伊奴姫と犬は関係があるのかないのか
犬にまつわる神社はいくつかあるも、ストレートに犬を前面に出して祀っている神社は西区の伊奴神社(いぬじんじゃ)しかないだろう。日本で唯一の犬の神社といってもいいすぎではないと思う。
しかし、祀られている祭神の伊奴姫(いぬひめ)が犬と関係があるかといえばそれはまた別の話だ。
これがなかなか難しいところで、ただ”いぬ”という共通項があるだけということで片付けていいかというとそうともいいきれない。
伊奴姫は伊怒比売のこと?
伊奴姫について伊奴神社は『古事記』(712年)に出てくる伊怒比売(イノヒメ)のこととしている。「イヌヒメ」とも読むようだけど、基本的には「イノヒメ」のはずなので同じとしていいのかどうかというのがひとつ問題となる。
伊奴神社は『延喜式』神名帳(927年)の尾張国山田郡伊奴神社に比定されており、ここでは「イヌノカミノヤシロ」と訓じられている。
『尾張国内神名帳』の「伴信友校訂本」では伊奴天神(イトノテンジン)となっていて、「国府宮威徳院蔵本」では伊奴天神(イヌノテンジン)としている。
いずれにしても、『古事記』と同じ伊怒比売と表記していないというところに引っかかりを感じる。本当に伊奴姫は伊怒比売のことなのか?
伊奴神社はかつての稲生村(いのうむら)にある神社だ。稲生の由来については、以前は伊奴村といっていたのが稲生に転じたという説や、藺沼から来ているという説、稲が生まれるという意味で稲生になった説などがある。
伊奴神社の社伝では第40代天武天皇の673年に稲を皇室に献上したときに稲神を祀ったのが神社の始まりといっている。
673年といえば天武天皇2年で、大嘗祭が行われた年に当たる。そのときに稲を献上したということになるのだろう。大嘗祭の制度を整えたのは天武天皇ともされていて(個人的には古い時代から行われていた大嘗祭の在り方を天武天皇が作り変えたと思っているのだけど)、尾張国と天武天皇は壬申の乱でもいろいろあったので、そのあたりも関係しているかもしれない。
676年に行われた新嘗祭の際も山田郡が悠紀田に選ばれている(そのとき建てられたのが尾張旭市の渋川神社/webとされる)。
伊奴神社創建にまつわる話として、稲生村を訪れた山伏が川の氾濫を防ぐための御幣を置いていって、そこに犬王と書かれていた云々という伝承もある。そのあたりについては伊奴神社のページに書いた。
『古事記』のみに出てくる伊怒比売について
『古事記』に登場する伊怒比売について整理しておく。
『日本書紀』には出てこない神で、大年神(オオトシ)の妃として大国御魂神(オオクニミタマ)、韓神(カラ)、曽富理神(ソホリ)、白日神(シラヒ)、聖神(ヒジリ)の5柱の神を生んだと『古事記』の系譜は伝える。
伊怒比売は神活須毘神(カミイクスビ)の娘というのだけど、神活須毘も『古事記』の系譜に出てくるだけなので正体はよく分からない。
『先代旧事本紀』(平安時代初期)は伊怒姫の親を須沼比神(スヌマヒ)としている。須沼比と神活須毘が同一かどうかは何ともいえない。
子供とされる大国御魂神は大和の神、韓神、曽富理神、白日神、聖神は朝鮮半島の新羅や百済を思わせる神だ。そのため、神活須毘や伊怒比売は渡来系の可能性が考えられるも、はっきりしない。
794年の平安京遷都以前から園神社と韓神社があり、他へ移そうとしたところ、この地にとどまって皇室を守護するという託宣が下ったため宮中で祀られるようになったという経緯がある。『延喜式』神名帳の宮中神筆頭に「園神社一座 韓神社二座」とあり、韓神社では二柱を祀っていたことが分かる。この韓神社の祭神が伊怒姫の子の韓神かもしれない(園韓神社は応仁の乱で焼失して廃絶になった)。
平安京ができる前にこの地にいたのは渡来系の秦氏で、この二社は秦氏が祀った神とも考えられる。
後に園神を大物主神、韓神を大己貴神(オオナムチ)と少彦名神(スクナヒコナ)とする考え方も生まれた。
大年神の系譜に目を向けると、『古事記』は須佐之男命(スサノオ)が神大市比売(カムオオイチヒメ)を娶って生まれたのが大年神と宇迦之御魂神(ウカノミタマ)としている。
神大市比売は大山津見神(オオヤマツミ)の娘といっているので、天津神と山の神の娘が結びつくというのは、天孫の瓊瓊杵尊と木花咲耶とにつながる。
大年神は毎年正月、家に迎えるあの歳神のことともされ、祖先神という性格が強い。兄弟の宇迦之御魂神は稲荷神としてお馴染みだ。
この時代の神様はなんらかの形で親戚といえばそうなのだけど、出雲系の神と渡来系の神が結びついたのが伊怒比売といういい方ができるかもしれない。
伊農郷の伊努神社と稲生村の伊奴神社は偶然の一致か?
