本当に蔵王権現だったのか
読み方 | きんぷ-じんじゃ(かみはだがわちょう) |
所在地 | 瀬戸市上半田川町 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十三等級 |
祭神 | 安閑天皇(アンカン) 伊弉那諾尊(イザナギ) 伊弉那册尊(イザナミ) |
アクセス | 瀬戸コミュニティバス「寺前橋」より徒歩約4分 |
駐車場 | なし(スペースあり) |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月10日(要確認) |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
半田川は流れていない
上半田川は瀬戸の人間でも読み間違えるかもしれない難読地名だ。
”はんだ”ではなく”はだ”で、”かみはだがわ”と読ませる。
下半田川もあって、こちらも”しもはだがわ”だ。
江戸時代までは上半田川村、下半田川村と呼ばれていた。
瀬戸の奥地で、瀬戸市民でもほとんど訪れない土地だと思う。そもそも半田川を知らないかもしれない。
私は2012年に一度訪れている。
目的は金峯神社の境内に自生するセリバオウレンを撮るためだった。
金峯神社でセリバオウレン撮り初め(ブログ記事)
地名(村名)はきっと半田川が流れている上流、下流から来ているのだろうと思いきや、集落を流れているのは蛇ケ洞川(じゃがほらがわ)だ。
蛇ケ洞川の支流に竃ケ洞川、縄洞川、大石本川、若宮洞川があり、半田川はない(川の名前としては残っていない)。
そうなるとやはり地名の由来が気になるわけで、まずはそのあたりから見ていくことにしよう。
半田川の地名はどこから?
半田川(はだがわ)の地名がどこから来たのかが気になる。
上に書いたように、集落を流れる蛇ケ洞川(じゃがほらがわ)から来ているという説がある。
「角川日本地名大辞典」はこんなことを書いている。
蛇が淵の大蛇を射た血が、3日3晩花柄のように流れ花川と呼ぶようになったという花川伝説に由来し、花川が転じて半田川となったという。
その半田川(蛇ケ洞川)の上流域に位置するところから、上半田川町と付けられたと推察される。
蛇が淵については『尾張名所図会』(1844年)が「蛇が淵(じゃがふち) 半田川筋の深淵」と書いているので、古くからあった呼び名のようだ。
蛇が淵の大蛇を射殺して流れた血が花柄のように見えたから花川と呼ばれ、それが半田川に転じたといっている。
しかし、これをそのまま信じる人はいないだろう。ただ、こうした伝説が生まれた要因というか出来事があって、それが象徴的に伝えられた可能性はある。
だとすれば、キーワードは、”大蛇”と”花”だ。
これが何かを暗示しているのかもしれない。たとえば集落だったり、一族だったり、勢力や人などだ。
それにしても、”はながわ”が”はだがわ”に転じるかといえば、それはちょっとありそうにない。”な”が”だ”に転じる必然がない。
”蛇”なら”だ”ともいうから、それも掛かっているとすれば”はだ”になり得るだろうか。
”花蛇”の”はなだ”が”はだ”と略されることはなくはない。
とはいえ、この話は後世の作り話としか思えないというのが正直なところだ。
”はだ”からの連想として秦氏(はたうじ)に関係があるのではないかという話もある。
それなら”はだ”と濁らず”はた”の方がふさわしい気もするけど、まったくない話ではない。大蛇伝説よりは現実的だ。
秦氏というと一般的には大陸からの渡来系とされることが多いけど、実際はそうではないと聞いている。
渡来というのは文字通り渡って来たと解釈をすれば、別に海の向こうから来たことに限定することはない。
よその土地からやってきた人間も渡来人だ。
言い方を変えれば、高天原から出ていった人たちという捉え方もできる。
この場所が尾張の果てのようなところということを考えると、尾張の中心地からやってきた人を総称して秦氏といったというのも考えられる。
半田川(はだがわ)の地名由来としては、そのあたりの可能性を個人的には考えている。
では、半田川の人たちが何故、蔵王権現を祀ったかだ。金峯神社は江戸時代までは蔵王社などと呼ばれていた。
