辻の守り神というけれど
道俣神(チマタ)という神がいる。 あまり馴染みがない神だ。 神社の祭神としてたまに祀られている。その際は、八衢彦神・八衢媛神(ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ)と、男女一対の神として祀られることが多い。
衢(ちまた)は一般的に四つ辻や分かれ道、あるいは道そのものを意味する言葉とされる。 なので八衢は八つ、もしくは多数に別れる道を司る神と解釈される。 しかし、本当にそうだろうか? 辻というのは分かれ道でもあり道が集まってきている場所ということで重要なのは間違いないし、そこの守り神がいてもおかしくはない。ただ、もう少し具体的に元になる人物なり一族なりがいたのではないかと個人的には思っている。空想が生み出した神を人々が信仰対象とはしないだろう。 記紀はいずれもイザナギから成ったとしている。
まずは『古事記』、『日本書紀』がどう書いているかを見て、その後他の書を当たりつつ、神社伝承などについても検討していくことにしたい。
『古事記』は褌から道俣神が成ったといっている
『古事記』は伊邪那岐命(イザナギ)が黄泉国から戻った後に単独で天照大御神(アマテラス)や月読命(ツキヨミ)、建速須佐之男命(スサノオ)が生まれたという立場を取っているのだけど、その前に禊(みそぎ)を行ったときにも多くの神が生まれたといっている。 伊邪那美命(イザナミ)は火之夜芸速男神(火之炫毘古神または火之迦具土神/カグツチ)を生んだときに女陰を焼かれて病になって(美蕃登炙病臥)亡くなり、黄泉国まで追いかけていった伊邪那岐命だったけど伊邪那美命と喧嘩別れに終わり、地上まで戻ってきた。 そして伊邪那岐命はこんなことを言った。 自分は穢国へ行ってしまった。この身を禊しようと。 竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓えをしたという。 そのとき身につけていた衣類を次々と投げ捨て、それぞれから12柱の神が成った。 御杖から衝立船戸神(ツキタツフナト)、御帯から道之長乳歯神(ミチノナガチハ)、御嚢から時量師神(トキハカシ)、御衣から和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシ)、御褌から道俣神(チマタ)、御冠から飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシ)、左手の手纏から奥疎神(オキザカル)、次に奥津那芸左毘古神(オキツナギサビコ)、次に奥津甲斐弁羅神(オキツカヒベラ)、右手の手纏から辺疎神(ヘザカル)、次に辺津那芸左毘古神(ヘツナギサビコ)、次に辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラ)が成ったという。 これらの神は身につけていたものを脱ぐことで生まれた神だといっている。 ここでは御褌(みはかま)から道俣神が成ったとする。
『日本書紀』の開囓神は道俣神と同一か?
『日本書紀』は神生みについて第五段で書いていて、本文の他に一書が第十一まである。 本文は伊弉諾尊と伊弉冉尊がともに海川山や木草を生み、三貴神まで生んだということになっていて、そこに『古事記』との大きな違いがある。 伊弉冉尊が火神を生んで黄泉国へ云々といった話はなく、伊弉諾尊が禊をしたどうこうというのも続く一書の中で書かれているだけだ。 一書第六はこの段の総まとめ的な内容で、伊弉諾尊と伊弉冉尊がともに大八洲国を生んだ後、たくさんの神を生み、伊弉冉尊が火神の軻遇突智を生んで死んでしまったので伊弉諾尊は怒って軻遇突智を斬り、伊弉冉尊を追いかけて黄泉国まで行って戻ってきた後、筑紫の日向の小戸橘の檍原で穢を祓い、そのときも多くの神が生まれたという話で、流れとしては『古事記』と共通するのだけど、生まれた神の順番が違っている。 『古事記』は身につけていた衣から12柱の神が成り、その後、八十禍津日神(ヤソマガツヒ)、大禍津日神(オオマガツヒ)や神直毘神(カムナオビ)、大直毘神(オオナオビ)、伊豆能売神(イヅノメ)が成り、更に底津綿津身神(ソコツワタツミ)と底筒之男命(ソコツツノオ)、中津綿津身神(ナカツワタツミ)と中筒之男命(ナカツツノオ)、上津綿津身神(ウワツワタツミ)と上筒之男命(ウワツツノオ)が成ったとするのに対し、ここでは八十枉津日神(ヤソマガツヒ)、神直日神(カムナオシヒ)、大直日神(オオナオシヒ)、底津少童命(ソコツワタツミ)、底筒男命(ソコツツノオ)、表中津少童命(ウワナカツワタツミ)、中筒男命 (ナカツツオ)、表津少童命(ウワツワタツミ)、表筒男命(ウワツツオ)が生まれたとしている。 続いて左眼を洗ったときに天照大神が、右眼を洗ったときに月讀尊が、鼻を洗ったときに素戔鳴尊が生まれたと書く。 つまり、この伝承では三貴神は伊弉諾尊が単独で生んだことになっているということだ。 あれ? と思うのは、『古事記』が書くところの禊ぎをしたとき衣服から神が生まれたという話がないことだ。 おかしいなと思って読み返すと、一書第六の前半部分で似た話が書かれている。
