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御嶽神社(駒前町)

駒の前ということ

読み方おんたけ(?)-じんじゃ(こままえちょう)
所在地瀬戸市駒前町171 地図
創建年不明
旧社格・等級等
祭神国常立命(クニノトコタチ)
大己貴命(オオナムチ)
少彦名命(スクナヒコナ)
アクセス名鉄瀬戸線「三郷駅」から徒歩約50分
愛知環状鉄道「瀬戸口駅」から徒歩約50分
名鉄バス「本地」から徒歩約12分
駐車場あり(尾張ゑびす大黒社)
webサイト
例祭・その他
神紋
オススメ度
ブログ記事宝生寺と駒前の御嶽神社と尾張ゑびす大黒社をご紹介

駒とは何か

 数少ないネット情報の中に、”みたけ-じんじゃ”とフリガナを振っているものがあったのだけど、ここは明らかに木曽御嶽山系の神社なので、”おんたけ-じんじゃ”としておく。
 御嶽を”みたけ”と読ませるのは、奈良吉野の金峰山系の神社が多い。
 そのあたりについては吉野町の御嶽神社のところで書くことにしたい。
 間違っていたら訂正します。

 御嶽神社は宝生寺(地図)の裏山に当たる場所にあるので、宝生寺も含めて考えないといけないのだけど、まずは地名について検討することから始めたい。
 神社がある場所の住所を”駒前町”(こままえちょう)という。
 wikiの駒前町のページでは、本地城があった時代、ここに城主や武士の馬を集めていたから駒前という地名になったという説と、長久手合戦の際に家康方がここで馬を休めて軍議を開いたことが由来という説を紹介している。
 元ネタは瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会(web)がまとめた冊子で、会の皆さんが真面目に調査研究された上で発表されているであろうから私などがあれこれ言うのもおこがましいのだけど、これは俗説で正しくはないと思う。
 もし”駒場”とか”馬場”とか”御馬”だったらそれもありそうだけど、ここは”駒前”だ。ということは”駒”があって、その前ということになる。
 では駒とは何かということになる。

 駒というのは一般的に馬を指すことが多い。
 それとは別に、将棋の駒とか手駒というような使い方もする。
「瓢箪から駒」といえば、思いがけないところから思いがけないものが出てくるとか生まれることのたとえとして使われる言葉で、中国由来だとか鎌倉時代の説話集『宇治拾遺物語』から来ているという説があるけど、それはどちらも違う。
 駒はいわゆるホースの馬ではないし、瓢箪も我々がよく知るあの瓢箪のことではない。
 瓢箪は宇宙と地球、天と地を表していて、そこから駒が出てくるということは何かが生まれるということだ。
 これは上手く説明できないのだけど、天は馬で地は牛ということを聞いている。
 私自身、説明を聞いてもよく理解できなかったので保留にするけど、馬や牛の付く古い地名は何かそのへんのことと関係があるようだ。
 馬が合うとか合わないとかも、どうやらそのあたりのことらしい。

 一つの可能性として、駒は”雲”から転じたかもしれないということだ。
 長久手編のときに何度か書いているけど、長久手には”前熊”や”北熊”という地名があって、それはもともと”雲”の前とか北だったのではないかという推測をした。”雲”があったのは今のモリコロパークではないかと。
 瀬戸の駒前というのは長久手北熊の北ということで、広く言えば雲の前に当たる。
 ”雲前”から”駒前”に転じるのはだいぶ無理があるといえばそうだけど、ここ駒前は”本地”であることからして、何らかの拠点や本拠地があったことは充分に考えられる。すぐ近くに本地大塚古墳(地図)もある。
 どういう勢力かといえば、それはもう尾張氏しかいない。
 駒前の東に幡西町(はたにしちょう)があり、このあたり一帯を”幡山”(はたやま)という。
 幡山は”ハタ”の山であり、ハタは”秦”であり、八田でもある。
 すぐ北を流れる矢田川も八田川から”ヤタ”川に転じたかもしれない。
 八田は、八つの田ではなく、八番目でもなく、八の地区という意味だ。
 ”田”は田んぼではなく、神、天、龍などのことだ(本来は○に十)。
 尾張旭、長久手、瀬戸西部は八の地区の外縁部に当たる。
 なので、ここには八雲のうちの一つの雲があったと考えられる。
 更にいえば、駒前の南の丘陵地帯は山の田町という地名だ。これは尾張氏本家を守護する山田一族が関わっていると思われる。
 そもそも瀬戸市エリアはかつての山田郡なので、全域が山田一族の管理下にあったと見てていい。
 瀬戸市全体の神社を見ると、尾張氏の祖神を祀っているところや八王子系の神社が多い。
 八王子は八人の王子ではなく八の王子のことだ。
 八は八頭であり、八雲であり、高天原を指す。
 八を広げると八十(やそ)になり、八百(やお)になる。
 読み方や字は変わっても”八”由来の地名は全国にたくさん残っている。
 名古屋市の市章が”丸八”なのも、八の歴史を知っている人が決めたからだ。

