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ワタツミ《少童命》

ワタツミ《少童命》

『古事記』表記 綿津見神、大綿津見神
『日本書紀』表記 少童命
別名 海神、海神豊玉彦、底津綿津見神/底津少童命・中津綿津見神/中津少童命・上津綿津見神/上津少童命(綿津見三神)、和多都美など
祭神名 綿津見神、大綿津見神、和多都美命、他
系譜 (親)伊弉諾尊伊弉冉尊
(子)宇都志日金析命(穂高見命)
(子)豊玉姫、玉依姫
属性 海神
後裔 阿曇連(阿曇氏)、他
祀られている神社(全国) 志賀海神社(福岡県福岡市)、全国の綿津見神社、海神社、穂高神社(長野県安曇野市)、など
祀られている神社(名古屋) 龍神社(本宮町)(港区)

海の神ではない

 ワタツミというと、一般的には海の神とされる。
『古事記』は(大)綿津見神、『日本書紀』は少童命と表記して、いずれもワタツミと読ませている。
 海の古語は”ワタ”なので海をワタと読ませるのは分かるのだけど、どうして”綿”の字を当てたのかという問題がある。
 綿といえば我々現代人は木綿、つまりコットンのことを思い浮かべるけど、この場合の綿はそうではなさそうだ。
 はっきりとは分からないのだけど、腸(はらわた)という言葉があるように、内部という意味かもしれない。
 あるいは、渡(わた)るのワタだとか、旗(はた)との関連も考えられる。
 それぞれの一族は草木を象徴として有していたように、文字通り綿に関連する氏族という可能性もあるだろうか。
 まず最初にはっきりさせておかなければいけないのは、海祇と綿祇は読みは同じ”ワタツミ”でも別系統ということだ。
 婚姻関係もあってどこかでごっちゃに混ざってしまっているけど、元を辿れば別の氏族から始まっている。
 海も綿もワタだから同じと考えると、それを前提とした考察はあらぬ方向に進んでしまう。
 海祇と綿津見も同一ではないし、綿津見と大綿津見もそうだ。
 記紀はそのあたりをわざと取り違えさせようとミスリードしている節がある。
 記紀の作者達は、勝手気ままに好きな字を当てるような無邪気な人たちではない。

 それではまず、海と綿を切り分けることを念頭に置きながら『古事記』、『日本書紀』がどう書いているかを見ていくことにしよう。

 

『古事記』が描くワタツミ誕生

『古事記』は伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナギ)が共に国生みをしたのに続いて神生みを始めたといっている。
 最初が大事忍男神(オオコトオシオ)で、ワタツミは8番目に名前が挙がっている。
 ここでは海神の大綿津見神(オオワタツミ)という書き方をしている。
 原文は「次生海神名大綿津見神」だ。
 ”海神”は”わたかみ”または”わたのかみ”と読ませるのだろうか。 
 注目すべきなのは、”綿”という字を使っていることと、”大”が付いていることだ。
 少し疑問というか違和感を抱くのは、大綿津見神の後に生まれたのが水戸神(みなとかみ)の速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)と妹の速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)という男女対の神で、この二神が河と海に別れて神々を生んだという話を挟み、続いて風神の志那都比古神(シナツヒコ)、木神の久久能智神(くくのち)が生まれ、次にようやく山神の大山津見神(オオヤマツミ)が生まれたという流れだ。
 続いて野神の鹿屋野比売神(カヤノヒメ)、またの名を野椎神(ノヅチ)が生まれ、大山津見神と野椎神(ノヅチノカミ)が山と野に分かれて神々を生んでいる。
 これらが本当に自然を象徴した神だとすれば、順番がだいぶおかしいと感じる。
 大事忍男神から石土毘古神(イワツチヒコ)、石巣比売神(イワスヒメ)、大戸日別神(オオトヒワケ)、天之吹男神(アメノフキオ)、大屋毘古神(オオヤヒコ)、風木津別之忍男神(カザモツワケノオシオ)までは何を表しているかよく分からないし、8番目にようやく海神が生まれて、山神は更に後というのはだいぶ変だ。
 普通に考えたら海と山、川と野といった順番に生まれたとするのが自然だろう。
 水戸神が男女対で河と海に分かれて神を生み、山神と野神もペアで神を生んでいるのに海神にはペアがおらず、何の神も生んでいないことも不自然だ。海は生命誕生の源なのにだ。
 これは見方を変えれば自然神のことではないということがいえる。
 海神、山神などちいっているけど、実際は人間だったり一族だったり家だったりということではないだろうか。
 記紀は事実そのままを書いているわけではないにしても、歴史を伝えるための書という大前提があって、それは外していないはずなのだ。一個人が書いた空想話とは違う。創作であって創作ではないということだ。
 神生みの話にしても、ゼロから生み出したはずがないし、そんなことをしても意味がない。こういった伝承があって、それをそのまま書き写した可能性もある。
 いつもいうように、『古事記』、『日本書紀』は”比較的新しい書”ということを忘れてはいけない。記紀が書かれてから現代よりも、古代から記紀が書かれるまでの時間の方がずっと長いわけで、そこに至るまでに伝承は大きく変化していると考えないといけない。
 記紀の作者達は我々が思うよりも作為なく伝承をそのまま書き写しただけとも考えられる。
 だとすれば、そうして伝わってきた伝承をいったんは素直にそのまま受け入れることも必要だし、その上で書かれていることを読み替える作業もしなければいけない。
 何を信じて何を疑うか、その判別はセンスということになる。正しければ核心に迫れるし、間違えばあさっての方向に誘導されてしまう。

