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タマヨリヒメ《玉依姫》

タマヨリヒメ《玉依姫》

『古事記』表記 玉依毘売
『日本書紀』表記 玉依姫
別名 玉依媛、活玉依日売命、玉依日賣、建玉依姫、多多須玉依媛命、活玉依姫
祭神名 玉依姫命、他
系譜 (父)大綿津見神
(母)萬幡姫(『日本書紀』一書)
(姉)豊玉姫
(夫)鸕鷀草葺不合尊
(子)神日本磐余彦尊(神武天皇)
属性 海神の娘、神武天皇の母
後裔 天皇家、
祀られている神社(全国) 賀茂御祖神社(京都府京都市)、玉前神社(千葉県長生郡)、宮浦神社(宮崎県日南市)、青海神社(新潟県加茂市)、玉崎神社(千葉県旭市)、知立神社(愛知県知立市)、宮崎神宮(宮崎県宮崎市)、竈戸神社(福岡県太宰府市)、筥崎宮(福岡県福岡市)、など
祀られている神社(名古屋) 綿神社(北区)、鳴海八幡宮(緑区)、城山八幡社(大高)(緑区)、八幡社(町屋川)(緑区)

オリジナルはいたはず

 タマヨリヒメという名前で語られる神話上の人物が何人かいる。
 玉(珠/御霊/御魂)によりつく女性と解して巫女的な人の総称とするのが一般的な解釈だ。
 しかし私は、タマヨリヒメと呼ばれる(あるいは称した)特定の個人がいたのではないかと考えている。
 少なくともオリジナルと呼べる元になった人はいただろう。後にそれが通称のように使われるようになったのではないか。

 この項ではまず、記紀が描いて見せた神武天皇(神日本磐余彦尊)の母とされるタマヨリヒメについて見ていくことにする。
 それから、それ以外のタマヨリヒメについてもあわせて考えてみることにしたい。

 

『古事記』におけるタマヨリヒメ

 海幸・山幸の兄弟の話や山幸が海神(ワタツミ)の宮で海神の娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)と出会って彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)が生まれたといったあたりについては彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の項に書いたのでここでは繰り返さない。
 鸕鶿草葺不合尊を産むに際して豊玉姫は山幸(彦火火出見尊)に見ないで欲しいとお願いしたにもかかわらず山幸はのぞき見てしまい、和邇(ワニ)の姿になっていたので驚いて逃げ出した。
 恥をかかされたと豊玉姫は海の宮に戻ってしまう。
 その代わりとして送られてきたのが豊玉姫の妹のタマヨリヒメだったというのが『古事記』の展開だ。
『日本書紀』も話としては同じなのだけど少し違っている部分もある。

『古事記』はタマヨリヒメを玉依毘売、ウガヤフキアエズを天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ)と表記する。
 山幸と豊玉姫の間にできた鵜葺草葺不合命は、母の妹で叔母に当たる玉依毘売を娶って4人の子供が生まれた。
 最初が五瀬命(イツセ)、次に稲氷命(イナヒ)、次に御毛沼命(ミケヌ)、次に若御毛沼命(ワカミケヌ)で、この若御毛沼命の別名として豊御毛沼命(トヨミケヌ)、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)を挙げ、神倭伊波礼毘古命こと若御毛沼命が初代神武天皇として即位したというのが『古事記』が書いていることだ。
 玉依毘売については具体的には何も語っていない。神武天皇の母ならもう少し重要人物として扱ってもよさそうなものだけど、そんな感じではない。

 

『日本書紀』における一部の違い

『日本書紀』は、海幸・山幸の兄弟構成や豊玉姫の出産その他に関していくつかの異伝を伝えている。
 第十段本文は、山幸の子を宿した豊玉姫は、山幸の元で子を産むため妹の玉依姫を連れてやってきた、という設定になっている。
 出産する姿を見られてしまった豊玉姫は辱めを受けたと感じて生まれたばかりの彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊を置いて海神の宮に帰ってしまった。
 ここでは玉依姫について言及はされていないものの、一書第一に玉依姫を残して生まれた子供を育てさせたとある。
 一書第三は豊玉姫が出産のために一人でやってきて、子供を産んで去ってしまった後、山幸(彦火火出見尊)は子供を育てる女性たちを雇って育てたとしており、子供がかわいいと聞いた豊玉姫は自分は行けないので代わりに妹の玉依姫を送って育てさせたという話になっている。
 一書第四は、豊玉姫は産んだ子供を連れて海神の宮に戻ったものの天孫を海で育てるのはよくないと思い直して、妹の玉依姫に子供を返させたという別伝を伝える。

