神社はロケーションが大事
読み方 | はっけん-しゃ(しもはだがわちょう) |
所在地 | 瀬戸市下半田川町746 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧村社・十三等級 |
祭神 | 天照皇御神(アマテラス) 素盞嗚尊(スサノオ) 日本武尊(ヤマトタケル) 健稲種命(タケイナダネ) 宮簀姫命(ミヤズヒメ) 高皇産霊尊(タカミムスビ) 迦具土神(カグツチ) 神皇産霊尊(カミムスビ) 伊邪那美命(イザナミ) 大己貴命(オオナムチ) 大山祇命(オオヤマツミ) 水速女命(ミツハノメ) |
アクセス | せとコミュニティバス/東鉄バス「下半田川町民会館前」より徒歩約3分 |
駐車場 | 観音堂側にスペースあり |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月10日 |
神紋 | |
オススメ度 | ** |
ブログ記事 | 瀬戸市下半田川町の八劔社はロケーションがいい |
西向きは珍しい
幹線道路の205号線から南へ入って少し進んだ先で左を向くと八劔社の社号標と鳥居が建っている。
ん? どっちを向いてる?
地図で確認すると社殿は西向きだ。正確には西南を向いている。
創建当時からそうだったのか、時代を経てこうなったかは分からない。
だいたいの神社は南向きで、たまに東向きがあるのだけど、西向きは珍しい。
名古屋でいうと千種区の素盞男社(松軒)が唯一くらいで、街中なら住宅事情でそうなったとも考えられるけど、ここ下半田川はそういうことではないので、集落との関係でたまたま西向きになっただけかもしれない。
入り口鳥居(神明鳥居だ)をくぐった先に長い参道が延びている。
このロケーションがいい。
神社は舞台というか全体としての風景が大事で、鳥居をくぐってすぐに社殿では情緒がない。
長い参道を歩いて行く間に気持ちも整うし、参拝モードになっていく。
進んだ先に石段があって、そこを登った小高い丘の上に建っているのがまたいい。
瀬戸の神社の中でオススメできる神社のひとつだ。
半田川地名について
半田川(はだがわ)の地名については上半田川の金峯神社のところで書いたので繰り返さないけど、蛇が淵(じゃがふち)の大蛇を射た血が3日3晩花柄のように流れ花川と呼ぶようになり、花川が転じて半田川という話がある(「角川日本地名大辞典」。
現実味があまりない話ではあるのだけど、何らかの事実を元にして作られた伝説のような気もする。
それでいうと、”大蛇”と”花”が何かを暗示しているのだろう。
個人的には”はだ”からの連想で秦氏(はたうじ)との関係を考えている。
八劔社という社名や祀られている祭神からして、ここは尾張氏とのゆかりが深い土地ということがいえる。
秦氏というと渡来人というのが一般的ではあるけど、天(高天原)から出た人たちの総称だそうなので、秦川から半田川に転じた可能性はあるのではないかと思う。
津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中でこんなことを書いている。
秦川村 はだがわ 多加並濁音 上下の二村あり
支村 尾呂 をロ 下秦川の支一に半田川とも書有 出雲風土記に伯太川(ハタ)と書たる地名あり半田も伯太も假字なり
正字詳ならず 葉垂(はたれ)川の下略歟
一説に秦(はだ)は檜皮(ひはだ)槇皮(まきはだ)などいふ波太にて木の皮の事なりともいへり
さるときは秦皮の義歟猶考ふべし
江戸時代の尾張の地誌はすべて半田川となっているのだけど、秦川という表記もあったようだ。
半田は仮文字で葉垂(はたれ)から来ているか、あるいは木の皮の”はだ”から来ているのではないかというのが津田正生の推測なのだけど、根拠があったわけではないようで、「猶考ふべし」と言っている。
支村の尾呂(おろ/をろ)は集落の中心から外れた村の北西にあり、現在定光寺カントリークラブのゴルフコースがあるあたりのようだ。