 

イザナギの禊ぎから生まれた綿津見三神

 次にワタツミが登場するのは、伊邪那岐命が黄泉国から戻って禊(みそぎ)をする場面だ。
 伊邪那岐命はあえて言葉に出して(言挙げして)、吾は穢国(きたなきくに)に行ったから身を禊(みそぎ)為さないといけないと言い、禊祓(みそぎはらえ)を行った。
 杖や身につけていた衣類から衝立船戸神(ツキタツフナト)など十二柱の神が生まれた。
 そして流れの速い上瀬や弱い下瀬を避けて中瀬で滌(すす)いで神直毘神(カムナオビ)、大直毘神(オオナオビ)、伊豆能売神(イヅノメ)が成った。
 続いて水底で滌いで成ったのが底津綿津身神(ソコツワタツミ)、次に底筒之男命(ソコツツノオ)で、中で成ったのが中津綿津身神(ナカツワタツミ)、次に中筒之男命(ナカツツノオ)、上で滌いで上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)、次に上筒之男命(ウワツツノオ)が成ったといっている。
 この三柱の綿津見神は阿曇連(あずみのむらじ)たちが祖神として斎(いつ)き祀っている神であり、綿津見神の子の宇都志日金拆命(ウツシヒカナサク)の子孫であるとし、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は墨江(すみのえ)の三前(みまえ)の大神だと書いている。
 ”底”、”中”、”上”は土地を表しているのだと思うけど、三柱の神が2セット誕生したという説話は何か重要なことを伝えようとしている。
 見逃せないのは綿津身は”神”で、筒之男は”命”になっている点だ。
 これは綿津身は神に属し、筒之男は人間扱いになっているといういい方ができる。
『古事記』は伊邪那岐・伊邪那美が誕生したときは”神”で、後に天神たちのの命を受けて伊邪那岐命・伊邪那美命と”命”になっているので、ここでもその法則を当てはめるならば、”次”というのは兄弟のような関係ではなく次世代、親子のような関係性を示しているのかもしれない。 
 宇都志日金拆命を綿津見神の子としてあえて名前を挙げているのは、阿曇連氏が祖として祀っていたからなのだろうけど、宇都志日金拆命には穂高見命とという別名もある。
 綿津身三神を祀る神社の総本社は福岡県の志賀島にある志賀海神社(しかうみじんじゃ/web)とされているのだけど、系譜や神社については後ほどとしたい。
 続いて三貴神が生まれるという流れなのだけど、左目を洗ったときに天照大御神(アマテラスオオミ)、右目を洗ったときに月読命(ツキヨミ)、鼻を洗ったときに建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)が成ったというのも、何かの暗示だ。
 飛鳥奈良時代の人たちはどうか分からないけど、古くからの伝承で左目、右目、鼻というのがどこを指すのかについての共通認識があったのだろうと思う。

 

