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カミムスビ《神皇産霊尊》

カミムスビ《神皇産霊尊》

『古事記』表記神産巣日神
『日本書紀』表記神皇産霊尊
別名神魂命
祭神名神皇産霊尊・他
系譜(子)少名毘古那神(スクナヒコナ)(『古事記』)
属性造化三神
後裔不明(本文参照)
祀られている神社(全国)命主社(島根県出雲市)、安達太良神社(福島県本宮町)、御祖神社(福岡県北九州市)、八所神社(山形県西置賜郡)、サムハラ神社(岡山県津山市)、など
祀られている神社(名古屋)高牟神社(今池)(千種区)、参神社(中区)

造化三神の一柱

天之御中主神(天御中主尊)高御産巣日神(高皇産靈尊)とともに造化三神の一柱とされながら、記紀その他の歴史書における神産巣日神(神皇産霊尊)の存在感は薄い。
しかし、この神が重要ではないかといえばそうではなく、その存在や陰で果たした役割は小さくない。
『古事記』で大己貴神(大国主神)を助けたという話や、『新撰姓氏録』に多数の後裔氏族が載っていたりすることからもうかがえる。

まずは記紀その他が何を書いているかを見ていくのだけど、その記述は少なく、そこから分かることも多くない。
天地開闢のとき高天原に成った云々というのは高皇産靈尊の項に書いたのでそちらを読んでいただくとして、
神皇産霊尊としての話を抜き出していくことにする。

『古事記』は神産巣日神を重視した

最初に書いたように、『古事記』のみが大国主神のところで神産巣日神を登場させている。
大国主神こと大穴牟遅神(オオアナムチ)には八十神(やそがみ)の兄弟がいて、その八十神が稲羽(いなば)の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚に行く際、荷物持ちとして連れて行かれる。
途中で八十神に騙されて苦しんでいる菟(うさぎ)を助けたエピソードを挟みつつ、八十神の求婚を断って大穴牟遅神と婚姻すると宣言する八上比売と、それに怒った八十神が大穴牟遅神をだまし討ちにして殺してしまう話が語られる。
大穴牟遅神が死んだことを知った御祖命(ミオヤ/刺国若比売(サシクニワカヒメ)とされる)は泣き悲しんで天に参上し、神産巣日之命に相談する(”神”ではなく”命”になっている点に留意したい)。
すると神産巣日之命はサキ貝比売(サキガイヒメ)と蛤貝比売(ウムガイヒメ)を遣わして大穴牟遅神を生き返らせた。
その方法はというと、キサ貝比売が貝殻を削って粉を集め、蛤貝比売が母乳を塗るというものだった。
しかし、単純に蘇生したというよりは生まれ変わったというニュアンスで書かれている。
原文では「成麗壯夫(訓壯夫云袁等古)而出遊行」となっており、貝殻の粉に母乳を混ぜたもので育った赤子が青年になって遊び出歩くようになったと解釈すれば、生き返ったというのは違うように思う。

こうしていったんは生き返った(生まれ変わった)大穴牟遅神だったのだけど、八十神に見つかってまたも騙され、今度は木に挟まれて死んでしまう。
このときは泣きながら探す御祖命に発見され、救い出された。
このあたりのことについては大国主神の項に詳しく書いた。

『日本書紀』は一書の中で大国主神(大己貴命)が少彦名命(スクナヒコナ)と力を合わせて天下を治めたという話を簡潔に書いているだけで、嫁取りのことや素戔嗚尊(スサノオ)の試練を受けたなどとったことは何も書かなかった。
興味がなかったのか、あえて書かなかったのか。

気になる大国主神との関係性

国譲りのところでは天照大神(アマテラス)と高皇産靈尊が主導したと記紀はいっているのだけど、神皇産霊尊の名は『古事記』にも『日本書紀』にも出てこない。
唯一出てくるのは、『古事記』で大国主神が国譲りで去った後、宮殿を建てる場面だ。
出雲の多芸志浜(たぎしのはま)に天御舎(あめのみあらか)を建て、水戸神(みなと)の孫の櫛八玉神(クシヤタマ)が膳夫(かしわで)となって海の幸を調理して供え物を作ったという文章に続いて、我(櫛八玉神)が燧(ひきり)した火で高天原の神産巣日御祖神の神殿の煤が固まって垂れ下がるまで焼きましょうというセリフの中で出てくる。
意味ありげだけどどういうことを言わんとしているのかはよく分からない。
神産巣日御祖神と、”御祖神”(みおやのかみ)となっていて、大国主神の祖(親)は神産巣日神とも取れる。
しかし、『古事記』の系譜では天之冬衣神(アメノフユキヌ)が刺国若比売(サシクニワカヒメ)を娶って大国主神が生まれたといっているから、大国主神と神産巣日神は直接関係がない。
そうなると、やはり気になるのが大穴牟遅神(大国主神)が死んだときに神産巣日神が助けたという話だ。どういう縁で御祖命は神産巣日之命を頼ったのか?
神産巣日之”命”と神産巣日”御祖神”は同一なのか違うのか?
ここである種の入れ替わりが起きたとすると、二代目大穴牟遅神の母は神産巣日神という可能性もある。
そうでも考えないと、大国主神を祀る宮殿と神産巣日神とが結びつかない。

