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曽野稲荷神社(曽野町)

江戸時代後期の稲荷社というだけなのか

読み方そのいなり-じんじゃ(そのちょう)
所在地瀬戸市曽野町1873 地図
創建年1817年(?)
旧社格・等級等不明
祭神宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)
佐田彦大神(サタヒコ)
大宮能売大神(オオミヤノメ)
田中大神(タナカ)
四大神(シノ)
アクセス瀬戸市コミュニティバス「曽野稲荷前バス停」下車すぐ
駐車場あり
webサイト
例祭・その他春の大祭(初午) 3月第1日曜日
秋の大祭(火焚祭) 11月第2日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事記憶にないけど再訪だった瀬戸市の曽野稲荷神社

この話は本当なんだろうか

 この稲荷の創建は江戸時代後期の1817年という。
 資料もネットも口を揃えてそう言っているので信じるしかないのだけど、個人的には少し疑っている。
 元ネタとなっているのはどうやら梶田義賢という人物が書いた『曽野稲荷大明神縁起記』のようだ。
『水野のあゆみ』も梶田義賢氏の著作で、発行年は昭和47年(1972年)というから昔の人ではない。
 上水野の感応寺(地図)の住職だそうだから、古記録にも触れる機会があっただろう。
 1817年創建というのはこういう話だ。
(以下瀬戸ペディアより引用)

上水野曽野郷、稲荷山に鎮まります正一位稲荷大明神は、太田左太彦命を主神とし、権太夫大神を守護神として奉祀して、城州(京都)深草の里、荒神ヶ峰田中の社より御分身給える御社なり」とある。
由来を求めると今から約120年程前、荒神ヶ峰のふもとにある稲荷総本宮愛染寺の別当盛淳上人が諸国を遍歴した折、この地をたずね農家を仮宿をたのんだところ、主人が快くむかえいれた。
その折別室で婦人が叫喚する声を聞いた。理由を聞くと白狐が出てなやますのだと言う。上人がおまじないでこれを直した。
それ以来ここに稲荷を祀ったのがはじまりといわれる。

 ざっくり言うと、京都伏見稲荷(公式サイト)の愛染寺の盛淳上人が各地を廻っているときに上水野村の曽野を訪れて宿を求め、村人が泊めてあげたら隣室から女の人の叫び声が聞こえたので何事かと訊ねると白狐に化かされてるんだと答え、それならばと盛淳上人がおまじないで治し、そのお礼として稲荷を祀ったのが始まり、ということだ。
 あり得るようなあり得ないような話なのだけど、京都伏見稲荷の愛染寺の盛淳という僧がこの時代に実在したのかどうかはネットでは調べがつかなかった。
 このことを書いているのが梶田義賢という感応寺の住職だけなので、疑いもなく全面的に信じていいとは思えない。

 もう少し補足をすると、伏見稲荷には田中社というのが荒神峰にあって、権太夫大神を祀っていた(田中社は現存)。
 愛染寺(あいぜんじ)というのは伏見稲荷の本願所で、教王護国寺(東寺/公式サイト)直属の寺だった。
 その愛染寺の盛淳(じょうじゅん)上人と荒神峰田中社との関係はよく分からない。
 権太夫大神は大己貴神(オオナムチ)のこととされるのだけど、それは後付けだろう。
 愛染寺は明治の神仏分離令を受けて廃寺となった。
 別当というのはいろいろな意味があるのだけど、寺関連でいうと寺の長官のようなものだ。そんな立場のある人間が諸国を遍歴して村人に宿を借りたりするだろうかと考えると、ちょっと疑問だ。
 それと、私が一番引っ掛かっているのは1817年という年代だ。

江戸時代の書にはない

『寛文村々覚書』(1670年頃)にないのは当然のこととして、『尾張徇行記』(1822年)や『尾張志』(1844年)にもこの神社は載っていない。
 当初は祠程度で神社といえる規模ではなかったというのは考えられるか。
 そのわりに今の曽野稲荷は立派だ。境内も広く、社殿も堂々としてるし、その他の建物も大きく、連立鳥居もしっかり備えている。
 いつ頃今のように体裁が整ったかについては調べがつかなかった。

 曽野の集落については、曽野の八王子が前々除(まえまえよけ)となっていることからして、1608年以前からあったと考えていい。
 江戸時代になって上水野村の本郷から分かれた新しい枝郷ではないということだ。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるのは山の上の方で鳥居マークは書かれていない。
 樹林のマークがあるのでここにあったのはあっただろう。
 しかし、次の1920年(大正9年)にも鳥居マークがないのはちょっと引っ掛かる。
 何故か、現代のマピオンにも曾野稲荷は載っていない(グーグルマップにはある)。