海幸・山幸と海神

 この後、ワタツミは三度目の登場をする。
 それが海幸・山幸(ウミサチ・ヤマサチ)の物語だ。
 天孫降臨した天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ)が豊葦原水穂国で大山津見神(オオヤマツミ)の娘の神阿多都比売(カムアタツヒメ)、またの名は木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)を見初めて一夜妻として生まれたのが火照命(ホデリ)、火須勢理命(ホスセリ)、火遠理命(ホオリ)、またの名を天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホデミ)だった。
 このうちの火照命が海佐知毘古(ウミサチヒコ)、火遠理命が山佐知毘古(ヤマサチヒコ)と呼ばれるようになる。
 長子に当たる火照命は隼人阿多君(ハヤトアタノキミ)の祖神といっている。
 このあたりは異伝が多くあり、『日本書紀』では兄弟の順番や数、名前などが違っている。
 兄の海幸と弟の山幸がそれぞれの道具を交換して猟(漁)をすることとなり、山幸が兄から借りた釣り針をなくしてしまったことでもめ事が起きる。
 落ち込んでいる山幸のもとに塩椎神(シオツチ)がやってきて事情を尋ね、それならばと无間勝間(まなしかつま)の小船を作って山幸を乗せ、このまま行くと魚鱗のような宮があって、それは綿津見神の宮です。近くの井の上に湯津香木(ゆつかつら)があるのでその木の上に坐していれば海神の女(むすめ)が上手くはからってくれますと言って送り出すという話。
 海神の娘の豊玉毘売(トヨタマヒメ)の従婢が見つけて知らせ、豊玉毘売が外に出て目合せて父に知らせると父も出てきてこの人はきっと天津日高の御子の虚空津日高だといって内に招き入れ、美智の皮を八重に敷いて、更に畳(きぬだたみ)を八重に重ねてその上に座らせ、机にたくさんのご馳走を並べてもてなし(具百取机代物爲御饗)、豊玉毘売を娶らせて三年の間その国に山幸を住まわせた書いている。

 天津日高は”アマツヒコ”、虚空津日高は”ソラツヒコ”と読むとするのが一般的だけど、日高は”ヒタカ”であり、”ホタカ”であり、”ヒタ”であることに気づかないといけない。
 名前に隠された意味についても、後ほどあらためて考えることにする。
 それにしても山幸はどうして木の上に坐していたのだろう。塩椎神がそうしろと言ったからだけど、では塩椎神はどうしてそんな指示をしたのか。
 木の上にとまるというと鳥を思わせるし、鳥がいるのが鳥居で、なんとなく八咫烏(ヤタガラス)を連想する。
 ”八”という数字はその後の”八重”として出てくる。美智の皮はアシカの皮とするのが通説だけど、何かの象徴には違いない。
 八重に八重を重ねるといえば、スサノオが歌ったとされる八重垣の歌も思い出される。
 天津日高の御子の虚空津日高という名前も意味深だ。虚空は文字通りなら”こくう”であり、”空虚(くうきょ)”という意味に取れる。
 天津日高は天若彦(アメノワカヒコ)を思わせるし、その子といえばアメノカゴヤマ(天香語山)だ。
 記紀の神話は、同じ登場人物の同じ話を形を変えて何度も語っているので、まったく別の時代の別の話も元ネタは同じだったりする。
 そのあたりを完全に読み解くのは難しいのだけど、あまり額面通りに受け取らない方がいい。
 海幸が過ごしたのを”三”年としたのも当然意味がある。このあたりも最後につながってくる。

 山幸はその後、故郷が恋しくなって帰ることになるのだけど、もう一度海神が出てくる。
 山幸が溜息をついていると娘に聞いた海神は聟夫にその理由を尋ねる場面だ。
 そこでは”其父大神”と、”大神”に出世していることも見逃せない。
 天神を婿にしたことで海神は地位が上がったということだろうか。
 海神は山幸がやってきた事情を聞き知って、なくした釣り針を魚たちに探させて見つけ、兄に仕返しする呪いの呪文を教えた。
 そのときは”綿津見大神”と書かれている。
 綿津見大神は山幸を送り届けるために和邇(ワニ)を集めて一番早く行けるというものを選んで命じた。
 この和邇というのは和邇氏のことだろうし、丹羽(ニワ)とも関係がある。生き物のワニだとかサメだとかいう話ではない。
 戻った山幸は兄の海幸に復讐を果たし、海幸は弟の山幸の守護人となることで許しを請うた。
 海幸こと火照命(ホデリ)の子孫の隼人は、今(奈良時代)でも溺れた仕草を演じて仕えていると書いている。
 隼人というと薩摩隼人を思い浮かべる人が多いだろうけどそれがすべてではないし、隼人=野蛮人といった発想も間違っている。

