雷神は賀茂であるということ
雷神は要するに賀茂である、といってそりゃあそうだよねという反応が返ってくることは少ないだろう。たぶん、ほとんどは、何の話? ときょとんとされてしまうに違いない。
鴨が葱を背負ってくるというのは賀茂が禰宜を背負ってやってくるということで、雷にへそを取られないように守れというのは賀茂に大事なところを取られないように隠せということだ。
どうしてそういうことになるかは順を追って説明しないといけないだろう。
ということで、まずは『古事記』と『日本書紀』が雷神について何を書いているかを見ていくことにする。
『古事記』が伝える雷神
雷神が登場するのは黄泉国(よみのくに)だ。
火之夜芸速男神(またの名を火之炫毘古神、またの名を火之迦具土神)を生んだことが原因で亡くなった伊邪那美神(イザナミ)を伊邪那岐命(イザナギ)が黄泉国まで追いかけていった場面。
一緒に戻ろうという伊邪那岐命に、黄泉国の食物を食べてしまったので帰れないという伊邪那美命。
でもせっかく来てもらったから黄泉神に相談しますといい、我を視ないでほしいとも頼んだのに、しびれを切らした伊邪那岐命は暗闇の中、櫛に火を灯してこっそりのぞき見てしまう。
すると伊邪那岐命の体に蛆がたかってゴロゴロと音を立てており(宇士多加礼許呂呂岐弖)、頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、陰には拆雷、左手には若雷、右手には土雷、左足には鳴雷、右足には伏雷の八柱の雷神が成り居た。
それを見た伊邪那岐命は畏れをなして逃げ出し、伊邪那美命は吾に恥をかかせたなと言って予母都志許売(ヨモツシコメ)に後を追わせた。
伊邪那岐命が黑御(みかづら)を取って投げ棄てると蒲子(えびかずら)が生まれて豫母都志許賣がそれを食べている間に逃げ、更に追ってきたので右の美豆良(みずら)に刺していた櫛を折って投げ棄てると(刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄)、笋(たかむな)が生えて豫母都志許賣がそれを食べている間にまた逃げた。
次に伊邪那美命は八雷神に千五百の黃泉軍を副えて追いかけさせた。伊邪那岐命は佩いていた十拳劒を後ろ手に振りつつ逃げ、黃泉比良此坂(よもつひらさか)の坂本に至ったとき、桃を三個投げるとようやく雷神の軍勢は退散したのだった。
伊邪那美命は救いとなった桃に対して、自分を助けてくれたように人々が苦しんでいるときには助けてやって欲しいと、意富加牟豆美命(オオカムヅミ)という名を与えたという。
この話全体はおとぎ話のようになっていてそれぞれは何らかの象徴なのだろうけど、解釈は後回しにして、『日本書紀』は同じ場面をどう描いているか読んでみよう。
『日本書紀』は舞台が違っている
『日本書紀』は第五段に神生みについて書いている。
本文は伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が海川山木草などを生み、三貴神が生まれ、言うことを聞かない素戔鳴尊(スサノオ)を根国へ追放したと、ダイジェストのように短くまとめている。
詳しいことは一書の中で分割して語っている。
軻遇突智(カグツチ)を生んで亡くなった伊弉冉尊を伊弉諾尊が黄泉国まで追いかけていった云々という『古事記』の話は一書第六に書かれているのだけど、ここでは雷神は出てこない。
雷神について書かれるのは一書第九だ。
しかし舞台は黄泉国ではなく”殯斂之處”としている。
これは仮の殯(もがり)を行うところで、いわば遺体を安置して祀っている場所だ。黄泉国ではない。