 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫の子供について第十一段本文は、彦五瀬命(ヒコイツセ)、稻飯命(イナイイ)、三毛入野命(ミケイリノ)、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ)の4人が生まれたとしており、『古事記』とほぼ同じではあるのだけど、名前が少し違っている。
 第十一段一書は兄弟構成の異伝について書いている。
 生まれた順番の違いなのだけど、後に神武天皇となる神日本磐余彦尊を三男としたり次男としたり、磐余彦火火出見尊や狹野尊という別名で呼んだりしている。

『古事記』同様、玉依姫については何も書いていない。

 

『古語拾遺』と『先代旧事本紀』

『古語拾遺』は彦火尊(ヒコホ)が海神(ワタツミ)の娘の豊玉姫命(トヨタマヒメ)を娶って彦瀲尊(ヒコナギサ)を産んだとだけあって玉依姫については何も書いていない。
 神武天皇の系譜についても触れていない。
 そこに斎部広成の興味はなかったのだろう。

『先代旧事本紀』は海幸(火酢芹命)と山幸(火折命または火々出見尊)の話を詳しく書いている。
 例によって『古事記』と『日本書紀』の合わせ技的な内容なのだけど、少し違っている部分もある。
 天孫(火々出見尊)が海神の宮を去るに当たって豊玉姫は妊娠していることを告げ、産むときはそちらに行くので産屋を用意しておいてくださいと言い、豊玉姫は大亀(または龍)に乗り、妹の玉依姫を連れてやってきた。
 出産しているところを見ないようにと頼んだにもかかわらず天孫が見てしまうと、豊玉姫は八尋大鰐の姿になって産んでいた。
 見られてしまった豊玉姫は恥じ入り恨みに思いつつ、天孫が名を聞くと彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と名づけましょうと言ってその子を抱いて海に帰っていった。
 またはとして、妹の玉依姫に子を預けて養育させたという別伝承も書いている。
『古事記』と『日本書紀』の両方を立てた格好だ。
 ただ、本筋としては抱いて帰った天孫の子(彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊)を玉依姫に預けて送り返したというストーリーになっている。
 ここでは子供を戻したというだけで、その後、その子が美しくかわいらしく育っているという話を聞いて自分が育てたいと思ったものの、それは義にかなわないということで妹の玉依姫をあらためて送って育てさせたといっている。
 そしてこの後、ちょっと驚くことを書いている。
 玉依姫が彦火々出見尊に召されて武位起命(タケクライオキ)を生んだというのだ。
 これは記紀にはない独自の伝承で、武位起命を大和国造(やまとのくにのみやつこ)の祖ともいっている。
 これが本当なら、逆に何故『古事記』と『日本書紀』はそれを書かなかったのだろうという疑問を抱く。
 武位起命には椎根津彦(シイネツヒコ)と祥持姫命(サカモツヒメ)という子がいたとされ、椎根津彦(槁根津日子)といえば神武東征の際に重要な役割を果たしたと記紀が伝える人物だ。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」では椎根津彦命を大倭国造としたといっている。
 椎根津彦命はちょっとしたキーパーソンの一人で、それが玉依姫の子だとすると、その意味は小さくない。
 このへんは後ほどあらためて考えることにしたい。
 玉依姫命がその後どうなったかについては、やはり何も書いていない。

 

系譜について

 系譜について検討していて気づいたのだけど、そういえば豊玉姫と玉依姫姉妹の母の情報がない。海神(綿津見)の妻でもあるこの女性について誰もどこにも書かなかったのはどうしてなのか。
 神武天皇の母方の祖母について何も伝わっていないことに違和感を抱く。
 隠さなければいけない事情があるようにも思えないけど、何かあるのだろうか。