『先代旧事本紀』の独自性

『先代旧事本紀』に何かヒントがないか読んでみると、そちらはそちらで混乱することが書かれている。
まず天地がいまだ分かれていなかったとき、高天原に最初に生まれた神を、天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊(アメユズルヒアマノサギリクニユズルヒクニノサギリ)とし続いて第一代、第二代というように世代のような書き方をしている。
神世七代(かみのよななよ)の第七代が伊弉諾尊伊弉冉尊(イザナギ・イザナミ)なのだけど、そのと”別”に生まれた神として高皇産霊尊を挙げ、高皇産霊尊の次に神皇産霊尊(または神魂尊)としている。
つまり、高皇産霊尊も神皇産霊尊も高天原に最初に生まれた造化三神ではないというのが『先代旧事本紀』の認識ということだ。
この”次”というのもよく分からない。親子のような関係なのか、単なる次の世代ということなのか。

「地祇本紀」では大己貴神の試練について書かれていて、内容は『古事記』とほぼ同じだ。
八十神に殺された大己貴神の御親神は、泣き憂いて天に上り、神皇産霊尊に救いを求めたというのも共通している。
少し違うのは具体的に救った神の名で、ここでは黒貝姫(クロガイヒメ)と蛤貝姫命(ウムガイヒメ)となっている。

これ以外に神皇産霊尊の名は出てこず、神皇産霊尊の立ち位置といったものはよく分からない。
大国主神(大己貴神)については素戔烏尊の子とするだけで、母親の名は明かしていない。

少彦名神の親問題

系譜について見ていく前に、少彦名神の親問題を考えてみたい。
少彦名命の項にも書いたのだけど、『古事記』は小名毘古那神(スクナヒコナ)を神産巣日神(神産巣日御祖命)の子としているのに対して『日本書紀』は高皇産霊尊の子といっている。
この違いは小さいようで大きい。
高皇産霊尊と神皇産霊尊(神産巣日神)の関係性の問題でもあり、ここはけっこう重要だ。
二つの違う伝承があったというよりも、『日本書紀』があえて高皇産霊尊の子に変えたのではないか。
『古語拾遺』は『日本書紀』に準じて高皇産靈尊の子とし、『先代旧事本紀』は苦し紛れか、延彦(クエヒコ)は神皇産霊神(カミムスビ)の子と正体を明かしながら天の高皇産霊尊は自分の子だといったという書き方をしている。
高皇産霊尊と神皇産霊尊が夫婦関係ならどちらの子でもあるのだけど、それはちょっと考えづらい。
よく分からないままいったん保留する。

五穀誕生説話

補足的にもうひとつ頭に入れておくべきこととして、五穀誕生説話における神産巣日神の役割についても触れておきたい。
『古事記』はこんな話を書いている。
天津罪を犯して高天原追放が決まった速須佐之男命は、食べ物を大気津比売神(オオゲツヒメ)に乞い、大気津比売神が鼻や口や尻から食べ物を出して調理して差し出したところ、穢らわしいと速須佐之男命は殺してしまった。
その殺された大気津比売神から五穀や蚕が生り、神産巣日御祖命がこれらから種を採ったというのだ。
この説話全体が実際の出来事の寓話のようなものだろうけど、ここに神産巣日御祖命が出てくることの意味は何なのかと考えてしまう。
これと同じ話を『日本書紀』は月夜見尊(ツクヨミ)と保食神(ウケモチ)、天熊人(アメノクマヒト)に置き換えている。
どうしてそんなことをしなければいけなかったのかも気になるところだ。
『古事記』が神産巣日神を重視するのに対して『日本書紀』はそうではない。軽視というかあえて無視するような態度を取っている。
これは裏に何かあるなと勘ぐりたくなる。