 以上が『古事記』の中のワタツミだ。
 続いて『日本書紀』を見ていこう。

 

『日本書紀』も基本的には同じ

『日本書紀』の神生みは第五段に書かれている。
 本文は、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が海、川、山を海、木の祖の句句廼馳(ククノチ)、草の祖の草野姫(カヤノヒメ)、別名野槌(ノヅチ)を生み、続いて三貴神を共に生んで、素戔鳴尊(スサノオ)を根国に追放するところまでが描かれる。

 ワタツミは第五段一書第六に出てくる。
 伊弉諾尊と伊弉冉尊が共に大八洲国を生み、それに続いて生まれた神の中に海神の少童命の名が挙げられる。
『日本書紀』はワタツミに対して”少童”という字を使っている(一書第七で「少童此云和多都美」と書いている)。
 少(小)な童(わらべ)というと、子供のようなイメージだけど、どうしてこの字を当てたのかはよく分からない。なんとなく少彦名(スクナヒコナ)を思わせる。
 ここでは山神の山祇(ヤマツミ)、水門神(みなと)の速秋津日命(ハヤアキツヒ)、木神の句句廼馳(ククノチ)、土神の埴安神(ハニヤス)、そして火神の軻遇突智(カグツチ)の順で生まれたといっている。
 話としては、伊弉諾尊が軻遇突智を斬って飛び散った血から多くの神が生まれ、伊弉冉尊を追いかけて黄泉国へ行き、戻ってきて禊をしたとき神々が生まれたという流れだ。
 八十枉津日神(ヤソマガツヒ)、神直日神(カムナオシヒ)、大直日神(オオナオシヒ)に続いて海の底に沈んで身を濯(そそ)いで生まれたのが底津少童命(ソコツワタツミ)で、次に底筒男命(ソコツツノオ)が、潮の中で表中津少童命(ウワナカツワタツミ)、次に中筒男命 (ナカツツオ)が、潮の上に浮かんで表津少童命(ウワツワタツミ)、次に表筒男命(ウワツツオ)が生まれたという。
 このうちの底筒男命、中筒男命 、表筒男命を住吉大神(スミノエノオオカミ)とし、底津少童命、表中津少童命、表津少童命を阿曇連(あずみのむらじ)らが祀っている神だといっている。

 第十段が海幸、山幸についての話で、第十段の一書は第四まである。
 話の展開としては『古事記』と変わらない。
 本文は海幸を火闌降命(ホノスソリ)、山幸を彦火火出見尊(ヒコホホデミ)としている。
 ワタツミについては一貫して海神とし、海神之宮や豊玉姫の父とするのみで名を明らかにしていない。
 ”海神”をそのまま”ワタツミ”と読む考えもあるようだけど、そうだとしても海を”ワタ”と読んでワタ・ッ・カミ、つまりワタカミと解釈するのがいいのではないかと思う。
 いずれにしても、最初に出てきた少童命は”命”で海神は”神”なので、別と考えた方がよさそうだ。
 一書の第二、第三、第四もそれぞれ海神としているのだけど、一書第一だけが海神豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)と、名を書いている。
 海神豊玉彦之宮や豊玉彦としているので、ここでの登場人物は豊玉彦ということができる。
 この豊玉彦の娘が豊玉姫であり、玉依姫なので、ここでいうワタツミは”豊”であり”玉”ということが分かる。
 海(ワタ)については”海鄕”という表現も使っているので、大きなくくりでいうと”海の一族”といういい方ができそうだ。その一族がいる郷だから海鄕という表現になるということだ。
 浦島太郎の話もそうだけど、実際に海中に宮があるわけではない。それじゃあ、異星人が海の中に基地を作っているという話になってしまう(それもあり得ないことではないけど)。 

 

