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ハヤタマノオ・コトサカノオ《速玉之男・事解之男》

ハヤタマノオ・コトサカノオ《速玉之男・事解之男》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 速玉之男・事解之男
別名 日速玉之男神・泉津事解之男神(『先代旧事本紀』)
祭神名 速玉之男命、事解之男命、他
系譜 不明
属性 禊祓の神
後裔 不明
祀られている神社(全国) 熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社、など
祀られている神社(名古屋) 島田神社(天白区)、菅田神社(天白区)、熊野三社(呼続)(南区)、伊奴神社(西区)、神明社(鳥栖)(南区)

熊野神は雲の神

 熊野大神の正体というか実体は何かといえば、伊弉冉尊(イザナミ)であり、伊弉諾尊(イザナギ)であり、素戔嗚尊(スサノオ)であり、それらの総称でもあるというのが一般的な解釈だと思う。
 それはそれで間違いではないのだろうけど、あくまでもそれは神祀りにおける対象としてであって実像とは違う。
 速玉之男がスサノオやイザナギかといえばそれも違う。
 以前にも何度か書いたけど、熊野の”熊”はもともと”雲”で、熊野大神は”雲の大神”を意味している。雲とは何かといえば高天原の中心のことで、熊野社こと雲の社にイザナミ、イザナギ、スサノオを祀るのは当然というか自然なことではある。
 総称としての熊野神の一柱である速玉之男、事解之男とは何者かというと、この解釈が(私には)難しい。事情を知っている人には明かなのだろうけど。

 まずは『古事記』、『日本書紀』、その他の書で情報を集めつつ、神社伝承などを見ていくことにしよう。

 

『日本書紀』の中の独自伝承

 速玉之男、事解之男が出てくるのは『日本書紀』第五段の一書第十で、菊理媛神(ククリヒメ)が唯一登場するところでもあるのだけど、他とは少し違った独自の伝承になっている。 
 伊弉冉尊(イザナミ)が火神の火産靈(軻遇突智)を生んで命を落とし、それを伊弉諾尊(イザナギ)が黄泉国まで追いかけていって二人が顔を合わせる場面。
 悲しくて汝のところに来たというイザナギに、吾を看ないでくれというイザナミ。
 しかし、イザナギはイザナミを見てしまう。変わり果てた姿を見られたイザナミは恨み恥じ、汝は吾の情を見てしまった、吾も汝の情を見たと怒ってしまう。これはまずいと思って引き返そうとするイザナギに向かってイザナミは突然、汝とは別れる(族離)と告げた。
 それを受けてイザナギは負けないぞ(不負於族)と言い返した。
 そして、吐いた唾(つば)から速玉之男が成り、掃(はら)ったとき事解之男(コトサカノオ)が成ったという。
 ん? どういうこと? と戸惑う。
 この一連の流れを一発で理解するのは難しい。話の展開が急すぎてついていけない。
 どうしてイザナミはイザナギに対して怒ったのか? 死んだ姿を見られたくなかったのに見られたからなのだろうけど、それだけで突然の別離宣言というのもよく分からない。
 更に分からないのは、イザナギの負けないぞという言葉だ。
 別れを切り出した妻に対して夫が負けないぞと言い返したら何の話? と思う。何をどう負けないのか。そもそもこの負けは勝ち負けの負けなのか違う意味なのか。
 イザナギが負けないと言って唾を吐いたというのも分かるようで分からない。イザナミに対する侮辱というか、唾棄すべきという言葉のような意味合いがあるのか。
 その唾から生まれたのが速玉之男といっている。
 古代において唾は汚いものではなくある種の霊力を持ったものという考えがあったようなので、現代人の感覚で捉えるのは間違いだ。
 続いて生まれた事解之男は掃いたときというから祓えをしたときという意味なのだろうけど、速玉之男と事解之男の関係性もよく分からない。

 ついでにこの後の展開を簡単に書いておくと、イザナギは妻を失った悲しみは自分の心が弱かったせいだといい、泉平坂(よもつひらさか)の泉守道者(ヨモツモリビト)が二人の中を取り持とうとしてイザナミに声を掛け、イザナミは私はもうあなたと二人で国生みもした、これ以上何を生めというのか、私はここにとどまりますと告げた。
 そのときどこからともなく菊理媛神がやってきてイザナギに何かを言うと、イザナギは善いことを聞いたと納得した様子で去っていったのだった。
 菊理媛神がこのとき何を言ったのかは書かれていない。
 黄泉国から戻ったイザナギが橘之小門(たちばなのおと)で穢れを祓うと、磐土命(イワツチ)、大直日神(オオナオヒ)、底土命(ソコツチ)、大綾津日神(オオアヤツヒ)、赤土命(アカツチ)が生まれたという。

