尾張氏三代目というだけではない
尾張氏二代の天香語山(アメノカゴヤマ)の子で尾張氏三代目当主という理解だけでは天村雲について語れない。 伊勢の神宮外宮(web)に仕えた度会氏(わたらいうじ)の祖という話があり、いくかの別名を持ち、系譜上の混乱も見られる。 尾張国に天村雲を主祭神として祀る神社はなく、関西から西日本にかけての神社で祀られているはどういういきさつによるものなのか。 草薙剣の元の名とされる天叢雲剣との関連性も気になる。 『古事記』、『日本書紀』は天村雲について何も語っていない。 頭の中を整理するために、まずは得られる情報を書き出すことにする。
尾張氏系図と『先代旧事本紀』の系譜
尾張氏一族とされる海部氏(あまべうじ)の系図には本系図(籠名神社祝部氏係図)と勘注系図(籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記)の2種類があり、本系図は各世代一人の直系当主のみを記し、それを補う格好で勘注系図はやや詳しい系図になっている(国宝指定)。 籠神社(web)の社家を長く務めてきた家で、現在も海部氏の子孫が宮司(82代)となっている。 勘注系図は”始祖彦火明命 - 児天香語山命 - 孫天村雲命”となっており、天村雲の子世代から枝分かれする。 本系図は始祖彦火明命から2世、3世と飛んで4世倭宿禰命となり、ここから大きく飛んで19世健振熊宿祢となっている。 どうして間を書けなかったのかは分からない。何か不都合があっただろうか。 系図上の天村雲の母は穂屋姫命(ホヤヒメ)で、ホヤヒメの両親は彦火明と佐手依姫となっている。 天香語山は彦火明と天道日女(アメノミチヒメ)との間の子なので、天香語山と穂屋姫は母違いの兄妹だ。 佐手依は市杵嶋姫、息津嶋姫、日子郎女神という別名を持っている。 市杵嶋姫(イチキシマヒメ)といえば天照大神(アマテラス)と素盞男(スサノオ)の誓約(うけひ)で生まれた五男三女神のひとりで、宗像三神だ。 この時点で頭がこんがらかってよく分からなくなってしまう。 同じ勘注系図の中で天村雲と天香山を兄弟としていたり(天村雲が兄)、天村雲の別名を天五十楯天香語山命としていたり、”彦火明命 - 建位起命 - 宇豆彦命”という系統があったりで、混乱はますます深まる。 『先代旧事本紀』(平安時代初期)に出てくる天村雲の別名・天五多底(アメノイタテ)については神社のところであらためて考えたい。
『先代旧事本紀』は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と彦天火明と饒速日(ニギハヤヒ)を同一のように扱っていて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が天道日女命を妃として天香語山命を生んだとしているので、カゴヤマの父はニギハヤヒということになる。 『先代旧事本紀』によると、天村雲には日向阿俾良依姫(アイラヨリヒメ)と丹波伊加里姫(イカリヒメ)の二人の妃がいたことになっていて、阿俾良依姫との間に天忍人命(アメノオシヒト)、天忍男命(アメノオシオ)、忍日女命(オシヒメ)が、母親不明の子として角屋姫(ツノヤヒメ)がいたとする。 海部氏の系図では丹波伊加里姫との間に生まれた倭宿禰(ヤマトスクネ)が4世の当主となっている。 また、葛木出石姫という女子も書かれている。 倭宿禰命には椎根津彦(シイネツヒコ)や天御蔭命(アメノミカゲ)といった別名があるという。 椎根津彦といえば、神武東征の際に海路の水先案内をした人物として記紀に出てくる。 『日本書紀』では初め珍彦(ウズヒコ)という名前で登場して名を椎根津彦に改めたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上で釣りをしている人間に神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ/のちの神武天皇)が自分に仕えないかと誘い、槁根津日子(サオネツヒコ)の名を与えたと書く。 記紀共に倭国造の祖といっている。 このエピソードに出てくる椎根津彦と尾張氏4世の倭宿禰命が同一人物だとしたらどうなるのか。 『先代旧事本紀』は天村雲の子としてどうして倭宿禰命を入れなかったのだろう。
天村雲と天牟良雲は同一か?