記紀以外のワタツミ

『古語拾遺』(807年)は「天祖彦火尊 娉海神之女豊玉姫命 生 彦瀲尊 誕育之日 海濱立室」とごく簡単に書くのみでワタツミは出てこない。

『先代旧事本紀』(800年代)はここでも『古事記』と『日本書紀』を上手くつなぎ合わせて一本道のストーリーに仕立てている。
 伊奘諾・伊弉冉の二神が神生みをしたとき最初に生まれた十柱の神の8番目が海神の大綿津見神(オオワタツミ)とするのは『古事記』から、またの名を小童命とするというのは『日本書紀』から採っている。
 伊奘諾が黄泉国から戻って禊ぎをしたときの話もそうだ。
 身につけていた衣類などから十二柱の神が生まれ、続いて瀬に入って穢れを洗い清めたときに八十禍津日神や神直日神などが生まれ、海に入って、底津少童命と底筒男命、中津少童命と中筒男命、表津少童命と表筒男命が生まれたと書いている。
『先代旧事本紀』だけが書いていることとしては、この底津少童命、中津少童命、表津少童命の三神は阿曇連らが斎き祀る筑紫の斯香神(しかのかみ)といっている点だ。
 斯香神というのは馴染みのない神だけど、志賀島(しかのしま)の神と考えれば納得がいく。
 底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神については、津守連(つもりのむらじ)が祀る住吉の三社の神といっている。津守氏は尾張氏の同族とされる一族で、長らく住吉大社の社家を務めた。
 
「皇孫本紀」に天孫降臨から海幸・山幸の話が書かれている。
 オリジナリティあふれる「天孫本紀」と違って「皇孫本紀」は記紀をなぞった内容になっているのだけど、一部ここにしかない情報もある。
 たとえばコノハナサクヤヒメの表記が木花開姫と木花開耶姫の二つあったり、別名として豊吾田津姫(トヨアタツヒメ)、鹿葦津姫(カアシツヒメ)、神吾田鹿葦姫(カムアタツヒメ)を挙げているのもそうだ。
『日本書紀』の第九段本文は鹿葦津姫(カシツヒメ)、別名を神吾田津姫、木花之開耶姫としており、吾田津姫に”豊”を付けている点は見逃せない。小さなことのようだけど、これは結構重要だ。
 つまり、コノハナサクヤヒメことアタツヒメもまた、”豊(トヨ)”の一族とも”神(カム)”の一族ともゆかりのあるということを示しているということだ。アタツヒメというのは吾ッ姫であり、熱田姫のことでもある。

 

海と山の話

 ここまで読んで、これらの話は”海”と”山”の話になっていることに気づいた人も多いのではないかと思う。
 天孫の天津彦々火瓊々杵尊(ニニギ)は”大山祇”の娘の木花開姫を娶り、二人の間には海幸・山幸と呼ばれる子が生まれ、このうちの山幸が海神の娘を娶るというのは、知っている人からしたら完全に尾張と三河の話だということが分かる。
 以前から何度も書いているように、尾張の伊弉諾尊は山祇で、三河の高皇産霊尊は綿祇(海)なので、争いと融和、養子や国譲り、天皇即位などのことを物語形式で伝えているということがいえる。
 海幸・山幸の話は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)や玉依姫の項に書いたのでここでは省略するけど、大事なポイントは繰り返しになるけど、山幸こと火折命(ホオリ)またの名を火々出見尊(ホホデミ)が海神の豊玉彦の娘の豊玉姫を娶ったということであり、その間に生まれた子のウガヤフキアエズも海神豊玉彦の娘の玉依姫を娶り、この二人の間の子が初代神武天皇になったとしていることだ(神武天皇は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)、つまり”神”の名を冠している)。
 実際に起こったことは全然違うのだけど、そういう物語として伝えられてきたということに意味がある。
 兄弟とされる海幸ことホスセリと山幸のホホデミは実際は兄弟ではないかもしれない。
 お話としては山幸が勝ったということになっているのだけど、個人的にはこれは逆のような気がしている。
 何がどう逆なのかを説明するのは難しいのだけど。

 

ワタツミ関連の系譜について

『新撰姓氏録』(815年)の系譜はなかなか示唆に富んでいる。
 ワタツミ関係を挙げると以下の通り。

 海神綿積命の後 海犬養
 海神綿積豊玉彦神子 穂高見命の後 安曇宿祢 凡海連
 海綿積神命皃 高見命の後 安曇連
 海神大和多罪命三世孫 穂己都久命の後 安曇犬養連
 綿積命六世孫 小栲梨命の後 凡海連
 和多羅豊命子 布留多摩乃命の後 八木造

 一番目に付くのはやはり安曇(あずみ)で、その他、穂高見、高見、凡海、犬養なども気になるところだ。かなりいろいろな氏族が混じっているのが分かる。
 このあたりは最後のまとめのところでもう一度触れることにしたい。
 海幸こと火闌降命(ホスソリ)の系譜として、火闌降命より出るとして大角隼人や日下部が載っている他、六世孫、七世孫、八世孫も出ていることからこの一族も長く続いたようだ。

 

海若もワタツミ?

