力持ちの神様ではない?
天手力雄神(アメノタヂカラオ)というと、天之岩戸開きの場面で、天照大神(アマテラス)を引っ張り出した神というイメージで捉えている人が大部分だと思う。一般的に、手の力の雄(男)という名前から力が強い男として語られることがほとんどだ。 しかし私はその説に対して疑問を持っている。 力持ちだから天之岩戸開きで役割を与えられたわけではなかったはずだと考える。その理由について後述するとして、まずは『日本書紀』と『古事記』のアメノタヂカラオの登場場面を詳しく見ていくことにする。
意外に少ない記紀での登場場面
タヂカラオが最初に出てくるのは神代下の第七段本文で、例の天之岩戸(石窟)開きの場面だ。 素戔鳴尊(スサノオ)はアマテラスとの誓約を終えた後、身の潔白が証明されたといわんばかりに高天原で好き勝手に暴れ回ってアマテラスはそれに耐えかねて天之岩戸に閉じこもってしまう。 世界が真っ暗になって困った神々は天安河邊(あめのやすのかわらべ)に集まって相談することになり、思兼神(オモイカネ)が中心となって知恵を出し合い、準備が整ったところでタヂカラオを天之岩戸の脇に立たせた(以手力雄神立磐戸之側)と書く。 そうして天鈿女命(アメノウズメ)が踊り、神がかりになって盛り上がると、外が騒がしいのが気になったアマテラスは少しだけ天之岩戸を開けて様子を伺おうとしたところ(乃以御手細開磐戸窺之)、タヂカラオがすかさずアマテラスの手を持ち天之岩戸の外に引っ張り出したとする(手力雄神則奉承天照大神之手引而奉出)。 すぐに天兒屋命(アメノコヤネ)と太玉命(フトダマ)が端出之繩(しりくめなわ)を天之岩戸に張り、もう入らないでくださいとお願いした、というのがここでの話の展開だ。 七段の一書は第三まであり、第三でも「是時天手力雄神侍磐戸側則引開之者日神之光滿於六合」と、ほとんど同じことが書かれている。 天之岩戸を開けると世界に光が戻ったとする。
『古事記』もこの場面に関してはほぼ同じで、大きな違いはない。 タヂカラオは”戸の掖(わき)に隠り立ちて”、”其の隠り立てりし天手力男神、其の御手を取りて引き出しまつりき”とある。 『日本書紀』の本文から一書第三までをあわせたような内容になっている。 一書第二にちらっと出てくる鏡についてやや詳しく書いているのが違いといえば違いといえるか。 外が騒がしいのが気になったアマテラスが小さく天之岩戸を開いてみたとき、天宇受売(アメノウズメ)があなたより貴い神がいるので喜んで踊っているのですと答え、天児屋命(アメノコヤネ)と布刀玉命(フトダマ)がアマテラスに鏡を見せたという話が挿入されている。 『日本書紀』一書第二は、このとき鏡に少し傷が付いてしまい、その鏡が伊勢の大神だと書いている(此卽伊勢崇祕之大神也)。
直接触れるということ
多くの人がどうして疑問に思わなかったか不思議なのだけど、私がすごく引っかかったのが、”タヂカラオがアマテラスに直接触れている”という点だ。 記紀の書き方からすると、あらかじめ天之岩戸の脇にタヂカラオを立たせていたのは、アマテラスを引っ張り出すためだったと考えていいと思う。 天之岩戸を無理矢理こじ開けるなら力持ちの神が必要だろうけど、かよわいアマテラスを引っ張り出すくらいなら誰でもよかったはずだ。力自慢である必要はないし、むしろ馬鹿力で引っ張り出すなどという乱暴なことが許されるとも思えない。 視点を変えると、アマテラスを引っ張り出すことができる人物としてタヂカラオが選ばれたのではないかということに思い至る。 この話を現代に置き換えると、世界で大きな問題が起こって天皇が自室に閉じこもって出てこなくなり(不謹慎なたとえですがお許しを)、天皇に出てきていただくのに直接触れて引っ張り出したということになる。それがいかに無礼な行為か分かるはずだ。宮内庁の人間などにそんなことが許されるはずもない。 もしそんなことができるとすれば、天皇の近しい身内くらいで、親か兄弟か、せいぜい配偶者くらいのものだ。 アマテラスが岩戸隠れの時点で神として崇められる存在だったかどうかはなんともいえないけど、三貴紳のひとりであり、岩戸隠れをしたことで世界中が暗くなってしまうくらいの存在だったことを思えば、直接触れられるような人物はごく限られている。 タヂカラオとはどういう人物だったのか? アマテラスとの関係性はどうだったのか? そのあたりについて『古事記』、『日本書紀』は何も語っていない。誰の子とか誰の親といった系譜もなく、誰の祖という扱いでもない。 わざと隠したのかどうかはなんともいえないけど、タヂカラオの扱いについて記紀の編集者たちがまったく無自覚だったとも思えない。
天孫降臨で登場するのは『古事記』だけ
