松山神社とはどういう神社かをひと言で説明するのは難しい。あえていうなら、修験者が起源の社ということになるだろうか。 創建年は不明。 戦国時代中期の大永年中(1521年-1528年)、羽黒山の修験者・隆海が再興したというからそれ以前にあったと考えてよさそうだ。平安か奈良時代までさかのぼれるかもしれない。 その後、荒廃して、江戸期に入った元和年中(1615-1624年)に美濃国の秀恵という修験者が寿命院を建てて別当(べっとう/寺の管理責任者)になったと伝わる。 尾張藩三代藩主の徳川綱誠(とくがわつなのぶ/つななり/1652年-1699年)がここを祈願所としたため、大いに賑わったという。 祈願所というのは、神仏に対して特に願い事をするための寺社という意味だ。天皇の祈願所の場合は勅願所(ちょくがんしょ)と呼ばれる。 明治元年(1868年)の神仏分離令により別当を廃止。祠掌(ししょう)を置き、村社に列するとともに名称を松山神社と改めた。 このとき境内社の八幡社と弁財天社を本社に合祀した。祭神が天照皇大神、品陀別命(応神天皇)、市杵島姫命になっているのはそのためだ。 『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)によると、もともと八幡社と弁財天社は別の場所にあったもので、清須越の際に松山神社の境内に移されたという。 本地仏の大日如来像は禅隆寺(地図)に移されている。 このあたりは松などが生い茂る山林地帯だったことから松山神社と名付けられたとされる。 祠掌というのは社掌(しゃしょう)の古い名称で、神職の職名をいう。府県社や郷社では社司(しゃし)がいて、その下に社掌がいる。村社や無格社の神社では社掌が一切の管理をすることになる。 境内社として福守稲荷社の他、加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社があり、社務所や神楽殿などもあってぎゅっと詰まった寄り合い所帯になっている。入り口から見る分には小さな神社だけど、意外と懐が深い。
『尾張志』(1844年)は飯田町の天道ノ社、松山天道としてこの神社について書いている。 大永年中に隆海が羽黒山から来て再興し、30年余り務めた後、本国に帰っていき、跡を継いだのが□海(スンカイ)で、その人も本国に帰ったので、美濃国の久々利から秀恵が来て継いだものの、跡が途絶えたので飯田町、九十軒町、作子町、萱屋町などの本居神となっているとある。 『尾張名陽図会』は祭神を國常立尊としている。
松山神社についてざっと紹介すると以上のようになる。 他の神社ではあまり登場しないであろう徳川綱誠と羽黒修験道が出てきたので、そのあたりを少し補足しておくことにする。 尾張藩の藩主でよく知られるのは、七代の宗春で、綱誠はその父だ。初代義直と二代光友という名藩主の後を受けた三代綱誠は影が薄い。 聡明ではあったとされるも、食いしん坊の子だくさんだった。子供は40人いて、最後は草苺(クサイチゴ)を食べたら食あたりになって死んでしまった。まだ46歳だった。 初代、二代目が偉大すぎた三代目というのはそういうことになりがちなのかもしれない。 のちに尾張藩の地誌として結実する『張州府誌』は綱誠が命じて編さんさせた『尾張風土記』が元になっている。政治をやる気がなかったわけではないようだ。
名古屋の神社で修験道関係というと、熊野権現や白山権現がちょくちょく出てくるのだけど、出羽三山の羽黒権現が出てくるのは珍しい。尾張国から見て出羽国(山形県)はいかにも遠い。 修験者が神仏を祀ることを創建と呼べばいいのか開山というべきか分からないのだけど、松山神社の創建のいきさつが伝わっていないためよく分からない。最初の人間が羽黒山の修験者だったのかどうかもはっきりしない。創建年代も推測するのが難しい。 社殿は西を向いている。これは太陽に向かって拝むためとされているようだけど、それが本当かどうかは分からない。主祭神がアマテラスというのも後世のことに違いない。羽黒権現信仰は太陽信仰ではない。 江戸時代は天道と呼ばれていたことからすると、もっと広くて大きな意味での神仏を拝むというものだったのではないだろうか。
修験道は奈良時代に役行者(役小角/えんのおづぬ)が吉野(奈良県)の金峯山で金剛蔵王大権現を感得して、その基礎を築いたとされる。 険しい山に分け入り、自らに厳しい修行を強いて、悟りを開き、人々を救い、即身成仏を究極の目標とする。自然崇拝を基本としながら、神道、仏教、密教、陰陽道など、あらゆる教義を取り込み、霊力を身につけ、呪術を駆使して自らを高めようとする。 とにかくなんでもありで手段を選ばずなので、部外者からするとその本質や実態は理解が難しい。時代が進むごとに有り様も変化していった。 明治の神仏分離令によって大きな打撃を受けて衰退するも、その後も脈々と続いている。 月山・羽黒山・湯殿山のいわゆる出羽三山も、早くから修験の山として開かれたところだった。 開祖を能除仙(のうじょせん)としている。 能除仙は崇峻天皇の皇子・蜂子皇子とする。 592年。父の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されると、従兄弟(いとこ)の聖徳太子(厩戸皇子)の勧めで宮中を脱して、丹後から海路で北へ逃れた。出羽の浜辺で八人の乙女が踊っているのに見とれてつい上陸してしまい、羽黒山で道に迷っているところを三本足の八咫烏(やたがらす)が道案内をしてくれて、羽黒山に腰を落ち着けることになった。そこで修業を重ね、羽黒三山を開いたというお話だ。 これは単なる伝説で終わらず、明治政府も公式に認めて、開祖を蜂子皇子としつつ、羽黒山の山頂を墓所と定めている。 羽黒山(はぐろさん)の仏は聖観世音菩薩で、神は伊氐波神(イデハ/産土神)と稲倉御魂命(ウカノミタマ/穀物神)とする。 月山(がっさん)の仏は阿弥陀如来で、神は月読神(ツクヨミ/農耕神)。 湯殿山(ゆどのさん)の仏は大日如来で、神は大山祇神(オオヤマツミ/山の神)、大己貴命(オオナムチ/建国神)、少彦名命(スクナヒコナ/医薬神)となっている。 松尾芭蕉も西行の足跡を辿る「おくのほそ道」の中で出羽三山を訪ねている。8日間の滞在中に山にも登り、いくつかの句を残した。
涼しさや ほの三か月の 羽黒山
今や民家の庭に収まったような格好の小さな神社となってはいるけれど、遠い出羽三山に思いをはせ、そこで厳しい修行をした修験者たちを思い浮かべながら参拝すると、感慨深いものがあるかもしれない。
作成日 2017.3.23(最終更新日 2019.9.7)
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