どうしてそういう設定にしたのかは分からないけど、こちらの方が現実味があるといえばある。
そして驚くことに伊弉冉尊は生きていたというのだ。原文では「是時 伊弉冉尊 猶如生平 出迎共語」と、普段と変わらず生きて出迎えて共に語ったといっている。
ただ、それはかりそめの姿だったのか伊弉諾尊が見た幻影だったのか、どうか吾の姿を視ないと言うと忽然と姿を消し、あたりは闇に包まれた。
伊弉諾尊は言いつけを守らず火を付けて辺りを視ると伊弉冉尊の体が膨れて(脹滿太高)その上に八色の雷がとりついていた。
驚いた伊弉諾尊は走って逃げだし、雷たちがそれを追いかけた。
伊弉諾尊は桃の大樹に隠れて桃の実を採って雷たちに投げつけると雷たちが逃げ去っていった。
そして杖を投げて、雷たちはここからこちらには来られないと言った。
この八色の雷については、首に大雷(オオイカヅチ)、胸に火雷(ホノイカヅチ)、腹に土雷(ツチイカヅチ)、背に稚雷(ワクイカヅチ)、尻に黒雷(クロイカヅチ)、手に山雷(ヤマイカヅチ)、足に野雷(ノノイカヅチ)、陰(女陰)に裂雷(サクイカヅチ)といっている。
この顔ぶれも『古事記』とは少し違っていて、『古事記』は手足を左右に分けているのに対して『日本書紀』は手足を一つにして、代わりに背と尻に雷がついているとする。
このように『古事記』と『日本書紀』を比較すると、舞台設定の違いはあるものの、話の筋としてはほとんど同じということが分かる。
雷がとりついた場所や名前の違いが少し気になるところではある。
『先代旧事本紀』は合わせ技
『古語拾遺』(807年)は伊奘冉尊の死を描いていないので黄泉国どうこうという話自体がない。
『先代旧事本紀』(800年代前半)はここでも『古事記』と『日本書紀』を合体させていて、殯斂處を黄泉国にあるとしたのは上手いと感心させられた。
最初に雷神が出てくるのは、伊奘諾尊が軻遇突智を斬った場面だ。
十握剣で軻遇突智の頸を斬って三つに断つと、それぞれから雷神(イカヅチ)、大山祇(オオヤマツミ)、高寵(タカオカミ)が成ったと書く。
ただ、これは『先代旧事本紀』のオリジナルというわけではなく、記紀がいうところの建御雷之男神/武甕槌神(タケミカヅチ)のことを指していると思われる。
黄泉国の殯斂處でのやりとりは『日本書紀』第五段一書第九に準じていて、八種類の雷については、頭に大雷、胸に火雷、腹に黒雷、陰部に列雷、左手に稚雷、右手に土雷、左足に鳴雷、右足に伏雷と、『古事記』の伝承を採っている。
両方の書への気遣いが半端じゃない。
逃げ出した伊弉冉尊に対して伊弉冉尊が泉津醜女や八種の雷神と千五百の黄泉兵に追いかけさせた場面も記紀を上手くつなぎ合わせてまとめている。
雷神撃退の鍵はやはり桃だった。桃については後ほどあらためて考えることにしたい。
雷大臣の存在
雷神は賀茂のことだと最初に書いた。
賀茂は鴨のことでもあり、雷は同時に中臣のことでもある。
それを示しているのが『先代旧事本紀』と『新撰姓氏録』(815年)だ。
『新撰姓氏録』を見ると、雷大臣の名前が出てくる。
”かみなりだいじん”? と思うとそうではなく、”イカツノオオオミ”と読むとされる。
いずれも天皃屋命(アメノコヤネ)○世孫の雷大臣の後といった位置づけで、九世、十世、十一世、十三世、十四世とあるので、雷大臣は個人名ではないことが分かる。代々この家系で受け継いだ名なのだろう。
”雷”は当て字でもあり、建御雷之男神から来てもいると思うのだけど、”イカツ”というのが一つキーワードになる。
”イカツ”といばあの人、中臣烏賊津使主 (ナカトミノイカツノオミ)が思い浮かぶ。
