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八劔神社(余床町)

八劔社と武内社が結びつかない

読み方やつるぎ-じんじゃ(よどこちょう)
所在地瀬戸市余床町756 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧無格社・十三等級
祭神武内宿称(タケウチノスクネ)
日本建命(ヤマトタケル)
大山祇神(オオヤマツミ)
アクセス瀬戸市コミュニティバス「東曽野農業倉庫バス停」より徒歩約40分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月第2日曜日(10月15日直前の日曜日?)
神紋
オススメ度
ブログ記事瀬戸の果て余床にある八劔神社

行きづらい神社

 この神社はかなり行きづらいところにあり、見つけるのも難しい。
 上水野村の枝郷だった夜床(余床)集落の神社で、曽野郷から更に奥に入っていった行き止まりような場所にその神社は鎮座している。
 水野川支流の余床川沿いに走っている県道208号線を北上し、余床橋を越え、余床川に架かる小さな橋を渡ると左手に民家が数戸ある。
 その脇にある未舗装の細い道を進むとフェンスがあって、扉は閉じている。
 あれ? 行き止まり? と戸惑い、立ち尽くした。
 マピオンには道が描かれておらず、北側からの道だけが載っている。
 この北側からの細い道はたぶん山道で、定光寺方面から続いているものだ。南側との連絡があるのかどうか分からない。

 しらばく同じところを行ったり来たり、別の道を探したりしたけどどうにもならなくなってあきらめかけたところへたまたま近くの家の方が車で帰ってきたので、このチャンスを逃すわけにはいかないと、すみませーん! と声を掛けた。
 八劔神社って、こちら側から行けませんか? と訊ねると、この集落の神社だから行けるという。
 あのフェンスは? と訊くと、あれは猪よけで、開けられるよと。
 ああ、そうなんですか、ありがとうございます、行ってみますと言って、あらためてフェンスの方に向かいながら思う。
 ん? 猪よけ? まさか参拝中に猪に襲われたりしないだろうなと、ちょっと焦った。

 フェンスには鎖が巻かれていて一見すると鍵が掛かっているようだけどそうではなく、開けようと思えば開けられるようになっていた。
 しかし、神社の案内のようなものはなく、断りもなくあのフェンスを開けて入っていけるかというと行けない気がする。
 よそ者が行くような神社ではないといえばそうなのだろうけど、せめて小さくこの先八劔神社と書いたプレートでも置いておいてくれると助かるのだけど。

 フェンスを越えてしばらく歩くと神社入り口の鳥居と社号標がある。
 この道はさすがに地図には載らないか。
 それにしても、あのタイミングでたまたま住人の方が戻ってこなければあきらめて帰っていた。
 天の助けだと思った。

 行きづらい理由のもうひとつは、交通の便だ。
 一番近いバス停からも歩いて40分くらいかかるし、車で行くにも駐車場はもちろんなく、少し離れた路上に停めておくしかない。
 停めておけそうなところとしては天満宮があるあたり(地図)だろうけど、それでも10分くらい歩くことになる。

夜床ってどんな意味だ?

 余床町(よどこちょう)はかつての上水野村の枝郷で、夜床と表記していた(与床とも)。
『尾張徇行記』(1822年)は上水野村について以下のように書いている。

支邑ハ二区アリ、曽野夜床ト云、曽野ハ本郷ヨリ北少シ東ノ方ニ行程十町アマリヘタチ村落アリ、家ハ三十戸ホトアリ、
水野川ニ沿ヒユク所山奥ニ平衍ノ田面ア リ、此中ニ御林奉行見習兼水野御代官水野平右衛門宅アリ、此村ヨリ西山奥ニ嵯峨タル岩石アリテ溪水ナカル、其形宛樋ノ如シ、因テ石樋ト云、奇状可賞ナリ、其北ニ少シ農屋アリ、小曽野ト云、又其奥ニ城墟アリ、夜床ハ本郷ヨリ丑寅ノ方ニ当リ、一里十町程へタチ下品野村沓掛村ヨリノ山隈ニアリ、二区ニ分レ家ハ二十戸ホトアリ

「夜床ハ本郷ヨリ丑寅ノ方ニ当リ、一里十町程へタチ下品野村沓掛村ヨリノ山隈ニアリ、二区ニ分レ家ハ二十戸ホトアリ」
 一里は約4キロ、十町は約1キロなので、本郷から5キロほど北東(丑寅)にあって、二区に分かれていて民家が20戸ほどあると書いている。

 夜床というとなんか色っぽい想像をしてしまうけど、それが集落の名になるとも思えないので夜床は当て字だろうか。
 あるは単純に夜の床、寝床が由来だったりするのか。
 床は”とこ”の他に”ゆか”、ゆかしいという意味もある。
 床几(しょうぎ)や高床倉庫、苗床、河床といった言葉も思い浮かぶ。
 それにしても”よどこ”の音は何から来ているのか気になるところだ。
 何故、”よとこ”ではなく”よどこ”と濁るのか。
 同じ瀬戸市内の下品野には八床の地名もあって、そちらは”やとこ”と濁らない。
 ”よどこ”と”やとこ”は何か共通するものがあるのだろうか。
 ”よどこ”という呼び名がこの集落の性格を表していると思うのだけど、その意味や由来は分からない。

武内社だったのか?