 どうしてこの場所だったのだろうというのも疑問点の一つだ。
 現地を訪れてみると分かるけど、きつくて長い階段をずっと登っていかないといけない山の上の方にある。
 白狐の話が本当であれば、むしろ里の中に祀るのが妥当だったのではないか。あるいは、家の庭とかの方がふさわしい。
 今の場所に稲荷を祀る必然があったとすれば、上に書いた縁起話は違うのではないかと思うけどどうだろう。

 ネット情報として以下のものがある。

縁起記の末尾には「昭和辛未初春 小金山主大猷謹識」とあります。
この小金山主大猷とは同じ上水野村の感応寺の住職で、「昭和2年(皇紀2587年)4月、曽野郷の依頼に応じ大猷(たいゆう)行きて山城深草に愛染寺の旧域を探り伝法地教会にて曽野稲荷主神、太田左太彦命を発見して帰る。
爾来当山と曽野稲荷との緊密日々に加われるに至れり。」とあり関係が深いようです。

 ちょっとよく分からないのだけど、梶田義賢よりも前に感応寺の大猷という住職が曽野郷の依頼で愛染寺の旧跡を訪ねて”太田左太彦命を発見”して帰ってきたということがあったようだ。
 白狐云々という縁起はこの後に作られたものではないのか。

佐田彦は猿田彦なのか?

 現在の京都伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神(ウカノミタマ/ 下社)、佐田彦大神(サタヒコ/中社)、大宮能売大神(オオミヤノメ/上社)、田中大神(タナカ/田中社/下社摂社)、四大神(シノ/四大神/中社摂社)となっている。
 途中の経緯はすごく複雑で、時代によって様々に変化して今はこの形で落ち着いた。
 曽野稲荷神社もこれに倣って同じ祭神を祀るとしている。
 そもそもは田中神を勧請したのが始まりのようだけど、それを主祭神とはしていない。

 この田中の神の正体についても諸説あってはっきりしない。
 江戸時代前期の1680年代に黒川道祐がまとめた山城国の地誌『雍州府志』(ようしゅうふし)によると、田中神は猿田彦神(サルタヒコ)のことなのだという。
 春の稲荷祭の際に巡行の先導をつとめる田中社の神輿には空海が彫刻したとされる猿田彦神の仮面を袋に入れて飾ったというから、少なくとも平安時代からこの思想はあったようだ。
 東寺の縁起に、稲荷山の地主神の龍頭太は顔の上に光があって夜も昼のように照らすとあり、そこから猿田彦と同一とされるようになったのかもしれない。

 現在の上社の祭神は大宮能売大神となっているものの、猿田彦が上社の祭神だった時代がある。
 室町時代の元亀年間(1532-1573年)に吉田兼倶がまとめたとされる『二十二社註式』の伏見稲荷の条には「上社。猿田彦命。三千世界の地主神とは是れなり」とあり、佐田彦神の表記となるのは明治以降という。
『雍州府志』は上社の祭神を大田命(オオタ)としている。
 この大田命は『皇太神宮儀式帳』や『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』、『倭姫命世記』などによると、猿田彦神の後裔で宇治土公(うじのつちぎみ)の祖といっており、倭姫命(ヤマトヒメ)が天照大神(アマテラス)を祀る場所を探して各地を巡行しているとき猿田彦が開拓した五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地をすすめて献上したという。
 宇治土公家は伊勢の猿田彦神社(公式サイト)の社家であり、伊勢の神宮(公式サイト)の玉串大内人(たまぐしおおうちんど)を務めた家でもある。
 その猿田彦神や大田命がどうして京都の伏見稲荷で祀られるようになったのかというのはよく分からないとしかいえない。
 現在の上社で祀られている大宮能売大神は、天鈿女命(アメノウズメ)のこととされ、天孫降臨して猿田彦と婚姻して大宮能売大神になったというのが現在の解釈のようだ。
 猿田彦と天鈿女が婚姻したという記述は記紀にはなく、そのあたりはなんとなかうぼかされている。
 ただ、天鈿女は猿女君(さるめのきみ)の祖とされることからも、猿田彦と天鈿女は一般的に夫婦のように扱われている。
 伊勢の外宮に祀られている豊受大神(トヨウケ)に天鈿女は仕えていたという話もあり、豊受と宇迦之御魂を同一視する説もあるので、伏見稲荷の祭神はこのファミリーという見方はできる。