昭和59年にゴルフ場を建設していたら窯跡が見つかって、中世から近世にかけて多くの窯があったことが分かった。
半ノ木古窯跡群17基のうちの2基と、尾呂古窯跡群と名づけられた6基が知られているそうだ(瀬戸ペディアより)。
この”尾呂(おろ)”の地名と”大蛇(おろち)”の関係を考えるのは無駄ではないだろう。
半田川の集落の人間が尾呂の者たちを射殺した、などというのは空想が過ぎるだろうか。
八劔社は”はっけんしゃ”
八劔社の読み方はいつも迷う。
というか、公式サイトがあるところや『愛知縣神社名鑑』にフリガナがないと判断がつかない。
熱田神宮の別宮の八剣宮は今は”はっけん-ぐう”と読ませているのだけど、もともとは”やつるぎ”だっただろうと思う。
大森の八劔神社や森孝の八劔神社などは今でも”やつるぎ”と読ませている。
”はっけん”の他にも”はちけん”の場合があるので油断はできない。
ここ下半田川の八劔社は”はっけん”のようだ。ネット情報だけど登記上はそうなっている。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
創建については明かではない。『尾張志』に下半田川村に八劔社ありと記るす、明治5年5月村社列格する。
大正6年9月27日、字休場妻神社と、字神屋前の愛宕社・秋葉社又字冨士の山神社の三社を合祀した。
創建について明かではないというのはいつものことなのだけど、それ以外にも手掛かりらしい手掛かりは得られない。
祭神については後ほどとしたい。
続いて江戸時代の地誌を確認してみる。
まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。
下半田川村
家数 三拾弐軒
人数 百四拾八人
馬 弐疋社弐ヶ所 内 大明神神明白山 山之神
社内三反に畝四歩 前々除 村中支配
家数32軒で村人が148人なので、村の規模としては大きくない。
でも10軒以下の小村でもない。
神社は2社で、大明神・神明・白山が今の八劔社を指している。
山之神は大正6年(1917年)に八劔社に合祀されたと『愛知縣神社名鑑』にある。
江戸時代前期の時点ですでに大明神と神明と白山が合体していたというのは注目に値する。あまりないことだ。
社人はいなかったようで、他の村からは呼ばず、村で管理していたらしい。
前々除(まえまえよけ)になっているので、少なくとも備前検地が行われた1608年には除地(よけち)になっていたということで、創建はそれ以前に遡る。
次に『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。
社二区覚書ニ大明神、神明、白山、山神、社内三段二畝四歩前々除、村中支配
庄屋書上ニ氏神神明、大明神、白山三社境内東西三十五間南北二十五間雑木林村除、山神社内八間四方村除、勧請年暦ハ不知、再建ハ元禄十二己卯年アリ神明社内東西十間南北十二間、斎ノ神社内東西五間南北四間、愛宕秋葉一社境内四間四方共ニ村除、
是ハ庄屋書上也阿弥陀堂氏神林中ニアリ、草創ノ年紀ハ不知、再建ハ元禄四辛未年ニアリ
庄屋の書上(かきあげ)でも勧請年については分からず、再建は元禄12年(1699年)に行われたといっている。
3社合同以外にも神明があったようで、それ以外に斎ノ神と愛宕秋葉が増えている。
『愛知縣神社名鑑』は「大正6年9月27日、字休場妻神社と、字神屋前の愛宕社・秋葉社又字冨士の山神社の三社を合祀した。」といっているのだけど、妻神社と富士宮神社は現存しており、ちょっとよく分からない。それぞれの項であらためて考えることにする。
阿弥陀堂についても後述としたい。
『尾張志』(1844年)も見ておこう。
八劔社 幸神ノ社 神明ノ社 神明社白山社二社 六社共に下半田川村にあり
ちょっとよく分からないことになっている。
『尾張徇行記』では神明、大明神、白山三社を氏神としているのに、ここでは大明神が八劔社として独立した格好になっており、”神明社白山社二社”といっている。
6社ということは、数を合わせるなら神明が1社で白山が2社ということだろうか。