それは黄泉国での出来事で、変わり果てた伊弉冉尊の姿を見て逃げ出した伊弉諾尊だったが、追いかけてきた伊弉冉尊に泉津平坂(よもつひらさか)で追い詰められる。 そこで伊弉諾尊は千人所引磐石で道を塞ぎ、絶縁宣言をする(建絶妻之誓)。 対する伊弉冉尊は、ならば汝の国の民を日に千人殺すと脅した。 売り言葉に買い言葉で、それじゃあ吾は日に千五百を産むと返す伊弉諾尊。 そして、伊弉諾尊は杖を投げてここを越えることはできないと言った。地面に線を引いてここからはオレの陣地な、と勝手に決める子供みたいだけど、そこで岐神(クナト)が生まれたといっているので、ある種の結界ということができそうだ。 その後、伊弉諾尊は身につけていた衣類を次々と投げて、それぞれから神が生まれている。 なんでここで急に脱ぎだしたのかは分からないし、そんなことをしてしまったら素っ裸で地上に戻ることになるけど大丈夫かと思う。 『古事記』では12柱の神が生まれたとしているのに対して、ここでは簡略化されて、帶から長道磐神(ナガチハ)、衣から煩神(ワズライ)、褌から開囓神(アキクイ)、履から道敷神(ミチシキ)が成ったとする。 『古事記』は道俣神は褌(はかま)から成ったといっているので、それに対応する神は開囓神ということになるのだけど、”チマタ”と”アキクイ”ではずいぶん違っているので同一とできるかどうかはなんともいえない。 磐石で塞いだ場所については、泉門塞之大神(ヨミドノサエ)またの名を 道返大神(チガエシ)とも書いていて、ここも人格神が当てられている。 全体が何らかの事実を象徴的に書いているに違いないのだけど、これを読み解くのはなかなか難しい。
吐いた唾から神が生まれる
他の書についても見ておくことにする。 まず『古語拾遺』(807年)はこのあたりを簡略的にしか書いておらず、伊弉諾尊の黄泉国訪問や禊ぎなどについては触れていないので、道俣神なども登場しない。 『先代旧事本紀』は『古事記』と『日本書紀』の両方を立てることを基本姿勢としていて、ここでもそれは発揮されている。 ただ、少し違っている部分もあって興味深い。 泉津平坂で伊奘諾尊と伊弉冉尊が対峙する場面なのだけど、事の順序が違っていたり、少し変えたりしている部分がある。 杖を投げて追いかけてきた雷軍に向かってここからこちらには来るなとして、その後に千人所盤で路を塞ぎ、絶妻宣言をしたといっている。 対する伊弉冉尊は、あなたには負けないと言って唾を吐き、そのとき日速玉之男神(ヒハヤタマノオ)が生まれ、掃いたときに生まれた神を泉津事解之男神(ヨモツコトサカノオ)と名づけたと書いている。 『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊が入れ替わっている。 第五段一書第十では、別離宣言をしたのは伊弉冉尊の方で、それに対して伊弉諾尊が負けないと言って唾を吐いて速玉之男(ハヤタマノオ)が生まれ、掃いたときに泉津事解之男が生まれたことになっている。 速玉之男や事解之男は熊野社で祀られる神なのだけど、もともとは尾張氏の重要な地位の人物だということは 速玉之男・事解之男の項に書いた。 『先代旧事本紀』はそのあたりも考慮して取り込んだのかもしれないけど、話の流れで伊弉冉尊から生まれたとしたのか、逆に『日本書紀』の方が伝承を変えたという可能性もある。『先代旧事本紀』があえてここを変える必然性はないように思う。
話を戻すと、汝の民を日に千人殺すという伊弉冉尊に対し、それじゃあ日に千五百人生むという伊弉諾尊はここから先は来てはいけないと杖を投げ、そこから岐神が生まれ、それを来名戸神(クナト)と名づけた。 更に帯を投げて長道磐神(ナガチイワ)が生まれ、履を投げて道敷神(ミチシキ)が生まれた。この神を煩神(ワズライ)または開歯神(アキクイ)というとも書いている。 『日本書紀』一書第六は、衣から煩神、褌から開囓神、履から道敷神といっているので、ここでも違いを出してきている。 道俣神は登場せず、『日本書紀』一書第六がいう褌から成った開囓神は、履から生まれた道敷神の別名とする。 更にこれで終わらないのが『先代旧事本紀』だ。『古事記』と『日本書紀』を合わせているので、伊弉諾尊が黄泉国から戻って禊ぎをして身につけていた衣類から12柱の神が生まれたという話も書いている。 そうなると、伊弉諾尊は杖を二本に、帯と履き物を二対ずつ身につけていたことになってしまうのだけど、そのへんの矛盾は目をつぶるしかない。 杖から衝立船戸神、帯から道長乳歯神、裳から時置師神、衣から和内良比能宇斯能神、袴から道股神、御冠から飽咋の宇斯能神、左手の腕輪から奥疎神の奥津那芸佐彦神、次に奥甲斐弁羅神、右手の腕輪から辺疎神の辺津那芸佐彦神、次に辺津甲斐弁羅神が生まれたとする。 これは『古事記』をほぼ写している(一部字の違いがある)。 この後、川に入ったり海に入ったりして禍津日神や直日神、少童命や筒男命などが生まれたというあたりも『古事記』と『日本書紀』の両方を取り込んだ形で書かれている。
