もとは八龍社
読み方 | たかおかみ-しゃ |
所在地 | 尾張旭市桜ヶ丘町275 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 無格社・十五等級 |
祭神 | 高龗神(タカオカミ) 闇龗神(クラオカミ) |
アクセス | 名鉄瀬戸線「印場駅」から徒歩約8分 |
駐車場 | なし |
webサイト | 澁川神社公式サイト内 |
例祭・その他 | 例祭 6月1日 現在は5月と9月の第一日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 高龗社参拝で13年かかって尾張旭神社巡りが完結 |
雨乞いの神
江戸時代は”八龍”と呼ばれる雨乞いの神だったようだ。
『愛知縣神社名鑑』は以下のように書いている。
昔より雨乞いの神として崇敬あり、創建は明かではない。
『愛知縣神社名鑑』
明治6年、据置公許となる。
明治6年(1873年)に据置公許となっていて、明治末の神社合祀政策では合祀されずに残されたということだ。
祭神を高龗神(タカオカミ)と闇龗神(クラオカミ)にしたのはこのときではないかと思う。
現在は澁川神社の境外末社という扱いになっている。
創建の時期を推測するのは難しいのだけど、『寛文村々覚書』(1670年頃)で”前々除”となっているので、1608年の備前検地以前からあったということで、江戸時代以前なのは間違いなさそうだ。
印場村
社 四ヶ所 内 蘇父川天神 八龍 大明神 山神
社内弐町八反五畝歩弐町四反 天神 織田常真公御黒印有之
『寛文村々覚書』
外ニ 田三反壱畝歩 屋敷八畝拾歩 備前検除 当村祢宜 四郎太夫持分
五畝歩 八龍 山神 前々除 同人 持分
四反歩 大明神 前々除 あつた徳太夫持分
では、どこまで遡れるかだけど、印場村の村民が祀ったと仮定すると、印場の集落ができたときという可能性が考えられる。
印場の澁川神社が延喜式内(927年)の澁川神社かどうかという問題はあるものの、天武天皇の白鳳5年(676年)の新嘗の斎忌(ゆき)と関係があるとすれば、その時代にはすでに集落があったということだろうから、八龍またはその前身がすでに祀られていたとしても不思議はない。
この地域は今もため池が多く残るところで、かつてはもっとたくさんあったことからも分かるように、生活用水や農業用水をため池に頼っていただろうから、雨が降らないのは死活問題だ。そんなときは雨乞いをせずにはいられなかっただろう。
そのための社が、印場の北の山の頂に祀られたこの社だったということだ。
地形と時代の推移
印場村の絵図は、天保12年(1841年)や天保15年(1844年)、年代不明のものなどが伝わっている。
集落は中央の水野街道沿いが中心で、”本江”とあるのでここが本郷に当たる。
集落の東北に氏神(渋川神社)があり、南の矢田川北に出郷の庄中があった。
良福寺と山の上のため池は描かれているものの、八龍までは描かれていない。
村の北部はほぼ山地で、南は矢田川まで田んぼが広がっている。
天保15年の絵図には庄中に”観音”が書かれている。これは庄中観音堂として今も残っている。
矢田川の南に八剣大明神と山神があったのが、ここから分かる。
出屋敷というのが3ヶ所ある。
年代不明の地図から分かるのは、北を通っている道を定光寺街道、南を名古屋道と呼んでいたことだ。
矢田川南の林は、「白山不入御林 大森村持分」となっていて、印場村ではなく大森村の持分だったようだ。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く当時の様子がもう少し詳しく分かる。
現在の名鉄瀬戸線「印場駅」の南、印場元町が集落の中心で、瀬戸街道(水野街道/定光寺街道)沿いにも民家が建ち並んでいる。
八龍があったのは印場集落の北の山頂で、今昔マップの三角点を示す記号と95.8と書かれたあたりだった。
現在地も当時とほぼ同じ位置にあることになる。
今はこのあたり一帯が住宅地になっていて、マピオンでは海抜76メートルになっているから、山頂付近をかなり削っている。
それでも印場駅付近が海抜48メートルだから、神社へ行くにはけっこうな坂を登らないといけない。変速機のない自転車で漕いでいける気がしない。
周囲を見渡してみても、北を流れる庄内川まで等高線が狭いのがよく分かる。山岳地帯というと大げさだけど、印場の集落は丘陵地の麓に当たる。
この丘陵地の縁を中心に、5世紀から6世紀にかけて多くの古墳が築かれた。
古くは丘陵地が生活の場所で、時代とともにだんだん低地に移り住んでいったのだろう。
八龍を祀ったのが平地の郷ではなく山の上だったというのは、神のエリアと考えていたからではないか。
今昔マップの1920年(大正9年)を見ると、鉄道が通っているのが分かる。
名鉄瀬戸線の前身である瀬戸電気鉄道が1905年(明治38年)に開業しており、この当時の印場駅は今よりも東の白鳳小学校のところにあった。
途中の地図がなくて詳しい推移が分からないのだけど、1968-1973年(昭和43-48年)の地図を見て気づくことが2つある。
一つは蛇行していていた瀬戸街道を真っ直ぐに付け替えたこと、もう一つは謎の鳥居だ。
何だろう、この鳥居。分からないというか、知らない。
現住所でいうと印場元町3丁目だろうけど、現在その場所に神社はない。北島公園の北あたりで、住宅が建っているだけだ。
1996年の地図まで残っているから、移されたか廃社になったのはわりと最近のことかもしれない。
もう少し調べて分かったら追記したい。
八龍(高龗社)のあたりを見ると、1960年代に少し家が建って、本格的に宅地化されたのは1990年代以降のようだ。
西の大森地区や東の瀬戸地区と比べると開発は遅く、最後まで山地の面影を残していたのが印場のあたりだったといえる。
八龍とは何か
八龍というと、法華経の八大龍王を連想しがちだけど、ここの八龍はそういった仏教系ではない。
印場の西の大森にも八龍神社(地図)がある。距離でいうと印場の八龍の西1.2キロほどだ。
八龍は八匹の龍ではなく、八の龍を表していると思う。
八坂とか、八田とか、八剣とかと同じ八だ。
龍神イコール水神とされたのは後世のことで、もともとは土地神として祀ったのが始まりだったかもしれない。
水を司るのは為政者の役割であり、ため池を掘ったり水路を通したり、水を管理するといったことをしていただろうから、土地神イコール水の神とされたと考えれば納得がいく。
親神は龍で自分たちは子供の龍だという思想があって、龍神信仰イコール祖先崇拝という見方もできる。
龗はオカミさん?