 ついでに”瀬戸”の地名由来についても触れておきたい。

瀬戸の地名由来

『日本地名語源事典』や『地名用語語源辞典』などによると、”セト”は水路や陸の狭くなった場所を意味する”狭戸”や”狭門”、あるいは急流や急潮などを意味する”急処”が由来という。
 尾張国の瀬戸でいうと、山間の狭い所という意味の”迫所”や、古くから陶器を産出した土地という意味の”陶所”(すえと)から転じたともいう。
『瀬戸考略記』は、深川神社の東を流れる杁川と瀬戸川が合流して落ち合うところの水音から湍門(瀬戸・迫門とも)と呼び、それが地名(村名)になったという説をとなえている。

 申し訳ないけど、これらは全部違っていると思う。
 全国には瀬戸という地名がたくさんあって、中にはこういった由来のものもあるだろうけど、尾張の瀬戸はそういうことではない。
 いつも書くのだけど、地形由来の地名はわりと後の時代で、古くはその土地や場所の意味から来ていることが多い。
 たとえば縄文時代から集落があれば、そこには必ず地名が生まれる。あそこや向こうでは不便すぎるから、少なくとも身内に通じる通称は必要だ。
 瀬戸市全域で見ると、赤津とか品野といった奥地の山間部ほど古い遺跡があり、時代が下るにつれて丘陵地や平地に移動してきた痕跡が認められる。
 どこからどこまでを”セト”と呼んでいたかは分からないけど、相当古くからの地名だっただろうとは思う。
 ひょっとすると、”瀬戸”という表記も同じくらい古くからあったかもしれない(漢字が中国から入ってきたというのは嘘)。

 瀬戸は地名の他に苗字もある。
 女優の瀬戸朝香は瀬戸市出身だから瀬戸なんだと思うかもしれないけど、これは逆ではないのか。
 瀬戸氏がいた土地だから瀬戸と呼び習わされるようになったとは考えられないだろうか。
 ではこの瀬戸は何かというと、本家の屋号として使われた。
 水源や水利を管理するのは本家の役割で、その屋号として瀬戸が使われた。
 瀬戸地区に何があるかといえば、矢田川の源流が海上の森(かいしょのもり)にある。
 赤津川の源流は瀬戸の東の猿投山(さなげやま)にあり、香流川の源流は長久手のモリコロパークにある。
 つまり、瀬戸・長久手の一帯は重要河川の源流がある場所ということだ。
 自分がその土地の主だと想像したら分かる。重要な水源地は必ず押さえておかなければならない。
 水源を取られることは死活問題だ。古代における川は生活用水や農業用水だけでなく水路でもあった。大きな川は今でいう高速道路のようなものだ。
 私が”雲”ではないかと考えているモリコロパークも、海上の森も、猿投山も最重要拠点なので、それは必ず認識しておく必要がある。
 この地を開拓して治めていた尾張氏の本家は瀬戸と称するか、そう呼ばれていて、そこから瀬戸が地名になったというのが私の推測だ。

 ”セト”でもう一つ気になることがあるので、これも書いておく。
『日本書紀』神代下の第九段一書第三に”セト”が出てくる。
 味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)の妹の下照媛(シタテルヒメ)が詠んだとされるこんな歌が載っている。