かつて出雲郡に伊怒郷があった。今の島根県出雲市の北に当たる。
『出雲国風土記』(733年)によると、古くは秋鹿郡伊努郷と出雲郡伊農郷があり、神亀三年(726年)に秋鹿郡伊農郷と出雲郡伊努郷としたという。
『延喜式』神名帳に出雲国出雲郡伊努神社があり、祭神を赤衾伊努意保須美比古佐倭気命(アカフスマイヌノオホスミヒコサワケ)としている。
これは伊怒比売のことではないのだけど、尾張国山田郡稲生村の伊奴神社と出雲国出雲郡伊農郷の伊努神社を単なる偶然の一致としていいとも思えない。両者には何らかの関係がありそうだ。
奈良時代前期に出雲国に伊努社が12社もあったというから、かつてはもっとメジャーな神だったのだろう。
赤衾伊努意保須美比古佐倭気命の妃の阿麻乃弥加都比女(アメノミカツヒメ)を伊怒比売に比定する説がある。それが本当だとすると、出雲の伊努神社と尾張の伊奴神社は対の関係になっているとも考えられる。
『出雲国風土記』楯縫郡のところで、阿遅須枳高日子根(アジスキタカヒコネ)の后となった天御梶日女命(アメノミカツヒメ)が多具の村で多伎都比古命(タギツヒコ)を生んだという話が出てくる。だとすると、赤衾伊努意保須美比古佐倭気命は阿遅須枳高日子根ということか。
多伎都比古は宗像三女神のひとり多岐都比売命(タギツヒメ)の夫の大国主(オオクニヌシ)のことともいう。
これに関わる話として、『尾張国風土記』逸文の丹羽郡吾縵郷のところで阿麻乃弥加都比女(アマノミカツメ)のことが出てくる。それによると、垂仁天皇の皇子の品津別(ホムツワケ)が7歳になっても言葉が話せず、皇后の夢に阿麻乃弥加都比女が出てきて自分を祀れば皇子は言葉を話して長生きするだろうと告げたという。これが多具の国の神といっているので、阿麻乃弥加都比女は赤衾伊努意保須美比古佐倭気命の妃の阿麻乃弥加都比女ということになるのだろう。
愛知県一宮市あずらに阿豆良神社(あずらじんじゃ)があり、祭神を天甕津媛命としている。天甕津媛命が伊怒比売/伊奴姫であるならば、阿豆良神社と伊奴神社は共通の神を祀るということになるけどどうだろう。
伊奴神社が一時期熊野神社だった理由
伊奴姫/伊怒比売を犬とする考え方はないけど、伊奴神社が犬の神社と認識されるようになったのがいつ頃なのかはよく分からない。
そもそも伊奴神社は江戸時代には熊野権現と称していた。もし伊奴神社が本当に式内社の伊奴神社であるとしたら、中世以降のどこかで熊野権現が習合してそちらが勝ったということになる。
ただ、ここでもひとつ注意しなければならないのは、「クマノ」社は必ずしも熊野から来ているわけではないということだ。名古屋に現存する熊野社は古い創建のものが多く、その由緒ははっきりしない。最初から熊野権現を祀るとしたところは少ないはずで、神仏習合以前から別の神を祀っていたところが中世に熊野社になったという経緯だったのではないかと推測できる。「クマノ」は「雲」から来ているという話を聞いたことがある。雲といえば八雲であり出雲を連想させる。
現在の伊奴神社は、主祭神として素盞嗚尊、大年神、伊奴姫神を祀り、相殿に稚産霊神、倉稲魂神、保食神、伊弉冉神、早玉男神、事解男神、天照大御神、熊野神を祀っている。
『尾張志』(1844年)は「中古末社の熊野十二所権現の社廃荒し本社の中に合せ祀る」と書いているので、熊野社はそもそも末社で、社が荒廃したので本社に併せ祀ったところ、熊野権現の方が主になってしまったようだ。
明治になって『延喜式』神名帳の伊奴神社と比定されて現在に至っている。
日本における犬の歴史
せっかくなので日本における犬の歴史について少し書いておくことにする。
いわゆる家犬のルーツについては狼が祖先というのが一般的な説で、ジャッカルやコヨーテなどとも交配している可能性が指摘されている。
縄文時代の遺跡から丁寧に埋葬された犬の骨が多数見つかっていることから、犬と縄文人はともに暮らしていたことが推測できる(発見数としては400遺跡ほど)。
主に狩猟犬とされていたようだけど、骨折と治癒の跡がある犬の骨もあって、今と変わらずペットのように扱われていたかもしれない。
世界最古の埋葬例としてはイスラエルで1万2000年前の遺跡から見つかっており、国内では縄文時代早期末から前期初頭(7200-7300年前)のものが現在の最古例とされている。
日本にもともといたものが家畜化されたのか、大陸や半島から人間とともに渡ってきたのかはなんともいえない。その両方の可能性はある。見つかってはいなくても旧石器時代から犬と人は一緒に生活していたのではないだろうか。
ちなみに、猫が人と暮らすようになるのは弥生時代と考えられている。
古代エジプトではアヌビスという犬の神が信じられた。日本では犬を神とすることはほとんどなかったのではないかと思う。犬が神の使いとなっているというのがあるのかどうか。
神社の狛犬は、ルーツを辿れば獅子からスフィンクスにたどり着くもので、朝鮮半島を経由して入ってきた獅子を高麗犬と呼び、それが狛犬になったという説がある。だから犬とはいいながらあれば本来犬ではない。
