初代神武天皇の父なのか王朝なのか
ウガヤフキアエズ(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)と聞いて、神武天皇のお父さんと思う人は歴史に詳しい人だろうし、ウガヤフキアエズ朝? と反応する人はそっち系の人だろう(どっち系?) 一般的な知名度は低いし、祀られている神社も少ない。 しかし、系譜の中の位置づけとしては重要で、その存在を軽く見ない方がいい。 古史古伝で多く語られるのにも理由があるはずで、もしかすると消された存在というべきなのかもしれない。 記紀はその事績について一切語っていない。生まれたという記事と、その子供の系譜を載せるだけだ。 まずは『古事記』の記事でウガヤフキアエズ生誕までを追ってみよう。
『古事記』で辿るウガヤフキアエズ
天孫降臨した天津日高日子番能邇邇芸命(ニニギ)は大山津見神(オオヤマヅミ)の娘の神阿多都比売(カムアタツヒメ)またの名を木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)と出会い、一夜妻とする。 一晩で妊娠したカムアタツヒメは産み月になってニニギの元を訪れ、子供を生むことを告げるも、ニニギに自分の子ではないと疑われ、証明するために戸のない産屋に火を放って子供を生み、天孫の子と証明してみせた。 生まれた子は、火照命(ホデリ)、火須勢理命(ホスセリ)、火遠理命(ホオリ)の三兄弟で、ホオリの別名を天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホデミ)と『古事記』は書いている。 長男の火照(ホデリ)は海で魚を捕っていたので海佐知毘古(海幸彦)となり、三男の火遠理(ホオデリ)は山佐知毘古(山幸彦)となった。 あるとき、長男のホデリが海の道具と山の道具を交換しようと提案し、ホオリは了解する。 しかし、どちらもまったく獲物が獲れず、ホオリは兄に借りた釣り針をなくしてしまった。 他のもので弁償すると言っても兄のホデリは納得せず、貸した釣り針を返せの一点張りでホオリは困り果ててしまう。 そうして浜辺で悩んでいると、そこに塩椎神(シオツチ)がやってきて声をかけた。 事情を説明すると、力になろうといい、竹で編んだ船を作ってホオリを乗せ、海神の宮へと送り出した。 綿津見神(ワタツミ)の宮にたどり着いたホオリは、そこでワタツミの娘の 豊玉毘売(トヨタマヒメ)と出会った。 ワタツミは天孫のホオリに多くの贈り物を渡し、トヨタマヒメとホオリは結婚することになる。 月日は流れ3年が経った。 しかし、近頃ホオリに元気がない。話を聞くと地上が恋しいという。 それなら返そうということになり、釣り針を探すと鯛(赤海鯽魚)の喉から見つかった。 ワタツミは送り出すに当たって兄をこらしめるためのまじないと呪具を与えた。 地上に戻ったホオリは教えられた通り兄のホデリをこらしめ、兄は改心して弟に謝った。
しばらくするとトヨタマヒメが海からやってきて、子を妊娠しているので天孫のそばで産みたいといい、そのための産屋を用意して欲しいと願った。 そのとき、海神の子は出産のときに本当の姿になって産むので姿を見てはいけないと伝えた。 見るなと言われると必ず見てしまうのが神話のパターンで、このときもやはりホオリは見てしまう。 するとトヨタマヒメは八尋和邇(ヤヒロワニ)になって身をくねらせて出産しており、ホオリは驚いて逃げ出した。 姿を見られたトヨタマヒメは恥じ入って産んだ子供を置いたまま海の宮に帰ってしまった。 産屋の屋根を鵜の羽で葺き終わる前に出産したので天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ)と名づけたとする。
海の宮に帰ったトヨタマヒメは恨む気持ちと恋しい気持ちが半々で、妹の玉依毘売(タマヨリヒメ)を地上にやって子供の面倒を見させることにした。 成長したウガヤフキアエズは養育係であり母親の妹でもあるタマヨリヒメと結婚し、五瀬命(イツセ)、稲氷命(イナヒ)、御毛沼命(ミケヌ)、若御毛沼命(ワカミケヌ)の4男子が生まれた。 このうち末っ子の若御毛沼命は別名を豊御毛沼命(トヨミケヌ)、または神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)といい、のちに初代神武天皇として即位することになる。