『日本書紀』で次にタヂカラオが出てくるのがどこかだけど、実はもう出てこない。あれ? ニニギの天孫降臨のところで出てこなかったっけ? と思う人もいるかもしれないけど、それは『古事記』だけで、『日本書紀』ではタヂカラオは天孫降臨にお供していない。 大国主(オオクニヌシ)の国譲りからニニギの天孫降臨については神代下の第九段に当たるのだけど、最初から最後までタヂカラオの名前はない。 ニニギの天孫降臨に従った五部神(いつとものお)は、天兒屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命(イシコリドメ)、玉屋命(タマノヤ)で、タヂカラオはメンバーに選ばれていない。 なんだ、じゃあ、タヂカラオってそんなに重要な人物じゃなかったのかと思うかもしれないけど、『古事記』にはちゃんと登場している。 そのあたりをどう見るべきかという問題がある。 『日本書紀』はわざと口をつぐんでいるのではないかという疑いを持ってしまう。
『古事記』における五伴緒(いつとものお)の顔ぶれは『日本書紀』と共通している。 天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命で、アマテラスがニニギに八尺の勾玉、鏡、草那芸剣の三種の神器を授けたというのも同じだ。 違うのはこの後で、常世思兼神(オモイカネ)、手力男神(タヂカラオ)、天石門別神(アメノイワトワケ)を副えたとする。 そして、ニュアンスとしては三者に対してこの鏡(天之岩戸開きのときの鏡)を自分(アマテラス)の魂だと思って祀るようにと命じ、オモイカネに対しては政治(マツリゴト)を行うようにといっている。 この話をどうして『日本書紀』は省略してしまったのか。あるいは、どうして『古事記』はこの話を付け加えたのか。 これに続いて『古事記』は、天石戸別神の別名として櫛石窓神や豊石窓神を挙げ、この神は御門の神なりと書いている。 手力男神については佐那那県(サナナガタ)に坐すという。
祖も後裔も不明
上に書いたように、タヂカラオの出自や系譜に関して記紀は何の説明もしていない。 当然ながらタヂカラオには親もいるし、兄弟や子孫がいたとしてもおかしくない。 しかし、タヂカラオの後裔を自称する氏族がいない。 たとえば古代氏族名鑑の『新撰姓氏録』(815年)にもタヂカラオの後裔は載っていない。 これは一体、何を意味するのか? 『古事記』は”佐那那に座す”としているので、どこかの神社で祀られていたと考えていい。だとすれば一族が守るのが自然で、たとえ血縁でなくてもアメノタヂカラオの後裔と称する氏族があってもよさそうだ。 考えられるとすれば、アメノタヂカラオというのは象徴的な存在で、実在した人物ではなかったということだ。 ただ、一緒に副えたという思兼神(オモイカネ)や天石門別神(アメノイワトワケ)にはちゃんと後裔がいる。タヂカラオだけがいない。 そこからタヂカラオと天石門別同神説が生まれたわけだけど、これはちょっと信じられない。 『斎部氏家牒』では天八意思兼命の子供で阿智祝の遠祖としている他、平田篤胤は「神代系譜」の中で角凝魂命(ツノコリ)の子とするも、これらもそのまま鵜呑みにするのは危険だ。 結局のところ、アメノタヂカラオの系譜は不明とするしかない。
タヂカラオの関係神社について
『古事記』がいうところの佐那那がどこなのかについてもはっきりしことは分かっていない。 伊勢に佐那(三重県多気郡多気町仁田)という郷があり、そこの佐那神社がそうだろうということになっている。 佐那神社の創建は不明ながら『延喜式』神名帳(927年)に佐那神社二座とあることから、平安時代以前からあったことは間違いない。 伊勢の神宮(web)の式年遷宮で出た古材で修繕するなどしていることから古くから伊勢の神宮と深い関係にあったようだ。 二座のうち一座は天手力男命でいいとして、もう一座については曙立王命(アケタツノオオキミ)他、諸説ある。
タヂカラオの関連神社のひとつに長野県長野市の戸隠神社(web)がある。戸隠神社とタヂカラオとの関係は意外に思うかもしれないけど、ここの奥社でタヂカラオを祀っている。 天之岩戸開きの時にタヂカラオがこじ開けた岩戸を力任せに投げ飛ばしたたところ戸隠山まで飛んでいって、それが落ちたところで岩戸を祀ったのが始まりという伝承がある。 それ以前から九頭龍が祀られていて、その九頭龍がタヂカラオを迎え入れたという話もある。