ネット情報で興味深いものがあった。
蛇ケ洞川支流のひとつ若宮洞川の由来として、「定かでないが金峯神社を若宮と称し若宮の西側の洞を表現した川名と推察」というものだ。
この筆者の個人的な推測なのか、どこかから情報を得ているのかは定かではないけど、これが本当であれば、かなり重要な証言ということになる。
”若宮”というと中世以降に八幡の若宮とされて八幡神の応神天皇皇子の仁徳天皇を祀る若宮八幡となったところが多いのだけど、もともとの若宮は御霊思想から祀られたところが少なくない。
名古屋総鎮守の若宮八幡社(栄)も元は若宮で、こういうたぐいの神社だと個人的には見ている。
不慮の死や若くして亡くなった人間を若宮と称して祀り、霊を慰めると同時に神として自分たちの力になってもらおうという思想だ。
もし半田川の金峯神社が若宮から発しているのであれば、大蛇を射殺した伝説とリンクするかもしれない。
記紀神話で射殺された人間として真っ先に思い浮かぶのがアメノワカヒコ(天若日子/天稚彦)だ。
国譲りのための使者だったのが、大国主(オオクニヌシ)の娘のシタテルヒメ(下光比売/下照姫)と婚姻して反抗したため、高木神が放った矢によって射殺されてしまったと記紀は伝える。
尾張の伝承でワカヒコは天火明(アメノホアカリ)の子の天香語山(アメノカゴヤマ)のこととされる。
大蛇の退治といえば言うまでもなくスサノオ(須佐之男/素戔嗚尊)を連想する。
そこに”花”が出てくるのも引っ掛かっている。
いや、考察は後回しにして、まずは情報を整理しよう。
金峯神社について
上半田川の金峯神社について『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
創建についてはわからないが、天正4年(1576)社殿造営の棟札と元和7年(1621)9月再建の記録あり、この地方の古社なり。
明治5年村社に列し、同40年10月26日供進指定をうけた。
大正7年1月15日、字曲星ヶ根の白山社を合祀した
創建については不明で、戦国時代後期の1576年(天正4年)と江戸時代前期の1621年(元和7年)に再建された記録があるようだ。
「この地方の古社なり」の根拠については示されていない。
ただ、供進指定社とされたということは、普通の村社よりも一段格上という見方ができる。
祭神に伊弉那諾尊(イザナギ)・伊弉那册尊(イザナミ)(表記が変だけど)が入っているのは、大正7年に村内の別のところで祀られていた白山社を合祀したためだ(白山社の跡地が蛇ケ洞川沿いから少し入った山の中にあるというネット情報を頼りに探してみたけど見つけられなかった)。
主祭神の安閑天皇(アンカン)に関しては後ほどあらためて考えることにする。
江戸時代の上半田川村と金峯神社について確認してみる。
『寛文村々覚書』(1670年頃)は以下のように書いている。
家数 拾九軒
人数 百弐人
馬 三疋禅宗 赤津村雲興寺末寺 吉祥庵
寺内九畝弐拾歩 備前検除社弐ヶ所 内 権現 山之神 当村祢宜 久太夫持分
社内壱町壱反弐畝四歩 山方之内
民家は19軒で村人は102人なので村の規模としては小さい。
寺は赤津の雲興寺末寺の吉祥庵があり、神社は権現と山之神の2社があったことが分かる。
権現が今の金峯神社のことだ。
除地(よけち)かどうかは書き落としただろうか。
続いて『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。
吉祥庵、府志ニナシ、覚書ニ寺内九畝二十步備前検除、赤津村雲興寺ノ末寺
当寺書上ニ境内九畝歩備前検除、外ニ山長三十間横十五間前々除、此寺草創ノ由来ハ不詳、再建ハ正保年中也、多門山ト号ス権現 山神覚書ニ社内一町一段二畝四歩山方ノ内当村祢宜久太夫持分
社人大塚久太夫書上ニ、座王権現、八幡、八王子三社境内一町四方年貢地、白山社内一段歩此社元禄年中勧請ス、秋葉社内五畝歩此社元禄年中勧請ス、オノ神社内一歩此社元禄年中勧請ス、山神社内十歩勧請年紀ハ不知、何レモ年貢地ナリ
府志日、蔵王祠、在上半田川村、創建年紀不詳、元和七年村民重修之
摂社八幡祠八王子祠
吉祥庵は後回しにして、神社の方を見てみる。