 

『古事記』はどうして書かなかったのか

『古事記』には速玉之男や事解之男は出てこない。
 姿を見ないで欲しいという伊邪那美命(イザナミ)と、こらえられずに見てしまった伊邪那岐命(イザナギ)。恐ろしい姿になっていたイザナミを見て逃げ出したイザナギとそれを追いかけるイザナミ。黄泉比良坂で追いつかれて、やはり言い争いになる。
 あなたの国の民を一日に千人殺すと脅すイザナミに、それなら一日に千五百の産屋を建てると言い返すイザナギ。
 こうして二人は完全に喧嘩別れになってしまったというのが『古事記』の話だ。
 イザナギが唾を吐いた云々というのもない。

 

『先代旧事本紀』では入れ替わっていることの意味

『古語拾遺』は神生みについて簡単にしか書いていないので出てこない。
『先代旧事本紀』はここでも『古事記』と『日本書紀』の合わせ技をやっているのだけど、決定的な違いがある。
 伊弉冉尊(イザナミ)に会うため黄泉国へ出向いた伊奘諾尊(イザナギ)は、姿を見ないで欲しいというのに見てしまい驚き逃げて追いかけっこになるのだけど、『日本書紀』 第五段の一書第十と違うのは、別離を言い出したのがイザナミではなくイザナギになっていることだ。
 逃げ出す前のことになっている点も違っている。
 イザナミが泉津醜女(ヨモツシコメ)にイザナギを追いかけさせ、イザナギはあれこれ物を投げて撃退しようとするも失敗し、黄泉平坂で追いつかれてしまう。
 イザナギは千引岩(ちびきいわ)で坂道をふさいでイザナミと対峙し、ふたたびイザナギが別離宣言をした。
 それに対してイザナミは負けないと言い返し、唾の神を名づけて日速玉之男神(ヒノハヤタマノオ)とし、掃いた神を泉津事解之男神(ヨモツコトサカノオ)と名づけたと書いている。
 つまり、『日本書紀』とはイザナギとイザナミの立場というか役割が入れ替わっているのだ。
 これはどういうことを意味しているのだろう?
 言うまでもなく『先代旧事本紀』は『日本書紀』よりも後発だ。あえてここを変えたということは何らかの意味や根拠があったということだ。
『先代旧事本紀』がわざわざ改ざんする理由はなく、むしろ『日本書紀』がイザナギとイザナミを入れ替えたと考える方が合ってるかもしれない。
 だとすると『日本書紀』作者たちの意図はどこにあったのか?
 速玉之男や事解之男がイザナギの子かイザナミの子かは小さいようで大きな違いだ。系統が別になる。
『先代旧事本紀』を全面的に信じるわけではないけど、『日本書紀』がイザナギとイザナミを入れ替えている可能性を頭に入れておく必要がありそうだ。

 もう一つ気になったのは、速玉之男と事解之男に”日”と”泉津”が付いていることだ。
『日本書紀』にはないので『先代旧事本紀』の後付けということになるのだけど、日は太陽であり火でもあるから、速玉之男は日神であり火神でもあるということになる。
 泉津(よもつ)についても、泉津で生まれたからというだけでなく何か意味があるのかもしれない。

 

後裔は不明

 後裔については『日本書紀』も『先代旧事本紀』も言及しておらず、『新撰姓氏録』(815年)にもそれらしい氏族は載っていない。
 熊野神として祀られているくらいだから後裔はいたはずなのにその存在は不明だ。
 現存する『風土記』にも手がかりはない。
 だとすると、残るは神社方面から探っていくしかない。

 

出雲神であり紀伊神でもあり

 熊野大社というと、多くの人は紀伊和歌山の熊野本宮大社(和歌山県田辺市/web)を思い浮かべると思う。
 しかし、熊野大社は出雲大社(杵築大社/web)と並んで出雲国一宮とされた熊野大社(島根県松江市/web)の方が先だ。
 そして、言っても信じないと思うけど、その熊野大社の元宮は名古屋市天白区の島田神社(熊野社)だ。
 上でも書いたように熊野社は雲の社のことで、その根源は天白にある。
 とりあえずそれは置いておいて、まずは出雲の熊野大社について見ておこう。

