普通の神明社じゃない
読み方 | しんめい-しゃ(おちあいちょう) |
所在地 | 瀬戸市落合町1番 地図 |
創建年 | 不明(伝1390年) |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十一等級 |
祭神 | 瓊瓊杵尊(ニニギ) 国常立命(クニノトコタチ) 豊秋津姫命(トヨアキツヒメ) |
アクセス | 名鉄瀬戸線「瀬戸市役所前駅」から徒歩約16分 |
駐車場 | なし(鳥居前スペース可かも) |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月16日に近い日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
品野という土地の記憶
品野(しなの)地区の神社を始めるにあたって、品野の位置関係や遺跡について簡単にまとめることから始めたい。
この神明社があるのは、かつての下品野村で、その東に中品野村、北に上品野村があった。
時代を遡ると、一帯をあわせて科野郷と呼ばれていたとされる。
後に信濃と呼ばれる科野と瀬戸の品野には関係があると個人的には思っていて、もしかすると瀬戸が先で信濃が後かもしれない。
いきなり少し脱線して科野の話をすると、信州の科野国造の祖は神武天皇皇子の神八井耳命(カムヤイミミ)だと『古事記』はいい、『先代旧事本紀』は第10代崇神天皇のときに神八井耳命の孫の建五百建命(タケイオタツ)が初代科野国造になったといっている。
これは非常に面白いというか興味深い話で、神一族であり、竹の一族でもある人物が科野を任されたという伝承があることを意味している。
神一族は二木の者たちであり三河側であると同時に、建五百建という名前からすると竹であり尾張を意味する五を名前に持つ尾張側の人間とも考えられる。
婚姻によって両方が結びついたと考えるのが現実的なのだけど、尾張や三河にルーツを持つ人間が科野の国造に任じられたということはいえそうで、そうなるとやはり瀬戸の科野(品野)の方が古いように思える。
ちなみに、『先代旧事本紀』の写本の中には”神野国造”という表記のものあるようで、やはり神一族が深く関わっている可能性が高い。
同じ音(オト)で違う表記をする国(クニ)が各地にあるというのは重要なヒントで、たとえば加茂と賀茂と鴨などもその例だ。
話を戻したい。
このあたりの地図を見ると分かるのだけど、神社がある少し南の品野交番前交差点で道が二叉に分かれている。
真っ直ぐ北へ行くと定光寺・多治見方面で、東へ行くと峠を越えて土岐市方面と結んでいる。
おそらくこの道はかなり古い時代からあっただろうと思う。
我々はどうしても名古屋や瀬戸の中心から見て考えてしまうのだけど、逆から見るとここは合流地点ということになる。山地への入り口であると同時に、山地側から見れば平地への入り口ということだ。
瀬戸の歴史は山地から丘陵地、丘陵地から平地へと人が移動した流れが見える。
奥地ほど古い縄文の痕跡が濃密で、時代を経るとそれがだんだん平地方面に移動していく。
知られている遺跡がすべてではないので決めつけることはできないのだけど、そういう傾向が見て取れるのは確かだ。
詳しくは大目神社のページを見ていただくとして、品野地区に関していうと、上品野遺跡でナイフ形石器や尖塔器などの旧石器時代の遺物が見つかっており、かなり古くからこのあたりに人が暮らしていたと考えられる。
続く早期縄文遺跡の岩屋堂、針原、品野西で住居跡や土器などが見つかっている。
縄文中期のものとしては鳥原、落合橋南、品野西、晩期では上品野蟹川などが知られている。
弥生時代から古墳時代にかけても引き続き品野一帯で人の痕跡が認められる。
つまり、品野という土地は1万6000年以上の間、ずっと途切れることなく人が暮らす土地だったということだ。
少なくとも、その可能性を考えていい場所という言い方ができる。
瀬戸の神社を考えるときは、こういった遺跡分布や人の流れを頭に入れておく必要がある。