『先代旧事本紀』には天牟良雲命も出てくる。 天村雲と同じ”ムラクモ”なので同一だと思うのだけど、牟良雲は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が天降るときにお供した三十二人の防衛のうちの一人なのでどうなんだろうとも思う。 『先代旧事本紀』に従えば天牟良雲はニギハヤヒの孫ということになる。 ただ、同書には”わたらい神主等祖”とあり、やはり別人なのかと思ったりもする。 後裔に右京額田部宿禰がいるとされ、ここでも尾張氏系との違いが見て取れる(『新撰姓氏録』については後述)。
記紀や『先代旧事本紀』以外の史料としては、『大同本紀』逸文や中臣寿詞(なかとみのよごと)で天牟羅雲命/天村雲命が出てくる。 それらによると、度相神主等の先祖天牟羅雲命は瓊々杵命(ニニギ)の天孫降臨にお供し、地上の水がよくなかったので高天原にいったん戻って天津水(天忍石長井水)をもらって地上に降りて皇孫に奉るとともに水種を移したとしている。 その際、どの道を通ったか訊かれて大橋は天孫が通るので自分は小橋を使ったというと良い心がけだとして、天牟羅雲、天二登命(アメノフタノボリ)、後小橋命(ノチノオバシ)の三つ名を給わったという。 同じような話が天押雲根命(アメノオシクモネ)のものとしても伝わっているため、天押雲根と同一とも考えられる。 天押雲根は天児屋命(アメノコヤネ)の子で、天種子命の父とされ、中臣や藤原の遠祖とされる人物だ。 ここではニギハヤヒではなくニニギやアメノコヤネとの関係で語れており、系統が違うようにも思うのだけど、度会氏の祖としていることは共通するので、やはり元を辿れば同一ということなのか。
度会氏を通じて伊勢の神宮ともつながる?
中世に書かれたとされる神道五部書のひとつ『豊受皇太神御鎮座本紀』( とようけこうたいじんごちんざほんき) に、「天村雲命 伊勢大神主上祖也、神皇産霊神六世の孫也 」とある。 これまた一体どういうことなのだろうと悩んでしまう。尾張氏でもニギハヤヒでもニニギでもなく神皇産霊(カミムスビ)の系統というのはどこから来ているのか。 単純に考えれば伊勢の度会氏は尾張氏系で天村雲から分かれた一族ということかもしれないけど、度会氏が尾張氏系という話は聞いたことがない。 ただ、宮内庁所蔵の尾張氏系図には彦坐王(ヒコイマス)の後裔・丹波国造の大佐々古直が石部直・度会神主の祖とあることからすると、天牟羅雲=天村雲が度会氏の祖というのもなくはないのか(奈良時代に石部直から度会になったとされる)。 彦坐王は『日本書紀』では第9代開化天皇と和珥氏系の姥津媛(ハハツヒメ)の子とされ、『古事記』では意祁都比売命(オケツヒメ)の子とされる。 意祁都比売というと、神宮外宮祭神の豊受大神(トヨウケ)の別名である大宜都比売(オオゲツヒメ)を連想させる。 大宜都比売は『古事記』の中で伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)が生んだ伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として出てくる他、神産みのところでは大宜都比売神として生まれており、高天原を追放された須佐之男命に料理を出して殺されてしまう。 天牟羅雲と天村雲が同一かどうかは、ここではとりあえず保留としたい。
天叢雲剣と天村雲との関係は?
