伊福部は職業集団であり人名であり地名でもある
まず問題となるのが、伊福利部連の伊福利部(いふくりべ)と伊福部(いふくべ)が同じなのか違うのか、という点だ。 伊福部は「いほりべ」・「いおきべ」・「いふくべ」・「いふきべ」などと読み、「五百木部」・「廬城部」・「伊福吉部」とも表記する。 ”部”は部民(べみん)の部で、職業を表す言葉であり、その一族の人物名であり、地名のこともである。 ”イフキ/イフク”は製鉄の際の踏鞴(たたら)に関わる息吹から来ているという説や、火吹(ひふき)が転じた説などあり、伊福部がどういう職を担っていたのかははっきりしない。 石棺や石室の製造職部民だった石作部(いしつくりべ)との関連も指摘されており、何らかの製造に携わる職業集団から発している可能性が考えられる。 あるいは祭祀に関わった一族かもしれない。笛を吹く笛吹から来ているという説を採れば、後の雅楽師に通じる笛吹一族ということになるだろうか。 地名としての伊福部は全国にあって、東は陸奥国、武蔵国から西は因幡国、出雲国、安芸国、薩摩国と範囲は広い。美濃国、尾張国、遠江国にもある。 伊福部氏がいたことから地名になった例が多いとすれば、伊福部というのはその土地にまつわる職業集団の可能性が高いということになる。移動していく技能集団であれば地名として定着しづらいのではないかと思うけどどうだろう。日本各地の広い範囲に分布しているということも何かを示しているに違いない。
伊福部一族の系統について
奈良時代末の784年頃に成立したとされる伊福部氏の系図「因幡国伊福部臣古志」によると、物部氏の祖の伊香色雄(イカガシコオ)の息子の武牟口命(タケムクチ)を始祖としている。 伊香色雄といえば、第10代崇神天皇時代に疫病を鎮めるため大物主神(オオモノヌシ)の子の大田田根子/意富多々泥古命(オオタタネコ)を探し出して大物主を祀った人物として『古事記』、『日本書紀』に登場する人物だ。『先代旧事本紀』や『新撰姓氏録』にもその名を留めている。 武牟口命の正体についてはよく分からない。武内宿禰(タケウチノスクネ)のことという説があるも定かではない。 「因幡国伊福部臣古志」には、日本武尊命(ヤマトタケル)の征西の際、吉備津彦命(キビツヒコ)や橘入来宿禰(タチバナノイリキノスクネ)らとともに稲葉の夷住山にすむ荒海という賊を征伐するために因幡国に立ち寄ったと書かれている。 武牟口の子の意布美宿禰のとき伊福部を初めて名乗り、その後、稲葉国造も兼任したという。 因幡国一宮の宇倍神社(うべじんじゃ/web)は武内宿禰を祭神とし、代々伊福部氏が社家を務めてきた。 宇倍神社の伊福部氏は天火明命(アメノホアカリ)を祖としている。天火明といいえば尾張氏の祖だから、伊福部は尾張氏と同族ということだ。 『先代旧事本紀』は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として、天火明と饒速日(ニギハヤヒ)を同一として扱っているから、遡れば尾張氏でもあり物部氏でもあるといういい方はできるかもしれない。 『新撰姓氏録』では、左京神別に伊福部宿禰、伊福部連がいて「尾張連同祖 火明命之後也」とし、大和国神別の伊福部宿禰氏、伊福部連氏を「天火明命子天香山命之後也」としている他、山城国神別の伊福部氏、河内国神別の五百木部連氏を「火明命之後也」としている。いずれにしても、伊福部氏は尾張氏一族という認識だったようだ。 『日本書紀』にも伊福部氏の名前が何箇所かで出てくるのだけど、間違って殺人を犯したとか、物を盗んで捕まったなどという内容となっており、乱暴な一族という印象を与える。 壬申の乱(672年)の際は、村国男依(むらくにのおより)とともに美濃尾張二万の軍勢を率いて活躍したとされ、八草の姓では第3位の宿禰姓を与えられている。 平安京にあった大内裏12門の内の殷富門(いんぷもん)は伊福部氏にちなんで名付けられたとされる。
伊福部と伊福利部は同じなのか違うのか
