『古事記』と『日本書紀』の共通点と相違点
美しい木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)に対して醜い姉として描かれ、天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギ)に突き返されてしまうかわいそうな女性というのが一般的なイメージで、記紀を読む限りにおいてはおおむねその通りだ。 ただ、どうしてそういう設定にしたのかがよく分からない。天孫の寿命が短くなったことを説明するための説話だという説もあるけど、本当にそうだろうか? 何かもっと別の意味があるような気がするのだけどどうなんだろう。
『古事記』と『日本書紀』で大きな違いはない。それでも読み比べるといくつかの違いあって、その違いは小さくない。 国譲りが成ったあと、天孫の天津日子番能邇邇芸命(アマツヒコホノニニギ)は天降ることを命じられ、 筑紫の日向の高千穂に降りたち、そこが気に入ったニニギは宮を建てて住むことになる。 猿田毘古神(サルタヒコ)と天宇受売命(アメノウズメ)の道案内の話があり、その後、ニニギは笠沙の御前(薩摩半島にある野間岬?)で”麗美人”と出会う。 あなたは誰の女(娘)かと訊ねると、大山津見神(オオヤマツミ)の娘の神阿多都比売(カムアタツヒメ)だと答えた。別名を木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)としており、本来の名前はアタツヒメということだ。 アタツヒメに兄弟はいるかと訊ねると、姉の石長比売(イワナガヒメ)がいると答えた。 するとニニギは唐突にこう言った。”吾汝に目合せむと欲ふは奈何に” 直球過ぎる提案に引くアタツヒメ。自分では決められないので父に訊いてくださいといったんは逃げた。 ニニギはオオヤマツミに使者を送ると、娘の気持ちを知ってか知らずか、父は大喜びで、頼まれもしてないのに姉のイワナガヒメも一緒にどうぞと差し出し、使者には山ほどの土産も持たせた。 事情がよく分からないまま連れて行かれたイワナガヒメだったのだけど、イワナガヒメを見たニニギは、その容貌の醜さに恐れをなして送り返してしまった。 ”甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り” はなはだ悪いので畏れたとはいくらなんでもひどい言われようだ。 しかもニニギはコノハナサクヤヒメを妻にしたわけではなく、”一宿婚為たまひき”、つまり一晩だけの相手をさせたというのだ。 姉のイワナガヒメを送り返されたオオヤマツミは怒った。 コノハナサクヤヒメが仕えれば花が咲くように繁栄し、イワナガヒメが仕えれば岩のように永遠に変わらないのに、イワナガヒメを返したことで天孫の寿命は花が散るようにはかないものとなるだろうと、呪いの言葉を発するのだった。
『日本書紀』が『古事記』と大きく違っているのは、呪い呪われた人の違いだ。 第九段は国譲りからニニギの天孫降臨を経て、コノハナサクヤヒメとの出会いか出産までが描かれ、一書は第八まである。 本文ではイワナガヒメのことは出てこず、コノハナサクヤヒメが一晩で妊娠して出産の場面になる。 『古事記』と同じ伝承に基づいていると思われるのは一書第二で、ここで磐長姫(イワナガヒメ)が出てくる。 天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギ)は日向の槵日(くしひ)の高千穂の峰に降り立ち、国見をして事勝国勝長狹(コトカツクニカツナガサ)を見つけ、国があるかと訊ねるとあるというのでそこに宮を建てた。 海辺に遊びに行ったとき、ひとりの美人を見つけた。おまえは誰の子かと訊ねると、大山祇神(オオヤマツミ)の娘の神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)と答えた。ここでも木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は別名としている。 アタカアシツヒメは自分にはイワナガヒメという姉がいますとも言っている。 よく考えると、コノハナサクヤヒメが姉の存在を口にしなければその後の悲劇は起きなかっただろうから、悪気はなかったにしてもコノハナサクヤヒメに責任の一端はある。 『日本書紀』は国の正史ということで、このあとの表現はだいぶ穏当なものとなっている。 ”吾欲以汝爲妻、如之何” 自分はあなたを妻にしたいけどどうだろうと。 更に、『古事記』では使者をやったとするのに対して、『日本書紀』ではニニギが自らオオヤマツミの元まで出向いていってあなたの娘さんを妻にしたいと申し出ている。 それを聞いたオオヤマツミが喜んで姉のイワナガヒメと土産物も一緒に差し出し、姉は醜いからという理由で送り返されたという話の展開は共通している。 ただ、その表現も控えめで、”謂姉爲醜不御而罷”、醜いので罷免した程度にとどめている。 問題はこの後で、一晩でコノハナサクヤヒメが身ごもったことを知ったイワナガヒメは、自分もめとれば子供の寿命は磐石のように長くなるのに、妹だけをめとったから花が散るように寿命が短くなるだろうと、コノハナサクヤヒメを呪ったとなっている。 ここでも正史としての規制が働いたか、国津神が天孫を呪ったという話はまずいと判断したのだろう。イワナガヒメが姉のコノハナサクヤヒメを呪ったという話にすり替えた可能性が考えられる。 なんにしても、全部ニニギのせいなのだけど。
言挙げする、しない、どっち?