投げた衣類から神が成るとは?
ここまで見てきて、結局、道俣神って何なの? と考えると全然分からないことに気づく。 とりあえず『古事記』で考えると、伊邪那岐命が黄泉国から戻って穢れを祓うための禊を行ったとき、投げ捨てた褌(ふんどし)から成ったということだ。 ポイントは二つあって、一つは”褌”が何を象徴しているのかで、もう一つは”投げる”という行為にどんな意味があるかだ。 『日本書紀』は”投”という表現なのだけど、『古事記』は”投棄”と、より強い表現になっている。 着ていたものをただ脱ぐのと投げるのとでは違うし、投げると投げ棄てるではまた違ってくる。 『日本書紀』は黄泉国での出来事として書いているので、伊弉諾尊が伊弉冉尊に向かって投げるというニュアンスで、『古事記』は戻ってきてから禊ぎのときに行っている行為なので投げて棄てたという感じだ。 ”棄”という言葉についていえば、天照大神と素戔嗚尊の誓約のところでも出てくる。 天照大神が素戔鳴尊の十握劒を三段に折って天眞名井で濯(すす)ぎ、それを咀嚼して吹きだした息が狭霧になって三女神が生まれたとしている部分だ。 原文は「天照大神 乃索取素戔鳴尊十握劒 打折爲三段 濯於天眞名井 噛然咀嚼(噛然咀嚼、此云佐我彌爾加武) 而吹棄氣噴之狹霧(吹棄氣噴之狹霧、此云浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理)所生神 號曰田心姫 次湍津姫 次市杵嶋姫凡三女矣」で、「吹棄氣噴之狹霧」について「此云浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理」という脚注を入れている。 浮枳于都伊浮岐能佐擬理(ふきうつるいふきのさぎり)と読みますということだ。 つまり、”棄”は”うつる”と読むことが分かる。 なので、『古事記』がいう”投棄”は”なげうつる”と読むのかもしれないし、”棄”も捨てるという意味ではないのかもしれない。 いずれにしても投げるという行為の意味はよく分からない。
それにしても、伊邪那岐命って、結構乱暴な人間だなと思う。横暴ともいえる。 記紀がそう描いているというだけなのだけど、不具の子の蛭子(ヒルコ)が生まれたときは、伊邪那美命が先の声をかけたのがいけなかったと相手のせいにするし、火神を生んだことで伊邪那美命が亡くなってしまうと、おまえのせいだと迦具土を三段斬りにしてしまった。 黄泉国では姿を見ないで欲しいという伊邪那美命の言いつけを守らず、逃げに逃げて最後は一方的に別離宣言をしている。 禊ぎでは身につけていた衣類を乱暴に投げ捨てたというのも、らしいといえばらしい。 須佐之男命を叱る以前に自分の振る舞いを顧みた方がいいんじゃないかと言いたくなるくらいだ。 それはともかくとして、禊ぎでの神生みは、伊邪那美命不在なので、伊邪那岐命の血筋、もしくは系統ということになるのだろう。 あるいはここに、隠された第二妻の存在があるのかもしれない。 だとすると、衣類から生まれた神は第二妻との間の子ということになる。必ずしも血筋ということではなく、養子縁組という可能性もある。 このあたりは後の天照大神と須佐之男命の誓約による養子縁組とも関わってきそうだ。
系譜や後裔は不明
『新撰姓氏録』(815年)に何か手がかりがないかと探すも、道俣神やそれに類する後裔は見当たらない。 やはり個人から発したものではないのだろうか。 しかし、住吉三神と称される筒之男や、伊弉諾尊が吐いた唾から生まれた速玉之男神や泉津事解之男神などは信仰対象となっているし、それらの後裔を自認する氏族もいることを考えると、衣類から成ったとされる神の元になった人物や一族がいてもおかしくはない。 ここで尾張氏家の系図を見てみると、やはり道俣神はいないようだ。 速玉男や禍津日などは載っているけど、記紀がいうのとは全然系譜が違っている。 岐神(クナト)についてはまったく別系統として載っており、猿田彦と同一のような書き方をしている。 なんとなくだけど、そちらの方に関係があるような気がしないでもない。 そのあたりについてもう少し考えてみることにしよう。
道俣は猿田彦?