草薙剣の元の名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と理解している人は多いと思うけど、これは『日本書紀』の異伝や中世の熱田社縁起がいっているだけで、そう決め込むのは少し危険だ。 『古事記』は高志の八俣の遠呂智(おろち)の尾を斬って出てきたものを都牟刈大刀(つむかりのおおたち)としており、これは草那芸大刀(くさなぎのおおたち)のことだと書いている。 その後、倭建命(ヤマトタケル)が東征の途中で伊勢に寄って倭比売命(ヤマトヒメ)から受け取ったときは”草那芸剣”という表記になっている。 わざと変えたのか、間違えたのか。 ”刀”は片刃で”剣”は両刃のことなので違うものだ。刀剣という言い方をするのはその総称ということになる。 『日本書紀』は第八段本文で八岐大蛇を素戔鳴尊(スサノオ)が十握劒で斬ったところ刃が少し欠け、出てきた剣が草薙剣だと書く。 読み方は”倶娑那伎能都留伎”としているから、やはり最初から”剣”という認識だったのだろう。 これに続いて一書曰として”本名天叢雲劒 蓋大蛇所居之上、常有雲氣、故以名歟 至日本武皇子、改名曰草薙劒”と説明している。 八岐大蛇のいるところに常に雲があったのでそう名づけたのかな、と書いている。 ”歟”は”かな?”というニュアンスの言葉で、つまりは『日本書紀』のこの部分を書いた人間が勝手に解釈しただけとも取れる(”叢雲”の”叢”は群がるとか集まるといった意味)。 どうもこの記事のこの部分だけが一人歩きして、草薙剣の元の名は天叢雲剣ということになってしまっている感がある。 『日本書紀』の日本武尊(ヤマトタケル)の東征の部分を確認すると、倭姫命(ヤマトヒメ)から受け取ったときすでに”草薙剣”となっており、その後、焼津で敵のだまし討ちあって火に囲まれたとき剣で草を薙ぎ払って難を逃れたので草薙剣と名づけたという説明になっている。 この記事でも”一云”として、ヤマトタケルが佩いていた剣の叢雲(むらくも)がひとりでに抜けて草を薙ぎ払ったので草薙剣と名づけたという話が挿入される。 そういう伝承があったのは確かなのだろうけど、どうして『古事記』はそれを採用せず『日本書紀』は異伝として書き加えたのだろう。なんとなくその部分に引っかかりを感じる。 ついでに『古語拾遺』も見ておくと、八岐大蛇の尾から出てきたときは天叢雲で、倭武尊が草を薙いで難を逃れたので草薙剣と名づけたと、『日本書紀』の本文と一書をあわせた内容になっている。
どうしてこの部分にこだわるかというと、アメノムラクモの名を持つ剣は天村雲の持ち物だったのではないかと思うからだ。偶然名前が一緒だっただけとは思えない。 それは経津主神(フツヌシ)が布都御魂という刀(剣)の象徴であり、神名でもあるのに通じる。 『古事記』でいうと、伊弉諾尊が迦具土神(カグツチ)を斬ったときに使った刀を天之尾羽張(アメノオハバリ)または伊都之尾羽張(イツノオハバリ)としており、これも刀であり神名だ。 草薙剣はヤマトタケルが尾張にもたらし、ミヤズヒメが祀ったのが熱田社(web)の起源となったというのはよく知られる話だ。 天智天皇の668年に新羅の沙門の道行に盗まれ、686年に天武天皇の病死の原因が草薙剣の祟りとされて熱田社に送り置かれたと『日本書紀』は書く。 この剣のもともとの持ち主が天村雲だったとしたらどうだろう。巡りめぐって尾張に戻ってきただけと言えなくもない。 ただ、たぶんそれは違っていて、草薙剣にはもっと別の物語が潜んでいるような気がする。話はそう単純ではない。
別名について
上の方で少し触れた天村雲の別名の話に戻りたい。 『先代旧事本紀』がいう別名の天五多底、天五多手、天五田根は”イタテ”や”イタネ”と読み、射立神とも呼ばれる。 字は当て字なのだろうけど、矢を射るという意味の”射立”が一番近いのかもしれない。 別の字でいうと伊達と書いて”いだて”と読む。名字の伊達も古くは”いだて”だった。 伊達の神というのは素戔嗚(スサノオ)の子の五十猛命(イソタケル)のこととされる。 『延喜式』神名帳(927年)の丹波国桑田郡や陸奥国色麻郡、紀伊国名草郡の伊達神社ではいずれも五十猛命を祀っている。 天村雲と五十猛が同一だとしたらどういうことになるのか? 人間関係をまったく見失ってしまいそうだ。