『日本書紀』(720年)の中で犬についての記事がいくつかある。
第11代垂仁天皇28年にこんなふうに書かれている。
「廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彦命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、詔群卿曰 夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉」
天皇の同母弟の倭彦命が亡くなったとき、仕えていた人間たちを墓の周りに生き埋めにして立たせていたところ、何日も死なずにうめいた末に亡くなり、犬やカラスが集まってそれを食べたという内容だ。
天皇はこういう残酷な風習はよくないといって改めることになる。古墳の周りに置かれた埴輪は殉死の代用として始まったものとされる。
同じく垂仁天皇87年に「昔丹波国桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮也」という記事がある。
昔、丹波の桑田村(京都府亀岡市保津町・篠町)に甕襲(みかそ)という人物がいて、その家に足往(あゆき)という名の犬がいて、牟士那(むじな)という名の山獣を食い殺した。すると、獣の腹から八尺瓊の勾玉が出てきたので、甕襲はこれを朝廷に献上した。その勾玉は石上神宮(奈良県天理市/web)にあるという。
一説ではこの八尺瓊の勾玉が天皇即位に必要な三種の神器のひとつになったともされる。その勾玉が石上神宮にあるとするのは意味深なのだけど、ここでは掘り下げない。
日本武尊命(ヤマトタケル)は東征の途中、信濃の山で白い鹿を殺したら道に迷ってしまい、白い犬が出てきて案内をしてくれたのでどうにか美濃に出ることができたという記事もある。
白い犬でいうと、第32代崇峻天皇の条にもこんな話が出てくる。
蘇我馬子と物部守屋との争いの中で、物部守屋の家臣の万(よろず)という人が飼っていた白い犬が敵にバラバラにされた主人の頭をくわえて墓まで運んでいき、自分はその傍らに臥したまま餓死したので、朝廷がその犬を主人と一緒に埋葬したという。
櫻井田部連胆渟の飼い犬が主人の遺体を墓まで引きずっていったという記事もある。
犬養部について
第27代安閑天皇は天皇家の直轄地である屯倉(みやけ)を大量に設置した天皇として知られている。その屯倉の設置にともない、犬養部(いぬかいべ)というものも置いた。
犬養部については屯倉を守る部民という説と、狩猟を担う部民だったという説があり、現在は犬を使って屯倉の守りをしていたのだろうというのが定説となっている。
しかし、単なる守衛氏族にとどまらず、犬飼の一族はやがて朝廷でも重要な地位の一角を占めることになる。
有名なところでは県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)がいる。犬養部を統率した伴造(とものみやつこ)に県犬養連、犬養連、若犬養連、阿曇犬養連がおり、その中の県犬養連一族の県犬養三千代は藤原不比等に嫁いで(再婚)光明子(光明皇后)を生んでいる。
蘇我入鹿暗殺の乙巳の変では、海犬養連勝麻呂や葛城稚犬養連網田が参加している。
海犬養は海部の一族で、天武天皇の大海人皇子は海部一族にゆかりがあるからそう名付けられたのだろう。八草の姓では宿禰を与えられた。
誰が稲生村で伊奴姫を祀ったのか
尾張国の稲生村で伊奴姫を祀った一族の影が見え隠れする。ただ、その正体ははっきりしない。伊奴姫を祀るとしている古い神社は全国でもここくらいだから、かなり特殊な事例だ。考えられるとすれば、伊奴姫と直接ゆかりがある人達が祀ったということだ。
伊奴神社がある場所は熱田台地の北で、庄内川と矢田川が運んだ土砂でできた沖積地に当たる。伊奴神社があるあたりは縄文海進時代は海岸線沿いだったと考えられる。
矢田川が付け替えられるまでは神社のすぐ北を蛇行しながら矢田川が流れていた。その矢田川沿いには伊奴神社の他にも、羊神社や別小江神社などの式内社があり、少し南には綿神社もある。
このあたりは西志賀遺跡、志賀公園遺跡、平手町遺跡など、弥生時代の遺跡が集まった場所で、伊奴神社は古墳時代から中世にかけての稲生遺跡の上に建っている。
弥生時代になって他からこの地に移り住んだ人たちが自分たちの神を祀ったのが伊奴神社の始まりと考えていいだろうか。その人達が伊奴姫と直接関係があるのか、間接的な関係なのかは分からない。
天武天皇時代に稲を収めたから神社が建ったという話を私は信じていないのだけど、そういう言い伝えがあるということは何かしらそれに類したことがあったとは考えられる。
大年神に関係があるのであれば出雲族かもしれないし、伊奴姫を主に祀ったのであれば渡来系の可能性もある。
途中で熊野社に変わったというのも何かを暗示していて、尾張氏一族の神を祀ったのが始まりかもしれない。
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