ホオリは850年間、高千穂宮に住み、陵(墓)は高千穂の山の西にあると『古事記』はいっている。 ウガヤフキアエズの宮や陵についての記述はない。
『日本書紀』が語ること
以上が『古事記』が語るウガヤフキアエズ生誕前後の話だ。 『日本書紀』も基本的には同じ展開で、大きな違いはない。ただ、細かく見ていくといくつか違いがあるので、次は『日本書紀』のウガヤフキアエズ誕生前後の記事を追ってみる。
第九段本文は葦原中国の国譲りから天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の天孫降臨、鹿葦津姫(カシツヒメ)、またの名を神吾田津姫(カムアタツヒメ)、または木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)との出会い、火闌降命(ホノスソリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミ)、火明命(ホアカリ)の誕生、ニニギの死までがやや駆け足に語られている。 『古事記』との大きな違いは、子供の顔ぶれや名前、生まれる順番で、長男のホノスソリは海幸彦のこととして、ホホデミ(『古事記』でのホオリ)を次男とし、三男を尾張氏の祖のホアカリとしている点だ。 子供についての異伝は一書の中で書かれており、一書第八では天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホノアカリ)が尾張連の娘である木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を妃として火酢芹命(ホノスセリノ)と彦火火出見尊(ヒコホホデミ)を生んだとしている。
続く第十段が海幸・山幸の話で、本文では道具を交換して山幸(ホホデミ)が釣り針をなくして兄に責められ、鹽土老翁(シオツチノオジ)の力を借りて海の宮へ行き、海神(ワタツミ)の宮でワタツミの娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)と結婚して3年を過ごすも、故郷が恋しくなって地上に戻ることになり、ワタツミにまじないの方法を教えてもらって実行し、兄に復讐するといった展開は共通している。 少し違うのは、到着早々に赤女と呼ばれる鯛魚が釣り針を飲み込んでいて釣り針が見つかったことと、海の宮を去るときにトヨタマヒメから妊娠していることを告げられている点だ。このとき海辺まで行って産むから準備しておいてほしいと頼まれている。 トヨタマヒメの正体を和邇(ワニ)ではなく龍としている点も違いとしてある。『古事記』のワニはワニザメのことという説があるのだけど、サメと龍ではだいぶ印象が違う。ここも『日本書紀』の作為と見るべきか。 生まれた子供の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズ)というということは書かれているものの、産屋の屋根を葺き終わらないうちに出産した云々という記述はない。 最後のところで、長い歳月の後、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は亡くなって日向の高屋山の上の陵に葬ったと最後に付け加えている。
一書第一は『古事記』の内容に一番近く、トヨタマヒメの正体を八尋熊鰐(やひろわに)としている。 産屋の屋根を葺き終わらない間に生まれたという説明はここで書いている。 一書第二は海神の宮での細かい違いくらいで、特筆するほどのことはない。 一書第三はホホデミがトヨタマヒメに子供の名を訊ね、トヨタマヒメは彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と名づけたことになっている。 更に、海の宮に戻っていったトヨタマヒメとホホデミの間で交わされた歌が載っている(挙歌)。 一書第四は、別伝として海辺で子供を産んだトヨタマヒメは子供を海宮まで連れて行き、後にホホデミに返したという話を紹介している。
