が発展して南に広がると前津小林村の西側は城下町に組み込まれる格好になった。春日神社も三輪神社も城下の神社となった。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の前津小林村の項にはこうある。 「社弐ヶ所内 春日大明神 おんない明神 社内三反八畝弐拾壱歩 御国検除 熱田祢宜 大原織大夫持分」 おんない明神は三輪神社のことだ。 ここでは牧家のことは出てこず、熱田の祢宜が支配していたとある。 『尾張徇行記』(1822年)は三輪社は三輪町にあり、春日社は長道筋にあって、三輪社が小林の神社で、春日社が前津の神社としている。 『尾張志』(1844年)は、あめや町の東にあって、大和国の春日神社から移して天児屋ノ命を祀っており、勧請の歳月は知りがたしとしている。 あめや町(飴屋町)は今の上前津1丁目、2丁目、橘1丁目、富士見町一帯に当たる。 上前津の東を流れる新堀川はもともと精進川という自然河川で、飴屋町の東は明治になっても田んぼが広がっていた。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、新堀川より東はまだ田んぼが広がっていたことが分かる。 『尾張名所図会』(1844年)はこんなことを書いている。 「祭神第一殿武雷命、第二殿齋主命(いはひぬしのみこと)、第三殿天津児屋根命、第四殿姫大神。當社は牧氏の修造なり。其頃此西の方に大池を堀りて。猿澤の池に象りしとぞ。其池今に池の内といふ字のこれり」 齋主命は経津主命のことなのか違うのか。 戦国時代は神社の西に牧氏が掘った池があったようだ。
名古屋には春日神社が少ない。大須の他には北区清水の八王子神社春日神社と中村区新富町の春日神社くらいだ。中川区昭和橋通にも春日神社があるのだけど、ここはもともとアマテラスを祀る神明社だった。 清水の春日神社は鎌倉時代前期の1226年、新富町の春日神社は戦国時代の1572年創建と伝わる。 タケミカヅチは尾張国ともそれなりに関係がありそうなのだけど、鹿嶋社も一社もない。かつて祀っていた社が廃れたのか、もともとタケミカヅチを祀ることがなかったのか。 日本神話でタケミカヅチに負けて諏訪まで逃げていったタケミナカタを祀る諏訪社はそれなりにある(守山区中志段味、中村区諏訪町、西区上小田井、緑区鳴海町諏訪山、緑区相原郷)。 ここまでタケミカヅチを祀らない理由が何かあったのだろうか。 平城京の春日神社と深くつながっていた興福寺(web)の末寺も名古屋にはほとんどなかったのではないだろうか。しっかり調べたわけではないけど、興福寺末寺は知らない。山田荘が平安時代末に興福寺と敵対していた東大寺(web)の荘園だったことも影響があっただろうか。 尾張はある時期まで藤原一族と敵対していたとでもいうのか。熱田社の大宮司家が尾張氏一族から藤原家の藤原季範に取って代わられたのは平安時代後期の1114年のことだった。
前津の春日神社を実際に建てたのは誰でいつだったのかは分からない。鹿嶋からタケミカヅチが大和に向かう途中にここで泊まった云々というのは史実ではないにしても、何らかの出来事を反映したものという可能性は充分に考えられる。
作成日 2017.4.11(最終更新日 2019.9.15)
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