 出雲の熊野大社の現在の祭神は熊野大神櫛御気野命、正式には伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命となっている。
 イザナギの子のクシミケノ(ヌ)ということだ。
 これは『出雲国造神賀詞』(いずものくにのみやつこのかんよごと)に出てくる名前で、『出雲国風土記』には伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命となっており、クシミケノは入っていない。
 なので、クシミケノは名前ではないかもしれない。
 この櫛御気野とは誰のことかということなのだけど、『先代旧事本紀』に出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊とあることから、平安時代までにはクシミケノはスサノオのことという思想が生まれていたようだ。
 ただ、最初からそうだったとは限らない。
『日本文徳天皇実録』(にほんもんとくてんのうじつろく)(879年)に、熊野大神の神階が仁寿元年(851年)に従三位になったという記事があり、『延喜式』神名帳(927年)には「出雲国意宇郡 熊野坐神社 名神大」として載っている。
 杵築大社と昇叙過程がほとんど同じなので、両社が並び立つ格好だったことがうかがえる。
 熊野大社は日本火出初之社(ひのもとひでぞめのやしろ)と呼ばれ、火が重要な鍵を握っている。
 杵築大社の国造家の当主が亡くなると、次の当主は走って熊野大社へ向かい世継ぎの儀の火継式を行う習わしになっている。
 杵築大社と熊野大社の歴史を言い出すと長くなるのでやめておく。

 紀伊和歌山の熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は、家都美御子大神(ケツミミコ)を主祭神としている。
 出雲の熊野大社から勧請されたという説と、まったく別系統の熊野神とする説がある。
 個人的にはその中間というか、直接の勧請ではないだろうけど関係があるにはあるはずと思っている。
 家都美御子はスサノオ(素戔嗚尊)のことともされるのだけど、熊野は中世に神仏習合して修験信仰が強まったので、よく分からなくなっている。
 現在は上・中・下に各四殿、十二殿あって十三柱の神が祀られている。
 第一殿が熊野牟須美大神と事解之男神、第二殿が速玉之男神、第三殿が家都美御子大神、第四殿が天照大神で、
ここに速玉之男神と事解之男神がいる。
 現代的な解釈としては、熊野牟須美大神はイザナミ(伊邪那美大神)、速玉大神はイザナギ(伊邪那岐大神)、
家津御子大神はスサノオ(素戔嗚尊)とされている。
『延喜式』神名帳には「紀伊国牟婁郡 熊野坐神社 名神大」とあり、こちらも名神大社だったことが分かる。
 同じ牟婁郡の熊野早玉神社は現在の熊野速玉大社とされる。
 熊野三山のもう一社、熊野那智大社は延喜式『神名帳』には載っていない。

 熊野速玉大社の祭神は社名からも分かるように熊野速玉大神だ。
 もう一柱の主祭神は熊野夫須美大神で、こちらは後付けだろうか。
 熊野速玉大神については、古くからイザナギ(伊邪那岐神)と考えられていたようで、速玉之男神を『日本書紀』の速玉之男神とする熊野本宮大社とは違う立場を取っている。
 熊野夫須美大神をイザナミ(伊邪那美神)とする。
 ただ、『延喜式』神名帳では一座なので、この頃は速玉之男神だったかもしれない。
 平安時代の初期までには神仏習合が進んで12の殿に十二所権現を祀っていたというから、熊野速玉大神はその総称という認識だっただろうか。
 熊野速玉大社は神倉山にあるのだけど、天白区の東隣の緑区の神の倉にある熊野社(徳重)を移した可能性がある。
 だとすれば本来の祭神はイザナミ(伊邪那美神)だったのではないか。
 神社を移すときは地名も移す(コピー&ペースト)することが多い。

 名古屋の熊野系神社を見てみると、天白区の島田神社菅田神社、南区の熊野三社(呼続)、西区の伊奴神社で速玉之男命と事解之男命が祀られており、南区の神明社(鳥栖)は速玉之男命が祭神に加わっている。
 いずれも古い神社で、これらで事解之男命と速玉之男命が祀られているということは尾張や尾張氏にとって重要な人物だったということだ。

 熊野を治めた熊野国造は、『先代旧事本紀』や『新撰姓氏録』では饒速日命(ニギハヤヒ)の後裔といっている。
 しかし、熊野本宮大社公式サイトを見ると、熊野国造の祖は天火明命(アメノホアカリ)だとはっきり書いている。これはうちは尾張氏ですよ宣言しているのと同じだ。
 この熊野国造家が熊野本宮大社や熊野速玉大社の社家を務めてきた。
 そうであれば、もともとの祭神は天火明(天若彦)だったのかもしれない。
 ちなみに、出雲大社(杵築大社)の元宮は愛知県一宮市の真清田神社(web)だ。
 どこまで信じてもらえるか分からないけど、これら熊野のルーツはすべて尾張にある。尾張は雲であり、雲から出たから出雲と呼ばれた。
 繰り返すけど、熊野は”雲の”から転じたものだ。

 以上のように、熊野神といっても誰が誰のことと絞りづらい。
 ただ、主要人物としては、イザナギ、イザナミ、スサノオということはいえる。そこにカグツチが絡んでいる。
 たとえばスサノオというのは個人名でもあり、代名詞でもあり、総称でもあるのだけど、ハヤタノマオはある意味ではスサノオであり、そうでもないともいえる。
 もう少し絞り込めるといいのだけど、私にはこのあたりが限界のようだ。