阿磨佐箇屢 避奈菟謎廼 以和多邏素西渡 以嗣箇播箇柁輔智 箇多輔智爾 阿彌播利和柁嗣 妹慮豫嗣爾 豫嗣豫利據禰 以嗣箇播箇柁輔智

あまさかる(天離る) ひなつひめの(鄙つ女の) いわたらすせと(い渡らす西渡) いしかわかたふち(石川片淵) かたふちに(片淵に) あみはりわたくし(網張り渡し) めろよしに(目ろ寄しに) よしよりこね(寄し寄り来ね) いしかわかたふち(石川片淵)

 この前に、天の布を織る少女の首に掛けた勾玉の首飾りの玉が輝くように谷を二つ越えるのは味耜高彦根ですという歌があり、続いてこの歌がある。
 意味は、夷女(ひなつめ)が瀬戸を渡って魚とる。石川の片淵よ、その淵に網を張って網を引き寄せるように寄っておいでよ石川の片淵よ、といった内容で、よく分からない。
 ただ、引っ掛かったのは、”セト”を”西渡”と表記していることと、味耜高彦根が出てくることだ。
 セトに”西渡”という字を当てているのはあえてなのではないかと思った。というのも、尾張氏は西から渡ってきて瀬戸を開拓していることから西渡という言葉が生まれた可能性があるのではないか。
 それと、この歌が味耜高彦根絡みというのも何かある。
 味耜高彦根は可美真手命(ウマシマジ)の後の名前で、尾張の二宮(春日井一帯)の人間と聞いている。
 味耜高彦根は同じ本地村の八幡神社のところでも出てきた。
 本地大塚古墳の被葬者は誉牟治別(ホムチワケ)という伝承があり、いろいろ考え合わせると誉牟治別は天火明(アメノホアカリ)の子の天香語山(アメノカゴヤマ)のことではないかというようなことを書いた。その天香語山こと若彦(ワカヒコ)を殺して成りかわったのが味耜高彦根だという。
 味耜高彦根は三河側とも関わりが深い人間なのだけど、瀬戸と猿投山は尾張と三河の境界で、入り交じっている部分も少なくない。
 たとえば、東郷町の東郷町は”統合”から来ているし、”和合”という地名もある。
 海上の森(かいしょのもり)も会所(かいしょ)の森だ。
 三河は”豊”(トヨ)の国というのは何度も書いているけど、尾張にも豊明(とよあけ)がある。
 天皇が即位した最初の大嘗祭や新嘗祭の翌日に行われるのが豊明節会(とよのあかりのせちえ)で、これは豊明から来ているかもしれない。
 豊の臣を名乗って金の瓢箪を旗印にしていた秀吉は、尾張と三河の歴史の真相(深層)をかなり知っていたのではないかと思う。
 信長はある程度知った上であまり重視しなかったようだけど、家康はたぶん知っていて利用している。
 戦国時代を終わらせるためにはこの三人が必要で、それが尾張と三河から出たというのはもちろん偶然などではない。裏で大きな力が働いたということだ。

 ただのこじつけだと言われてしまうとそうなのだけど、何か引っ掛かりというかモヤモヤした感じがつきまとう。

御嶽と古墳

 この御嶽神社がいつ建てられたのかは調べがつかなかった。
 江戸時代に御嶽講の人が祀ったのが始まりの可能性が高そうだけど、必ずしもそうとは言い切れない。
 というのも、御嶽神社へと続く階段の横ににこんな話が書かれているからだ。

「長久手合戦史跡 笠松と権道路」
 笠松のいわれは、今から約400余年前の天正12年(1584)、徳川家康と羽柴秀吉との長久手合戦の際、徳川家康が此処に本陣をおいたとき、冠笠をこの松の枝に掛けて休息したところから、この松の名を笠松と呼ぶようになった。
 この時鉄砲の音、戦場のどよめきや岩崎城を望見した家康は、急いでそれまでの陣笠を兜にかえ、御嶽山を降りて駒前から本地川を渡り山道を通って岩崎村の色金川に向かった。この参道は後年家康が通ったということから、権現様の道即ち権道路と呼ぶようになっている。
 平成十七年三月 尾張ゑびす