後裔系譜に関して

後裔系譜についていうと、『古事記』、『日本書紀』は神産巣日神(神皇産靈尊)の子や後裔については何も書いていない。
『古事記』は天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱は、獨神として成って身を隱したといっているので、そもそも子はいない設定だ。
しかし、『新撰姓氏録』には神魂命(カミムスビ)の後裔氏族がたくさん載っており、少なくとも平安時代の京畿内には神魂命の後裔を自認する氏族がたくさんいたことが分かる。数でいうと高魂命(タカミムスビ)の後裔よりも多い。
その顔ぶれは、大味宿祢、多久豆玉命、天仁木命、天石都倭居命、御食持命、武津之身命、玉櫛比古命など、ほとんど馴染みのない名前ばかりだ。
知っているのは、阿波(あわ)忌部氏の祖とされる天日鷲神(アメノヒワシ)くらいだ。
ただ、『古語拾遺』の中で斎部広成(いんべのひろなり)は天日鷲神を神産靈神の子(後裔)とはしておらず、自らの祖の天太玉命(アメノフトダマ)を高皇産靈神の後裔に位置づけ、中臣氏の祖の天兒屋命(アメノコヤネ)を神産靈神の子といっている。
『新撰姓氏録』は天皃屋根命を津速魂命三世孫としているので、このあたりは系譜の混乱が見られる。

神魂命(神産靈神)の後裔を自認する氏族が京畿内で勢力を持っていたひとつの理由としては、賀茂氏(鴨氏)の存在もあったかもしれない。
上賀茂神社(web)、下鴨神社(web)の社家が神魂命の後裔を自認していたことで関係氏族が幅をきかせていた可能性はある。
賀茂氏の祖は下鴨神社でも祀られる賀茂建角身命(カモタケツヌミ)なのだけど、これが八咫烏(ヤタガラス)という話もあって、このあたりもなかなかややこしい。

『先代旧事本紀』が伝える系譜

『先代旧事本紀』は「神代系紀」の中で神皇産霊尊の子について書いている。
上に書いたように、高皇産霊尊の次に神皇産霊尊(または神魂尊)といういい方をしつつ、神皇産霊尊の児に天御食持命(アメノミケモチ)、次の児に天神玉命(アメノカムタマ)、次の児に生魂命(イクタマムスヒ)を挙げている。
天御食持命を紀伊直(きいのあたい)らの祖としているのは『新撰姓氏録』も同じで、神魂命子の御食持命の後として紀直(和泉国神別)が載っている。
天神玉命は、ここでは葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖とし、「天神本紀」では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒ)が天降るときに随行した32人の防御人に名を連ねている。
そこでは三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖と書いている。
生魂命は天皇守護の八神殿で祀られた生産霊と同一とされるのだけど、ここでは猪使連(いつかいのむらじ)らの祖とする。
猪使氏は『日本書紀』では第3代安寧天皇の皇子の磯城津彦命(しきつひこ)を祖とするといっており、『新撰姓氏録』にも安寧天皇皇子の志紀都比古命の後として猪使宿禰が載っている。

このあたりの事実関係はよく分からないのだけど、神皇産霊尊、または神魂命の後裔を自認する一族がたくさんいたという事実はある。
問題は、『新撰姓氏録』の神魂命が『古事記』、『日本書紀』がいう造化三神の一柱と同一かどうかという点だ。
子はいないはずの高皇産霊尊にも大勢の後裔がいるという矛盾があるから、このへんは追求しても仕方ないのかもしれない。

『出雲国風土記』にも子らの名が出てくる

系譜についての補足として、『出雲国風土記』も見ておいた方がよさそうだ。
そこでは神魂命として登場するのだけど、直接的な活躍が描かれるわけではなく、神魂命の子たちの多くが地名の起源説話などで出てくる。
名前だけ挙げておくと、神魂命の子として支佐加比売命(ササカヒメ)、八尋鉾長依日子命(ヤヒロホコナガヨリヒコ)、宇武賀比売命(ウムカヒメ)、枳佐加比売命(キサカヒメ)、天津枳値可美高日子命(アマツキチカミタカヒコ)、綾門比女命(アヤトヒメ)、真玉着玉之邑日女(マタマツクタマノムラヒメ)、神魂命の孫として佐太大神(サタノオオカミ)が登場する。
記紀では馴染みのない面々ではあるけど、出雲地方ではこういった神魂命の子や孫が国作りに大きな功績があったと考えられていたことがうかがえる。
佐太大神は大国主神の命を救ったサキ貝比売(『出雲国風土記』では支佐加比売命)の子で、猿田彦大神(サルタヒコ)と同一ともされるので、出雲と伊勢の関わりなども考え合わせる必要がありそうだ。