道俣神は神社の祭神としては八衢彦神と八衢媛神という男女一対の形で祀られることが多いということは最初に書いた。 ”やちまた”というと猿田彦が思い浮かぶ。 天孫降臨をする瓊瓊杵尊(ニニギ)を”天之八衢”(あまのやちまた)で待ち構えていたのが猿田彦だ。 当て字が多い『古事記』において”八衢”という言葉をそのまま使っている点は注目しないといけない。 『日本書紀』は”天八達之衢”という表現になっている。 八衢は多くの分かれ道と解釈するのが一般的なのだけど、”八”という数字に意味がある。八が国作りにおいても基本姿勢になっているということはいつも書いている。 天之八衢なので、天、つまり高天原にあるということだ。分かれ道は逆から見れば道の集約点でもあり、人が集まってくる場所でもある。 現在でも使う”チマタのウサワ”の”巷”もこれが語源で、人の集まり、世間という意味で使われるようになった言葉だ。 もともとは道(ち)の股(また)から来ているとされる。 股といえば伊弉冉尊の褲(はかま)から道俣が生まれていたといっているのも、なんとなく掛かっている。 辻の神として道俣が祀られ、やがて村や道の守り神とされ、中世になって道祖神と習合したのも必然だった。 道祖神には男女一対の形もあり、猿田彦と天鈿女(アメノウズメ)と同一視されたりもした。 猿田彦は天津か国津かといえば国津の神だ。しかし、”天の八衢”で出迎えたということは、高天原に入ることができたということになる。 猿田彦というのはもちろん一人の個人名ではない。高天原の内と外の境界線を守っていたのが猿田彦の一族だったのかもしれない。 道は八方向にあるから、”八衢”になるというわけだ。 だとすれば、道俣の神は猿田彦一族の別称といういい方ができる。あるいは、その一族が祀っていた神のことかもしれない。 では、何故、猿田彦の一族は伊弉諾尊が身につけていた袴を投げて成ったという話になったのかということが問題となる。 上で伊弉諾尊の第二妻の存在についてちらっと書いた。 伊弉諾尊が衣類を脱ぎ捨てたというのは伊弉冉尊との関係を断ったことを象徴的に表しているとも考えられる。 ということは、道俣こと猿田彦は伊弉諾尊と第二妻との間の子かというと、そういうことでもなさそうだ。 尾張氏家の系図では第二妻は八事酒解姫となっており、これは後の”八坂”のことだ。坂は道のことなので、八衢ともつながる。 この系図で猿田彦はというと、伊弉諾・伊弉冉や八事酒解の系譜とは別の独立したところにあって、天火明と鈴鹿姫との間を取り持ったとある。 鈴鹿姫というのは天道姫(天道日女)のことであり、天照大神のひとりであり、瀬織津姫(伊勢織津姫)のことでもあるのだけど、瓊瓊杵尊というのは結局のところ天火明のことなので、猿田彦の一族は代々天孫の世話をする一族だったということなのだろう。
道俣神に関連する岐神(クナト)もそうだろう。久那戸、久那斗などとも表記するけど、後の船戸一族もこの流れにある。 同時に八岐大蛇でもあり、尾張でいえば尾張氏系の山田一族がそれに当たるのではないかと思う。 クナト神を出雲の神と考えている人もいるようだけど、これもいつも書くように出雲は雲から出た一族のことで、伝承の元は高天原の尾張にある。 雲とは何かを知らなければ出雲についても理解できない。雲は天にもあり、地にもある。天地の中心が雲であり、八方向に道を延ばした先の端が八雲で、八雲から出ると出雲になる。 これらの道を司っていたのが道俣神であり、岐神であり、猿田彦の一族だったのではないだろうか。 道の守り神である道祖神を猿田彦に当てたのは分かっていた人がそうしたのか、記紀からの連想なのかは分からないけど、実は合っていたということか。 岐神について更にいえば、九州沖合の壱岐島(いきのしま)は”一木”の岐一族が開発したところかもしれないし、現在の岐阜県は織田信長が改名したという話が本当であれば、信長は岐神を意識していた可能性がある。 岐阜以前の井ノ口は”一の口”(一木の出入り口)から来ていそうだ。
都の辻の守り神と神社の祭神