岐阜県には岐阜市と各務原市にそれぞれ手力雄神社がある。 当然、兄弟社のような関係かと思いきや、意外にも別のルーツを持つ神社で、岐阜市の手力雄神社は伊勢の神宮系で、各務原市の方は戸隠系なのだという。 古いのは各務原の手力雄神社(web)で、6世紀末に古代の地元豪族が祀ったのが始まりとされる。 岐阜市の手力雄神社は平安時代前期の860年創建という。 各務原の手力雄神社は一度訪れたことがあって、ブログの紹介記事を書いた。
各務原の手力雄神社と和解した
東京の文京区にある湯島天満宮(web)は菅原道真を祀る梅の名所神社としてよく知られるのだけど、もともとはタヂカラオを祀る神社として創建された古社だ。 雄略天皇の5世紀頃とされる。 菅原道真を祀るようになったのは南北朝時代の1355年で、江戸時代以降はすっかり天神さんの神社となっていった。
そのほか、タヂカラオ関係で古い神社というと、奈良県桜井市の長谷山口坐神社がある。 倭姫命(ヤマトヒメ)がアマテラスを祀る場所を探してあちこちを巡っているとき、8年間この場所にいて、タヂカラオを随神として祀ったのが始まりとされる(北の山の中腹に栲幡千千姫命も祀ったとされる)。 千葉県館山市の手力雄神社は神武天皇時代に忌部氏が祀ったとされる古い神社だ。
神様事典【名古屋編】は題名通り名古屋の神社で祀られている神様について書いているのだけど、一部例外があって、タヂカラオもその一柱だ。 名古屋でタヂカラオを祀る神社は一社もない。少なくとも、現存する神社で主祭神として祀っているところは存在しない。 それもまた不思議に思うのだけど、理由はよく分からない。
どうして内宮の相殿神となっているのか
伊勢の神宮の内宮、外宮にはそれぞれ相殿神が祀られている。 そのうち外宮では瓊瓊杵尊(ニニギ)、天児屋根命(アメノコヤネ)、太玉命(フトダマ)の三神が、内宮ではアマテラスと同居する格好で天手力男神(タヂカラオ)と栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)が祀られている。 これをどう捉えればいいのか。 『日本書紀』の中でアマテラスと高御産巣日神(タカミムスビ)は天孫降臨の際に五大神勅と呼ばれる神勅を下している。 瑞穂国は天孫が治めるべきという天壌無窮の神勅、鏡を自分(アマテラス)だと思って祀るようにという宝鏡奉斎の神勅、高天原の稲穂を与えるという斎庭の稲穂の神勅、天児屋命と太玉命に下した侍殿防護の神勅と神籬磐境の神勅がそれだ。 それだけを見ると、アマテラスとともに相殿神として祀られるのはアメノコヤネとフトダマがふさわしいように思う。 しかし、実際はタヂカラオとタクハタチヂヒメが祀られている。 これはかなり不思議なことであり、深い事情がありそうだ。 タヂカラオは五伴緒には入っておらず、タクハタチヂヒメはオシホミミの妻でニニギの母だからアマテラスからみると息子の嫁に当たる。 二神とも内宮の相殿神にふさわしいとは思えないし、組み合わせとしても不自然に思える。 ただ、上の方で書いたように、タヂカラオはアマテラスに”直接触れることができる”存在だったことを思うと、何か裏が見えてきそうな気もする。 タヂカラオはアマテラスの肉親だったのではないか。具体的に言えば、アマテラスの父であれば一番自然に思うけどどうだろう。 だとすれば、タクハタチヂヒメはアマテラスの母であり、タヂカラオとは夫婦なのか。 いや、それはさすがに大胆すぎる推測だろう。ただ、伊勢の内宮でアマテラス、タヂカラオ、タクハタチヂヒメが同居しているという事実が確かにある。
”命”ではなく”神”
タヂカラオは『日本書紀』で”神”と表記される。 五部神は、天兒屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命と、すべて”命”だ。 『日本書紀』は特に貴い神は”尊”、それに準じて”命”とすると書いていて、神代七世の伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)や月読尊(ツキヨミ)、素戔鳴尊(スサノオ)などは”尊”としている。 例外がアマテラスで、天照大神は”大神”だ。 タヂカラオが”命”ではなく手力男”神”となっているところにもひとつヒントがありそうだ。”命”より格下といえばそうなのだろうけど、扱いが違うのかもしれない。
結論がないのが結論
以上のように、タヂカラオについてそれなりに詳しく検討しても、その正体は不明とというのが結論ともいえない結論となる。 ひとつ言えそうなのは、表沙汰にできないことの鍵を握る人物、もしくは存在なのだろうということだ。 ただのドアマンではない。 タヂカラオの存在は常に頭の片隅に置いておいた方がよさそうだ。
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