『古事記』には出てこないものの、『日本書紀』では仲哀天皇と神功皇后に仕えた重臣として登場する。
特に神功皇后時代に存在感を見せる人物だ。
仲哀天皇急死を秘したときのメンバーの一人であり、新羅征伐にも参加している。
後に神功皇后の命で百済に渡って百済の女を娶って一男をもうけたということも書かれている。
しかし、神功皇后の三韓征伐は朝鮮半島へ行ったわけではないので、当然ながらこの百済も朝鮮半島の百済国のことではない。
中臣烏賊津使主は卜部(うらべ)の祖ともされ、対馬では始祖的な扱いを受けている。ただ、これにも裏というか本当の話があるだけど、ここではやめておく。
対馬(つしま)の元地は愛知県津島市で、津島は”先津島(先対馬)”と呼ばれていた。
なので、三韓征伐にしても、対馬の伝承にしても、もともとは尾張国での話が人の移動とともに伝承も移ったということだ。
話を戻すと、雷大臣の元は中臣烏賊津使主である、と言い切るのは少し問題がある。
そもそも雷の祖を建御雷之男神とするならば、時代はずっと前だからだ。
ここでもう一度『新撰姓氏録』に戻ると、天皃屋命は津速魂命(ツハヤムスビ)三世孫とされている。
津速魂命は一般的にあまり馴染みがない。『古事記』にも『日本書紀』にも出てこない。
しかし、『先代旧事本紀』や『古語拾遺』には出てきている。
『日本書紀』は天兒屋命を興台産靈(コゴトムスビ)の兒としていて、『先代旧事本紀』は津速魂尊-市千魂尊(イチチタマ)-興台産靈-天児屋命としているので、世代的には合う。
ただ、その『先代旧事本紀』は津速魂尊を神世七代の七代目の伊奘諾尊・伊奘冉尊と同じ代に独化天神第六世として生まれたと書いていて、そうなると世代的にどうなんだというのはある。
それとは別に面白いことを書いているのが『古語拾遺』だ。
天御中主神(アメノミナカヌシ)には三男がいて、長男を高皇産霊神(タカミムスビ)、二男を津速魂尊、三男を神皇産霊神(カミムスビ)だといっているのだ。
これはちょっとあり得ない気がするのだけど、何かを示唆しているように感じられる。少なくとも斎部広成が個人の思いつきで書いたはずもなく、忌部の家にそういう伝承が伝わっていたということだろう。
尾張氏家の系図では
尾張氏家の系図を見てみると、記紀その他とはまったく違う系譜になっていて興味深い。
鴨氏から逆に辿っていくと、父が生玉兄彦(イクタマエヒコ)で、その父が建玉依彦(タケタマヨリヒコ)で、この建玉依彦は鴨建角身(カモタケツヌミ)と香久山姫(カグヤマヒメ)との間の子となっている。
香久山姫の親は天火明(他にも多くの名を持つ)とアマテラスの一人である天道姫(伊瀬織津姫)で、香久山姫は尾張氏二代とされる天香久山(アメノカグヤマ/天香語山)の姉または妹に当たり、鴨建角身をカミムスヒ(神皇産霊神)5代でヤタカラス(八咫烏)としている。
その先まで辿っていくと、結局のところ、伊弉諾尊・伊弉冉尊や高皇産霊神、神皇産霊神に行き着いてしまうのだけど、流れとしては母方が伊弉諾尊・伊弉冉尊系の尾張氏で、父方が神皇産霊神系という意識が鴨氏(賀茂氏)にはあったのではないかと思う。
ハイブリッド、またはサラブレッドといういい方ができる。
尾張氏家系図では津速魂尊という名は出てこないのだけど、どこかに隠れているのかもしれない。
タケミカヅチについていうと、イクツヒコネ(活津彦根命)の子としつつ、妻についての記載はなく、子は女とだけあり系譜が途絶えている。
記紀とは全然違っていて、このへんはよく分からない。
イクツヒコネを”住吉”としているので、忍坂と住吉にある生根神社(web)あたりに何か関係がありそうだ。