権現を管理していたのは上半田川村祢宜の大塚久太夫で、昭和にこのあたり一帯の宮司を務めていたのが大塚正蔵氏(現在は未確認)なので、明治、昭和以降も大塚家がずっと社家として続いているということか。
その大塚久太夫書上によると、座王権現、八幡、八王子、白山、秋葉、オノ神、山神があり、いずれも年貢地といっている。
これはどういうことなのだろうと、ちょっと考えてしまう。
八幡と八王子は権現の摂社のようで、白山、秋葉、オノ神、山神が独立してあったらしい。
秋葉と山神はともかく、オノ神とはどんな神なのか。斧の神なのか違うのか。初めて見たと思う。
すべて年貢地というのも珍しいというか、なかなかない。
白山、秋葉、オノ神は元禄年中(1688-1704年)勧請といっているので年貢地なのは納得がいく。しかし、権現まで年貢地というのは解せない。どういう事情だったのか。
それと引っ掛かったのは”座王権現”の表記だ。
『張州府志』(1752年)では”蔵王祠”となっているので大和の吉野の蔵王権現を祀る社と考えるのが自然なのだけど、”座王”となると話が違ってくる。
座は”すわる”、”います”なのに対して、蔵は”くら”、”おさめる”、”かくれる”なので意味が違う。
もともと”座王”だったのであれば、吉野の蔵王権現とは関係なく、この地方の王を祀る神社だったとも考えられる。
不確かながらもともと若宮と呼ばれたという話も考え合わせると、権現イコール蔵王権現と決めつけるわけにはいかない。
境内は年貢地で、元和7年(1621年)の修復は村人が行っているということからして、公の神社というよりも村の私的な神社という性格が見える。
だとすれば、吉野から蔵王権現を勧請して祀ったというのはなんとなくしっくりこない。
村の長一族の祖神を祀った社だったと考える方が納得がいく。
白山については面白い情報がネットにあった。
葵エンジニアリング(公式サイト)という会社のサイトに尾張の地名由来のページがあり、そこにこんなことが書かれている。
元禄年間に当村・下半田川村と美濃国笠原村(現:岐阜県笠原町)との間に村境・入会権をめぐる争論が生じ、同14年幕府の評定所へ訴え、尾張側の勝訴となった。
村民はそれを記念して134段の石段を築き白山社を勧請、毎年6月22日には絵図びらきを行っている。
下半田川村とあるのは上半田川村の間違いなのだけど、上半田川村と北の笠原村で境界や山の権利でもめて幕府に訴えて、上半田川村側が勝利したので、それを記念して白山社を勧請したというのだ。
私は未確認なのだけど、そういう裁判記録が残っているのだろう。
元禄14年(1701年)といえば江戸城で松の廊下事件が起きた年だ。
しかし、どうして白山だったのかは分からない。山の神として菊理媛(キクリヒメ)を祀るという意識があったかどうか。
最後に『尾張志』(1844年)も見ておこう。
蔵王社 上半田川村にあり 創建の年紀不詳元和七酉年村民修復す 末社に八幡社八王子社あり
幸神ノ社 山神ノ社 この二社も同村にあり
ここでは”蔵王社”となっており、創建は不明といっている。
唐突に”幸神ノ社”というのが出てきたけど、これは”オノ神”のことかもしれない。
”サイノカミ”のことで、”塞ノ神”と書いた方が分かりやすい。
塞ノ神は下半田川にもあるので、そちらで書くことにしたい。
上半田川村についての補足と遺跡のこと
『尾張徇行記』は1822年当時の上半田川についてこんなふうに書いている。
此村落ハ、東西へ長ク、濃州岩村領柿野村ノ方ヨリ雨沢川村中ヲ西へ流レ、四方山ニテ囲ミ、其山間十町ホトモアリテ、田畝地面高低アリ、農屋ハ川ノ南北ニ散在シ細民ハカリ也、農業ヲ専ラ生産トシ、風俗質朴ナル所ナリ、土ハマツチ也、此アタリニテ田ヲ培養スルニ、土糞ニハ多クコクサヲ用ヒ、就中ソダメノ葉至テヨシト也
蛇ケ洞川のことを当時は雨沢川と呼んでいたようだ。
雨沢川は岐阜県土岐市鶴里町雨沢付近を起点とする川で、蛇ケ洞川と合流しているのだけど、この頃はそのまま雨沢川といっていたのだろう。
四方を山に囲まれた起伏のある土地で、質素ながら土壌は良いといっている。
現代の感覚からすると辺鄙な土地という認識なのだけど、集落ができた当時がどうだったかはよく分からない。上手く想像できない。
