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洲原社(米野木)

この小山は何かあるのか

読み方すはら-しゃ(こめのき)
所在地日進市米野木町土岡113 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神保食神(ウケモチ)
伊弉諾命(イザナギ)
宇賀魂神(ウカノミタマ)
アクセス日進市コミュニティバス「平子台」より徒歩約11分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他不明
神紋
オススメ度
ブログ記事

よく分からない

 かつての米野木村(こめのきむら)の村域にあった神社には違いないのだけど、情報はごく少ない。
 神社本庁に入っていないようなので『愛知縣神社名鑑』にはなく、白山宮の宮司さんはこちらは兼務していないのか、白山宮のwebにも載っていない。
 ネット情報もほぼなく、わずかな手掛かりとしては『日進町誌』くらいだ。

 米野木村の神社その他については神明社(米野木)のページに書いたのでそちらをご覧いただくとして、尾張の地誌の米野木村の項を簡単に載せておくと以下のようになっている。

『寛文村々覚書』(1670年頃)

米之野木村 鳴海之庄

社 四ヶ所 内 神明 権現 山之神弐社
 当村長大夫昌林寺持分

 この中の権現が洲原社のようで、だとすると、前々除とは書かれていないものの、江戸時代以前からあった神社ということになりそうだ。
 しかし、権現というだけでは何権現を祀っていたのかは分からず、もともとは洲原社ではなかったかもしれない。

『尾張徇行記』(1822年)

本亮院 曹洞宗号竹渡山、藤島村龍谷寺ノ末寺也、当寺書上ニ、昔時久厳山昌林寺ト号シ、境内一反御除地、開山満嶺和尚寛永十五丁丑年遷化ス、此寺へ渡辺半蔵室本亮院ノ庇恩アルニ因テ、乃寺号ヲ本亮院下改ム、是天明三卯年ナリ

当寺控洲原祠境内三反燈明田五畝共ニ御除地ナリ

社四ヶ所 覚書ニ神明・権現・山神二社、当村長太夫昌林寺持分トアリ
祠官山田長太夫書上ニ、氏神神明祠・御鍛神祠・境内一町八反外ニ田七畝共ニ前々除
山神二社、境内一ツハ東西三十四間南北廿二間、一ツハ東西二十四間南北三十二間、共ニ前々除
春日明神祠境内二反五畝十八歩、三狐子祠境内一畝、八幡祠境内十八歩、イツレモ村除

 江戸時代後期の1822年時点では”洲原祠”となっており、洲原社という認識だったことが分かる。
『寛文村々覚書』にある昌林寺は、上にも書かれているように天明3年(1783年)に本亮院と改めた曹洞宗の禅寺なのだけど、江戸時代前期から米野木村の神社すべてを管理していたようだ。
 洲原(権現)もそうで、燈明田もあったということは祠程度ではなくちゃんとした神社だったのだろう。
 燈明田(とうみょうでん)の燈明(灯明)は神仏に供える灯火のことで、江戸時代は油を使っていた。
 この油代を捻出するための田んぼがあったということだ。

『尾張志』(1844年)には洲原社がないのは引っ掛かる。

 神明ノ社 境内に鍬ノ神ノ社あり是を村の氏神とす
 春日ノ社 八幡ノ社(直會(ナホラヒ)といふ地にあり) 山ノ神ノ社三所 社宮司ノ社

 以上ともに米の木村にあり

 どうして『尾張志』では漏れてしまったのか。

『日進町誌』は以下のように書いている。

洲原社(保食神・伊弉諾命・宇賀魂神)は、神明社の南方約一キロ、海抜九○(比高約四○)ほどの独立峯(洲原山)の山頂に鎮座している。
当社は『寛文覚書』にも「権現」と見え、神明社と同じく「当村長大夫昌林寺持分」とあるが、『徇行記』には 「当寺控、洲原祠境内三反」とある。
そのため、祭礼日には本亮院内の別堂を舞台にして「獅子芝居」を奉納したという。
また、この例祭には、年齢に応じて中老・大頭・小頭・合誰・若イ者と区分して神前に参進し、嫁獅子などを奉納した。
昭和15年ごろから中絶している。
明治40年、三狐子社(宇賀魂神)を合祀