雷大臣が建御雷之男神の流れから来ているという推測は外れているかもしれない。
賀茂と鴨と加茂は別
脱線ついでに賀茂氏(鴨氏)について少し書いておくと、賀茂の本拠は山城国(京都)ではなく三河の加茂だというのは別のところでも書いた。
ただし、同じ”かも”でも賀茂と鴨と加茂は同じではない。関係はあっても同じ流れではないことを理解しておく必要がある。
三河は加茂だし、京都では賀茂と鴨に別れているのも字の違いだけではない。上賀茂神社(web)と下鴨神社(web)が”かも違い”なのもそうで、上と下となっているのも意味がある。
下鴨は鴨建角身のことで、上賀茂神社(賀茂別雷神社)で祀られている 賀茂別雷大神は高加茂と呼ばれたウマシマジ(宇摩志麻遅命/可美真手命)のことで、まったく別系統だ。当然親子関係などではない。
雷である意味
どうして雷大臣は”雷”なのか、ということを考えてみたい。
雷は”かみなり”、”いかづち”、”らい”と読むけど、古代からそうだったとは限らない。
由来でいうと、”かみなり”は”神鳴り”、”いかづち”は厳めしいという意味の厳と霊的な意味の”ち”をあわせた”厳つ霊”から来ているといった説明がされるのだけど、こういうもっともらしい説はたいてい後世の後付けなのであまり信用できない。
田んぼに雷が落ちると稲がよく成るので”稲妻”と呼びようになったなどというのもそうだ。
雷は”雨”と”田”を組み合わせた字で成り立っている。
”雨”は龍のことであり、雨(あめ)=天(あめ)と掛かっている。高天原の天だ。
雷という文字は元々、雨の下に田を”品”のように三つ並べて書いていた。
この”田”は田んぼの田という意味ではなく、島津家の家紋のように○と十を組み合わせた文字で、この文字自体が雷光を表していたとされる。
島津はそのことを知っていたかもしれないし、”三田”という地名や苗字などもここから来ているかもしれない。
○に十は車輪という意味もあるとされ、そうすると三輪(みわ)ともつながってくる。三輪といえば大神神社(web)のように”神”とも書く。
神は天の神でもあり、神皇産霊神や高神皇産霊神の”神一族”のことを指す。
雷大臣が中臣烏賊津使主から始まったわけではなく、烏賊津という名前が雷(いかつ)から採られたということだろう。
だとすれば、この一族は”雷の一族”を自認していたということだ。
大臣(おおおみ)というのは臣の代表というか元締めのような存在をいう。
中臣(なかとみ)は”中”の臣ということだ。
ついでに書くと、秀吉は”豊”の臣を名乗ったということで、このあたりの歴史を聞き知っていた可能性がある。
豊(トヨ)はいつも書くようにトヨの一族がいた三河のことだ。
雷の一族の長が代々、雷大臣を名乗ったということだろう。
八と三
記紀は雷神は伊弉冉尊から生まれたとしている。
いずれも八柱だ。
”八”という数字に意味がある、”三”も見え隠れしている。
記紀の描き方でいうと、伊弉冉尊側にいた八柱の雷神は伊弉諾尊を攻めて最後は撃退されている。
これはきっと何かの象徴なのだろうけど、実際に伊弉諾尊と伊弉冉尊が争ったり敵対したといったことがあったのかどうか。
尾張氏家の系図には、伊弉冉尊とは別に第二妻が書かれていて、八事酒解姫(キクリ)とある。
『日本書紀』の一書にのみ出てくる菊理媛神(ククリヒメ)のことのようだ。
泉平坂で伊弉諾尊と伊弉冉尊が争ったときに登場して何事かを伊弉諾尊に告げると伊弉諾尊は善いことを聞いたといって立ち去ったというあの神だ。
この第二妻系統にイクツヒコネやタケミカヅチ、コヤネ(天児屋)などが組み込まれていて、カミムスヒと婚姻関係を持っている。