神社というのは飛鳥時代や奈良時代に前触れもなく突然生まれたものではなくて、起源を辿れば縄文やそれ以前のカミマツリに始まっている。
社を建てたことが創建だとしても、祀り始めの創祀はそれよりずっと古いということだ。
瀬戸といえば瀬戸物という言葉あるように焼き物の里として広く知られている。
ここ品野でも多くの古窯址が見つかっており、古くから作陶が盛んに行われていたことが分かっている。
陶器に適した粘土があったことと、赤松が多く生えていたことが要因として考えられる。松は燃やすと高温になるため、焼き物に適した木だった。
窯場が他に移っていったのは、土を掘り尽くす前に燃料の松を切り尽くしてしまったからだろう。
江戸時代の下品野村については『尾張徇行記』(1822年)にこんな記述がある。
此村落ハ、信州飯田街道筋ニアリ、カマ嶋東島中島南島ト四区二分レリ、小百姓多ケレトモ上中品野ヨリモ村立ヨクミヘタリ、中ニハ酒屋又へ小商ヒナトスル者モアリ、戸口多クシテ佃力足り、他村へ掟田地ハナシ、土地ハマツチニテ土地ヨシ、又此村へ先年ヨリ馬継所ニ立、信州アタリヨリ来レル荷物ヲ名古屋へ著送レリ、然シ今ハ上品野村ニテモ専ラ荷物ヲ継ク故ニ、此村ハ駄数少クナレル由、又片草川ト島原川ト本郷ノ東北ニテ落合へり、ココニ農屋数戸アリ、即落合島ト云
下品野は名古屋と信州を結ぶ飯田街道沿いにあって、馬による中継地点だったのが、近年は上品野村の方に移っていったというようなことを書いている。
区分としてはカマ嶋、東島、中島、南島の4区に分かれていて、本郷の東北に離れ集落があってそこを落合島と呼んでいるともいっている。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、当時の集落の様子が見て取れる。
本郷の集落があったのは品野町4丁目、5丁目で、水野川を越えた北側の落合町がかつての落合島だ。
神明社は落合島集落から少し離れた東の丘陵地に位置していた。
この位置というのがちょっと問題というか違和感があるののだけど、理由はよく分からない。利便性を重視した場所ではないことからすると、ここに祀る必然があったということなのだろう。
江戸期の書に見る下品野村の寺社
以上の歴史的変遷を踏まえつつ、下品野村と寺社について見ていくことにしよう。
まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。
家数 四拾軒
人数 弐百八拾四人
馬 六疋禅宗 赤津村雲興寺末寺 龍洞山久雲寺
寺内七畝三歩 備前検除社弐ヶ所 内 神明 山之神
瀬戸村祢宜 市太夫持分
社内七反八畝拾歩 前々除
上に書いたように、江戸時代の品野は下品野、中品野、上品野に分かれていて、その中で中心は下品野村だった。
それでも家数は40軒、村人は284人なので、村の規模としては大きくない。
村の寺としてあったのが龍洞山久雲寺で、赤津村雲興寺の末寺だった。
雲興寺が曹洞宗なので、ここも当然そうだ。
神社は神明が氏神で、他に山之神があった。
いずれも前々除(まえまえよけ)なので1608年の備前検地のときはすでに除地となっていた古い神社ということだ。
神社を管理していたのが瀬戸村の市太夫で、これは深川神社の二宮氏のことを指している。
瀬戸村から下品野村まではけっこう遠いので祭礼のときなどは大変だったんじゃないだろうか。
続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみよう。
久雲寺、府志曰、在下品野村、号龍洞山、曹洞宗、属赤津雲興寺
覚書ニ寺内七畝三步備前検除
当寺書上ニ境内段歩同上外ニ境内ツツキ山東西三町南北二町御除地、此寺ハ当村領主林三郎兵衛正俊永禄四年ニ創建ス
同村阿弥陀堂境內二十步備前検除、草創ノ由来ハ知ラズ社二区覚書ニ神明 山神社内七段八畝十歩前々除
瀨戸村祢宜市太夫持分
瀬戸村社人二宮治部太夫書上ニ、氏神神明社内六段歩前々除、勧請ノ年紀ハ不知、
再建ハ正保三戌年ニアリ、神主控中田三畝十歩村除