 御嶽神社の奥に尾張ゑびす大黒社という社があって、それはえびすの総本社とされる島根県松江市の美保神社(公式サイト)から勧請して昭和51年(1976年)に創建された新しいものなのだけど、そこの社が建てた案内板のようだ。
 平成17年とあるからわりと最近のものだ。
 この記述をどこまで信用していいのか分からないのだけど、この”御嶽山”という呼び名が戦国時代からあったとすれば、すでにそのときには御嶽社もあったのではないか。だとすると、江戸時代創建ではないことになる。
 もしくは、江戸時代に御嶽社が祀られるようになって以降、この山のことを御嶽山と呼ぶようになったのかもしれない。
 あるいは、この社自体はかなり古い可能性もある。
 それは、ここに駒前第1号墳があるためだ。

 西の本地から菱野、東の山口あたりまでを幡山地区と呼んでおり、このエリアには弥生時代から近世にかけての遺跡が点在している。
 御嶽神社や宝生寺は西端近くの幡山丘陵の先端部分にある。
 平成10年(1998年)に行われた墓地の造営工事の際に駒前第1号墳の発掘調査が実施された。
 その結果、墳丘を取り巻いていた埴輪列から一辺14メートルほどの方墳ということが判明した。
 方墳というと、名古屋では守山区竜泉寺の松ヶ洞古墳群の一部や守山区川東山の川東山遺跡、守山区城土町の牛牧離レ松遺跡などが知られているのだけど、数は多くない。
 ただ、名古屋城三の丸遺跡高蔵遺跡などからも一部見つかっていることから、実際はけっこうたくさん造られたのかもしれない。
 いずれも5世紀末のものが多く、駒前第1号墳も発掘された須恵器などから5世紀末のものと推定されている。
 丘から少し降りた北側にある本地大塚古墳は前方後円墳で、5世紀末から6世紀初めとされているので、駒前第1号墳の方が少し古そうだ。

 古墳の形には意味があるはずだけど、その違いについてはよく分からない。ヤマト王権とつながっている地方の首長が前方後円墳を造ったという定説を私は信じていない。
 いずれにしても、宝生寺があるあたりは古くから特別な場所だったはずで、古代から何らかの社があってカミマツリを行っていたと考えるのが自然だ。
 遡るなら弥生時代まで遡れるかもしれない。
 御嶽信仰というと近世の御嶽教のことを思いがちだけど、その起源はもっとずっと古くて根源的なものだ。
 御嶽山はもちろん重要な山だし、各地に御嶽山や御嶽社があるということは、それだけ古くから御嶽信仰があったということだ。近世に始まるような、そんな新しいものではない。

宝生寺について

 江戸時代の本地村については八幡神社(西本地町)のページにまとめたので、そちらを見ていただくとして、ここでは主に宝生寺について書いておきたいと思う。
 御嶽神社に関しては、江戸時代の書にまったく出てこないので、そこから手がかりを得ることはできなった。

『寛文村々覚書』(1670年頃)は宝生寺についてこう書いている。

禅宗 赤津村内 白坂雲興寺末寺 仏法山宝生寺 寺内 四畝歩 前々除」

 続いて『尾張徇行記』(1822年)はこうだ。

宝生寺 府志曰、曹洞宗、属白坂雲興寺
覚書ニ、仏法山宝生寺境内四畝前々除
当寺書上ニ、境内六反此内三畝御除地、七畝村除、松山五反年貢地、此寺ハ寛永九申年白坂雲興寺十五世興南和尚創建シ、其後年ヲ経テ平僧にナリシカ、宝暦十辰年雲興寺二十五世紹道和尚法地ニ再興セリ
此寺昔は同村ノ内八丁寺ト云所ニアリシカ、享保子年今ノ地ヘ移ス、旧址ハ三畝御除地ナリ

『尾張志』はこう書いている。

禅宗曹洞派 寶生寺
本地村にありて佛法山といふ 本寺上に同し(雲興寺のこと)
創建の年月知られす 寛永九申年再建す其時は當村八町地という處なりしを享保五年今の地に移す
本堂座像の観音を安置す衆寮に立像の観音庚申阿彌陀等を安置す
當寺境内の山林に旗塚笠松なといふあり

