『古語拾遺』が伝える大宮売神とは何者か?
『古事記』、『日本書紀』には出てこず、『古語拾遺』に登場する。 『古語拾遺』は平安時代初期の807年に斎部広成(いんべのひろなり)が著した歴史書で、おおむね『日本書紀』の内容に沿ったものとなっているのだけど、ところどこに忌部氏独自の伝承も入っていて見逃せない。 天照大神(アマテラス)の天之岩戸隠れ(『古語拾遺』では天石窟と表記)の場面では、忌部の祖とされる太玉命(フトダマ)の活躍が描かれ、祭祀にまつわる様々な役割も太玉の子たちが関わったといっている。 大宮売神(オオミヤノメ)もその中のひとりで、太玉と天児屋根命(天兒屋命/アメノコヤネ)などが協力してアマテラスを岩戸から出てきてもらうことに成功した後、大宮売を御前(アマテラスのこと)に仕えさせたとする。 この大宮売について、太玉命の”久志備所生神”という表現をしている。 ”クシビ”というのは霊妙な力といった意味とされ、太玉と女性の間に産まれた子というものではなく、もっと観念的なものを思わせる。あるいは、ある種の神聖さを表すためにそういう表現をしたのかもしれない。 アマテラスに側仕えした巫女(宮女)を神格化したという考え方もあるけど、それにしても元になった人物(達)はいただろうから、その人物を神格化して生まれた概念かもしれない。 続いて善言・美詞で君と臣との間を和らげて宸襟(天皇のこころ)を喜ばせていると書いているので、天皇の近くで世話をする巫女的な女性という意味合いが強いようだ。 ついでに書くと、アマテラスを祀る神殿の門を守る豊磐間戸命(トヨイワマトノミコト)・櫛磐間戸命(クシイワマトノミコト)も太玉の子といっている。
『古語拾遺』が伝えたかったこと
『古語拾遺』は天児屋根を祖とする中臣氏/藤原氏の勢いに押された忌部氏(斎部氏)の斎部広成が、忌部の地位向上のために嘘を書いた歴史書という見方をする人がいるようだけど、それは明らかに間違っている。 奈良時代に完成した律令制が時代に合わなくなって崩れつつあった平安時代初期、あらたに式(律令格式の施行細則)を制定するに当たって嵯峨天皇の命で書いたというのが実際のところだったと思われる。 720年の『日本書紀』完成から100年近く経ち、『日本書紀』以前の古い歴史が忘れ去れようとしていることに危機感を抱いた斎部広成が一族に伝わる歴史を書き残しておかなければならないという使命感で書かれたものだろう。 このとき、斎部広成は80歳を超えている。当時の80代は今の100歳代くらいの感覚だろうか。斎部広成については史料がほとんどなくどういう人物だったかは不明ながら、このときの忌部一族の最長老といった人物だったと想像できる。決してもうろくしたおじいちゃんの世迷い言などではない。 こういった氏文(うじぶみ)の中にも必ず真実があって、それらは後世の我々に向けたものだ。小さな声を聞き逃してはいけない。
忌部一族が果たした役割
斎部広成が書いた太玉の子供たちが天之岩戸開きのときに活躍したというのはまんざらでたらめでも大げさではないことは、大嘗祭や天皇即位の儀式のとき、忌部の一族が深く関わっていたことからも分かる。 特に、大殿祭(おおとのほがい)と、御門祭(みかどまつり)における忌部氏の役割は大きかった。 大殿祭は、大嘗祭や新嘗祭、神今食 (じんこんじき)などの際に、宮中に災いが起きないように行われた儀式で、御門祭は皇居の門から邪なものが入ってくるのを防ぐための祭祀で毎年6月と12月に行われた。 『延喜式』収録の大殿祭祝詞にもそのことが書かれている。 それから、大宮売が宮中の八神殿で祀られていたことは重大な事実としてある。 