五輪は”こりん”? ”いつわ”?
読み方 | ごりん(?)-だいみょうじん(かのりちょう) |
所在地 | 瀬戸市鹿乗町1507 地図 |
創建年 | 不明(昭和54年?) |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明 |
アクセス | せとコミュニティバス「鹿乗町公民館前」より徒歩約25分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 瀬戸市鹿乗町の五輪大明神を訪ねる |
五輪って何だ?
岩割瀬神社(地図)の270メートルほど北東に「五輪大明神」という小さな社がある。
マピオンは岩割瀬神社を載せていないのに五輪大明神は載せている。
立派な社号標はあるものの、鳥居はない。
そして、情報もない。
鹿乗町(かのりちょう)は江戸時代の下水野村の支村の岩割瀬(いわりぜ)に当たり、岩割瀬神社はかつて天王と呼ばれていたので、牛頭天王を祀っていただろうと思う。
五輪大明神がいつ創建されたかについては何も分からない。江戸時代の地誌にそれに相当するような社はなく、ネットでも情報は拾えなかった。
そもそも”五輪”を何と読むのかも分からない。
”ごりん”ならオリンピックだし、”いつわ”なら五輪真弓しか浮かばない(若い世代は知らないだろう)。
仏教において万物を構成するとされる「地・水・火・風・空」のことを五輪(ごりん)というそうだ。
五輪塔は何度も見ているけど、そういうことだと意識したことはなかった。
だとすれば、神仏習合時代に五輪信仰のようなものがあって、それが神社に発展した可能性もあるのか。
明神と名神と権現
いや待て、なんだ、その五輪かと思うのはちょっと早合点というものだ。
ここは五輪”大明神”といっている。
だとすれば、純粋な仏教思想ではなく何らかの神を想定しているのではないかということになる。
あらためて明神とは何かについておさらいしておく。
明神(みょうじん)より以前に名神という呼び名があって紛らわしいのだけど、名神も(みょうじん)で、『延喜式』神名帳(927年)に”名神大”の表記があることから、名神の方が先だったと考えられる。
”名神大”は名神祭の対象となる神を祀る神社のことで、正式には名神大社(みょうじんたいしゃ)といった。
名神大社は各地の一宮から三宮クラスの上位神社やそれに準じるような神社に限られていて、名古屋では熱田神社、日割御子神社、孫若御子神社、高座結御子神社がそれに当たる。
明神がいつ頃から使われるようになったかははっきりしない。
文献上の初出は天平3年(731年)の奥書を持つ『住吉大社神代記』で、そこには底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱を”住吉大明神”としている。
実際はもっと古くから使われていただろうけど、当時の人たちが名神と明神を厳密に区別していたかどうかは分からない。
中世になると明神はよく使われるようになり、伊勢大明神、春日大明神、稲荷大明神などという呼び名も一般化した。
簡単に言うと、神仏習合時代において、仏教側から見た神の呼び名ということだ。
神仏習合時代の神様の呼び方はもうひとつ、”権現”(ごんげん)がある。
難しい言葉で言えば、本地垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう)による神号ということになるのだけど、平たく言うと、神様というのは仏が仮の姿で現れたものでしかないという仏教思想的な呼び方だ。
権現の権(ごん)は”仮”という意味があり、仮に現れたから権現というわけだ。
秋葉権現、白山権現、熊野権現など、権現と呼ばれた神は多い。
春日などは春日明神だったり、春日権現だったりした。
権現という場合は、人を救うという目的を持っているとされたため、明神よりも権現の方が好まれた面はあったようだ。
生前に活躍した人物を権現と呼ぶ例もあり、たとえば平将門などは将門権現と言われたりもした(将門を祀る神田神社は神田明神と呼ばれているけど)。
豊臣秀吉は死後に朝廷から”豊国大明神”の神号が贈られ、徳川家康が没したときに権現にするか明神にするかでモメて、最終的には”東照大権現”に落ち着いた。
というわけなので、五輪大明神は、五輪の大明神となり、何らかの神の仏教的呼び方ということになる。
ただの明神ではなく大明神といっているから、そのへんの一般人ではないのかもしれない。
五社大明神との関係は?