遺跡については上半田川遺跡で時代区分不明の遺物が見つかっている他、縄文時代の石器なども見つかっているそうなので、品野などと同時代から人が暮らしていた可能性はある。
尾張地方と信州地方をつなぐ道が古くからあったとすると、その中継地として集落が生まれたのは自然というか必然だったかもしれない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
ほとんど陸の孤島のように見えるけど、北西の下半田川村と南の上品野村とは細い道が通じていたようだ。
それにしても、どちらへ行くにも山越えになるので大変だ。行き来はそう簡単ではなかったはずだ。
集落は川を挟んで南北にあり、中心は金峯山寺や吉祥寺の南あたりだっただろうと思う。
川南や少し離れた東にも飛び地集落があり、これは現在も変わらない。
地図は1968-1973年(昭和43-48年)に飛ぶのだけど、このときまでに名古屋学院大学(昭和43年に移転)と品野台ゴルフ場(品野台カントリークラブ/昭和44年)ができている。
何もなかった山を切り開いて作ったのだけど、どうしてここだったのだろう。
この工事で遺跡が見つかったという話はないようだけど、なんとなく遺跡隠しの匂いがする。
村名(町名)の変遷についても書いておくと、市制・町村制が施行された明治22年(1889年)に上半田川村は上品野村に編入され、明治39年(1906年)に上品野村・下品野村・掛川村が合併して品野村となった。
大正13年(1924年)に品野村は品野町となり、昭和34年(1959年)に瀬戸市に編入された。
上半田川町の成立は昭和39年(1964年)のことだ。
2024年(令和6年)現在、世帯数は95、住人は180人とのことなので、江戸時代前期の19軒102人と比べても激増とまではいえない。
更に補足で吉祥寺のこと
後回しになっていた吉祥寺について少しだけ。
江戸時代前期の1630年(寛永7年)にできた吉祥庵が始まりで、江戸時代後期の1841年(天保11年)に雲興寺34世の瑞応慧琳によって再興されたと瀬戸ペディアは書いているのだけど、本当だろうか。
『寛文村々覚書』(1670年頃)に「禅宗 赤津村雲興寺末寺 吉祥庵 寺内九畝弐拾歩 備前検除」とあることからして、少なくとも備前検地が行われた1608年にはすでにあったと考えられるので、1630年に開創というのはちょっと当たらない。
そもそも、集落があれば必ず寺は必要なわけで(葬式もしないといけないし墓も不可欠だ)、上半田川には他に寺がないことから、吉祥庵の創祀は相当遡ると考えるのが自然だ。
本尊は行基作と伝わる毘沙門天像ということからしても、少なくとも奈良時代には元になる寺がったのではないか。
それにしても、ここでもまた行基が出てくる。瀬戸は行基の伝承がとても色濃い土地だ。
『尾張徇行記』は以下のように書いている。
吉祥庵、府志ニナシ、覚書ニ寺内九畝二十步備前検除、赤津村雲興寺ノ末寺
当寺書上ニ境内九畝歩備前検除、外ニ山長三十間横十五間前々除、此寺草創ノ由来ハ不詳、再建ハ正保年中也、多門山ト号ス
草創の由来は不詳で、再建は正保年中(1644-1648年)といっている。
金峯神社と祭神
全国にどれくらいの金峯神社があるかは知らないけど、一般的に金峯神社というと大和吉野の金峯山寺(公式サイト)や金峯神社から勧請したとするところが多い。
そういう神社はたいてい蔵王権現や蔵王社と称していただろうと思う。
蔵王権現を祀っていた神仏習合の神社は明治の神仏分離令を受けて名を変え、祭神変更を迫られた。
特徴的なのは、金山毘古(カナヤマヒコ)を祀るとしたところと、安閑天皇(アンカン)を祀ることにしたところに分かれることだ。
奈良県吉野の金峯神社は前者で、新潟県長岡市の金峯神社(公式サイト)などもそうだ。
一方の安閑天皇は岐阜県安八郡の金峯神社や鹿児島県南さつま市の金峯神社などがある。
山形県鶴岡市の金峯神社(公式サイト)は少彦名神、大国主神、事代主神とともに安閑天皇も祀っている。
上半田川の金峯神社は後者ということになる。
どうして安閑天皇にしたかについては少し説明が必要だ。
安閑天皇については神様事典のザオウゴンゲン(蔵王権現)の項に書いたので詳しくはそちらを読んでいただくとして、神仏習合時代に蔵王権現と習合したというの一つ、もう一つは諡号が広国押武金日天皇で”金”が入っているためだ。