『古語拾遺』の斎部広成は、この八神は神武天皇の時代に天照大神と高皇産霊神(タカミムスビ)の詔によって神籬(ひもろぎ)が建てられ、そこで高皇産霊・神皇産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神の八神と、櫛石磐門神(クシイワマト)・豊磐間戸神(トヨイワマト)、生嶋(イクシマ)、坐摩(イカスリ)を祀ったとしている。 八神について、今”御巫(みかんなぎ)が齋い祀る神”と書いている通り、平安時代は神祇官の八神殿で御巫と呼ばれる少女達によって祀られていた。 この八神は天皇を守護する神とされ、『延喜式』神名帳(927年)の筆頭に記されている。 どうしてこの八神が選ばれたかについてははっきりしていない。不思議な構成で、どうして入っているか分からない神がいる一方、もっと重要と思われる神が抜けている。 この中に大宮売が入っていることの意味は小さくなく、天皇のそば近くに仕える神という認識だったのは間違いない。それをどうして『日本書紀』は書かなかったのかという謎もある。 八神殿はその後紆余曲折を経て、現在は現在は宮中三殿のひとつ賢所(かしこどころ)で祀られている。
大宮売の属性もしくは性質
忌部氏が伝えたとされる『延喜式』収録の大殿祭の祝詞を見てみると以下のようになっている。
詞別きて白さく 大宮売命と御名を申す事は 皇御孫命の同殿の裏に塞り坐して 参入り罷出る人の選び知し 神等のいすろこひあれび坐すを 言直し和し坐して 皇御孫命の朝の御膳・夕の御膳に供へ奉る 比礼懸くる伴緒・襁懸くる伴緒を 手の躓・足の躓為さしめずて 親王・諸王・諸臣・百官の人等を 己が乖き乖き在らしめず 邪しき意・穢き心無く 宮進めに進め 宮勤めに勤めしめて 咎過在るをば見直し聞き直し坐して 平らけく安らけく仕へ奉らしめ坐すに依りて 大宮売命と御名を称辞竟へ奉らくと白す
いろいろ役割が多くて大変だ。天皇と同じ殿にいて、出入りする人を選び、荒ぶる神達を言葉で鎮め、天皇の側仕えする人たちの教育指導をし、親王や宮仕えの人たちの心を正してきちんと仕えさせるという、いわば天皇の筆頭秘書のようなものだ。ただの宮中の女官という感じではない。 それはもう、宮中の八神殿で祀られるのも当然といえる。 しかし、大宮売を祀る神社はそれほど多くない。
大宮売を祀る神社
『延喜式』神名帳の中で唯一、大宮売の名の付く神社が京都の丹後にある。社名はそのまま大宮売神社という。 神名帳では名神大社となっており、丹後国の二宮ともされる。 一説では神祇官で祀られるよりも前から丹波で祀られていて、ここから神祇官に移されたともされる。 祭神は大宮売神と若宮売神の2柱で、神名帳にも二座とあるので、古くから2柱一緒に祀られていたようだ。 境内からは弥生時代から古墳時代にかけての祭祀跡や多数の遺物が見つかっており、古くからこの地で何らかの祭祀が行われたのは間違いない。それがどういう経緯で大宮売を祀る神社となったかは定かではない。 社伝で崇神天皇時代に勅命によって大宮売神を祀ったのが始まりとしており、同じく崇神天皇時代に丹波道主命が若宮売神を祀ったとする。 丹後国の一宮といえば、よく知られているように元伊勢の籠神社(このじんじゃ/web)だ。古くから現在に至るまで社家を務めるのは尾張氏一族とされる海部氏だから、そのあたりと大宮売は何らかのつながりがあることが考えられる。
宮中で祀られるくらいの重要な神だから他でもたくさん祀られていてよさそうなのに、その数は少ない。というか、主祭神として祀っている神社は全国でもほとんどないのではないかと思う。 大宮売の名前が出てくるのは稲荷社が多い。境内社の稲荷社などで大宮売を祀るとしているところがある。 これは稲荷の総本社の京都の伏見稲荷大社(web)の祭神の一柱として祀られているところから来ている。 伏見稲荷が主祭神として祀る稲荷大神は、宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)を中心に、佐田彦大神(サタヒコ)、大宮能売大神(オオミヤノメ)、田中大神(タナカ)、四大神の5柱の総称とされる。 