五輪大明神のことを初めて知ったとき、どこかで似たような名前の神社があったなと思った。
しばらく考えて思い出した。
そうだ、春日井に五社大明神というのがあったはずだと。
五輪大明神から見ると、庄内川を挟んで960メートルほど西北の高座山の麓に五社大明神(地図)が祀られている。
高座山の南には東谷山があり、東谷山の神は最初、高座山に鎮まり、その後、東谷山に移ったという伝承がある。
東谷山山頂の尾張戸神社の祭神は天火明命(ホアカリ)、天香語山命(カゴヤマ)、建稲種命(タケイナダネ)で、顔ぶれから見て尾張氏の神社ということがはっきりしている。
ここは建稲種の妹で日本武尊(ヤマトタケル)の尾張の妃となった宮簀媛(ミヤズヒメ)が祀ったのが始まりという言い伝えもある。
春日井側の高座山の五社大明神はというと、大碓尊(オオウス)、素盞嗚尊(スサノオ)、菊理比売姫(キクリヒメ)、日本武尊(ヤマトタケル)、天目一命(アメノマヒトツ)を祀るとしている。
微妙なメンバーで違和感がある。
最初からこの五柱で祀ったとは考えにくく、途中で入れ替わったか増えたかしたのだろう。
高座山の五社大明神は、熱田の高蔵宮(高座結御子神社)の奥宮という言われ方もしている。
高座結御子神社の祭神は高倉下命(タカクラジ)とされており、これもなかなか意味深だ。
以上を踏まえると、東谷山側にある五輪大明神と、高座山側にある五社大明神には何らかの関係があるのではないかと思えてくる。
対の関係なのか、別の関係性なのか、あるいは全然無関係なのか。
現地で得られる手掛かりは少ない
神社があるのは、玉野川(庄内川)沿いの道から少し山の方に入ったところだ。川沿いでも、道沿いでもない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、山地の麓付近には何も描かれていない。
道沿いの○マークは樹林だろうか。
地形的にいっても、江戸時代やそれ以前からここに祀られていたとは思えない。
地図を辿っていくと、1976-1980年(昭和51-55年)にようやく近くに建物が現れ、1984-1989年(昭和59-64年)に初めて鳥居マークが描かれる。
「五輪大明神」と彫られた社号標の裏には「奉献 昭和五十四年四月吉日建之 五生閣 梶田松園」とある。
五生閣の梶田松園というのがどんな人物かは調べがつかなかったのだけど、名前からすると旅館か料亭の主人だろうか。
五生閣の”五”と五輪大明神の”五”はつながりがあるかもしれない。
”五生”(ごしょう)は仏語で、五回生まれ変わることをいう。
菩薩は息苦生、随類生、勝生、増上生に生まれ変わり、輪廻の最後に最後生として生まれる。
五輪は五回輪廻するという意味から名づけられたのかもしれない。
それを五輪大明神として祀ったということは、菩薩を祀ったのか、梶田松園の祖先でも祀ったかしただろうか。
この神社が今の姿になったのは昭和54年(1979年)というのは充分考えられる。
ちょうどそれくらい年月が経った感じだ。戦前や明治からあった古い感じではなく、ここ10年、20年という新しさもない。
その根拠となるのは信清神社(のぶせいじんじゃ)の存在だ。
庄内川を挟んで対岸の玉野にある神社で、ネットの写真を見ると、社の感じや覆い屋の様子がよく似ている。
それもそのはず、この信清神社を建てたのが梶田松園なのだ。
信清神社の創建は昭和57年(1982年)というから、五輪大明神が先で、信清神社がその後ということになる。
小牧長久手の戦い(1584年)で負傷して逃げてきた広瀬信次郎という武将がこの地で命を落とし、村人が霊を慰めるために小さな墓石を作ったことが始まりという。
広瀬信次郎という人物に関する情報は得られなかったのだけど、徳川方に広瀬美濃守景房(ひろせかげふさ)という武将がいるので、同じ広瀬一族かもしれない。
この広瀬氏は甲斐武田家の家臣だったのが武田氏滅亡の後徳川の家臣になったという経緯を持つ。
武田氏は一時期、尾張の瀬戸まで勢力を伸ばしていたので、下水野や玉野に関係者が暮らしていて、そこを頼って落ち延びてきたのかもしれない。
玉野には後醍醐天皇方のなか媛が逃げ延びてきてこの地で命を落としたという伝承もあり、そういう土地柄だっただろうか。
鍵を握るのは梶田松園
以上、ほとんど情報がない中で少し見えてきたものもある。
キーパーソンは梶田松園に違いない。
五生閣が何かが分かればもう少しはっきりするかもしれない。
現在の姿として建てられたのは昭和54年だったとしても、まったく何もないところに梶田松園が思いつきで神社を創建したとは考えにくい。
その前身となる何かがあったはずだ。
それは、仏教的な堂かもしれないし、石神とか塞ノ神とかそういったものかもしれない。
社は荒れている様子もなく、お供え物もあって、日常的にお世話をしている人がいるのが分かる。
昭和54年なら覚えている人もいるはずだし、近所で聞き込み調査をすればある程度のことは分かりそうだ。
問題は近所に家がないことと、そこらを歩いている人が皆無ということだ。
一日待っていても、誰も神社の前を通らない気がする。
作成日 2025.1.23