 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命の子については記紀ともに四人で共通している。『先代旧事本紀』もそれに倣っている。
 彦五瀬命は賊の矢にあたって亡くなり、稲飯命は海に没して鋤持神となり、三毛野命は常世郷に行き、磐余彦命が45歳のときに兄や子供たちを連れて東征に出て天皇として即位したと『先代旧事本紀』は伝える。
 唯一生き残った神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)が神武天皇になったというのであれば、玉依姫の後裔は歴代天皇家ということになる。
 そうなると問題は、武位起の存在だ。
 もし『先代旧事本紀』が伝えることが本当なら、天皇家以外にも天孫の系統がもう一つあったということだ。
 瓊瓊杵尊(ニニギ)の子である彦火火出見尊(ホホデミ)と海神の娘との間にできた子なら正統も正統、天皇家と並び立つ家柄といえる。
 記紀神話の中で武位起の子の椎根津彦はカム神倭伊波礼毘古の東征を助けている。
 椎根津彦からすると、父の兄の子なので神倭伊波礼毘古は従兄弟に当たる。助けるのは当然といえば当然だ。
 神倭伊波礼毘古が即位後に大和国造に任じられたのも納得だ。
 ただし、椎根津彦はあくまでも国津神という扱いになっていて、天津神は名乗っていない。
 天孫の後裔であることを隠すためか、天津神を名乗れない理由があったのか。
 大分県大分市に椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある他、吉備国(岡山県)や播磨国(兵庫県)に椎根津彦の伝承地があり、京都丹後の籠神社(web)にも関係がある。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」の中で、久比岐国造には崇神天皇の時代に椎根津彦5世孫の御戈命が、明石国造には応神天皇時代に椎根津彦8世孫の都弥自宿禰が任じられたとあり、九州から中国、大和地方一帯に椎根津彦を祖とする一族が点在していたことがうかがえる。

 

『新撰姓氏録』の椎根津彦系統

『新撰姓氏録』(815年)を見ると、武位起の後裔は載っていないものの、椎根津彦命を自認する一族がいたことが分かる。
 初代の倭国造となったことでそこに根を下ろしつつ、一族の一部が他に移って代々その伝承が伝えられたのだろう。
 右京、摂津、河内、大和と、畿内一帯に広がりを見せている。
 青海首、等禰直、倭本、物忌直、大和連、大和宿祢が載っている。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」が本当であれば、久比岐国(現在の新潟県糸魚川市)や 明石国(兵庫県明石市)あたりまで椎根津彦の一族がいたことになる。

 

『山城国風土記』に出てくるタマヨリヒメとは

『山城国風土記』(『山背国風土記』)逸文に玉依日売の話がある。
 海神の娘の玉依姫とは無関係かといえばそうではなく、おそらく根っこでつながっている。
 可茂社(かものやしろ)の起源を伝える伝承で、話はこうだ。

 日向(ひむか)の曾の峯に天降った賀茂建角身命(カモタケツヌミ)は、 神倭石余比古(カムヤマトイワレビコ/神武天皇)の東征の際に道案内(御前に立ち)をした。
 その後、大倭(やまと)の葛木山(かつらきやま)にしばらくいて、山代國の岡田の賀茂に至った。
 そこに石川の淸川(賀茂川)が流れていて、その川上に上って久我國(くかのくに)の北の山の麓に鎮まり、それ以来そこを賀茂と呼ぶようになった。
 賀茂建角身命、丹波國(にはのくに)の神野(かみの)の神伊可古夜日女(カムイカコヤヒメ)を娶り、玉依日子(タマヨリヒコ)、次に玉依日賣(タマヨリヒメ)が生まれた。
 玉依日賣が石川の瀬見の小川で川遊びをしていたとき、川上から流れてきた丹塗矢(にぬりや)を拾って持ち帰り、床の間に置いておいたら妊娠して男子を生んだ。
 その子が大きくなったとき、父を明らかにするための神事が行われた。
 賀茂建角身命が醸した酒をついで父と思う人にこの酒を飲ませよというと天に向けて杯を捧げ、それが屋根を突き破って天に上っていった。
 そこで建角身命にちなんでその子の名前を可茂別雷命(カモワケイカヅチ)と名づけた。
 丹塗矢は乙訓郡(おとくにのこほり)の社に坐す火雷神(ホノイカツチ)で、可茂建角身命と丹波の伊可古夜日賣(イカコヤヒメ)、玉依日賣の三柱は、蓼倉里(たでくら)の三井社(みいのやしろ)に坐す。