末社白山 天神 天王 貴布祢山神社内三畝十歩村除今社ナシ、又山神社内一畝歩竈屋除地ニアリ
天白社治部太夫書上ニ、社内三畝十歩村除、草創ノ由来ハ不知
『寛文村々覚書』にはなかった情報としては、天白社があることと、神明社の末社として白山、天神、天王、貴布祢があったこと、それからこの時代までに山神は社が廃されていたことを知ることができる。
天白社は今も境内の一角に残っているのだけど、これは大事な存在なので後でまた触れることにする。
久雲寺は神明社のすぐ北にあって、中世から近世にかけては寺と神社が一体になっていたはずだ。
ここでは「当村領主林三郎兵衛正俊永禄四年ニ創建ス」といっている。
永禄四年は1561年なので、時代背景としては信長が今川に勝利した1560年の桶狭間の戦いの翌年に当たる。
(信長と瀬戸は関わりが深いので、これも後ほど書くことにしたい。)
久雲寺の境内地については”備前検除”となっている。これは1608年の備前検地のとき新たに除地になったことを意味するので、1560年創建という話と矛盾しないのだけど、こんな時代まで村に寺がなかったというのはあり得ない。
下品野の集落がいつ頃できたかは分からないものの、集落があれば寺は必ずあったはずだから、久雲寺の前身の寺はもっとずっと古くからあったに違いない。
久雲寺の公式サイトを見ると以下のように書かれている。
寺伝によれば、もとは神亀2年(725)に開創された、勝元寺と称する天台宗の寺であったと云われる。
その後、正平年間(1346~70)落合城を築城した南朝の忠臣・戸田弾正宗忠(とだだんじょうむねただ)が応永8年(1401)に香華院長寿寺を創建し、赤津の雲興寺開山・天鷹祖祐禅師(てんようそゆう)を請して開山とし曹洞宗に属した。
永禄3年(1560)織田信長の武将で菱野領主・林三郎兵衛正俊(はやしさぶろべいまさとし)は当村山崎の地に寺領を寄進し開基となり、長寿寺の末寺として久龍庵を建て薬師如来像を安置した。
元和6年(1620)久龍庵の西隣に長寿寺を移転、諸堂を整備して龍洞山久雲寺と改称、雲興寺第十四世・居雲宗準大和尚(こうんそうじゅん)を勧請して法地開山とした。
元禄年間(1688~1704)の火災により久龍庵を合併し、享和元年(1801)雲興寺第三十一世・太謙遜翁大和尚(たいけんそんのう)が再興開山となり諸堂宇を再建して現在に至っており、古くより檀信徒の信仰生活の中心を担っています。
ご本尊様は「釈迦牟尼如来像」であり、本堂内の西側には「楊柳観世音菩薩像」(ようりゅうかんぜおんぼさつぞう)などが安置されています。
いろいろ書いている中で大事な情報は、725年(神亀2年)に勝元寺という天台宗の寺に始まるとしている点だ。
725年といえば奈良時代前期だけど、これは充分あり得る話だと思う。
その後の経緯についてもわりと信用していいのではないか。
『尾張徇行記』がいう1560年は、ここでは信長家臣の林三郎兵衛正俊が久龍庵を建てて薬師如来像を安置した年としている。
龍洞山久雲寺と改称したのは1620年という。
これに対して瀬戸ペディアは少し違うことを書いている。
龍洞山 久雲寺。曹洞宗。
本尊は釈迦牟尼如来、脇仏として薬師如来、阿弥陀如来を祀る。
開創は奈良時代(神亀2年)に行基によってなされたと伝わる。
室町時代初期、応永8年(1420)5月に吉野朝の忠臣戸田彈正宗忠が香華院長寿寺を開基し雲興寺開山天鷹祖祐禅師を招じて開山とし曹洞宗教に帰入した。
また永禄年間には織田信長の部将であった林三郎兵衛によって長寿寺末寺として久龍庵を建立し、薬師如来を祀った。
元和6年(1621)に雲興寺14世居雲宗準大和尚によって久龍庵の遺仏を長寿寺に合わせて、寺号を龍洞山久雲寺と改め開山した。
享和2年(1802)、雲興寺31世太謙遜翁大和尚、法地再興し、中興開山となり、現在に至る。
寺宝としては足利義継筆による和歌軸一巻、横井金谷筆の十六羅漢図がある。
年中行事としては大槃若会、涅槃会、花祭り等の他戦沒者供養、無縁塔供養がある。