この系統がどうやら鴨氏系らしい。
加茂氏や賀茂氏は上にも書いたように高皇産霊尊系の別系統だ。
加茂と賀茂も字を変えているくらいだから別系統ということかもしれない。
加茂の”加”は力と祈り(武力と祭祀)という意味の字で、”賀”はそれに貨幣を表す貝を付けて祝うといった意味の文字だ。
あるいは、貝を”目”と”八”に分解すべきかもしれない。
雷神を記紀は伊弉冉尊系とし、尾張氏家の系図では伊弉諾尊と第二妻の八事酒解姫(キクリ/ヤサカ)系としていて矛盾するようにも思うのだけど、もっと別の解釈をすべきなのかもしれず、そうなると鍵はやはり三河のタカミムスヒの一族が握っているような気もする。
ライジンの姿が示すもの
雷神を”らいじん”と読むのは後世のことだけど、それでいうと風神・雷神が思い浮かぶ。有名なのが俵屋宗達や尾形光琳などが描いた「風神雷神図」だ。
あれは江戸時代に描かれたものだけど、もっと古くから風神雷神はあのような姿で広く認識されていたのだと思う。
俵屋宗達がどこまで歴史を知っていたかは分からないけど、あの姿は非常に象徴的だ。
鬼の姿をしていて”牛”の角を生やし、”虎”の皮のふんどしを締めて太鼓を打ち鳴らしている。
牛というのは尾張を示し、虎は三河を暗示している。
牛は牛頭天皇の牛であり、牛頭天皇(素戔嗚尊)は五頭の天皇、五男三女神のことというのは以前にも書いた。
三河は虎で尾張は龍というのも何度か書いている。
”牛耳る”という言葉も、ここから来ている(中国由来という説はだいたい嘘っぱちなので信じない方がいい)。
雷神というのは龍神のことでもあるので、あの姿は尾張と三河を合体させたものといういい方ができる。
そんなのこじつけだよといわれてしまいそうだけど、そういう読み解き方もあるということだ。
アイヌの人たちが龍と雷を同一として信仰しているのは、アイヌが古い時代の歴史を移して封印した土地だからだ。あそこには古い時代の歴史が今でも伝わっている。
雷神と菅原道真
雷神ということでもう一人浮かぶ人物がいる。それは菅原道真(845-903年)だ。
望まない政争に巻き込まれて太宰府に左遷され、その地で無念の死を迎えた後、都で関係者が次々と謎の死を遂げ、朝議中の清涼殿に雷が落ちて多くの死傷者が出て、ほどなく醍醐天皇も崩御してしまったことで怨霊とされてしまったのは有名な話だ。
死後の早い段階で天満大自在天神という号を与えられて神格化されている。
ここから全国に天満宮が広がり、天神といえば菅原道真を指すようになった。
菅原道真が雷神・天神とされたのは、清涼殿落雷事件だけではなく、もっと別のつながりもあったのだと思う。
梅が好きで詠んだ梅の歌もよく知られているけど、家紋が梅紋というのもキーポイントだ。
菅原氏は天穂日命(アメノホヒ)の後裔の野見宿禰(ノミノスクネ)を家祖ととする土師氏(はじうじ)の流れといわれている。
天穂日命といえば天照大神(アマテラス)と素戔嗚尊の誓約(うけひ)で生まれた五男の一人であり、出雲大社(web)の社家を長く務める千家も祖とする神だ。
誓約を養子縁組みのこととした場合、尾張氏家の系図では血筋としては牛のムスヒ一族の速玉男(ハヤタマノオ)の子となっている。
この一族が梅の一族だった。
これが雷神とどう結びつくかは難しいところなのだけど、ウマシマジを経て、最終的には倭(大和)の尾張氏や河内の津守氏(住吉大社社家/web)へとつながっていく流れとなっている。
菅原は大和国菅原邑にちなむとされる。
ちなみに、道真の母方は大伴氏(おおともうじ)で、こちらはウマシマジと伊弉諾尊第二妻の八事酒解姫の後裔の師長姫との婚姻で生まれた流れとなっている。