 現在の上賀茂神社(賀茂別雷神社/web)、下鴨神社(賀茂御祖神社/web)の由緒ともなっているのだけど、あれ? この話どっかで聞いたことあるなと思った人も多いと思う。
『古事記』が伝える三輪の大物主神と勢夜陀多良比売(セヤタタラヒメ)の話とよく似ている。
 三島湟咋(ミシマミゾクイ)の娘の勢夜陀多良比売を気に入った大物主神は、勢夜陀多良比売が溝で用を足しているところに丹塗矢に姿を変えて流れていってホトを突いた。
 やがて丹塗矢は美男子に姿を変えて勢夜陀多良比売と結ばれ、富登多々良伊須須岐比売(ホトタタライスキヒメ)が生まれた。
 ”ホト”の名を嫌った比売は比売多々良伊須気余理比売命(ヒメタタライスキヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の皇后となる。
『日本書紀』では神武天皇の皇后は媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)となっているのだけど、その母は三島溝咋耳神(ミシマミゾクイ)となっており、『古事記』の三島湟咋と同一人物に思える。
 ただし、媛蹈鞴五十鈴媛の父は事代主神(コトシロヌシ)となっており、『古事記』の大物主神とは違っている。
 しかし、大物主神イコール事代主神とすれば話の辻褄は合う。
 キーになるのは、神武天皇こと神倭伊波礼毘古で、話はすべてその周辺で起きている。椎根津彦もそうだ。
 だから、このへんの話は全部根っこはひとつなのだと思う。
 それぞれの一族がそれぞれの土地で歴史を語り継いだことでいろいろなバリエーションが生まれたと推測できる。
 建角身命は八咫烏(ヤタガラス)のこととされるので、神倭伊波礼毘古を導いた武位起命ともつながる。

 

その他のタマヨリヒメ

『日本書紀』第九段の一書の中にもタマヨリヒメの名前が出てくる。
 第九段は国譲りから天孫降臨までを描いているのだけど、系譜の別伝承にその名前がある。
 それによると、高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘の萬幡姫(ヨロズハタヒメ)の娘が玉依姫命(タマヨリヒメ)だという。
 萬幡姫には多くの異名が伝えられているのだけど、一般的には『日本書紀』に出てくる栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)として知られている。
『古事記』は萬幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)としているのだけど、いずれにしても天照大神の息子の天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)と婚姻して瓊瓊杵尊(ニニギ)を生んだ母だ。天火明命(アメノホアカリ)の母でもある。
 この別伝が伝える系譜が事実ならば、瓊瓊杵尊と天火明命の姉か妹に玉依姫命がいたことになる。
 ただし、玉依姫命の父についてはここでは書かれていない。
 そして、この玉依姫命は天忍骨命(アメノオシホネ)の妃となって天之杵火火置瀨尊(アメノギホホオキセ)を生んだともいっている。
 天忍骨命は天忍穗耳尊の別名とされているので、ん? となる。
 玉依姫命から見ると母の萬幡姫(栲幡千千姫)と婚姻した天忍穗耳尊(天忍骨命)を自分が生むというのはちょっとあり得ないことなのでこの系譜はおかしいということになる。
 ただ、萬幡姫や天忍骨命は別名ではなく別の人物という可能性はある。
 しかしながら、天之杵火火置瀨尊は瓊瓊杵尊の別名とされているので、そうなるともう、萬幡姫と玉依姫命を同一とするしかなくなる。
 萬幡姫の別名が玉依姫命なのか、二代目萬幡姫が玉依姫命なのか。
 ちょっとよく分からないのだけど、このへんも玉依姫について考えるときのヒントにはなりそうだ。

 

誰と誰が同一なのか

 大物主神イコール事代主神説の補足を少し。
 神武天皇の皇后となった姫蹈鞴五十鈴姫命の父を『古事記』は大物主神、『日本書紀』は事代主神としているのだけど、母については三島溝杭(三島溝咋耳神)の娘ということで一致している。
『日本書紀』は玉櫛姫(タマクシヒメ)とし、『古事記』は勢夜陀多良比売(セヤタタラヒメ)としているのだけど、『先代旧事本紀』は「地祇本紀」の中で、これを活玉依姫(イクタマヨリヒメ)としている。
 そう、ここにもタマヨリヒメは出てくる。
 それによると、都味歯八重事代主神(ツハヤエコトシロヌシ)と活玉依姫との間に天日方奇日方命(アメノヒガタクシヒガタ)、姫踏韛五十鈴姫命、五十鈴依姫命(イスズヨリヒメ)が生まれたともいっている。
 なんだかややこしくて頭が混乱するのだけど、天日方奇日方命を三輪氏、賀茂氏の祖としているので、『山城国風土記』が伝える丹塗矢の話はここにもつながってくる。
 五十鈴依姫命は第2代綏靖天皇の皇后となって第3代安寧天皇を生んだとも書いている。