辻や村の入り口などに守り神を祀ったというのはかなり古くから始まったと考えられる。縄文時代からだったとしても不思議はない。 それを道俣神と認識していたのかどうかは分からない。 ただ、少なくとも平安時代中期までには制度化されていたことは確かだ。 927年完成の『延喜式』の中で道饗祭(みちあえのまつり/ちあえのまつり)についての記述があり、この中で 八衢比古、八衢比売、久那斗神が出てくる。 毎年6月と12月に京の都城の四隅にこの三神を祭って外から入ってこようとする魑魅魍魎や妖怪変化のたぐいを退けるというものだ。 このときは卜部(うらべ)が解除(はらえ)を担当することが決まっていた。 同じような祭りが地方でも行われていたという。
八衢比古と八衢比売という男女一対の道俣神の概念がいつ頃生まれたのかについても推測することが難しいのだけど、『延喜式』神名帳に載る官社のいくつかが八衢比古・八衢比売を祭神としていることからも、少なくとも平安時代以前に遡るということはいえそうだ。 奈良県宇陀郡の御杖神社(みつえじんじゃ)、三重県伊勢市の今社(いまのやしろ/伊勢國度會郡 清野井庭神社)、宮城県石巻市の二俣神社(ふたまたじんじゃ)、滋賀県高島市の森神社(近江國高嶋郡 大寸神社)などがそうで、八衢比古神・八衢比売神と久那戸神の三柱をセットで祀っているところが多い。 これらの神社が最初から八衢比古神・八衢比売神を祀っていたと断定することはできないにしても、里の守り神として道俣神もしくはそれに類する神を祀っていたはずだ。 中世に道祖神と猿田彦が習合したというのは間違いで、早くからそれは猿田彦と考えられていたのかもしれない。
天の道
國學院大學の「古典文化学」事業(web)のページに面白いことが書かれている。 「「天之八衢」を天体に比定する立場もある。「すばる(プレアデス星団)」の星がいくつも集まった状態を見、それを天地を結ぶ通り道が集まっているところと観念し、「天之八衢」と呼んだのではないかとし、「すばる」として解釈する説がある。」 そんな馬鹿なと笑い飛ばすかもしれないけど、國學院大學は神社の神職になるための専門学科があるくらいの大学なのでいい加減なことは書かない。 ついでに書くと、神職になるための専門学科があるのは國學院大學(web)と三重県伊勢市の皇學館大学(web)の二校しかない。 専門の養成所が各地に7ヶ所あるものの、神職になるのは意外に狭き門だ(実家が神社で後を継がないといけないなどの特例はある)。 全国の神社を統括する神社本庁(web/勘違いしている人もいるけど官公庁ではなくただの民間の宗教法人でしかない)も含めて狭いムラ社会で、人間関係に疲れてやめていく神職も多い。 話を戻そう。 そう、”すばる”だ。 谷村新司の『昴』で有名になった感があるけど、プレアデス星団といった方が馴染みがあるだろうか。 プレアデスにどこか懐かしいような響きを感じるとしたら、それは魂の故郷かもしれない。いや、真面目な話。 北極星や北斗七星に親しみを感じる人もいるだろうし、オリオン座にぐっと来る人もいるはずだ。 すばる(昴)について日本人は古くから知っていたし意識していた。平安時代中期の930年後に編纂された『和名類聚抄』にも「須波流」は載っており、もう少し後の990年頃に書かれた清少納言の『枕草子』にも「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし」という一文がある。 高天原は天にも地にあると書いたけど、天の高天原を写したのが地の高天原だから、天にも地にも八衢があるということになる。八衢が天の高天原由来というのであればその通りだろう。 結局のところ、私たちは他の惑星から地球にやってきた人たちの後裔だ。遙か遠い祖先が母性から神話や伝承を持ってきたに違いなく、それは『古事記』や『日本書紀』にも反映されている。 それを認めなければ歴史の本質に手が届くことはない。
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