現在の高龗社の祭神は高龗神(タカオカミ)と闇龗神(クラオカミ)になっている。
上にも書いたように、明治6年に据置公許となった際にそう定めたと思うのだけど、ひょっとするともっと古くから龗(オカミ)を祀るという認識があったかもしれない。
高龗神は京都の貴船神社(公式サイト)の祭神として知られる他、奈良県吉野郡の丹生川上神社上社(公式サイト)でも主祭神として祀られる。
闇龗神は丹生川上神社下社で祀られている。
貴船神社の奥宮も闇龗神を祭神としているのだけど、貴船神社は高龗と闇龗は名前が違うだけで同一といっている(公式サイトでは奥宮の祭神を高龗神としている)。
では、高龗・闇龗とはどんな神かというと、よく分からない。
水を司る神であり、龍神だともいう。
『古事記』は、伊邪那美神(イザナミ)が火神の迦具土神(カグツチ)を生んだことが原因で命を落としてしまい、怒った伊邪那岐命(イザナギ)が迦具土神を斬り、その血から多くの神が生まれたといっているのだけど、その中に闇淤加美神(クラオカミ)と闇御津羽神(クラミツハ)がいる。
この二柱は刀の手上(柄)に集まった血が手俣より漏れ出て成ったと書いている。
『日本書紀』は第五段一書第六の中で、軻遇突智(カグツチ)の血が剣の柄からしたたって闇龗、闇山祇(クラヤマズミ)、闇罔象(クラミツハ)が成ったと書く。
同段一書第七では、伊弉諾尊が軻遇突智を三段斬りにして、雷神(イカヅチ)と大山祇神(オオヤマツミ)と高龗が成ったという別伝承を伝えている。
つまり、雷神と山神と龗は兄弟分のようなものといっているということだ。
ここには何か大きなヒントがあるような気がする。
雷神は死んだ伊弉冉を追いかけて黄泉国までやってきた伊弉諾が逃げたときに追いかけて追い詰めた神として登場する。
この雷神は後の賀茂氏ともつながっていく。
高龗も闇龗も、名前が出てくるだけで記紀では活躍は一切語られない。
迦具土の血から成ったということは迦具土の一族という捉え方もできるわけだけど、迦具土が伊弉諾と伊弉冉から生まれたというのであれば、伊弉諾・伊弉冉ファミリーの一員ともいえる。
問題は、何故、龗が古い神社の祭神となったかだ。
水神とか龍神というイメージは記紀からは感じ取れない。
祭神として祀られるには、もっと具体的なイメージなり人物像が必要だ。実際に生きた一人の人間がモデルになった可能性もある。
前々から私はこんなことを思っていた。
龗って女将なんじゃ?
そんな馬鹿なと思われそうだけど、オカミは”御+カミ”で、語源としては”カミ”から来ている。
現代の我々も”カミさん”という言い方を普通にしている。
自分の妻のことをいうのが一般的だけど、もう少し古い時代は目上の女性の総称として使われていた。カミをより丁寧に呼ぶためにオを付けてオカミと呼んだ。
つまり、龗は女主のような存在だったのではないかということだ。
龗の字から読み解く
龗の字は”龍”+”霝”から成り立っている。
”霝”の字はもともと”靈”と書く。
”雨”+”口口口”+”巫”だ。
今は簡略化されて”霊”としているのだけど、これは意図的に変えられてこうなった。
”巫”(かむなぎ)は巫女(みこ)でよく目にする字だけど、本来は”人人”のところが”スス”でなければいけないという。
龗を水神や龍神とするのは、この字から来ている部分が大きいのだけど、個人的にはそれは後世の後付け的な解釈でしかないと思っている。
イメージとしては男神ではなく女神のような気がする。
雨乞いの神として
印場の八龍(龗神)はそんな深い理由があるわけではなく、村人が雨乞いの神として高いところに祀っただけかもしれない。
深読みしすぎてあさっての方向に行ってしまうことはよくあることだ。
ただ、人がやることには案外深い意味や理由があるもので、何気ない行為も何らかの意思が働いていたりする。
たとえ小さな祠だったとしても、神を祀るという行為はそれほど軽いものではない。
雨乞いをするときは馬を奉納したそうだけど、それがいつ頃から始まったかについてはよく分からない。
ただ、そこまでやるということはここが単なる祠程度のものではなかったということで、霊験があると信じられていたということでもある。
それだけこの地区では水問題が深刻だったといういい方もできそうだ。
明治になっても合祀されなかったのは、住人にとってこの神社が必要だったからだ。
尾張旭市内の村にあった神社はほぼ氏神一社にまとめられてしまったのに、印場村のこの八龍(龗)は残された。
それはなかなかたいしたものといっていい。
作成日 2024.5.8