『出雲国風土記』(733年)の安来郷の条に”海若”という表現が出てくる。前後の文脈からして”ワタツミ”のことのようだ。
 安来(やすき)という地名は、神須佐乃烏命(カムスサノオ)が各地を巡っているときこの地を訪れて、ここで自分の心は安らかになったと言ったことから名づけられたという説明をしている。
 これは単にお話に過ぎないのだけど、スサノオに”神”がついているので”神一族”のスサノオということが分かる。スサノオは開拓者の総称なので、各地にスサノオはいた。
 その安来郷で天武天皇時代(飛鳥浄御原宮御宇天皇御世)の674年(甲戌)にこんなことがあったという話を載せている。
 語臣猪麻呂(カタリノオミイマロ)という男の娘が比売埼(ひめさき)というところを散歩していたときに出会った和爾(ワニ)に殺されて戻ってこなかった。
 父の猪麻呂は娘を葬ると大いに嘆き悲しみ怒って何日も座り込み、和爾への復讐を誓う。そのとき言ったのが以下の言葉だ。
「天神千五百万 地祇千五百万 并当国静坐三百九十九社 及海若等 大神之和魂者静而 荒魂者皆悉依二 給猪麻呂之所一レ乞 良有二神霊一坐者 吾所レ傷給 以レ此知二神霊之所一レ神者」
 天神(あまつかみ)千五百万、地祇(くにつかみ)千五百万、この国に鎮座する三百九十九の社、および海若たち、大神の和魂(にきみたま)は静まり、荒魂(あらみたま)は皆ことごとく猪麻呂の願うところに依りたまえ。本当にに神霊がいるのなら吾に和爾を殺させてください。それによって神霊が神であることを知るだろう、と。
 天神、地祇とは別に海若等と呼びかけているので、独立した扱いになっている。
 語臣(かたりのおみ)の出自は分からないのだけど、今でも使う”語部”(かたりべ)という言葉は語の部民(べみん)の意味だから、何かを物語る一族だったのかもしれない。
 その語一族の娘を殺したのが和爾だったというのも意味ありげだ。和爾とえば山幸の話では帰り道を送った一族として登場していた。
 これが674年の出来事だとすると、『出雲国風土記』が編纂された713年から733年から見てそんなに大昔の話ではない。50年くらい前の話なら老人達は覚えていることだ。
 安来郷ではいろいろな出来事があったであろうに、その中でこの話を選んで載せたということは意味があることだったということだ。
 猪麻呂は百匹ほどの和爾に囲まれつつもその中の一匹をホコ(鋒而刀)で殺して捕らえた。裂いて見ると中から娘の脛(はぎ)が出てきたので、切り裂いて串刺しにして道に立てたという結末になっている。

 