725年(神亀2年)に(勝元寺を)開創したのは行基だといっている。
どこからの情報かは分からないのだけど、またも行基かと思う。
金神社(小金町)のところで書いたように、聖武天皇時代(701- 756年)に行基が上水野の小金山を訪れて感応寺の前身を建てたという伝承がある。
他にも山神社(東郷町)の近くにある宝泉寺は行基作の薬師如来像を本尊としていたとされ、これだけ行基の名前があちこちで出てくるとまったくの作り話とは思えなくなる。
瀬戸と行基をつなぐ何かがあって、実際に行基は瀬戸を訪れている可能性を考えてもいいのではないか。
ただ、天台宗は通説では最澄が唐に渡った後に日本にもたらされたとされていてそれが806年なので、そのあたりはどうなのかというのがある。
最澄以前に天台宗を学んでいた鑑真和尚がもたらしたという話もあるけど、鑑真和尚が苦労の末に来日して大和に入ったのが754年とされていて、725年はそれよりも前ということになる。
鑑真和尚以前すでに日本に天台宗という宗派があったのかどうか。
まあ、それはともかくとして、久雲寺の前身は遅くとも奈良時代前期にはあったというのは個人的に信じていいと思っている。
更にいえば、神明社はそれよりもずっと古いに違いないという確信もある。
祭神と伊勢の神宮とのつながり
この神明社にタイトルを付けるとしたらそれは、”普通の神明社じゃない”だ。
伊勢の神宮(公式サイト)から天照大神(アマテラス)を勧請して祀った神明社とはまったく違っている。
それは祀っている祭神からして明かだ。
瓊瓊杵尊(ニニギ)
国常立命(クニノトコタチ)
豊秋津姫命(トヨアキツヒメ)
この組み合わせは非常に珍しくて、名古屋やその周辺では見たことがないし、全国的に見てもあるかどうか。
『尾張徇行記』や『尾張志』は末社として白山、天神、天王、貴布祢を挙げているけど、これらには当てはまりそうにない。
三柱のうち、どれが主祭神なのかもよく分からないし、そもそも瓊瓊杵尊を祀っている神社は意外なことにごく少ない。
国常立尊というと、御嶽神社系がそうだし、神明系で国常立尊というと伊勢の神宮外宮の伊勢神道の流れがあるのだけど、ここはそういう感じでもない。
名古屋で唯一、瓊瓊杵尊と国常立尊を一緒に祀っているところが緑区の喚續社で、これに天照大神をあわせて三柱で祀っている。『尾張志』にもそうあるので、江戸時代からそうだったようだ。
更に珍しいのが豊秋津姫命だ。
豊秋津姫について簡単に説明するのは難しい。
とにかく異名が多くて、とても一人の人間のこととは思えない。
一般的には栲幡千千姫(タクハタチヂメ)の名で知られている。
『日本書紀』は、高皇産霊尊(タカミムスビ)の娘で、天照大神の子の天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)と婚姻して瓊瓊杵尊と天火明(アメノホアカリ)が生まれたといっている。
つまり、豊秋津姫と瓊瓊杵尊は母子関係なので、一緒に祀られていてもおかしくはない。
でも、じゃあ夫であり父でもある天忍穂耳も一緒に祀ってあげてよと思うけど、祭神には入っていない。
実は、豊秋津姫・瓊瓊杵尊と伊勢の神宮を結ぶ糸というのがある。
あまり知られていないのだけど、伊勢の神宮の内宮と外宮にはそれぞれ主祭神以外に相殿神がいる。
内宮は天手力男神(アメノタヂカラノオ)と萬幡豊秋津姫命、外宮は天津彦々火瓊々杵尊、天児屋根命(アメノコヤネ)、太玉命(フトダマ)がそうだ。
この顔ぶれもおかしいのだけど、豊秋津姫と瓊瓊杵尊はそれぞれ内宮と外宮の相殿神ということだ。
これを偶然としていいのかどうか。
上に書いたように豊秋津姫は瓊瓊杵尊だけではなく天火明の母ともされる。
天火明といえば尾張氏の祖と位置づけられている神だ。
尾張国一宮の真清田神社(公式サイト)にある服織神社(はとりじんじゃ)の祭神も萬幡豊秋津師比売命となっている。
つまり、豊秋津姫は尾張にもゆかりの深い神ということだ。
高皇産霊尊は三河側なので、三河と尾張を結ぶ存在という言い方もできる。