一般的に蔵王権現は役行者(えんのぎょうじゃ)が吉野の金峯山(吉野山)で感得したのが始まりとされるのだけど、個人的にこの話は信じていない。吉野山に対する信仰が奈良時代に始まったわけがなく、もっとずっと古いはずだからだ。
蔵王権現の思想ももっと古いに違いない。
それはともかくとして、どうして蔵王権現と安閑天皇が結びついたかだ。
安閑天皇は継体天皇と尾張連草香(クサカ)女の尾張目子媛(メノコヒメ)を両親に持ち、皇后は春日山田皇女ということもあり、尾張にゆかりが深い。
公式に皇子はいないとされるものの、『本朝皇胤紹運録』には豊彦王(トヨヒコ)がいたとあり、”豊”の彦というのは三河とのつながりも思わせる。
この安閑天皇が蔵王権現と習合したいきさつについてははっきりしない。
江戸初期の学者・林羅山が書いた『本朝神社考』に安閑天皇の崩御4年後に金峯山に現れた蔵王権現が自ら吾は廣国押建金日命なりと名乗ったという話があり、そこから一般に知られるようになったのかもしれないけど、元ネタとしては古くからあったはずだ。
吉野の地名は名古屋市東区の芳野から移(写)したという話を聞いていて、その芳野にある片山神社は江戸時代まで蔵王権現と称していた。
その片山神社は役行者が開いたという話があり、今でも蔵王権現と安閑天皇を祀っている。
ほとんどの人は信じないだろうけど、蔵王権現も安閑天皇も、尾張の芳野にルーツがあるのかもしれない。
もしそうだとすれば、尾張の北東の境にある上半田川で蔵王権現を祀ることも無関係ではないだろう。
少なくとも、上半田川の人間が大和の吉野から蔵王権現を勧請して祀ったと考えるよりも可能性がありそうな気がするけどどうだろう。
個人的な感想と感覚
上半田川には中世の落ち武者伝承があるそうだ。
平安末の平家とかなのか、戦国時代の武将なのかによって全然違ってくるのだけど、この話を聞いてなるほどと腑に落ちた部分がある。
それはこの集落が閉ざされている感じがしたからだ。
上の方で陸の孤島と書いたのだけど、それは地理的なことだけではなく集落の雰囲気がそう感じさせたのだった。
神社がすべて年貢地になっていたり、蔵王社を村人たちが修繕したりといったこともそれを物語っているように思う。
独立独歩といもいえるのだけど、同時にそれは外に対して閉じているという見方ができる。
ここまで書いてきたように、上半田川の金峯神社は大和吉野の蔵王権現ではない気がする。
若宮と呼ばれていたという話もずっと引っ掛かっている。
この集落がいつ頃誕生したのかを推測するのは難しいのだけど、ルーツが縄文時代にあるのであれば、もともと祀っていたのは自分たちに近しい何らかのカミだっただろう。
権現(ごんげん)というのは、仏が神の姿で仮に現れたものというのが一般的な解釈なのだけど、そんな本地垂迹(ほんじすいじゃく)を持ち出すまでもなく、もっとざっくりとした通称のようなものだったのではないか。
たとえば一族の祖とされる人物に対する共通の呼び名、あるいは共通認識といったものだったかもしれない。
御前様とか、親方とか、ご隠居などに近いだろうか。
偉い人や目上の人間を名前で呼ぶのは失礼という考え方は現代も残っている。平社員が社長を名前で呼ぶことはしないし、天皇の諱を口にしたりもしない。
そういうことでいうと、上半田川の金峯神社は祖霊崇拝に近い神社のような感じがある。
神社はどこもそうだけど、時代とともに性格が変わり、名前を変え、祭神も変わっていった。どこかの部分だけを切り取って本質を語ることはできない。
中世から近世にかけて蔵王社と呼ばれていたのだから、その時代は蔵王権現を祀るという意識だったのだろう。
ただ、それがすべてではないということだ。
これはあくまでも私個人の感覚であり、まったくの的外れかもしれない。
それでも、こうして思いを巡らせたことは無駄ではなかったと思っている。
一期一会で記憶に残らない神社もたくさんある中で、上半田川の金峯神社のことは印象に残った。
集落の入り口から見た田んぼ風景や、神社の鳥居あたりの光景はこれからも私の中に残り続けるのだと思う。
作成日 2024.12.31