妻神社は斎ノ神だったり幸神ノ社だったりするので、読み方(呼び方)としては”さいのかみ”だっただろう。
阿弥陀堂と観音堂
下半田川の寺については、『尾張徇行記』が「阿弥陀堂氏神林中ニアリ、草創ノ年紀ハ不知、再建ハ元禄四辛未年ニアリ」と書いているように、江戸時代までは阿弥陀堂があったのだけど、明治以降のどこかで廃絶になってしまったようで、現在の下半田川村には寺がない。
そのため、法事などは隣町の定光寺で行っているそうだ。歩いて行ける距離ではないから不便だとは思うのだけど、どうして寺なしになってしまったのだろう。
八劔社の隣には観音堂があるものの、これは寺として機能していないということか。
阿弥陀堂は氏神の林中といっているけど、この観音堂とは別の場所にあったということだろうか。
阿弥陀堂の草創年は不明といっているのでそれなりに古くからあったはずだ。
下半田川村に古くから寺がなかったわけではないのは平安時代作とされる仏像が伝わっていることからも明かだ。
一体は11世紀(1000-1100年)の十一面聖観世音菩薩で、もう一体は12世紀(1100-1200年)の阿弥陀如来立像だ。
十一面聖観世音菩薩が観音堂の本尊で、阿弥陀如来立像が阿弥陀堂の本尊だとすれば、どちらも11-12世紀にはあったと考えるのが自然だ。
写真を見ると両像とも1mほどの木像一木造りで、全体的に彫りが浅く、平安期の特徴を示している。
運慶・快慶に代表される鎌倉期のダイナミックな仏像とは明らかに違っている。
できれば実物を見たかったのだけど、現在は観音堂の隣の収蔵庫に保管されていて鍵が掛かっていて見ることができない。
なんでも、一度盗まれて戻ってきたということがあったようで、それ以来そういうことになってしまったらしい。
愛知県の文化財に指定されており、瀬戸市文化課文化財係に連絡すると開けて見せてくれるとのことだ。
八劔社と観音堂の関係は不明ながら、神仏習合時代に共存していた名残には違いなく、どちらが先かといえば八劔社の方が先だろう。
だとすれば、八劔社は少なくとも平安時代以前に遡るということだ。
下半田川村について
下半田川村について『尾張徇行記』は以下のように書いている。
此村落ハ、沓掛村ヨリ濃州笠原村へノ往来街道筋ニアリ、四方山ニテ囲ミ平衍ノ地ナリ、農屋ハ処々ニ散在セリ、小百姓ハカリテ農業ヲ以専生産トシ、又農隙ニハ薪ヲ採リ春日井原アタリへ売出セリ、又濃州一ノ倉村山界ニ支邑二ヶ所アリ、一二尾呂一二(欠字)卜云、是ハ山奥幽邃ノ地ナリ
沓掛村(くつかけむら)は定光寺のあるあたりで、濃州笠原村(かさはらむら)は岐阜県多治見市にあった。
その道筋の集落で、四方を山に囲まれた農村といっている。
支邑(支村)がふたつあり、ひとつは上に出てきた尾呂で、もうひとつは欠字になっていて分からない。
そこは「山奥幽邃ノ地」といっている。幽邃(ゆうすい)は奥深くて静かな様子をいう。
地理的にいうと、ここはもう瀬戸の北の果てで、瀬戸市民でも行かないようなところだ。
どういう事情でどういう人たちがここに住みつくようになったのかは想像できない。
ネットにこんな文章が載っている(瀬戸市歴史文化基本構想を活用した観光拠点形成のための協議会)。
四方を山に囲まれた山間盆地で小さな独立国の趣があるといわれます。
それは、明治維新の際に村民が苦労して山林を買収し、現在、それが総有地という自治会の財産になり、住民の結束が強いことに由来します。
江戸時代末期から戸数が約100戸で、変化が少ないので、他の地域で失われた昔の文化や伝統が今も継承されています。
個人的な印象としては片草や上半田川のように閉ざされた陸の孤島という感じはしなかったのだけど、孤立集落ということで独立独歩の性格を有しているのだろう。
2024年時点で112世帯245人というから、江戸時代前期の32軒148人と比べても大きくは増えていない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ても、現在とほとんど違わない。
