イザナギの杖から成ったというけれど
クナト、もしくはフナト、フナドともされ、『古事記』にも『日本書紀』にも登場するのだけど、その解釈は難しい。 出てくる場面は違うものの、伊邪那岐/伊弉諾(イザナギ)の持っていた杖から成ったという点では一致している。 まずは『古事記』の登場場面から見ていくことにしよう。
『古事記』が伝えるフナト
伊邪那岐命(イザナギ)は死んだ伊邪那美命(イザナミ)を追いかけて黄泉の国へ行くも喧嘩別れになってしまい、戻ってきて筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎがはら)で禊(みそぎ)を行った。 そのとき12柱の神が生まれ、その最初に成ったのが投げ捨てた杖から成った衝立船戸神(ツキタツフナト)だったといっている。 クナトとフナトは本当に同一と見ていいのかというのは後回しにして、続いて帯から道之長乳歯神(ミチノナガチハ)が、袋から時量師神(トキハカシ)が、衣から和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシ)が、袴(したばかま)から道俣神(チマタ)が、冠から飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシ)が、左の腕輪から奥疎神(オキザカル)、奥津那芸左毘古神(オキツナギサビコ)、奥津甲斐弁羅神(オキツカヒベラ)が、右の腕輪から辺疎神(ヘザカル)、辺津那芸左毘古神(ヘツナギサビコ)、辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラ)がそれぞれ成ったと『古事記』は書く。
『日本書紀』は登場の場面が違う
一方の『日本書紀』は五段一書第六で岐神(フナト)が登場してくる。 場面は黄泉の国で、追いかけっこの末、泉津平坂で伊弉諾尊(イザナギ)に追いついた伊弉冉尊(イザナミ)は、おまえの国の民を一日千人絞め殺してやるといい、それに対してイザナギはならば一日千五百人生んでやると言い返し、ここから先は来てはいけないと杖を投げた。それが岐神だと『日本書紀』はいう。 原文は「因曰、自此莫過、卽投其杖。是謂岐神也。」というやや微妙な言い回しをしているのが少し気になる。 投げた杖が岐神に成ったのではなく、投げた杖をいわゆる岐神という、と表現をしているのだ。
『古事記』も『日本書紀』も、こういう場合は何かを象徴していたり暗示だったりすることが多い。ある特定の人物かもしれないし、一族かもしれない。もしくは、何かの役職のようなものか。 たとえば、剣としての布都御魂剣(フツノミタマ)と人としての経津主神(フツヌシ)は同体だろうし、八咫烏(ヤタガラス)といっても鳥のカラスではなく人のことといったようなものだ。 杖が象徴するものといえば、歩く助けであり、秘書や側近といった存在が思い浮かぶ。最初になげうって犠牲にするものや人の総称をフナトやクナトといったとも考えられる。
五段一書第九では、亡くなったイザナミを安置した殯斂(あらき)を訪れてみると、腐った体に八色の雷神(イカヅチ)がついていて驚き逃げるイザナギをそれが追いかけてきたので杖を投げて雷神はここから来られないから還れと言ったとする。 続く原文は、「是謂岐神、此本號曰來名戸之祖神焉」となっており、やはりいわゆる岐神という言い方をして、 本来の名は来名戸之祖神 (クナトノオヤカミ)であると書いている。 これを信じるなら、フナト(岐神)と称している神はもともと”クナト”だったということになる。
『先代旧事本紀』は少し違う
『古事記』、『日本書紀』を踏まえた上で『先代旧事本紀』は少し違う書き方をしている。 追いかけてきた雷神(雷軍)に向かって杖を投げてここからは来られないから還れといっておきながら、続く伊弉冉尊との言い争いの中でも再び杖を投げてこれが岐神で、名付けて来名戸神(クナト)といっている。 杖は二本あったのか? と混乱するのだけど、杖を投げるというのは敵に向かって投げるのではなく投げる仕草をするということなら矛盾はないのか。 それより問題なのは、杖はいわゆる岐神で、名付けて来名戸神というとしている点だ。 フナトとクナトと名付けたということは、フナトが先でクナトが後ということになる。 または、フナトが象徴名でクナトが別名ということか。
フナトは先導者でもある
上でフナト(クナト)は人物の象徴名ではないかと書いたのは、『日本書紀』の国譲りの場面である九段の一書第二にふたたび登場するということがある。 天津神に国譲りをすることを承知した大己貴神(オオナムチ)は、現世のことは皇孫に任せて自分は幽界(かくりよ)へ行きますといい、経津主神(フツヌシ)と建御雷神(タケミカヅチ)に対して岐神を薦めて、この神が自分の代わりとしてお仕えするでしょうと言い残して去っていったとある。 この後、フツヌシは岐神の導きによって葦原中国を巡って平定したとする。 この異伝の特殊なところは、このとき従った首長(首渠)として大物主神(オオモノヌシ)と事代主神(コトシロヌシ)の名を挙げていることだ。 ここで岐神が出てくることをどう捉えればいいのか、ちょっと戸惑う。 ただ、明らかに人格神であることからして、イザナギの杖というのはやはり、ある特定の人の象徴ではないだろうか。
杖を投げるとはどういう意味か?