ホトとヒタ

 ワタツミの本拠地はどこかといえば、志賀海神社(しかうみじんじゃ/web)がある福岡県志賀島だとか、穂高神社(ほたかじんじゃ/web)がある安曇野穂高あたりとするのが一般的な認識だ。
 志賀海神社は表津綿津見神、仲津綿津見神、底津綿津見神の綿津見三神を祀る延喜式内社(名神大)だし、穂高神社(現在の祭神は穂高見命、綿津見命、瓊瓊杵命)も延喜式内の名神大なので古い神社には違いなく、早い段階でワタツミ関係者が移り住んだのは間違いだろう。
 しかし、それ以前の元地はといえば、それはもう三河しかない。
 いやいや、それはないでしょうというのが普通の反応だと思うけど、それを示す傍証のようなものはいくつもある。
 上にも書いたように、山幸ことホホデミは尾張の人で、山幸が海神のワタツミの娘の豊玉姫と婚姻したというのがまず一つ。
 トヨは何度も書くように三河の豊の一族であることを指す。トヨタ自動車の豊田一族もそうだ。
 山幸のホホデミは火遠理命、またの名を彦火火出見尊、海幸は火闌降命(ホスソリ)、または火酢芹命(ホスセリ)で、『日本書紀』の第九段一書第二では第二子とされる火明命(ホアカリ)も含め、いずれも”火”(ホ)が付いている。
 これは火斗(ほと)から生まれたことを意味している。
 ホトといえば『古事記』は”美蕃登(ミホト)”といういい方をしているけど、広い意味でイザナミのことを指し示している。
 イザナミは火神(ホノカミ)を生んでホトを焼かれて亡くなったといっている。しかし、実際にこれは死んだことを意味しているのではない。
 ある意味では包み隠したということだ。尾張を隠し、三河を隠した。
 これらの伝承が元になっているのが熨斗(のし)だ。
 あれは女性器をかたどってもいるのだけど、もともとは鮑(あわび)で作られていた。アワビが女性器に似ているから使われたのだろう。
 海に潜ってアワビを採るのは海女(あま)の役割だった。海女がどうして”アマ”なのかといえば、天(アメ)の女だったからだ。
『古事記』は綿津見神の子として宇都志日金析命(ウツシヒカナサク)を挙げ、阿曇氏の祖といっている。
 ウツシヒカナサクは火を写した(移した)という意味の名で、別名を穂高見命(ホタカミ)という。
 この穂高見の”ホ”は、”火”と東三河の”穂国”と掛かっている。
 つまり、ホトは火+斗、ホタカは火+高で、この”高”は高皇産霊尊(高木神)の”高”でもある。
 尾張でいうと、現在大高と呼ばれている地区は氷上と呼ばれ(氷上姉子神社)、それより以前は火上とされていた。これも火(ホ)+上ということだ。
 一般的に阿曇氏は尾張氏系の一族とされるのだけど、実際は三河寄りでトヨの一族の方が色濃いだろうと思う。阿曇、安曇を現在は”あずみ”と読ませているけど本来は濁らない”アツミ”だったはずで、アツミといえば三河の渥美半島(あつみはんとう)を連想させる。語源は共通かもしれない。
 この阿曇氏(安曇)は当然ながら尾張氏との婚姻関係があったに違いないのだけど、古代においては母系が重視されるので、系譜でいうとタカミムスヒ系といえる。
 阿曇(安曇)がどうして”曇”なのかといえば、これもいつも書くように世界(高天原)の中心が雲で、周辺に八雲があり、そこから出ると出雲になるというその雲を表している。 
 東雲(しののめ)や南雲(なぐも)などもそうだ。
 雲の上の”日”は”火”であり、”立”+”日”の”音”のことでもある。音は日立であり、ヒタチはヒタなので、”火”+”田”になる。
 飛騨(ひだ)ももともとは”ヒタ”から来ている。
 これらを隠したから”ひた隠し”という言葉が生まれた。
 名前には必ずこういった法則性があって、自分勝手に思いついたものを名乗っているわけではない。
 地名の場合は元地をそのまま写すか、または反転させることが多い。字を変えていて分かりづらいこともあるのだけど、遠く離れていて無関係に思える土地に同じ地名がついているのはそのためだ。
 九州福岡の志賀島についていえば、尾張国の綿神社(わたじんじゃ)がある元志賀が文字通り元地だっただろうと思う。
 志賀海神社は現在”しかうみ”と読ませているけど、もともとは”しか”の”わた”の”かみやしろ”だったはずだ。
 和多都美神社(わたつみじんじゃ/web)がある長崎県の離島の対馬(つしま)は愛知県の津島市(海部郡)が元になっている地名だ。津島は先津島(さきつしま)と呼ばれていた。
 瀬戸内海も愛知県の瀬戸が元になっているのだけど、信じてもらえないかもしれない。

 

ワタツミ系神社について

 神社についてもう少し補足をしておきたい。
 志賀海神社や穂高神社の他にも『延喜式』神名帳(927年)にはワタツミを祀っていたと思われる神社がけっこう載っている。
 但馬国城崎郡、隠岐国知夫郡、播磨国明石郡、紀伊国那賀郡、紀伊国牟婁郡、壱岐嶋石田郡にそれぞれ海神社があり、摂津国住吉郡には大海神社がある。尾張国の綿神社も当然ながら延喜式内社だ。
 その他、”和多都美”の名が付く神社が対馬嶋に三社ある。
 阿波国名方郡には和多都美豊玉比売神社も見られる。
 これらがすべて同じワタツミを祀っているわけではないだろうけど、近しい関係性の一族が祀る社だったと推測できる。
 地域性としてはすべて尾張より西ということだ。東国には少なくとも平安時代に官社だったワタツミ系神社は見当たらない。
 三河のタカミムスヒ一族の一部が西に移ってアツミを名乗り、その地に土着したと考えられる。
 別の一族は東国の信州に移って穂高見を祖としたということだろうから、元を辿れば同族に違いない。
 穂高見こと宇都志日金拆命は綿津見命の子とされているので、時期としては信州進出は筑紫国(つくしのくに)より後ということになりそうだ。
 それでも、穂高神社も名神大で信濃国三宮とされていたので、平安時代までには格式の高い官社となっていたことが分かる。このときはまだ一座なので、祀っていたのは穂高見命か綿津見命だっただろう。
 志賀海神社は三坐となっているので、その頃にはすでに綿津見三神を祀るという認識だったようだ。