日本には古来から言霊信仰があったことはよく知られている。 それに通じる思想として、”言挙げする”(ことあげ)という言葉がある。 あえて言葉にして言うことで実現の誓いを立てるといったような考え方だ。 『古事記』の中ではヤマトタケルがそれをやって神の怒りを買って苦労することになる。 神道の世界では”言挙げせず”、ということがよく言われる。この場合は、あえて言葉にしないということだ。 しかし、これは逆の考え方ではなく根っこは同じ思想に基づいている。あえて言葉にするにせよしないにせよ、それは心を大事にするということであり、言葉が持つ力を信じているということでもある。 ニニギとコノハナサクヤヒメ、イワナガヒメの場面では登場人物たち全員が何かしらの言挙げをしている。ニニギも、コノハナサクヤヒメも、イワナガヒメも、オオヤマツミも、生まれた子供たちもそうだ。 記紀の作者たちがそういう描き方をしたということは、何らかの意図があったに違いないのだけど、天孫が呪われるという不名誉なことをあえて書いたのは何故だろうと考えるとよく分からない。 天界の神が地上の人間になって寿命ができたことを説明するためというだけでは説明がつかない。 悪いようにしか書かれていないニニギも気の毒といえば気の毒だ。 ニニギはイワナガヒメに呪われただけでなく、一夜での妊娠を疑ってコノハナサクヤヒメにも恨まれて、その後の活躍が描かれることもない。
木花知流比売はイワナガヒメのことなのか?
『古事記』の大国主命(オオクニヌシ)の系譜に、木花知流比売(コノハナチルヒメ)という神の名が出てくる。 須佐之男命(スサノオ)が櫛名田比売(クシナダヒメ)をめとって八島士奴美神(ヤシマジヌミ)が大山津見神(オオヤマツミ)の娘の木花知流比売(コノハナチルヒメ)をめとって布波能母遅久奴須奴神(フハノモヂクヌスヌ)が生まれたといっている。 オオヤマツミには神大市比売(カムオオイチヒメ)という娘もいて、オオイチヒメもスサノオにとついで大年神(オオトシカミ)と宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)が生まれている。 この木花知流比売(コノハナチルヒメ)はイワナガヒメのことではないかという説がある。 しかし、イワナガとコノハナチルでは名前もイメージも違いすぎるからこの説には賛同できない。 むしろ、コノハナサクヤヒメの別名と考えた方がしっくりくる。 コノハナサクヤヒメはあくまでもニニギの一夜妻でしかない。子供を3人(4人とも)生んだとはいえ、ニニギと結婚はしていない。 そのあと、八島士奴美神(ヤシマジヌミ)と結婚して他の子を生んだとしてもおかしくはない。
日向地方その他のイワナガヒメ伝説
日向地方(今の宮崎県西都市)にイワナガヒメの伝承がある。 ニニギに返されたイワナガヒメは、そんなに自分は醜いのか確かめるために鏡を見てみると、なるほどその通りだと悟り、鏡を遠くに投げ捨てた。 鏡は龍房山(りゅうぶさやま)の木に引っかかって太陽と月に日夜照らされて白く見えることから、山の麓は白見村(しろみむら)と呼ばれるようになり、のちに銀鏡村(しろみむら)となったというのだ。 鏡はその後、村の人間が持ち帰ってきて村で祀ることになり、今も銀鏡神社(web)が鎮座し、銀鏡神楽が奉納されている。 イワナガヒメは一ツ瀬川をさかのぼって小川川へと至り、そこで田んぼを開いて作った稲が美味しかったため、良い米、良米(めら)と呼ばれるようになったという地名伝承もある。 しかし、悲しみが癒えなかったのか、イワナガヒメは川に身を投げて亡くなる。今の米良神社(web)のほとりという。 イワナガヒメを探しに来た父親のオオヤマツミは娘の死を知って嘆き、対岸の神山に葬られた。 その地には古墳があり、現在は狭上稲荷神社が祀られている。 神山はイワナガヒメの怒りを買わないように今も女人禁制という。