分からないついでに書いておくと、『先代旧事本紀』は天香語山の別名を高倉下命(タカクラジ)としており、神武東征で危機に陥ったときに武甕雷神(タケミカヅチ)から送られた布都御魂剣をもたらしたのは熊野高倉下だったと『日本書紀』はいっている。 海部氏の勘注系図では天村雲命の横に“弟熊野高倉下 母大屋津比賣命”と書かれている。 天村雲の父が天香語山=高倉下で天村雲=五十猛なら、天香語山=高倉下=素戔嗚ということになってしまう。 混乱はもはや収拾不能に至った。
後裔について
『新撰姓氏録』に、天村雲命は”明日名門命三世孫、額田部宿禰”の祖とある。 摂津国の額田部宿祢角凝命を見ると、五十狭経魂命之後也となっている。 五十狭経魂というのは伊佐布魂命/天伊佐布魂命(イサフタマ)のことで、『先代旧事本紀』がいう三十二人の防衛のうちのひとりだ。 関係氏族を抜き出すと、摂津国委文連、河内国委文宿祢、河内国美努連、河内国鳥取などでいずれも天神となっている。 ただ、摂津国凡河内忌寸だけは天孫としている。 額田というと一般的には大和国を思い浮かべる人が多いだろうけど、三河にも額田郡があり、美努は美濃のことだ。 委文は倭文と書いた方がなじみがあるシトリ神の倭文だ。 これらの氏族の祖を天村雲とするには根拠があるはずだけど、どこからどうつながってそうなったのかはやはりよく分からないとしかいえない。
天村雲を祀る神社
天村雲を祀る神社が全国には何社かあり、地域に偏りが見られる。 延喜式内社としては天村雲神伊自波夜比賣神社があり、徳島県吉野川市山川町の天村雲神社が論社となっている(二社あり)。 名前の通り祭神は天村雲と伊自波夜比賣(イツハヤヒメ)で、出早比売命とも表記する。 諏訪大社(web)の祭神である建御名方神(タケミナカタ)の子の出早雄命(イズハヤオ)の娘とされるのだけど、それがどうして阿波国で天村雲とともに祀られることになったのだろう。 徳島県阿波市の伊笠神社や香川県善通寺市の大麻神社でも天村雲を祀っている。 讃岐、伊予、土佐の四国や伊勢、志摩、紀伊の伊勢志摩地方にも天村雲を祀る神社が少しある。 あと、特徴的なのは陸奥国(福島県)に三渡/見渡神社がたくさんあり、そこで天村雲命/天牟羅雲命を祀っていることだ。 古くから天村雲の一族が陸奥国に移り住んで勢力を広げたということだろうか。
名古屋に天村雲を祀る神社は一社もない。尾張氏三代目とされながらこれも不思議なことだ。 私が把握していないだけで愛知県まで範囲を広げると何社かはあるのだろうか。
『宋史日本伝』が伝える日本の神々
最後にちょっと面白い史料を提供したい。 元王朝に仕えた托克托/脱脱(トクト)という人物が1345年にまとめた『宋史日本伝』という書があり、その中に日本の神を順に記した一覧が載っている。それは以下の通りだ。
1 天御中主 2 天村雲尊 3 天八重雲尊 4 天彌聞尊 5 天忍勝尊 6 贍波尊 7 萬魂尊 8 利利魂尊 9 國狭槌尊 10 角龔魂尊・ 11 汲津舟尊 12 面垂尊 13 國常立尊 14 天鑑尊 15 天萬尊 16 沫名杵尊 17 伊弉諾尊 18 素戔烏尊 19 天照大神尊 20 正哉吾勝速日天押穂耳尊 21 天彦尊 22 炎尊 23 次彦瀲尊
あまりにも無茶な順番だし、まったく知らない神もいて、なんだこりゃと思うのだけど、中国人の托克托が思いつきで勝手に書いたわけもなく、元史料があったはずで、それをもたらしたのは日本人に違いない。 だますための偽史料とも考えられるのだけど、的を射ているような部分があるような気がしないでもない。 初代が天御中主で2代が天村雲というのは面白いし、ひょっとするとと思わせる。3代の天八重雲も興味深い。 伊弉諾から天照大神への流れとつながりにはわりと信憑性がある。オシホミミ、ヒコ(ワカヒコ)、カグツチ(カクチチ)、フガヤフキアエズだとすると、私が聞いている裏歴史と共通する部分が多い。
以上、まとまらないままある程度の情報は提供できたんじゃないかと思う。 あとは読んでいただいた皆さんに委ねたい。 私はいったん、天村雲は保留とする。
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