 それぞれ証言が微妙に違っているので、どういうことだろうと戸惑う。
『尾張徇行記』は寛永9年(1630年)に雲興寺15世の興南(義繁)和尚が”創建”といっているのだけど、『寛文村々覚書』では”前々除”になっていて矛盾する。
 前々除ということは、1608年に行われた備前検地のときすでに除地だったということなので、そのときまでにはあったことを意味する。
 なので、1630年に創建というのはちょっとあり得ない。
 wikiの駒前町のページには、「1632年(寛永9年)に雲興寺15世興南義繁によって開創され、1720年(享保5年)に山口川の大洪水にあい流失したため、現地に移転した。」とある。
 これの情報源は『角川日本地名大辞典 23 愛知県』(1989年)らしいのだけど、この創建年は個人的には信じていない。
『尾張志』が書いているように「創建の年月知られす 寛永九申年再建す其時は當村八町地という處なりしを享保五年今の地に移す」というのが正しいのではないかと思う。
 1632年創建なら1840年代だったとしても「創建の年月知られす」とはならないだろうし、寛永9年は再建だったのだろう。

 ネット情報によると、弘法大師像を本尊として原山に創建されたのが始まりという。
 その年代については調べが付かなかった。
 原山は現在の西原町1丁目というのだけど、ここは住所こそ瀬戸市にはなっているものの、江戸時代までは狩宿村だったところだ。狩宿は尾張旭市になる。
 直線距離で1キロ以上離れた場所に村も変わって川も越えて移転するだろうかと考えると、ちょっと疑問が残る。
 再建した場所については、『尾張徇行記』は「八丁寺」、『尾張志』は「八町地」と書いているのだけど、これは同じ場所を指していて、現在の西本地町1丁目あたりだったとされる。
 それは現在地より少し北の矢田川に近いところだったようだ。
 1720年(享保5年)に今の地に移転したのは、山口川(矢田川のこと)が氾濫したためで、それを機に高台に移ったということだ。
 ただ、この再建と移転話もちょっと分からないことがある。

 これもネット情報なのだけど、1720年に八丁寺(八町地)に移転(再建)したのは雲興寺25世全山紹道で、そのとき佛法山宝生寺として開山したというのだ。
『尾張志』も移転を享保5年(1720年)としているのだけど、『尾張徇行記』は「寛永九申年白坂雲興寺十五世興南和尚創建シ、其後年ヲ経テ平僧にナリシカ、宝暦十辰年雲興寺二十五世紹道和尚法地ニ再興セリ」といっており、話というか年代が合わない。
 宝暦10年は1760年なので、享保5年の1720年とでは40年も開きがある。
 年代の他に気になるのは、『尾張徇行記』も『尾張志』も山口川(矢田川)が氾濫した云々ということを書いていないことだ。洪水が移転の理由ならそのあたりを書きそうなのに書いていない。
 矢田川は確かに何度も氾濫しているし、明和4年(1767年)の大洪水では流路が大きく変わるほどだったのだけど、享保5年やその前に大きな洪水があったという記録は見つけられなかった。
 氾濫したのは山口川ではなく赤津川(瀬戸川)という話もあるので、そちらの被害を受けた可能性はあるのか。
 いずれにしても、こういうことがあるので、江戸時代に書かれたものもネット情報も鵜呑みにせずに自分でももう一度調べ直した方がいい(私の書いていることも含めて)。
 神社の説明板や立派な石碑に書かれた由緒書も、けっこう間違えている。

 ちなみに、「年ヲ経テ平僧にナリシカ」という”平僧”というのは曹洞宗の寺格の最下位のことをいう。
 格付けとしては法地(一般寺院)を一から四に分けてその下が平僧地なので、別格最下位に当たる。
 おそらく住職のいない無住の寺になっていて、村人などが管理していたのだろう。
 雲興寺というと、瀬戸では非常に力のある大きな寺院で格式も高く、そこの和尚が開いた寺だったのがものすごく落ちぶれてしまって、それを見かねた雲興寺25世の紹道和尚が「法地ニ再興セリ」ということだったようだ。