どういう経緯や理由で大宮能売(大宮売)が稲荷社で祀られるようになったのかはよく分からない。稲荷社自体が複雑な歴史を持っているので、簡単には推測できない部分が多い。 佐田彦大神を猿田彦大神(サルタヒコ)のことだと考える人はその姫神の天鈿女命(アメノウズメ)を想定する。 ただ、祝詞で読まれる有能な秘書のような大宮売と、芸能の女神でハダカ踊りも辞さない天鈿女とではイメージが合致しないというのはある。 あるいは、穀物神としてのウカノミタマを神宮外宮(web)の祭神である豊受大神(トヨウケヒメ)と同一とするなら、大宮売はトヨウケに仕える女官または巫女を神格化したものとも考えられる。 以上のようなことから、全国の一部の稲荷社で大宮売を祭神としている。 平安京の官営市場の守護神とされたことから旅館や百貨店などでも大宮売を祭神として祀ることがあったようだ。
名古屋では守山区の生玉稲荷神社、斎穂社、熱田区の櫻田神社で祀られている。 いずれも稲荷社の関係ではあるけど、いずれもそれほど古くから祀られていた神ではない。
どうして”ヒメ”ではなく”メ”なのか?
ところで私はずっと、大宮売を”オオミヤヒメ”と思い込んでいて、”オオミヤノメ”だと気づいたのはだいぶ後になってからだった。 どうして”ヒメ”ではなく”メ”なのだろうという素朴な疑問を抱く。 売を何故”メ”と読むのかもよく分からないのだけど、売と比売の違いも分からない。 比売は毘売と書いたり、媛と書いたり、女を”ヒメ”と読ませたり、日女と書いたりもする。 売は近代でいうところの女性の名前の”子”のようなもので、一般的に女性のことを指すとされる。 神話に登場する女神でいうと、豊宇気毘売神(トヨウケヒメ/『古事記』)や須勢理毘売命(スセリヒメ)、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)、玉依姫命(タマヨリヒメ)は”ヒメ”で、天宇受賣命(アメノウズメ)、罔象女神(ミツハノメ)などが”メ”だ。 ”ヒメ”の方が位が高くて”メ”は一段下がるような気もするけど、そう決めつけていいとも思えない。 宗像三女神の多紀理毘売命(タギリヒメ)、市寸島比売命(イチキシマヒメ)、多岐都比売命(タギツヒメ)はいずれも”ヒメ”となっている。 毘売と日女と姫(媛)の読み方が同じだから意味も同じとは限らない。
売は神社名の頭につくこともある。 たとえば『延喜式』神名帳の中に売沼神社や売太神社といった社名が見える。 いずれも”めぬま”、”めた”と”メ”と読ませる。 売沼神社の祭神は八上比売神で女性だし、売太神社の祭神の稗田阿礼(ひえだのあれ)は一般的に男性とされているけど個人的には女性ではないかと考える。稗田阿礼は猿女君の後裔とされ、猿女君の祖は天宇受賣命だから、やはり女性色が強い神社ということができそうだ。
『古事記』、『日本書紀』が書かなかったのは何故か
話を戻すと、大宮売を本当にオオミヤノメと呼ぶのであれば、大宮の売、つまり大きい宮の女という意味の通称のようなものとも取れる。 もしくは伏見稲荷の祭神名が示すように本来は大宮能売と表記するのであれば、単に大宮の女というだけではなく能にも何か意味があるのかもしれない。大きい宮の能のある女とする方が女ボス感がよく出ている。 この大宮売をどうして『古事記』、『日本書紀』は登場させなかったのかという謎は最後まで残った。あえて書かなかったのか、書けなかったのか、書くまでもない存在だと思ったのか。 その正体はもしかするとあっと驚く人物かもしれない。
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