記紀や『先代旧事本紀』の記述からして、杖から成り、何らかの境界を示すものという推測ができる。 単に杖から成ったのではなく、杖を投げ捨てるという行為にも何か意味がありそうだ。 『古事記』ではイザナギの禊のときに成った神を12柱としているのに対して『日本書紀』では杖の岐神、帯の長道磐神(ナガチハ)、衣の煩神(ワズライ)、褌の開囓神 (アキクイ)、靴の道敷神 (ミチシキ)と、5柱になっているものの、いずれもイザナギが身につけていたものを投げたことで成ったとする点では共通している。 これをどう解釈するかは諸説あるのだけど、禊によって穢(ケガレ)を祓(ハラエ)するという思想が根底にあると考えていいだろうか。 後年、自分のケガレや病気などを人形(ひとがた)に移して流すという神事につながったともいえそうだ。 この中で杖というのは少し特殊だ。他は身につけるもので、杖だけは持ち物だ。何か特別な意味があるのではないか。 雷神に投げつけてこれ以上こちらに来るなといっていることからしても、他とは少し意味合いが違う。
クナトとフナトの解釈に対する疑問
フナトが先かクナトが先かという問題があるのだけど、クナトに”来勿門/来勿処”を当てて、境界を示すという考え方がひとつある。 そうだとすれば、杖は歩く補助としてではなく祭具のようなものと考えるべきだろう。 杖を二本立てればそれが門となり、境界線にもなる。それは同時に杖のこちら側を占有することも意味する。 フナトを船の出入り口の”船門”として捉える説や、クナトを曲がりくねった場所という意味で曲門とする説もある。 道饗祭(みちあえのまつり)は平安時代あたりに都で行われた神事で、都の四隅の道に八衢比古神(ヤチマタヒコ)、八衢比売神(ヤチマタヒメ)、久那斗神(クナド)の3柱を祀って外から悪いものが入ってこないように祈願した。 村の境界に祀った道祖神なども思想的には近いものがある。 伊勢の神宮(web)の式年遷宮で杵築祭(こつきさい)という重要な神事がある。神職たちが白杖で新宮正殿の地面をコツコツ突いて宮柱を突き固めるというものだ。 ここでも邪気払いのような意味合いがあるのだろう。
やはり投げるという行為が気になる
これらの説はそれなりに説得力があってある程度納得できるのだけど、気になるのは何かに追いかけられて杖を投げたという記紀の言い回しで、杖を立てるのと投げるのとではやはり意味が全然違っている。それをどう解釈するかというのが問題だ。 『日本書紀』は”即投其杖”と書き、『古事記』は”於投棄御杖”と書いていて、『古事記』は特に”投棄”という強い表現をしている。 ”棄”と”捨”は意味が違っていて、”捨てる”は自分の領域外にやるという意味で、”棄てる”は自分の持っているものを手放すという意味だ。放棄、棄権、棄却、破棄などがそれに当たる。 棄はもともと”子供を流す”という意味の字なので、そこから深読みすることも可能だ。 面白い説として、杖は愛の象徴で、それを投げ棄てたということはイザナギがイザナミとの別れを決意したことを表しているというのがある。 そうだとすれば、この杖はイザナギとイザナミが国作りの最初に海原をかき混ぜるときに使った天沼矛(あめのぬぼこ)かもしれない。 イザナギはイザナミと共にあった日々を忘れるために身につけていた一切を棄て去ったという解釈はどうだろう。こうなったらもう断捨離だと、半ばヤケになったか。
フナト/クナト信仰は限定的
フナト/フナトを祀る神社は多くないものの、茨城県神栖市息栖にある息栖神社(いきすじんじゃ/web)の存在は小さくない。 常陸国一宮の鹿島神宮(web)、下総国一宮の香取神宮(web)とともに東国三社の一社とされ、久那戸神(クナトノカミ)を主祭神として祀っている。 『日本書紀』九段の一書第二の記述を受けて建てられた神社とも考えられるのだけど、社伝は第15代応神天皇のときに日川(にっかわ/神栖市日川)に創建されたと伝えている。 現在地に移されたのは奈良時代前期の大同2年(807年)で、藤原内麻呂によるものという。 相殿神として天鳥船命(アメノトリフネ)と上筒男神、中筒男神、底筒男神の住吉三神を祀っているのも気になるところだけど、『日本三代実録』(901年)では於岐都説神(オキツセ)と書かれているので、古くからクナトを祀っていたわけではないのかもしれない(『延喜式』神名帳(927年)には載っていない)。 