 島根県松江市鹿島町にある佐太神社(さだじんじゃ/公式サイト)は出雲国二宮で、主祭神として祀る佐太大神は猿田彦大神と同神という見解を取っている。
 しかし、『延喜式』神名帳(927年)には佐陀神社とあり、”さだ”と濁っているのが引っ掛かる。
 正殿には他に伊弉諸尊(イザナギ)、伊弉再尊(イザナミ)、速玉男命(ハヤタマノオ)、事解男命(コトサカノオ)を祀っていることからも、熊野との関係が深い。

『出雲国風土記』によると、佐太大神は大国主命(オオクニヌシ)の命を救った支佐加比売命(キサカイヒメ)の子という。
 この佐太大神を猿田彦神と同一としたのは平田篤胤らしいのだけど、『古事記』、『日本書紀』が伝える系譜からはだいぶ離れている。
 佐太神社の祭神名として佐太御子大神といういい方をすることがあることからも、佐太神社の主祭神は猿田彦の子という可能性もあるだろうか。

 ただ、そもそもでいうと、佐田(佐太)と猿田と一緒にしていいのかという疑問がある。
 サタもサルタも同じようなものとするのは乱暴な話で、一字違えば意味は違うし、一字入れば別と考えるのが普通だ。
 ”ル”は助詞のような言葉(字)ではないはずだ。
 猿は”サ”と読み、猿田彦は”サタヒコ”だったのではないかという説もある。
 確かに、猿投山は”さなげやま”で、”さるなげ”ではない。
 ”猿”という文字に引っ張られすぎるのはよくない。

 猿田と佐田が同じか違うかはともかく、共通しているのは”田”だ。田中神も”田”の中の神ということになる。
 ”田”は十+口(本来は丸)で天(テン)と示すという。
 猿田彦は一般的に国津神とされるも、天津神との関わりが深い。
 天孫降臨の瓊瓊杵尊(ニニギ)を導き、高天原から降ってきた天宇受賣命(天鈿女)とも関係がある。
 それが伏見の地で稲荷神として祀られたということは重要な意味がある。
 稲荷は渡来系の秦氏が創建したというのが通説だけど、個人的にこの説は信じていない。
 猿田彦は導きの神とされる。そのことには必ずいわれがあって、導くということは祀るということでもある。
 祀っていた側が祀られるというのもよくあることだ。

 そんな諸々を考え合わせたとき、上水野曽野の稲荷は江戸時代後期に村人がお礼に祀ったのが始まりというのはやはり信じられないということになる。
 この場所には稲荷以前に何らかの社があったのではないか。
 何もない山の中に突然稲荷を祀るということには違和感を抱く。

現地の様子

 神社の前の県道208号線は西の県道207号線と東の国道248号線を結ぶ道路で、曽野や余床の人たちにとっては命綱のような道だ。何かの理由でこの道がふさがってしまうと、このあたりは陸の孤島となってしまう。
 南入口には立派な鳥居と大きな社号標が建っているので見逃すことはない(私は北側から行ったのでだいぶ迷った)。
 鳥居横に駐車スペースがある。
 通常はここから長い石段を登っていくことになるのだけど、神社東側にも広い駐車スペースがあるので、階段を登りたくない人はそちらに車を停めれば歩く距離は短くなる。
 ただ、神社の東にある道は細くて荒れているので、ここは車で行けないかもしれない。その場合は、208号線を大きく東から北へ回り込む必要がある。

 全く覚えていなかったのだけど、実はこの神社、かつて訪れていたことがあった。
 ネット検索で情報を探していたら、自分の古いwebサイトがヒットして驚いた。
 2005年に訪れているようだけど、20年近く前となると覚えていなくても無理はない。
 記憶を探っても印象は残っていなかった。

 境内は非常に広く、神社というより寺のような雰囲気だ。
 社務所というには立派すぎる建物は何かの施設だろうか。お寺のお堂のような姿をしている。
 弁天池や西宮恵比須社、岩の窪みには縁結乃神として伊邪那岐・伊耶那美を祀っていたり、磐座らしき石があったりと、バラエティに富んでいる。
 初午の祭礼には賑わうようで、境内には桜の木が多いので4月には花見に訪れる人もいるんじゃないかと思う。

 もはやここが稲荷かどうかや、いつ誰が建てたのが始まりかなんてことは大して重要ではないのかもしれない。

作成日 2025.2.14

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