イワナガヒメの怒りということでいうと、本居宣長が『古事記伝』の中で富士山と烏帽子山の話を書いている。 伊豆に流れてきたイワナガヒメは、海辺にぽっこり盛り上がる烏帽子山(162メートル)に祀られることになった(雲見浅間神社/web)。 富士山で祀られていたコノハナサクヤヒメは姉のことが気になって背伸びをして探したのでますます富士山は高くなったというものだ。 烏帽子山で富士山を誉めると怪我をするという言い伝えが今も地元に残っており、やはり女人禁制になっている。 イワナガヒメの化身とされる大室山にもイワナガヒメが祀られており(大室山浅間神社/web)、同じような伝承が残っている。
イワナガヒメを祀る神社
京都市の貴船神社(web)は祈雨止雨の神社として知られているけど、境内社の結社(ゆいのやしろ/web)にイワナガヒメの伝承がある。 イワナガヒメはこの地に至って、人々のために良縁を授けようといって留まることになり、ここに鎮座したという話だ。 平安時代にはすでにそういう話があったようで、和泉式部が夫の心変わりに思い悩んでいるとき、この社に願掛けをして歌を奉納したところ夫が戻ってきたというので評判となり、”恋の宮”と呼ばれるようになったという。
上に出てきた神社以外にイワナガヒメを祀る神社としては、茨城県の筑波山に鎮座する月水石神社(がっすいせきじんじゃ/web)がある。 ここもイワナガヒメ終焉の地という伝承があり、磐座の上に社が祀られている。 その他に、兵庫県尼崎市の磐長姫神社(web)、滋賀県草津市の伊砂砂神社(web)、岐阜県岐阜市の伊豆神社(web)などがイワナガヒメを祀っている。 それから、福岡県糸島市の細石神社(さざれいしじんじゃ/web)はイワナガヒメとコノハナサクヤヒメを一緒に祀る珍しい神社だ。 かつては佐々禮石神社と表記する古い大社だったのが、度重なる戦火で焼けて、太閤検地で領地を没収されて没落した。 名古屋では中川区の八幡社(長須賀)が唯一、イワナガヒメを他の祭神と一緒に祀っている。
さざれ石と君が代
さざれ石というと国家「君が代」が真っ先に思い浮かぶ。 各地の神社の境内にさざれ石が置かれているから見たことがあるという人も多いだろう。 小さな石が集まってできた塊石をいうのだけど、定義は必ずしも明確ではない。 さざれ石の巌となって苔むすまでという歌から永続性や永遠の命を願うという意味だ。 なんとなくイワナガヒメのイメージとも合致する。 「君が代」は国歌として作られた歌ではないということを知っているだろうか。 『古今和歌集』の中に”読人知らず”として収録された”我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで”から来ているのだけど、”君が代”という天皇の長寿を言祝ぐ歌ではなくもともとは”我君は”という一般的対象に対する歌だった。 明治になって曲をつけてお祝いの席などで歌われるようになり、それがだんだん広がって、なんとなく国歌のようになっていった。 とりあえず国歌として採用されたのが明治13年(1880年)で、法律で定まったのが実は近年の平成11年(1999年)のことだ。 深読み、裏読みをすると、天孫のニニギを呪ったイワナガヒメの霊を慰めるために明治天皇がこの歌を国歌にしたのかもしれない。 そんなことはあり得ないと思うだろうけど、天皇の葬儀である大喪の礼ではいまだにヤマトタケルを悼む歌が詠まれていることからも、祟りと鎮めというのは天皇家にとって永遠の課題なのだ。 イワナガヒメの魂が巌として国歌で歌われ、コノハナサクヤヒメが守る富士山を愛で、春には桜の花を楽しむ日本に、今も姉妹は生き続けているといえるかもしれない。
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