 創建や由緒などについては触れられていないので、やはり何も分からない。
 獅子芝居や嫁獅子奉納などを戦前まで行っていたということは、米野木地区の中で重要な神社と位置づけられていたということだろう。
 氏神の神明社に合祀されることなく独立を保ったのもそれを示している。

洲原は白山

 洲原神社系の総本社は岐阜県美濃市にある洲原神社(公式サイト)とされる。
 洲原(須原)系の神社は全国に49社あるそうだけど、意外と少ないと感じる。
 名古屋市内で現存する洲原社はないものの、尾張の地誌には洲原大明神などとして出てくるから、江戸時代まではもっとたくさんあったのではないかと思う。
 現在でも境内社として祀られている例はわりとある。

 洲原神社公式サイトの由緒にはこんなことが書かれている。

養老元年、白山を開山された越前の僧泰澄大師が、白山の雪嶺に登り、苦修練行の功を積んでいたところ、白山神が現れて「白山は四季雪深く、老若の歩行はかないがたい。そこで、美濃国音無川(現在の長良川)の辺、鶴形山の岸に行きて、我を斎い祭れ。永く帝道の繁栄を護り、国家豊穣を衛るべし。」と告げました。
養老5年(721)実に宏大荘厳な御社殿が御造営の工を竣え、勅を奉じて泰澄が御祭神をお祀り申し上げました。

 養老元年は717年で、奈良時代の初期に当たる。
 白山を開いた泰澄が美濃国に白山神を祀ったのが始まりという。
「白山登拝に至るまでの道である美濃禅定道の前宮(さきのみや)であり、長瀧白山神社・白山中居神社とともに美濃の白山信仰の中心である」という説明からも分かる通り、白山社、白山信仰との結びつきが深い。
 ざっくりいってしまえば洲原は白山ということだ。

 ただ、白山の神は誰かとなると、これがややこしくて一筋縄ではいかない。
 白山社の総本社は加賀国一宮の白山比咩神社(公式サイト)とされ、白山比咩大神(シラヤマヒメ)、伊邪那岐尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)を祀り、白山比咩大神を菊理媛(キクリヒメ)と同一としている。
 美濃の洲原神社の現在の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、大穴牟遅神(オオナムチ)とするも、江戸時代までは伊弉冉尊、菊理媛命、大己貴命だった。
 日進の洲原社は伊弉諾命とする。
 結局、誰を祀っているの? という話なのだけど、はっきりしないとしか言いようがない。

この小山はどういう場所なのか

 誰がいつこの場所に洲原神を祀ったのかという問いに対する答えを私は持っていない。
 江戸時代以前だろうとは思いつつ、どこまで遡れるかは見当がつかない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、集落と洲原社との位置関係が把握できる。
 集落から少し離れた南の小山の山頂に洲原社は祀られていた(標高は86メートルとある)。
 洲原社があるのが土岡という字で、すぐ西は南山となっている。これは集落から見て南の山ということだろう。
 土岡というのはなんとなく古墳を連想する。ここがもともと古墳だった可能性もあるのではないか。
 この小山を洲原山とも呼ぶそうで、普通に考えれば洲原社があるからそう呼ばれているということだけど、逆ということもあり得るかもしれない。洲原山が先で、そこに社を祀ったので洲原社と呼ばれたということだ。
 洲原の”ス”が古代には限定的な意味を持っていたのではないかという気もする。

 現在、洲原社の周辺は丘陵地を切り崩して区画整理した住宅地となっている。
 まさかこんな場所を開いて人が住むようになるとは江戸時代の米野木村の人は思わなかっただろう。
 なかなかの坂道で、自転車生活は厳しそうだ。

 洲原社の行き方の説明が難しい。
 私は西の住宅地の中を通って、なんとなくここかなという入り口から入っていって辿り着けたのだけど、北側に洲原社と彫られた立派な社号標が建っているので、北入口の方が分かりやすい。
 ただ、けっこうな坂道、山道で、思いのほかしんどかった。
 小山といえどもかかと付きの靴では厳しいかもしれない。

 それにしても、なんでここに洲原神だったんだろうという疑問が最後まで残った。
 場所もそうだし、洲原神である必然が見えない。
 日進の総鎮守は白山宮だからその関係というのもありそうだけど、そこのつながりも薄い気がする。

作成日 2025.6.13


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