空海こと弘法大師の母方の阿刀氏(あとうじ)は大伴氏とは兄弟筋になるようだ。
鴨の一族とは何者か
最初に書いた、雷神は賀茂のことだとか、鴨が葱を背負ってくるというのは賀茂が禰宜を背負ってやってくるということだとか、雷にへそを取られないように守れというのは賀茂に大事なところを取られないように隠せということだといった理由がぼんやりながら伝わっただろうか。
雷が鳴ったとき、雷が落ちないおまじないとして”くわばら、くわばら”ととなえるのがいいという俗説を知っているだろうか。今ではまったく聞かなくなったけど、昭和まで知識としてはあった。
”くわばら”の由来は諸説ある中、菅原氏の所領だった桑原には雷が落ちたことがなく、雷神とされた菅原道真にあやかったそうとなえたのが始まりという説がある。
これを深読みすれば、雷神こと鴨(賀茂/加茂)の一族も菅原=梅の一族には手を出せず、そこを頼れば助かったということをいっているのかもしれない。
あるいはもっと単純に考えれば、高貴な人や神事に使う絹を採るための蚕の餌が桑だから、桑畑にしてしまえば鴨に土地を取られずに済むということだっただろうか。
記紀がいうところの雷神を撃退したのが桃だったというのも必ず何かを伝えようとしている。雷は桃に弱かったということだ。
桃といえば桃太郎だし、あの昔話も実際にあった出来事をおとぎ話にして後世に伝えたものだ。
桃太郎の話をするとまた脱線して長くなるのでやめておくけど、舞台は尾張国であり、桃太郎、犬、猿、雉、きび団子にはそれぞれモデルがいるということだけはいっておきたい。
いずれにしても、鴨(賀茂/加茂)はある時代まで(たぶん今でも)隠然たる力を持っていたということはあったと思う。
日本にはヤタガラスという秘密結社があるという嘘っぽい話も、まんざら絵空事ではない。
ヤタガラスは一人ではないのだけど、上にも書いたように鴨建角身のことだ。鴨建角身は賀茂御祖神社(下鴨神社)で祀られている。
徳川家康が天下統一できたのも、鴨の力あってのことだ。
徳川発祥とされる三河国の松平郷が”加茂郡”なのも、もちろんたまたまではない。
徳川の三葉葵は上賀茂神社・下鴨神社の神紋の二葉葵を元にしたというのも逆で、鴨社が遠慮して二葉葵にしたということだ。
二葉葵は同じ京都の松尾大社(web)の神紋でもある。
鴨のバックにはタカミムスヒ一族がいる。だからこそ強いのだ。
タカミムスヒは松、イサナミが竹、ムスヒが梅だから、松竹梅という言葉や格付けが生まれている。
この国はお内裏様(代理様)の天皇のものではなく鴨のものといったらあなたは信じるだろうか?
おとぎ話は作り話ではない
昔話やおとぎ話、ことわざや慣用句などには古代の歴史が反映されたものが多い。そうやって現代まで語り伝えられてきた。
歌や芸能などもそうだ。
『古事記』、『日本書紀』も、事実そのままではないにしても、歴史的事実を踏まえて書かれている。ただの神話ではないし空想話でもない。
私たちの目の前にはすでに多くのヒントや手がかりが差し出されている。ちゃんと読み解けば真相近くまではいけるようになっている。
ただし、本当の本当のところは自力ではたどり着けない。どんな本にも書かれていないし、自分の頭で考えつくようなものでもない。知っている人に教えてもらうしかない。
伝えられている人はいるし、真実もちゃんと伝わっているので、その点では心配しなくていい。
その話の一端でも知れば、ああ、この国は大丈夫だなと安心することができる。
この名古屋神社ガイドがわずかでもその手助けになればいいと思っている。 |