オキツセというと、名古屋市守山区の川島神社は大同2年(807年)に尾張国連沖津(おきつ)が創建したとされており、息栖神社が移されたとされる同年となり、何か関係があるのではないかと疑いたくなる。 尾張氏には第5代孝昭天皇に仕えたとされる沖津世襲(オキツソヨ)もおり、住吉三神を祀る住吉大社は尾張氏同祖の津守氏が代々社家を務めたなど、息栖神社と尾張との縁を感じる。 なお、江戸時代の息栖神社は気吹戸主神(イブキドヌシ)を祀ると考えられていたようで、松尾芭蕉は、「この里は 気吹戸主の 風寒し」という句を残している。 ついでに書くと、天鳥船命は『古事記』が建御雷神の副神として従ったと書いている神だ。 息栖神社は鹿島神宮に取り込まれる格好になっていたので、そのあたりの影響も大きいと考えられる。
出雲におけるクナトの影
クナトをネットで検索すると、出雲大社(web)摂社の出雲井神社(いずもいのやしろ/出雲路社/web)の情報に当たる。 古代インドにあったクナ国から渡ってきた人たちが龍蛇神のクナト神と后の幸神、その子の猿田彦神(サルタヒコ)を祀ったのが始まりという何やら怪しげな話も載っている。 そういうことが絶対になかったとはいわないけど、情報元が分からないので肯定も否定もしようがない。 この手の話は無条件に飛びついてはいけないし、かといって頭ごなしに作り話と断定するのもよくない。保留として頭の片隅においておけば、思いがけないところでつながることもある。 京都の下鴨神社(web)境内にはよく似た名前の出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)があり(祭神は 建速須佐之男命)、何らかの関係がありそうだ。
名古屋にもフナト神がいる
名古屋では北区の金神社(山田天満宮内)と熱田区の社宮司社(須賀町)でフナト神(岐之神)が祀られている。 どちらも民間信仰が絡んだ複雑な信仰の神社で実体はよく分からないのだけど、少なくとも江戸時代の人たちの中にはフナト神という存在があって、厄除けの信仰対象となっていたと考えられる。 由来はずっと古いのか、それとも近世以降の新しいものなのかは判断がつかない。
フナトの由来
クナトという地名や名字があるのかは知らないけど、フナトはたくさんある。 船戸さん(作家の船戸与一はペンネーム)や岩手県大船渡市などはよく知られているし、千葉県我孫子市や兵庫県芦屋市などにも船戸地名が残っている。 船という字が使われているから文字通り船や湊などに関係すると思われがちだけど、中にはクナト/フナト神由来の名字や地名があるのではないかと思う。 『魏志倭人伝』に書かれた狗奴国(くなこく/くぬこく)なども何か関わりがあるかもしれない。
分からないからといって渡来ではない
よく分からない神をすぐに渡来系と決めつける考え方を個人的には支持していない。 大きく捉えれば4万年ほど前の旧石器時代以降に列島の外からやってきた人たちが世代をつないで縄文の基礎を築いただろうからすべてが渡来人といういい方はできるのだけど(原人もいたかもしれない)、中国大陸や朝鮮半島、イスラエルなどを持ち出すのは短絡的な考え方だ。 まずは4万年前からの日本列島における人々の営みの積み重ねの中で歴史を捉える必要がある。その上で渡来人なり帰化人なりといった追加要素があるという話だ。 それは必ずしも入ってくるだけの一方通行ではなくこちらから出ていく要素も含めた双方向で考えるのは当たり前のことだ。渡来といっても一度出ていったものが戻ってきただけということもある。 クナトやフナトの語源を外国語に求める必要もない。記紀は飛鳥時代末から奈良時代初期の人たちの知識や価値観で書かれたもので、それはもう日本語以外の何物でもない。
謎は謎のままで
結局のところフナト、あるいはクナトとは何かという問いに対する答えは出ない。 上にも書いたように、境界を示すとか、道祖神の元になったなどと安易に知っているつもりにならない方がいい。 分からないことは分からないままにしておくのが誠実さというもので、自分勝手な空想で歴史を理解した気になるのは危うい。 分かったと思って強く掴んだとたんに歴史は手の中で崩れて溶けるように消えてしまう。不確定で不安定なまま手のひらにそっと乗せておくくらいにすべきだ。 そそもすべてを理解する必要などどこにもないのだ。謎は謎のままでいい。
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