次の第十一段本文は、ウガヤフキアエズとタマヨリヒメの間の子供が紹介され、末っ子の神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコ)が東征して神武として即位する話が書かれている。 その中で、ウガヤフキアエズは西洲之宮(にしのしまのみや)で亡くなり、日向の吾平山の上にある稜に葬られたと書いている。
最初のところで書いたように、ウガヤフキアエズが何をしたかについて、記紀は何も語らない。
『古語拾遺』と『先代旧事本紀』では
『古語拾遺』(807年)は彦火尊(ヒコホ)が海神(ワタツミ)の娘の豊玉姫命(トヨタマヒメ)をめとって彦瀲尊(ヒコナギサ)が生まれたとごく簡単に書くだけだ。 天忍人命(アメノオシヒト)が産屋にいた蟹(かに)を箒(ほうき)で掃いたので、その後裔が掃守連(かにもりのむらじ)となったという伝承を伝えている。
『先代旧事本紀』(平安時代初期)は、『古事記』と『日本書紀』の内容をあわせつつ、記紀にもない伝承を加えて、この話をかなり丁寧に描いている。 基本的な筋書きに大きな違いはない。 決定的な違いとしては、ホホデミがタマヨリヒメとの間に武位起命(タケクライオキ)をもうけたと書いている点だ。 更に、ウガヤフキアエズをホホデミの第三子としていることも見逃せない。 タケクライオキとウガヤフキアエズの間にもうひとり子供がいたということか。 というよりも、その前のところでウガヤフキアエズが生まれ、次にタケクライオキが生まれたと書いていて、いろいろと矛盾がある。 物部一族に伝わる伝承があったのか、いつくかの異伝があって混乱したのか。 そもそも、記紀がいうようにウガヤフキアエズが一人っ子というのは少し違和感があるといえばある。
ウガヤフキアエズの系譜について
ウガヤフキアエズの子供の系譜については上にも書いたように『古事記』と『日本書紀』でいくつか違いがある。 『古事記』は五瀬命(イツセ)、稲氷命(イナヒ)、御毛沼命(ミケヌ)、若御毛沼命(ワカミケヌ)の4男子が生まれたと書く。 『日本書紀』の本文は、彦五瀬命(ヒコイツセ)、稻飯命(イナイイ)、三毛入野命(ミケイリノ)、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)となっており、名前の表記の違い以外はほぼ同じだ。 一書第一は、彦五瀬命、稲飯命、狹野尊(サノ)の三兄弟として、末っ子の狹野尊が神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ)とする。 一書第二は、五瀬命、三毛野命、稲飯命、磐余彦尊(イワレビコ)と、二男と三男の順番が入れ替わっている。 一書第三は、彦五瀬命、稲飯命、神日本磐余彦尊、稚三毛野命(ワカミケノ)としており、カムヤマトイワレビコは三男になっている。 一書第四は、彦五瀬命、磐余彦火火出見尊(イワレヒコホホデミ)、彦稲飯命(ヒコイナイイ)、三毛入野命となっている。 二男としているホホデミがカムヤマトイワレビコのことなのだろうけど、ホホデミといえばウガヤフキアエズの父の山幸の別名だから、ホホデミの名を継いだ者が初代神武として即位したということが言いたかったのかもしれない。 『日本書紀』は、特別貴い神を”尊”とし、次を”命”として区別していて、兄弟の中で神日本磐余彦尊(狹野尊/磐余彦尊)だけが”尊”の表記になっている。 古くは長男が後を継ぐという思想がなく、末子相続の例が多いとはいえ、それも絶対的なものではなかった。その中でどうして狹野(磐余彦)が即位することになったのかはよく分からない。 『日本書紀』がいう神武東征が何らかの史実に基づくものだったとして、結果的に生き残ったのがイワレビコだったか、という単純な理由なのかもしれない。 4兄弟(または3兄弟)の子孫もいたはずだけど、そのあたりについてはたどれなかった。『新撰姓氏録』にもそのへんのことは書かれていないと思う。
陵はどこにあるのか?