『愛知縣神社名鑑』は余床の八劔神社についてこう書いている。

創建については明かではない。元は武内社とも称した。
明治6年、据置公許となる。
大正6年9月28日同村鎮座の八剱神社と合祀し(ママ)、社号を八劔神社と改称した

「元は武内社」といい、祭神にも武内宿称(タケウチノスクネ)を入れている。
 こうなると、ここはただの八劔社ではないということになる。
 もともとは武内宿禰の後裔や関係者が武内宿禰を祀ったのが始まりなのだろうか。 

「大正6年9月28日同村鎮座の八剱神社と合祀し、社号を八劔神社と改称した」は明かな間違いで、瀬戸ペディアがいうように「大正6年(1918)9月28日同村鎮座の山神社を合祀し、社号を八剣神社と改称した」というのが正しいだろう。
 祭神の中には大山祇神(オオヤマツミ)も入っている。
 しかしながら、大正6年まで武内社といっていたのを八劔神社と改称したというわけではなく、江戸時代にはすでに八劔社となっていた。
 江戸時代の地誌を見ればそれは分かる。

『寛文村々覚書』(1670年)の上水野村の項はこうなっている。

社四ヶ所 内 八幡 山神 八王神 八剣宮
 社内八反歩 前々除 中水野祢宜 弥五右衛門持分

 八幡が水北町の八幡神社、山神が合祀されたもの、八王神が曽野町の八王子社で、余床(夜床)の八劔神社は八剣宮となっている。

 しかし、『尾張徇行記』は違っている。

社四区覚書ニ八幡、山神、八王子、八劔、社内八段歩前々除、中水野祢宜弥五右衛門持分
中水野社人菊田和泉太夫書上ニ、八幡社内五段歩前々除、草創年暦ハ不知、寛文九酉年 瑞龍公再営シ玉ヒ、夫レヨリ上ノ修造トナレリ
末社武内社境内ニアリ、是モ上ノ修造ナリ
山神十四社境内一ハ一段五畝步一ハ五畝歩一ハ十步一ハ五畝步一ハ十步一ハ五畝歩又一ハ五畝步又一ハ五畝歩又一ハ五畝步一ハ六畝步一ハ三畝步一ハ五畝步又一ハ五畝步一ハ一畝歩、
八王寺社内一段歩、武内社内一畝十歩、天王社内十二歩又天王社内十六歩何レモ前々除

 該当部分を抜き出すと「八王寺社内一段歩、武内社内一畝十歩、天王社内十二歩又天王社内十六歩何レモ前々除」と、武内社になっている。
 では、江戸時代後期に八劔から武内に変わったかというとそうでもないようで、1844年の『尾張志』は「天王社 八王子社 八劔社 白山社 四社上水野村にあり」となっているから、八劔社だったらしい。

 これをどう解釈すればいいのか、判断がつかない。
 江戸時代以前については情報がないので推測も何もできない。
 武内が先か八劔が先か、同時に存在した可能性もなくはないし、早い段階で八劔と武内の二柱を祀っていたとも考えられる。
 上水野村の本郷の氏神的存在だった八幡の境内にも武内社があったようだから(今もあるかは不明)、武内を祀ったのは夜床集落だけのことではない。
 八劔の神を日本武尊と認識していたかどうかについてもよく分からない。
 これは熱田の八剣宮についてもいえることで、祭神が何だったのかは諸説ある。

武内宿禰について

 武内宿禰については神様事典武内宿禰のページに書いたので詳しくはそちらをお読みいただくとして、ここでは尾張と武内宿禰について考えてみることにしたい。
 現在、武内宿禰を祀っている神社は、八幡社(枇杷島)(西区)、八幡社(長須賀)(中川区)、和爾良神社(名東区)、若宮八幡社(栄)となっている。
 かつてはもっとあっただろうし、本社ではなく境内社として祀る例は多かったと思う。
 八幡社については応神天皇(ホムタワケ)や神功皇后関連だろうけど、気になるのは名東区の和爾良神社は武内宿禰の子孫が祀ったという伝承があることだ。近くには古墳もあったと伝わっており、『延喜式』神名帳(927年)に載る山田郡和爾良神社の論社のひとつとされる。
 同じ名東区の貴船社(一社)はこの地を訪れた武内宿禰が白い羽の矢を与えて雨乞いしたのが始まりという話もある。
 白羽の矢を立てるという言葉とも関わりがありそうで、そこに武内宿禰の名前が出てくるということは何かあったのではないか。
 このように、尾張において武内宿禰の影が微妙にちらついている。