 

参考 尾張氏系図

 今手元に尾張氏後裔の家に伝わってきた系図がある。
 その中に速玉男が載っている。
 詳しいことは書けないのだけど、速玉男は○○ムスヒの子で、禍ッ日義也となっている(○○の部分は伏せ字)。
 禍津日神(マガツヒ)といえばイザナギ(伊邪那岐命)が黄泉国から戻ってきて穢れを祓う禊ぎを行ったときに成った神として記紀に出てくる神だ。
『古事記』では身につけていた衣類から12柱の神が成り、その後、瀬に入って禊ぎをしたとき八十禍津日神(ヤソマガツヒ)と大禍津日神(オオマガツヒ)が成ったといい、『日本書紀』第五段一書第六は黄泉国の穢れを祓うための禊ぎを瀬で行って最初に生まれたのが八十枉津日神(ヤソマガツヒ)で、それを直(矯)すために生まれたのが神直日神(カムナオシヒ)、次に大直日神(オオナオシヒ)と書いている。
 記紀がいう禍津日(枉津日)と速玉男が同一となると、どういうことになるのだろう。
 その禍ッ日義也(速玉男)と八重代姫との婚姻関係も書かれていて、その二人の間の子の顔ぶれがかなり突飛なのだけど、それを書くと混乱するだけなので控えたい。
 分かる人にはピンと来るのかもしれないので少しだけ書いておいたけど私の理解を超えていてよく分からないのでいったん保留としたい。
 いずれにしてもハヤタマノオが熊野神の一員として入っているということは尾張氏の血縁には違いなさそうだ。
 記紀はカグツチについて本当のことを書いていないので、話がいろいろおかしなことになっているのだけど、現実に起きた出来事として考えると、男女が婚姻して家と家が結びつき、子が生まれ、それぞれ独立してそれぞれの土地を開発し、また婚姻があり、ときに争いが起き、血統が途切れたり養子がつないだりといったことがあったであろうことが推測できる。
 この時代に大がかりな戦争で土地を奪い合ったりといっことはなかっただろうと思う。それでも殺し合いはあって、支配被支配もあったに違いなく、そこに祀りというものが加わってきて魂鎮めが後の神社や信仰へとつながっていった。

 

祀りと信仰は別

 祀り(祭り)というのは天の神に感謝を捧げることから発したのではなく、人に対する魂鎮めや魂振りから始まったのだろう。
 日本人の信仰は自然に対する素朴な気持ちから発したという考え方があるけど、それはもっと後のことだ。
 そもそも祀りと信仰は別の概念なのでごっちゃにしてはいけない。信仰があって祀りが生まれたのではなく、祀りから信仰が発生したと考えるべきだ。
 まずは畏れがあって、その畏れが取り払(祓)われたとき初めて感謝=信仰が生まれるのであって、その逆ではない。
 天や自然災害などを恐れる気持ちはもちろんあっただろうけど、もっと身近で切実なのが人間に関することだ。
 御霊信仰は平安時代あたりに生まれたというのが通説だけど、もっと根源的な部分で古くからそれはあったに違いない。それこそ縄文時代やもっと遡る原初の感情であり感覚だ。
 恨みをもって死んだ人間が祟らないように鎮めて祀るという思想は現代の日本人の中にもある。
 日本人が独特なのは、たとえ敵であっても鎮めて祀って味方にしてしまおうという発想だ。
 怨霊として強ければ強いほど味方に付けたら心強い。少なくとも敵に回すのは得策ではない。
 速玉男が熊野神として祀られたということは、単に子孫が祖先を祀ったというだけではなかっただろう。
 イザナギ、またはイザナミの穢れが生まれたとしていることを考えても三貴神などとは扱いがまったく違っている。
 速玉男が禍津日だというならなおさらだ。
 禍津日の禍は禍々しいの禍で、一種の凶事を示している。たぶん時代とともに意味は変化しているのだろうけど、禍事(まがごと)はよくないことではあっただろう。
 禍事は直して元に戻さなければいけないので直日神が必要になる。
『日本書紀』は速玉之男の後に掃って成ったのが事解之男といっている。事を解すということは直日にも通じるので、速玉男イコール禍津日、事解之男イコール神直日という構図は成り立ちそうだ。
 災厄は祓って直さなければならない。その災厄の源となったのが速玉男だったとしたら、速玉男は一体何をしでかしたのか。
 速玉男という名前にはどんな意味が込められているのか。
 その正体は尾張氏の誰かのはずだ。別の名前で知られる誰かだろうとまではいえる。

 

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