ウガヤフキアエズが葬られたのは”日向の吾平山上陵”だと『日本書紀』は書いている(『古事記』には記述がない)。 この場所についての候補地がいくつかあって、昔から論争になっていた。 明治7年に政府によって鹿児島県鹿屋市吾平町の吾平山と治定されたものの、異論はある。 ウガヤフキアエズが祀られている宮崎県日南市の鵜戸神宮(web)後ろの速日峯山上という説や、宮崎県西臼杵郡高千穂町とする説などがある。
ウガヤフキアエズを祀る神社
ウガヤフキアエズを祭神とする神社は少ない。 鵜戸神宮はウガヤフキアエズが生まれた産屋の跡と伝わる場所にあり、神日本磐余彦尊を祀る宮崎神宮(web)ではその両親である鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命の2柱を配祀している。 神功皇后ゆかりの和布刈神社(福岡県北九州市/web)や菅生石部神社(石川県加賀市/web)、愛知県知立市の知立神社(web)などで祭神の一柱として祀られている。 名古屋では港区の池鯉鮒社(魁町)、中川区の知立社(小碓)、熱田区の波限神社がウガヤフキアエズを主祭神として祀り、天白区の菅田神社で他の祭神とともに祀られている。
名前が表していることと表していないこと
それにしても、ウガヤフキアエズ(鸕鶿草葺不合)という名前は天孫らしからぬ名前という印象を受ける。 火(ホ)でもなく、穂(ホ)でもない。 記紀の神話から取られた名前だから本名が別にありそうなのに、少なくとも記紀の中では書かれていない。 父親の山幸彦(ホホデミ)は、山神の娘で桜の女神であるコノハナサクヤヒメと天孫ニニギから生まれている。 山を象徴する山幸彦には海を象徴する兄の海幸彦がいて、山幸彦は海神(ワタツミ)の娘と結婚して、ウガヤフキアエズは生まれた。 自身も海神の娘と婚姻している。 つまり、海と山があわさって生まれた子にもかかわらず、名前が全然それっぽくない。 彦波瀲の”波瀲”が海といえば海か。 ウガヤフキアエズの人物像がまったく見えないのも気になるところだ。 初代神武天皇の父という立場にありながらあまりにも存在感がなさすぎる。どうして記紀は神武の父の人物を描かなかったのか? 描けなかったとしたら、それは実在しなかったからとも考えられる。 神代と人代をつなぐのがウガヤフキアエズで、カムヤマトイワレビコはどうして人代の初代となったのか? ウガヤフキアエズとカムヤマトイワレビコとの間にはいわゆるミッシングリンク(失われた輪)といったのもがある。
古史古伝がいうウガヤフキアエズ朝とは
古史古伝と呼ばれる『ウエツフミ』、『竹内文献』、『神伝上代天皇紀』、『富士宮下文書』などが伝えるウガヤフキアエズ朝の話を作り話として頭ごなしに否定する態度が正しいとは言えない。 少なくともそういう言い伝えがあったということは確かなのではないか。まったく何もないところに物語は生まれない。 私自身、古い一族の末裔にウガヤフキアエズ朝の系図というものを見せてもらったことがある。74代だったか、73代だったかと思うのだけど、名前だけが書かれたもので女性名も多かった。 『上記』は豊国文字(とよくにもじ)と呼ばれる記号のような文字で書かれており、『竹内文書』や『九鬼文書』にもそれは見られる。 豊の国の文字ということで豊国(とよのくに、後に豊前と豊後に分かれた)、今の大分県あたりにウガヤフキアエズ朝があったという説がある。 しかし、豊の国は他にもあることを忘れてはいけない。 愛知県豊田市は自動車会社のトヨタの本社があることから名づけられたもので、かつては挙母市(ころもし)だった。 そこに豊田(とよだ)一族がいたのは偶然ではない。 三河国には豊のつく地名が多く残っている。豊橋市、豊川市、豊根村などがそうで、尾張国との境界には豊明市もある。 そして、三河国にはウガヤフキアエズを祀る数少ない神社のうちのひとつ、知立神社がある。知立神社は三河国一宮の砥鹿神社(とがじんじゃ/web)ともゆかりが深い三河国二宮の式内社だ。 三河国の東側はかつて穂国(ほのくに)と呼ばれた。穂穂手見/火火出見(ホホデミ)の”ホ”であり、火瓊瓊杵(ホノニニギ)の”ホ”であり、天火明(ホアカリ)の”ホ”もそれらに通じる。更に言えば、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)はまさに”豊”と”穂”の国で、三河そのものを表しているとさえ言える。 三河国や穂国について、記紀は不自然なまでに何も書いていない。 持統太上天皇は死去する年に無理をしてまでどうして三河行幸をしたのか? 『日本書紀』はそのことを書かず、『続日本紀』に思わせぶりな書き方をしたのはどういう意図があったのか? 三河にウガヤフキアエズ朝があったと主張するつもりはないけど、ウガヤフキアエズに何らかの関わりがあると推測できる。 ちなみに、知立(ちりゅう)は古くは”ちりふ”といい、江戸時代は”池鯉鮒”の文字が当てられた。 この”ちりふ”は木花知流比売(コノハナチルヒメ)から来ているという説もある。 歴史は思いがけないところでつながっているものだ。 天白区の菅田神社の祭神にウガヤフキアエズが入っていることも見逃してはいけない。
|