八神殿の筆頭である意味

八神殿に祀られた神の話は高皇産霊尊の項に書いたので詳しくはそちらを読んでいただくとして、ここで考えたいのは、神産日神が筆頭の第一殿で祀られたということだ。『延喜式』神名帳でも、『古語拾遺』でもそうなっている。
第二殿の高御産日神を差し置いて第一殿で祀られたということはそれだけ重視されたということだ。順番に意味がないわけがない。
そうなった事情はよく分からないのだけど、ひとつ鍵を握っていそうなのがやはり大国主神の存在だ。
『古事記』は大国主神について多くを語り、大国主神と神産巣日神の深い関係についても書いた。
『日本書紀』は神皇産霊神を無視したわけではないだろうけど、あえて触れないようにした感がある。
にもかかわらず、天皇守護の第一に神産日神を祀り、しんがりの第八殿に大国主神の子で後継者ともいえる事代主神(コトシロヌシ)を祀っている。
八神の顔ぶれは、ある意味では大国主神を祀るにふさわしい面々といえなくもない。
うがった見方をするならば、大国主神ゆかりの神たちを祀ることで”大国主神の祟りから天皇を守護した”という見方もできる。
高皇産霊尊の項に書いたように、表の天皇は裏の大国主のお代理様だとするならば、これらの神々は裏天皇ともいえる大国主神を守護する役割を担っていたのかもしれない。

広がらなかった神皇産霊尊信仰

『延喜式』神名帳の出雲国を見ると、出雲郡と神門郡に神産日神(神魂)を思わせる社名の神社が集中している。
神魂御子神社、神魂伊能知奴志神社、神魂意保刀自神社、神魂伊豆乃売神社、神魂神社、神魂子角魂神社、神産魂命子午日命神社などは神魂または関係者を祀る神社だったと考えていいだろう。
出雲国の中でもこの2郡にだけあって他にないということは、この地域限定の親神といった存在だっただろうか。

現在、神産巣日命(神皇産霊尊)を祀るとしている神社はごく少なく、あっても高皇産霊尊とセットで祀られているところがほとんどだ。もしくは、造化三神の三神を祀っているか。
出雲地方でも神皇産霊尊信仰はそれほど盛んではなかったようで、出雲大社(web)で祭神の一柱として名を連ねているものの、それ以外では摂社の命主社(いのちのぬしのやしろ/web)があるくらいだ。
これは延喜式にある神魂伊能知奴志神社とされる。
その他、福島県本宮市の安達太良神社や福岡県北九州市の御祖神社(web)、山形県西置賜郡の八所神社、岡山県津山市のサムハラ神社などがあるものの、本拠地といえるようなところは見当たらない。
東京都千代田区の東京大神宮(web)や長野県松本市の四柱神社(web)などは新しい神社だ。
古さでいえば第13代成務天皇時代(131年)に創建(創祀)されたとされる名古屋市の高牟神社(今池)web)が一番古いくらいかもしれない。
中世に八幡とされたことで応神天皇も祀っているものの、もともとは高皇産霊神と神皇産霊神を祀っていたとされる。
この場所は尾張物部氏の本拠という説もあり、そうなると物部と高皇産霊神、神皇産霊神の関係性はどうだったのかも気になるところだ。

”神”一族

古代における日本、もう少し限定すると尾張には、アメノミナカヌシから発した”天”の一族と、タカミムスビから発した”神”の一族、それから第三勢力としてのカミムスビの一族がいたという話を聞いているのだけど、カミムスビの立ち位置についてはよく分からない。
ただ、天の一族と神の一族を結ぶ大事な役割を担っていたようで、それは現在に至るまで続いているのではないかと思う。
高皇産霊神の項でも書いたように、タカミムスビは高神ムスビで、高位の神一族だ。
カミムスビももう一つの神一族に当たる。
天や神という言葉(文字)が使われたのはもちろん偶然などではなく、天一族や神一族から来ている。その逆ではない。
天下り(天降り)などという言葉は今でも普通に使われているし、触らぬ神に祟りなしというけど、この神は神様のことばかりではなく神一族を指しているのかもしれない。神一族のことには触れるなと。
なんでもかんでも表沙汰にすればいいというわけではなく、裏のことは裏のままにしておいた方がいいこともある。裏事情など知らずに済めばそれに越したことはないともいえる。
知るということは危険なことでもあり、責任も伴うという自覚が必要だ。

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