豊秋津姫も豊の国の”豊”を名前に冠しているので三河系だ。
では、国常立尊はどうなのかだけど、これはもう分からないとしか言えない。
鎌倉時代に伊勢神道が流行ったときに、外宮の神である豊受大神(トヨウケ)と国常立尊や天御中主神(アメノミナカヌシ)を同一視する思想が生まれ、それが各地に伝わったことはあった。
その影響受けた可能性がないではない。
あるいは、どこかの時点で合祀された他の神社の祭神が国常立尊とされたのかもしれない。
いずれにしても、この三柱が最初から祭神だったとは考えにくく、始まりはこの内の一柱だったか、もしくはまったく別の神だったのだろうと思う。
この項で最初に書いた普通の神明社じゃないというのは、こういうことだ。
何しろ神明社でありながら天照大神を祀っていないのだから、それだけでも普通の神明社ではないことになる。
ただし、『寛文村々覚書』に神明とあることから、少なくとも江戸時代前期までには神明と称されるようになっていた。それが江戸時代以前だったのか以後だったのかは何とも言えない。
元の社名が違っていたとしても、どういう社名だったかは想像ができない。
『延喜式』神名帳(927年)に神明社や神明神社という社名はなく(たぶんないと思う)、神明という社名がいつ生まれたのかは分からない(ずっと気になっている)。
天白神社があるということ
神社の一の鳥居は363号線沿いにあり、そこを入って水野川を越え、石段を登った先に社殿は建っている。
その社殿向かって左手に階段があって、その先には天白神社が独立した格好である。
『寛文村々覚書』には記載がなく、『尾張徇行記』と『尾張志』には載っていることから江戸時代創建の可能性もあるのだけど、もしかすると神明社よりもこちらの方が古いかもしれない。
天白神は尾張の非常に古い神で、早い段階で半ば姿を隠しつつ少し漏れ出しているあたりに古さを感じさせる。
名古屋市には天白区もあるから普通に”てんぱく”と読んでしまうけど、”あめのしらかみ”と読めば、白山神とも通じる。白山神も古くは”しらやま/しろやま”などと呼(読)んでいたのではないか。
天白社について『尾張徇行記』にある「天白社治部太夫書上ニ、社内三畝十歩村除、草創ノ由来ハ不知」というだけではどんな性格の社だったのかは分からない。
神明社との関係性についても不明としか言えない。
ただ、天白神があるところは古い歴史を秘めているので、マークしておいた方がいいのは確かだ。
落合城について
天白神の話が出たところで落合城についても触れておきたい。
かつての落合城は今の下品野小学校から見て水野川を挟んだ北の山にあったとされる(地図)。
この山を天白山と呼んでいたことから別名天白の城とも呼ばれた。
天白社があったから天白山といったのか、天白山の名が先だったのかは分からない。
室町時代前期の元中年間(1384-1392年)頃に品野城の戸田宗忠が築城して移り住んだと伝わっている。
その後、文明年間(1469-1487年)に長江利景、桜木上野介、戸田家光と城主が代わり、永禄年間(1558-1570年)に戸田直光・直頼が居城したという。
しかし、1560年頃に信長の品野攻めに遭い、品野城、桑下城、落合城は落城。戸田直頼は三河国岩倉城へ落ち延びたとされる。
現在、遺構は残っておらず、上に書いたような伝承も定かではない。
城が建っていたところにもともと古墳があったという話あり、そうなると天白神との関係も気になる。
瀬戸の神社や城を調べていると信長の話がちょくちょく出てくる。
尾張を統一した信長だから当然瀬戸も攻め落としているのだけど、それだけではなく瀬戸を重視していたことがうかがえる。
瀬戸の陶器をブランド化して販売を促進した書状が残っているというのもその一つだ。
信長はおそらく、瀬戸の古い歴史も聞き知っていたのではないかと思う。ここが誰の土地で、どういう性格のものかということをだ。
戦国時代といっても誰彼ともなくケンカを売っていいわけではない。アンタッチャブルな部分もある。