 

名前について

 タマヨリヒメは個人名か総称かという問題だけど、もともと個人名だったのが後に総称や通称となったという可能性について考えてみる。
 珠(魂)によりつく巫女だからタマヨリヒメと呼ばれたというよりも、タマヨリヒメと呼ばれるようになる人物がそういう人物だったことからタマヨリヒメという言葉=名前が生まれたのかもしれない。
 気になるのが『山城国風土記』に出てくる玉依日子と玉依日売だ。
 兄がタマヨリ彦で、妹がタマヨリ姫だとすると、タマヨリは個人名ではなく家の名前というか一族の名前のようにも思える。
 タマヨリのところの男子だからタマヨリ彦、女子はタマヨリ姫といったところだ。
 タマヨリヒコは後に賀茂別雷命という名前を与えられたということなのだけど、こでいうと”イカヅチ”が個人名もしくは通称ということになる。
 イカヅチを雷(かみなり)とするのは短絡的すぎるから違うとして、イカヅチとタマヨリには何らかの関係があるのだろうか。

 玉依姫には建玉依姫という表記もある。
 下鴨神社(賀茂御祖神社)のwebサイトでは玉依姫となっているのだけど、賀茂建角身命に”建”が入っているように、玉依姫も建玉依姫とすべきかもしれない。
 いつも書くように”建”(タケ)は”竹”の一族との関わりが深いということだ。

 尾張氏の家に伝わる系図を見ると、ここでも建玉依彦、建玉依姫となっており、天村雲(アメノムラクモ)と婚姻して天戸目(アメノトメ)が生まれたとある。
 これはけっこう大胆というか、驚きの内容なのだけど、ここにある建玉依姫はまた別の玉依姫なのかもしれない。
『先代旧事本紀』の天孫本紀では、天村雲命は天香語山命(アメノカゴヤマ)の子で、阿俾良依姫(アヒラヨリヒメ)を娶って天忍人命(アメノオシヒト)が生まれ、天忍人命が角屋姫(ツヌヤヒメ/葛木出石姫)を娶って瀛津世襲命(オキツソヨ)が生まれ、その兄弟に天戸目命がいるとしている。
 尾張氏の系図では、天戸目の子が建斗米(タケトメ)で、この系統を天(アメ)の尾張氏としている。

 

祀られている神社

 玉依姫を祀っている神社は全国にそれなりの数があるものの、他の神との抱き合わせがほとんどで、単独で祀っているところは少ない。
 主祭神として祀っている古い神社としては、千葉県長生郡一宮町一宮にある玉前神社(たまさきじんじゃ/web)くらいだろうか。
 この埴生郡 玉前神社は上総国(かづさのくに)の一宮とされ、『延喜式』神名帳(927年)で、名神大となっている(上総国の名神大はここだけ)。
 そのときすでに玉依姫を祭神とする認識だったとすれば、玉依姫関係の神社として最古といってもいいかもしれない。
 どうして上総国で玉依姫を祀ったのかは分からないし、それが一宮になったのかも不明なのだけど、この地に住んでいた有力な一族が玉依姫の関係者だった可能性が考えられる。