伊福部氏はそういった一族なのだけど、ここで最初の問いに戻る。伊福利部と伊福部は同じなのか違うのかという問題だ。 愛知県一宮市(旧葉栗郡木曽川町)に伊冨利部神社(いぶりべじんじゃ/web)がある。 『延喜式』神名帳(927年)の伊冨利部神社に比定されている神社だ(もうひとつの論社は一宮市大毛西郷の天神社)。 当時は「イフリヘノ」と読んでいたようだけど、現在は「イブリベ」といっている。 この神社の祭神は若都保命(ワカツホ)となっている。 社伝では天火明命の九世孫の弟彦命の弟といっている。 しかし、尾張氏系図に若都保というのは見られず、系図では弟彦は十世となっている。九世は弟彦の父・倭得玉彦で、その子としては日女、玉勝山代根古、彦与曽、置部与曽などがいるも、若都保はいない。若都保は尾張氏本家ではなく庶流ということになるだろうか。 『先代旧事本紀』によると、弟彦の母違いの弟で、若都保の母は大伊賀姫となっている。名前からして伊賀国の人だろう。弟彦の母は淡海国谷上刀婢とあるから、淡海国の人だ。 弟彦は『日本書紀』の日本武尊熊襲征伐のところで出てくる。日本武尊が弓の上手い人間を探していたとき、美濃国に弟彦公という弓の名手がいると聞き、葛城の宮戸彦(ミヤトヒコ)を派遣して呼び寄せたという記事だ。弟彦は、石占横立(イシウラノヨコタチ)と尾張の田子稻置(タゴノイナキ)、乳近稻置(チチカノイナキ)を連れて日本武尊に従ってついて行ったという。 伊福部は美濃国とのゆかりが深く、弟彦を通じても美濃とつながる。 若都保は美濃二宮の伊富岐神社(いぶきじんじゃ/web)でも祀られているから、若都保自身は美濃にいて、その子孫が尾張国に進出して後に若都保を祀る神社を建てたという流れが考えられる。 尾張国の海部郡(あま市七宝町伊福宮東)にも伊福部神社が鎮座している。 伊福部ではなく伊冨利部となった理由はよく分からないままだ。尾張以外に伊冨利部と称していたところがあるのかどうか。 この場合の”利”は何を意味しているのか。まったく無意味に付けるとも思えない。
伊福部氏発祥は尾張かもしれない
名古屋における伊福部、あるいは伊冨利部の痕跡として、『延喜式』神名帳の愛智郡伊福神社(イフノカミノヤシロ)がある。 早い段階で失われた神社とされ、昭和区の伊勝八幡宮、緑区鳴海町の熊野社(徳重)、愛知郡東郷町の富士浅間社、北名古屋市の天神社が論社として挙がっているものの、いずれも可能性は低そうだ。 この中で、緑区鳴海町の熊野社は主祭神の伊弉冉尊(イザナミ)の他に伊福利部連命を祀っている。これは無視できない事実だ。 神社は神ノ倉と呼ばれる小山の上にあり、古くは「イブクマノ社」と呼ばれていた。江戸時代後期(1847年)の鳴海村絵図には「伊吹の神社 クマノ社」とある。 伊福部はもともと鞴(フイゴ)を扱う集団だったという説があるように、伊吹は息吹に通じる。それが伊福に転じた可能性は考えられる。 伊吹山は日本武尊が命を落とすきっかけになった山だ。そこにも何か引っかかりを感じる。 鳴海の熊野社が熊野社となったのも、「イブクマ社」からかもしれない。 いずれにしても祭神として伊福利部連命を祀っているということは、伊福部氏、もしくは伊福利氏がこの地にいてカミマツリをしていたということなのだろう。祀っていた側が後に祀られる側になるというのはよくあることだ。 伊福(利)氏がもともとどんな神を祀っていたのかは分からない。意外と最初から伊弉冉尊を祀っていたのではないか。だとすると、伊福(利)部氏はやはり尾張氏の一族ということになりそうだ。 私は尾張氏が古代に大和国葛城山あたりからこの地にやってきて尾張氏を名乗ったという説をまったく信じていない。尾張の地には3万数千年前の旧石器時代から縄文、弥生、古墳時代と連綿と続く歴史があり、古代にふらっとやって来たよそ者が簡単にこの地を支配できるはずもないからだ。縄文や弥生の遺跡に大規模な戦争の痕跡などもない。尾張氏はかなり古い時代ーーー旧石器時代や縄文時代ーーーにやって来てこの地に土着した人々がいつの頃からか尾張氏を名乗った一族だと私は考えている。尾張氏の祖が天火明だというなら、尾張氏は天孫と同じ天氏ということだ。そのあたりについては熱田神宮のページに詳しく書いた。 話をもとに戻すと、伊福(利)部を名乗る一族が旧木曽川町や愛智郡にいて、この地で何らかの役割を果たしていたことは間違いないだろう。神社としての痕跡は少ないものの、確かに足跡は残している。 因幡国の方がはっきり残っているからといって因幡国が本拠だったとは限らない。むしろくっきり残っているということは時代的に新しいということで、かすかにしか残っていない方が古いと考えるのが自然だ。伊福(利)部発祥の地は尾張だった可能性は充分にある。
結局のところ伊福部、伊福利部についてはよく分からないというのが結論なのだけど、これで幕引きというわけではなく、今後ともこの一族については調査を続けていこうと思っている。
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