 現在、ワタツミを祀るとする神社は千葉県銚子市の渡海神社(とかいじんじゃ)以外はほとんどが兵庫県以西に偏っている。
 この地域性はかなり特殊で違和感もある。ワタツミの勢力が東国へ及んでいなかったとは考えにくく、隠されたのでなければ他の名で祀られているのではないかと思う。
 それにしても渡海神社とは面白いネーミングだ。これは海を渡ってきたということではなく、渡って来た海(ワタ)一族の神社という意味だ。
 渡来人というと外国からやってきた人と思っている人がほとんどだろうけど、古い時代の渡来は高天原からやってきたことを意味していたので、この場合は三河の海一族がその地でワタツミを祀った神社だろう。
 
 個人的に気になったのは、三重県伊勢市にある二見興玉神社だ(ふたみおきたまじんじゃ/web)。二見(ふたみ)の夫婦岩(めおといわ)の近くにある神社といえばあそこかと分かる人もいるだろう。
 かつて伊勢の神宮(web)へ参る前に、二見の海で禊をして、二見興玉神社で浜参宮(はまさんぐう)をするのが習わしだった。
 綿津見大神を祀っているのは境内社の龍宮社で、たくさんあった境内社の一つかもしれないし、他から移してきたものという可能性もあるのだけど、社名の”興玉”はワタツミのことではないかと思う。
 現在は、興玉は猿田彦(サルタヒコ)のことで、夫婦岩を猿田彦と天鈿女命(アメノウズメ)に見立てたり、伊弉諾尊・伊弉冉尊としたりするのだけど、興玉は豊玉彦や豊玉姫の”玉”に通じる。
 別の境内社の栄野神社で祀る大若子命は天若彦を思わせるし、そのあたりの歴史が混ざった神社に感じられる。
 伊勢の語源についてはいろいろいわれているのだけど、”一”もしくは”五”が掛かっているというか隠されている。
 一木、二木、三木の一木の背(裏とか向こう側といった意味)かもしれないし、五十(いそ)が転じたものかもしれない。
 神宮を流れる五十鈴川(いすずがわ)からすると、五十の可能性が高いか。
 そういうことでいうと志賀は四木の”四”と関連があるかもしれない。

 

綿祇と海祇

 最初に綿祇と海祇は別と書いた。
 尾張氏家の系図を見ると、大山祇がイサナキ、大綿祇がタカミムスヒ、大海祇はイサナミの兄で善八となっている。
 大海祇系女子の八重代姫と梅のムスヒ一族の禍ッ日(速玉男)が婚姻してアマツヒコネやオシホミミ、アマノホヒ、イチキシマヒメが生まれたとなっていて、私の理解を超えている。
 このオシホミミはスサノオでもあり大海積とも書かれていて、更に混乱が増す。
 タカミムスヒ系統の豊秋津美姫(速秋津姫)は明罪であり、影アマテラスであり、海神でもあるとあって、もはや判断がつかないのだけど、海と綿は色濃く混じっていることだけはなんとなく理解できる。
 なので、綿祇と海祇は出発は別でも途中で入り交じっていて明確に区別することは無意味かもしれない。

 

ワタツミの声

『きけ わだつみのこえ』は戦後に発売された戦没学徒兵の手記集で、題名は公募で選ばれたというのだけど、偶然この題名になったとは思えない。
 出版は東京大学なので、もしかすると天皇もしくは皇室の意向もあったかもしれない(天皇はタカミムスヒ系のお代理様)。
 今こそ我々はワタツミ、ヤマツミの声を聞くときではないか。
 身内で争っている場合ではない時代がやってくる。
 キーワードは愛と仲良しだ。
 皆で仲良くしないと乗り越えられない。
 元を辿れば皆親戚という意識に目覚めなければいけない。

 

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