 すぐ南にある長慶寺(地図)については、wikiのページに「長慶寺 曹洞宗。本尊は釈迦牟尼佛を祀り、開基は壺井開信。境内の伏見稲荷社は3月の花祭りでにぎわう。」というくらいしか情報が得られなかった(出典は『角川日本地名大辞典 23 愛知県』)。
 壺井開信という人物についても情報がなく、創建年代についても不明。
『尾張徇行記』や『尾張志』に長慶寺は載っていない。
 明治以降に建てられた新しい寺なのか、別の場所から移ってきたのか。 

今昔マップで見る変遷

 本地村全体の変遷について八幡神社(西本地町)のページに書いたので、ここでは宝生寺一帯に注目して変遷を辿ってみよう。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く本地村の様子がだいたい見て取れる。
 元号は変わっても村の様子は20年や30年では変わらない。
 明和4年(1767年)の大洪水で集落が分散したものの、本地村集落の中心は宝生寺だっただろうと思う。
 東西に延びる道沿いに家が建ち並んでいる。
 大正9年(1920年)の地図でもほとんど変わっていない。家もあまり増えていない感じだ。
 その後の地図がないので変遷を辿れないのだけど、1968-1973年の地図では大きく様変わりしている。
 東西の道が通って、田んぼは区画整理されている。
 現在に続く町並みがこの頃までにはほぼできあがっていたようだ。
 というよりも、1960年代から今に至るまでほとんど変わっていないように見える。
 丘陵地は今も開発されておらず、田んぼもまだけっこう残っている。
 大きく変わったのは北を走る363号線沿いくらいだ。

 小中学校のことについて少し書いておくと、駒前町あたりに住んでいる子供たちは学校までけっこう遠い。
 幡山西小学校までは歩いて15分くらいだろうけど、幡山中学までは30分以上かかる。中学は自転車通学かもしれない。
 幡山西小学校は古く、明治6年(1873年)に菱野村に開校した全道学校を前身としている。当時は少し西にある西光寺を仮校舎としていた。
 明治22年(1889年)に本地村と菱野村が合併して幡野村となり、明治25年(1892年)に幡野尋常小学校に改称するとともに分校の山口尋常小学校ができた。
 明治39年(1906年)に幡野村と山口村が合併して幡山村となり、明治40年(1907年)に 幡山西尋常小学校に改称。
 戦時中の昭和16年(1941年)に幡山西国民学校に改称し、戦後の昭和22年(1947年)に幡山西小学校となる。
 昭和30年(1955年)に幡山村は瀬戸市に編入された。
 幡山中学校は戦後の昭和22年(1947年)に開校した新しい学校で、当時は幡山村立幡山中学校だった。
 このときはまだ幡山村は瀬戸市ではなかった。
 昭和30年(1955年)に幡山村が瀬戸市に編入されて、瀬戸市立幡山中学校になり、現在に至っている。

宝生寺との関係は?

 現在の御嶽神社の所有者というか管理者は宝生寺なのかどうなのか。
 宝生寺の境内の中のようであり、独立しているようでもある。
 車で行ってしまうと急坂も気にならないだろうけど、自転車で向かおうとすると途中で降りないと行けそうにないくらいの急坂が待っている。
 夏場に歩いて向かうとしんどい思いをする。
 363号線の西本地町2丁目交差点の海抜が70メートル、宝生寺の本堂があるところが79メートルで、そこから急坂になって御嶽神社があるところは海抜110メートルになる。
 その奥にある尾張ゑびす大黒社まで行くともはや絶景が拝める。
 小牧長久手の戦いのときに家康方がここを押さえたというのもうなずけるし、もっと古い時代からこのあたりの支配者にとって重要な場所だったであろうことも想像がつく。
 古墳を造るということは単にお墓を作るということではなくて、領有権の主張といった意味合いもあっただろうと思う。
 この山を”オヤマ(御山)”と呼んで、後に御嶽に変わった可能性はありそうだ。
 だとすれば、ここでは何らかのカミマツリが行われていただろうし、今の御嶽神社の前身に当たる社があったとしても違和感はない。
 西にこの御嶽山があり、その南東に冨士浅間神社がある富士山がある。これは木曽の御嶽山と富士山と同じ位置関係になる。単なる偶然だろうか。

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