尾張三大奇祭のひとつ、岩塚のきねこさ祭(web)で知られる神社(あとのふたつは国府宮のはだか祭(web)と熱田神宮の歩射神事(web)。犬山の石上げ祭(web)が加えられることもある)。 もともとあった古い社が御田神社で、『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡御田神社はこの神社という説がある。 津田正生は『尾張国神社考』の中で、一楊荘岩塚村七所大明神は御田神社のことで、かつては熱田の摂社で保食神(うけもち)を祀ると書き、熱田神宮内にある御田神社は遙拝所だったともいう。 岩塚(いわつか)の地名は植付(うえつけ)から転じたものともいっている。 きねこさ祭の神事や村名からしても「旁(かたかた)御田神社なる事著明(いちしるしき)ものを也」と自信を持って言い切っている。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではないが尾張地名考に『岩塚村に延喜式の愛智郡御田神社、本国帳の従三位御田天神とあるのは、七所明神を云うなり』とあり、神社に祭られている神鏡に元慶八年(884)の銘があるところから、この頃の創建と考えられる。尾張志に『熱田七社神を祭る故に社号を七社と云う。応永三十二年(1425年)に吉田次郎衛門守重社殿修造(棟札あり)す。社人は吉田求馬と云う。境内に従二十六尺の塚あり。そこに従四尺ばかり岩立てり。不生石と称し、故に村名を岩塚という。』と記されている。明治5年5月、村社に列し、明治40年10月26日指定社となる。昭和6年6月17日、郷社に昇格する」
元慶八年(884年)の銘がある鏡というのは昭和7年(1932年)の調査のときに発見されたもので、「元慶八年正月十五日御田天神」とある。 この元慶八年が創建年ではないにしても、このときにはすでに御田神社があったと考えられる。884年は平安時代中期に当たる。927年完成の『延喜式』神名帳に載っているのだから、それ以前に建てられたのは間違いない。 鏡が見つかったからといって七所神社が御田神社と断定してしまっていいのかどうかはやや疑問が残る。熱田七社の神を祀ったから七所社となったというのだけど、本体である御田神社の祭神が失われてしまっているのが解せない。 七所神社側としてもどうするか悩んだのではないだろうか。結局、境内地にあらたに御田神社を建てて摂社とすることで決着させた。
熱田の神を祀ったのは室町時代中期の1425年、足利尊氏の一族(斯波高経の祖父・宗家の兄の系統)の岩塚城主 ・吉田守重だったと伝わる。 その七社は、熱田社、八剱社、大幸田神社、日割御子神社、高座結御子神社、氷上姉子神社、上知我麻神社だった。 『尾張志』は中央の社に日本武尊を、右の社に八劔・高倉・大福田を、左の社に日割・氷上を、少し離れたところに源太夫を祀ると書いている。 ここからも分かるように、いつの頃からは御田神社の祭神は失われてしまって祀られていない。七所明神の主祭神はヤマトタケルになっていた。
ヤマトタケルとこの神社の関わりについて『尾張名所図会』(1844年)はこんなことを書いている。 「日本武尊五十葺山(いぶきやま)の荒神を退治せんと、熱田より彼山に至り給ふ道、此所にて暫く憩ひ給ひし舊地にして、其時御腰をかけ給ひし岩とて、本社の東のかたに半埋れて猶在す。又其側に大なる塚あり、當所岩塚の稱是より起るといへり」 ミヤズヒメの元に草薙剣を置いて伊吹山に向かう途中、このあたりでしばらく休憩したといい、そのとき腰掛けたとされる伝承が残る岩が境内にあるといっている。 境内に古墳が3つあり、ひとつは失われ、2つは現存している。いずれも古墳時代後期の円墳とされている。 名古屋市内ではこうした沖積地の低地に古墳が築かれた例はあまり多くない。古墳時代は岩塚の南あたりに海岸線があったとされているから、海の近くの少し高いところに古墳を築造したことになる。 これらの古墳を築いた勢力と七所社は何らかのつながりがあったと考えるのが自然だ。 神社の前の道は江戸時代に佐屋街道として整備された道で、すぐ西の庄内川には万場の渡しがあった。この道と渡しは相当古くからあったようで、ヤマトタケルの伝承が残るのも不自然なことではない。 東に進むと古渡で美濃路とぶつかる。古渡には古東海道の新溝駅があったとされることから、ヤマトタケルの時代から佐屋街道の元になる道はあったのではないだろうか。 ただし、ヤマトタケルは伊勢から舟に乗って伊勢湾を北上して東海市の名和で上陸して火高(大高)に至ったという話もあるので、そうなると岩塚のあたりは通っていないことになる。