民家が集まっている場所も同じだし、田んぼもそうだ。
八劔社は集落の東に位置している。
その後の地図を辿っていってもほとんど変化がない。
村(町)の変遷を確認しておくと、明治22年(1889年)の市制・町村制施行の際に沓掛村と合併して掛川村となり、明治39年(1906年)には下品野村・上品野村と合併して品野村となった。
大正13年(1924年)の町制施行で品野町となり、昭和34年(1959年)に瀬戸市に編入されだ。
秦川城と尾関氏のこと
戦国時代、下半田川集落に秦川城(はたがわじょう)という城があったと伝わっている。
場所は集落の南の山の中、このあたり(地図)とされるも、はっきりしない。
個人的な感覚としては、城を築くならもっと東の方—八劔社があるあたり—の方がふさわしい気がするけど、当時と今とでは事情が違っただろうか。
桶狭間の戦い(1560年)以降の瀬戸は信長が広く支配していたようだけど、ここ下半田川まではそれも及ばなかっただろうか。
美濃国池田城主の安藤将監景照が領していたとされ、この地の豪族の尾関弥右衛門が秦川城の城代を務めていたという。
以上の情報がどこまで事実なのかは判断がつかないのだけど、個人的に尾関に反応した。
守山区の八劔神社で書いたように、尾関氏と八劔社にはゆかりがあるからだ。
大森八劔神社の社伝によると、奈良時代末の793年に山田連(やまだのむらじ)が祀ったのが始まりで、この山田氏というのは尾張氏の一族なので、八劔社を創建することに違和感はない。
この八劔社の近くに平安時代前期に大森城を築城したのは尾関勘八郎という武士で、この尾関氏は清和源氏の後裔で尾張氏一族なのだという。
ここで尾関氏と八劔社と尾張氏が一本の線でつながる。
大森城の尾関氏は応仁の乱の最中の1467年に新居城主の水野宗国との合戦(砂川合戦)に敗れて落ち延びたとされる。
この尾関氏が下半田川で隠れ住み、八劔社を祀った可能性はないだろうか。
あるいは、もともと八劔社を祀っていた一族と尾関氏が同族で、そこにかくまわれたとも考えられる。
いずれにしても、尾関氏というのがひとつ鍵を握る存在といえそうだ。
秦川城主だった尾関弥右衛門は1584年の小牧長久手の戦いで安藤将監景照に従い戦死。
その後、秦川城は廃城になったと伝わる。
生き残った尾関一族は尾呂に隠れ住んだという話があり、それはあり得ることだと思う。
尾呂古窯跡群と呼ばれる近世の窯も、ひょっとすると尾関一族の生き残りの人たちによるものかもしれない。
祭神について整理する
『愛知縣神社名鑑』に載る祭神は以下の通り。
天照皇御神(アマテラス)
素盞嗚尊(スサノオ)
日本武尊(ヤマトタケル)
健稲種命(タケイナダネ)
宮簀姫命(ミヤズヒメ)
高皇産霊尊(タカミムスビ)
迦具土神(カグツチ)
神皇産霊尊(カミムスビ)
伊邪那美命(イザナミ)
大己貴命(オオナムチ)
大山祇命(オオヤマツミ)
水速女命(ミツハノメ
かつて下半田川にあった神社が以下の通り。
大明神・神明・白山
山之神
神明
愛宕・秋葉
幸神(斎神・妻神)
それぞれを当てはめてみると、大明神(八劔)が日本武尊・建稲種命・宮簀媛命、神明が天照大神、白山が伊邪那美命、山神が大山祇命、愛宕・秋葉が迦具土神でいいだろうか。
素盞嗚尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊、大己貴命、水速女命が余る格好になるのだけど、素盞嗚尊は大明神(八劔)の祭神だったかもしれない。
分からないのは幸神の祭神と高皇産霊尊、神皇産霊尊、大己貴命、水速女命だ。
幸神はおそらく明治以降に祭神変更があっただろうけど、そこに何を当てはめたのか。
高皇産霊尊と神皇産霊尊だったのか、大己貴命だったのか。
水の神とされる水速女命がどこから来ているのかも分からない。
村にあった社を遷座させて境内社にするのではなく本社に合祀した経緯や理由も気になる。
結果として大所帯になっている。
ちょっとした謎というかモヤモヤ感が残った。
作成日 2025.1.5