 記紀その他が伝える武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳、それぞれの天皇に仕えた大臣で、葛城氏、蘇我氏、紀氏、巨勢氏、平群氏、などの祖ともされている。
 もちろん一人ではないし、個人名ではなく役職名のようなものだろうけど、まったくの作り話や空想上の人物というわけではないはずだ。
 武内宿禰の後裔を自認する一族がいて、祖として武内宿禰を祀ったのは自然なことだし、それが神社になったとしても不思議はない。

八劔と武内はつながるのか

 瀬戸上水野夜床の八劔社が武内宿禰後裔一族によって武内宿禰を祀ったが始まりと仮定する。
 では、それが何故、八劔になったかだ。
 武内宿禰と日本武尊は同時代とされるも、直接の関係は伝えられていない。
 日本武尊と武内宿禰は同一という説もあるけどどうなんだろう。
 このあたりの話をするととりとめがなくなってしまうのでここではやめておく。
 八劔社の八劔と草薙剣の関係についてもよく分からないのだけど、一ついえるのは、ここ夜床と熱田尾張氏が何らかの関係がありそうだということだ。
 熱田というと”夜寒の里”と呼ばれる名所があり、歌にも詠まれた。
『尾張名所図会』(1844年)も「夜寒里古覧(よさむの)」と題した絵と文を載せている。
 夜床と夜寒の”夜”つながりはただの偶然か、何かつながりがあるのか。

 夜で思い出すのが”夜之食国”(よるのおすくに)だ。
『古事記』のみ出てくる言葉で『日本書紀』には出てこない。
 伊邪那岐命(イザナギ)は月読命(ツキヨミ)に、夜之食国の統治を任じたと『古事記』はいう。
 夜之食国を夜見之国と解して黄泉国とする説もあるけど、夜之食国とはどういう世界をいうのかはよく分からない。
 夜は単純に昼夜の夜ではないだろう。 

武内は武内宿禰ではない?

 ここまでの話をひっくり返すようだけど、武内社の武内は武内宿禰のことではない可能性もあるだろうか。
 祭神に武内宿称が入っているから武内宿禰と考えるのが自然ではあるけど、武内つながりの後付けということもなくはない。
 かつての天神が天満宮になり、日神を祀る社が神明社にされてしまったようにだ。
 どうして武内宿禰ではないかもしれないと考えたかというと、やはり武内宿禰と八劔社が上手く結びつかないからだ。
 武内の武は竹から来ているとすれば、それは竹の一族を祀る社だったとも考えられる。
 竹の一族といえば尾張氏の本家筋だ。
 熱田神宮の神紋が五七桐竹紋で、桐に竹の笹が付いている。
 もともとは五三桐だったようなのだけど、後の時代に五七桐となり竹笹が加えられた。
 この経緯を説明するのは難しいのだけど、竹笹は西へ行った者が虎になって戻ってきたときに加えられたのだとか。
 虎といえば甲斐の虎と呼ばれた武田信玄を思い浮かべる。武内と武田は竹つながりで、武田信玄が虎と呼ばれたのにもちゃんと理由と根拠がある。

 上手くピースがハマらないまま最後まで来てしまった。
 武内と八劔と尾張氏と熱田が関係した神社という見方はできるものの、確かなことは何もない。
 その一族が何者だったにせよ、何故この場所に集落を作ったかだ。
 最初に書いたように、ここは地上の行き止まりのようなところに位置している。
 山道でかろうじて定光寺方面とつながっているものの、車だと南としかつながっていない。
 いつ誰がこの場所に住みついたのか。
 近くに遺跡の類いは見つかっていないものの、知られていないだけかもしれない。
 江戸時代に本郷から分かれてここに集落ができたとは考えづらい。
 八劔社も前々除(まえまえよけ)になっているから江戸時代以前からあったということだ。
 集落もないのにこの場所に神社を祀る理由はない。
 中世よりももっと遡るのではないかと思うけどどうだろう。
 神社があるのは集落の中心から250メートルほど山の方に入ったところだ。
 これもどうしてなんだろうと疑問に思う点だ。

 結局、いろいろ分からないまま、私ができるのはここまでとなる。
 いつか誰かが私のあとを継いでこの神社の謎解きをしてくれることを期待している。

作成日 2025.2.20

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