秀吉は知りすぎて手を出してはいけないところまで出してしまい、それらを見ていた家康は上手く立ち回った。
家康は天下を取ったのではない。天下を任されただけだ。
その違いを分からないと歴史の深いところは理解できない。
本体は表には出てないですよということだ。
南北朝時代と地方
この神明社の由緒として、後亀山天皇治世の1390年に創建されたというものがある。
上に書いたように、そんな新しいはずがないと個人的には考えているのだけど、後亀山天皇の名をわざわざ出しているところが少し気になった。
後亀山天皇(1350-1424年)といえば、南北朝時代を終わらせた天皇として知られている。
北朝側についていた室町幕府3代将軍・足利義満の説得を受け入れ、三種の神器を北朝の後小松天皇に返して南北朝に終止符を打ったのが1392年のことだ。
由緒がいう1390年はその2年前に当たる。
天皇の即位や中央の政治のゴタゴタは遠く離れた地方には関係ないと思うかもしれないけどそんなことはない。直接的、間接的に確実に影響があって、特に寺社関連はそうだ。想像以上に連動していることが多い。
神明社の創建もしくは造営に後亀山天皇が直接関わってはいなくても、何らかの影響を受けている可能性はある。
この頃は南朝の力がかなり弱っていた時期で、南朝側が地方に向けて働きかけをしたとも考えられる。
今となっては冗談みたいな話だけど、祈祷で北朝を倒せくらいの指令が真面目に全国に出されていたとしても私は笑わない。
南朝側としては三種の神器を持っているのはこちらなのだから、自分たちこそ正統という思いは強かっただろう。
長らく帝位を否定されていた後亀山天皇が正式に天皇として認められたのは明治44年(1911年)のことだった。
今昔マップで辿る変遷
今昔マップの1920年(大正9年)の地図は右半分が切れていて様子がよく分からない。
次は1968-1973年(昭和43-48年)まで飛んでしまうので、その間も辿れない。
これを見ると、1970年頃までには現在の町並みがほぼ出来上がっているのが見て取れる。
まだ家は少ないものの、今ある道路の大部分は通っていて、区画整理もされている。田んぼもほとんど姿を消した。
1970年代以降は南側の住居が増え、北側の丘陵地も少しずつ宅地化されていった。
下品野小学校の創立は古く、前身に当たる同帰学校が開校したのは明治6年(1873年)のことだ。明治時代は神明社の境内にあった芝居小屋を校舎にしていたという。
神社の北にある品野中学校は戦後の昭和22年(1947年)にできた新しい学校だ。このあたりに住人が増えたことで中学も必要になったのだろう。
現地を訪ねて
この神社の第一印象は、お、立派だなというものだった。
もう少し正確に言うと、こんなところにこんな立派な神社があるんだという、ちょっと失礼なものだった。
境内が広いとか、建物が豪華だとかそういう立派さではなくて、面構えというか佇まいが堂々としている感じを受けた。
中世あたりに創建された村の氏神とは一線を画す古めかしさや品格のようなものがあるのはすぐに分かった。
その感覚や他との違いを説明するのは難しいのだけど、一言で言うなら風格の違いといったところだろうか。
何の予備知識もなく出向いていってもそれは感じられた。
境内には江戸時代前期の明暦四年(1658年)の銘が入った石燈籠がある。
花崗岩でできた六角円柱型の石燈籠で、瀬戸市内に現存するものとしては最古とされ、市の有形文化財に指定されている。
銘文には「下品野村村上長次郎」の名があり、この人は品野の窯元の主人らしい。
最初の方で書いたように、品野は縄文時代の前期から人が暮らしていた土地で、神社もまたその延長線上にあり、現在へとつながっている。
歳月が積み重なるということは、人の思いも重なっているということで、神社にはその空気感も封じ込められている。
神社というのはただ建物を指すのではない。その空間そのものであり、時間でもある。
神社を参拝するということは、過去とつながる行為でもある。
作成日 2024.11.19