七所社がもともと御田神社だったとすれば、それは田んぼの神を祀っていただろうか。尾張国の式内社は121座121社で、一社に一柱の神とされているので、御田神社も当初は一柱の神を祭神としていたことになる。 津田正生がいうように保食神(うけもちかみ)とするのが妥当ではあるけど、伊勢の神宮(web)外宮の神、豊受神(トヨウケ)という説もある。 御田というのは一般的に寺社や皇室などの田のことをいう。岩塚の御田は熱田社に納めるための稲を作っていたとされる。後年、熱田から七社を勧請したのもその縁だったのだろう。 きねこさ祭(御田祭)は、その年の吉兆を占い、五穀豊穣を願う祭礼だった。現在も旧暦1月17日に行われている。 祭りについて『尾張名所図会』はこんなふうに書いている。 「正月十七日にして田祭といふ。俗に種まき祭、又きねこさ祭ともいふ。甚古雅なる様なり。祭事にあづかるもの、七日以前より萬場川に水あび身を清め、當日申の刻に足揃をなし、神主の家にて饗應の式あり。夜に入り戌の刻神前に揃ひ、拝殿の前に種おろしという祭事を行ふ。さて種おろし□(をは)って各列をなし、拝殿の前を巡る事三度にして後本祭を行ふ。獅子・犬引・鷹匠・餅つき・弓・鉾・兒などの行装、古雅なる事□(づ)を見て知るべし」 江戸時代の人から見ても古式ゆかしい祭事に見えたようで、7日前から関係者は萬場川(庄内川)で身を清めて、当日は申の刻(15時-17時)に集まって神主の家で式を行い、戌の刻(19時-21時)に拝殿の前で種おろしの儀式を行ったということだ。 現在はふんどし姿の男たちが竹竿をかついで真冬の庄内川に入っていき、川の中で竹を立てかけて種おろしの祭文をとなえ、ひとりが竹によじ登っていって倒れた方角でそのときの収穫量を占うということをやっている。 その後、八幡社を出発した一団は佐屋街道を行列で進んで七所社境内に集まり、厄除け神事が行われる。 きねこさ祭の「きね」は「杵」、「こさ」は餅がだらりと垂れた様子のことを指すとされる。 祭りは名古屋市の無形民俗文化財に指定されている。 当日、神社周辺には屋台が並び、多くの見物人やテレビ局も訪れ、けっこうな賑わいを見せる。
現在も祭神についてはやや混乱が見られる。 神社本庁への登録は以下のようになっている。 日本武尊 宮簀姫命 乎止与命 草薙御劔 成務天皇 倉稲魂命 軻遇槌命
対して神社のwebサイトではこうなっている。 日本武尊 天照大神 倉稲魂命 天忍穂耳尊 高倉下命 宮簀姫命 乎止與命
共通しない祭神として、一方は草薙剣、成務天皇、もう一方は天忍穂耳尊、高倉下命となっている。 もともと熱田社から呼んだ七社は熱田社、八剱社、大幸田神社、日割御子神社、高座結御子神社、氷上姉子神社、上知我麻神社だった。 天忍穂耳尊を祀るのは日割御子神社で、高倉下命は高座結御子神社だから、神社側の方が対応しているのだけど、どうして神社本庁への届けが違う祭神になってしまったのだろう。 成務天皇はヤマトタケルの異母弟なのだけど、熱田神宮では成務天皇を祀る社はないはずだ。どこから来たのか分からない。 神社公式サイトによると、江戸時代中期の享保19年(1734年)に、岩塚村にあった白山社、熊野社、石神社、若宮社、天神社、神明社を境内に移したという。明治以降でなく江戸時代にこれだけの神社を一気にひとつの神社に集めるということはあまりなかったのではないかと思う。どういう事情でそうなったのかは分からない。 『尾張名所図会』の絵には境内社として三狐神、くまの、白山、弁天、大日、天神、若宮が描かれている。弁天を別にして、三狐神を石神、大日を神明とすれば、それぞれ当てはまる。 境内の中に神主の家があったことも分かる。
『特選神名帳』は御田神社について祭神を保食命として熱田神宮境内にある摂社の社としている。 しかし、熱田社にある御田社は遙拝所で、御田社は本来、熱田社の外にあったと考える方が自然だ。 ただし、上にも書いたように七所社がもともと御田神社だったと断定はできない。御田神社は岩塚ではなく別の場所にあったという説もある。 とはいえ、伝わっている御田祭からしても、七所社が御田神社だったと考えるのは妥当なところだ。 ヤマトタケルの伝承も何かしらの史実が元になっているのではないかと思う。 なかなかに謎を秘めた興味深い神社だ。それゆえか、境内の空気は重いと感じた。
作成日 2017.2.13(最終更新日 2019.4.12)
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