 上の方で書いたように玉依姫は賀茂氏関連でもあるので、下鴨神社(賀茂御祖神社)をはじめとして、全国の同系列神社の祭神の一柱とされているパターンもある。
 新潟県加茂市の青海神社(あおみじんじゃ/web)は、青海郷を開拓した青海首が祖先神である椎根津彦命などを祀ったのが始まり(726年)とされる古社だけど、この元社といえるのが愛知県知立市にある三河国二宮の碧海郡 知立神社(ちりゅうじんじゃ/web)だ。
 知立神社の現在の祭神は鸕鶿草葺不合尊、彦火火出見尊、玉依比売命、神日本磐余彦尊となっており、相殿神として青海首命を祀るとしている。
 三河国に賀茂郡があったことからも分かるように賀茂氏の影響力が強い土地だった。
 新潟県の青梅もそうで、青梅神社があるのが加茂市で、青梅神社は賀茂神社と賀茂御祖神社をあわせ祀る格好になっており、ここも賀茂氏が色濃い。
 青梅神社に関しては、知立あたりにいた一族の一部が越国(後の越後国)に移り住んで祖神を祀ったのが始まりだろう(逆ではない)。
 青梅神社については、『延喜式』神名帳に青梅神社 二座とあるから、平安時代中期にはすでに賀茂(加茂)明神を祀っていたことがうかがえる。
「鴨が葱を背負ってくる」という言葉があるけど、あれの本来の意味は”賀茂が禰宜を背負ってやってくる”で、賀茂氏が各地に移り住んで自分たちの神を祀った(祀らせた)ことを意味している。
 賀茂氏にそんなに力があったのか? という疑問を持つだろうけど、それはあったんでしょうとしかいえない。
 賀茂氏の本拠は大和国葛城というのが定説だけど、そもそも葛城の元地は尾張だし、賀茂氏の本拠は三河だと聞いている。
 徳川家康の出身である松平氏も賀茂氏と関係が深い。
 元を辿ると高皇産霊尊(タカミムスビ)に行き着くのだけど、この話をするとややこしくなるのでここではやめておく。
『日本書紀』が一書の中でちらっと書いた玉依姫命は高皇産靈尊の娘の萬幡姫の娘という伝承は案外本当のことかもしれない。
 新潟の青梅神社の賀茂御祖神社の祭神が”多多須”玉依媛命となっているのは必ず意味があって、隠された事実を紐解くためのヒントとなっている。

 全国を俯瞰してみると、玉依姫を祀る神社は九州に多く、続いて中国地方から近畿地方に広がり、中部は少なく、関東にも点在するような分布になっている。
 ただ、これだけで玉依姫の本拠地は九州だと決めつけるのは早計で、これは記紀神話にならって社が祀られるようになったからというのがある。
 たとえば宮崎県日南市の宮浦神社(web)などは玉依姫の住居跡という伝承があるようだけど、これなどはその典型例だ。
 日向三代の神話はそもそも日向や九州で起こった出来事ではないとすると、それらの伝承は前提から崩れてしまう。
 ただ、玉依姫が個人名ではないとすると、九州やその他の地方に玉依姫がいて、その人を祀る神社が建てられたというのは充分にあり得ることだ。
 もしくは、賀茂氏や関係一族が各地に移住して、その土地で自分たちの歴史を語り継いだ結果ともいえる。

 

どうして神武天皇を祀る神社がほとんどないのか?

 玉依姫関係の神社について調べていてふと気づくのは、神武天皇を祀る神社があまりにも少ないことだ。
 神武天皇といえば奈良県橿原市にある橿原神宮(かしはらじんぐう/web)だけど、あそこは明治23年(1890年)に創建されたごく新しい神社だ。
 九州の宮崎県にある宮崎神宮(web)は神日本磐余彦尊時代に宮を営んだところという伝承がある古い神社のようだけど、皇子原神社や皇宮神社なども記紀神話に拠っているので鵜呑みにはできない。
 神武天皇が本当に初代天皇であるならば、もっと大々的に全国で祀られているはずなのにそうはなっていない。家の近所に神武天皇関係の神社があるなどという人はほとんどいないはずだ。
 それは卑弥呼を祀る神社がないのと同じで、神武天皇は我々がよく知る別の名前の人物の別名だからだ。神日本磐余彦尊も別名でしかない。
 その神武天皇の母が玉依姫だというのなら、玉依姫の正体を知ることが神武天皇の正体を知ることにつながる。
 しかし、そこにも二重、三重の隠しやミスリードが仕掛けられているので個人が自分の頭で考えて辿り着くのは難しい。
 知りたければ知っている人に教えてもらうしかないことで、私も多少は聞いているのだけど、半信半疑で確信が持てないというのが実情だ。
 歴代天皇はもちろん知っている。天皇家には本当の歴史が伝わっているからだ。
 天皇の足跡を丹念に調べると浮かび上がってくるものがあるのだけど、そこには表と裏があって、話はそう簡単ではない。
 天皇はどうして天照大神(アマテラス)を祖神としたのか?
 どうして神武天皇を祀っていないのか?
 八神殿の顔ぶれはどうしてああなのか?
 祀りというのは二つの側面があって、一つは守護で、もう一つは鎮めなのだ。
 表だけではなく、裏だけでもなく、表と裏があわさって世界はできている。歴史もまた例外ではない。

 

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