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八幡社(長須賀)


不思議で印象に残る神社



長須賀八幡社

読み方はちまん-しゃ(ながすか)
所在地名古屋市中川区長須賀2丁目801 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十三等級
祭神日本武尊(ヤマトタケル)
息長足姫命(オキナガタラシヒメ)
磐長姫命(イワナガヒメ)
竹内宿祢(タケウチノスクネ)
誉田別尊(ホムタワケ)
足仲彦命(タラシナカツヒコ)
大鷦鷯命(オオサザキ/仁徳天皇)
大名持命(オオナモチ)
事代主命(コトシロヌシ)
アクセスJR関西本線「春田駅」から徒歩約28分
近鉄名古屋線「伏屋駅」から徒歩約12分
駐車場なし
祭礼・その他例祭 10月4日
神紋
オススメ度**
ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)
一風変わった長須賀の八幡社は一見の価値あり

 不思議な姿をした神社だ。こんな神社は見たことがない。
 交通量の多い交差点近くにありながら周囲をほとんど囲っていないため、神社が持っているはずの気といったものがまるで保たれていない。境内を風が吹き抜けている。この上なく開けっぴろげで、晒され感がすごい。うちは隠し立てするものは一切ありませんからと主張するかのようだ。
 しかしながらというかだからというべきか、社殿はびっちりふさいでいて外からは一切うかがい知れないようになっている。境内とは対照的に人を寄せ付けない。
 全面板張りというのか変わった建築で、ほとんど隙間といったものがない。拝殿と本殿は連結されており、連結部も完全にふさがっている。
 これでは中で神様は息苦しいんじゃないかと思った。風が通らないので、冬は暖かそうだけど夏は暑いだろう。中に入っている神様の数も多い。
 いろいろ神社を見てきたけど、斬新さという点では他に類を見ないオリジナリティがある。
 新しい神社かといえばそうではなく、棟札や江戸時代の書からも江戸時代以前にはすでにあったことは間違いない。

 地形的にいうと、庄内川の河口に近い右岸に位置しており、かつては低湿地帯だった。
 ただ、平安時代初期には開発が始まったというから歴史は古い。11世紀末には富田荘(とみたのしょう)が成立して、近衛家の荘園になった(一部は綾小路家)。
 鎌倉時代後期の1327年の地図には長塚村の集落に八幡社は描かれていない。創建は室町時代以降ということになるだろうか。
『尾張国地名考』の中で津田正生(つだまさなり)は、「長須賀村 長き砂処(すか)の處(ところ)なり」と書いている。
 庄内川が運んできた土砂によってできた土地という意味だろう。
 しかしながら集落として古いとすると、もっと別の由来のような気もする。
 ”須賀”というと、なんとなく須佐之男(スサノオ)を連想させる。

 変わっているもうひとつの点は祭神の多さと顔ぶれだ。
 八幡社といいながら関係のない祭神が集められている。もともと八幡社ではなかったのか、途中で増えたのか。
 誉田別尊(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)大鷦鷯命(仁徳天皇)は八幡社関係の神だけど、日本武尊(ヤマトタケル)と足仲彦命(仲哀天皇)親子はどこから来ているのだろう。しかも、日本武尊が一番先頭に来ている。熱田神宮関係なのか別のところなのか。
 大名持命(大国主)事代主命(コトシロヌシ)のセットは出雲の神で、名古屋ではあまり祀られていない。熱田神宮(公式サイト)の境内摂社・上知我麻神社(かみちかまじんじゃ/熱田神宮内サイト)の末社で祀られてはいる。
 神社の由緒書きに「竹内大臣」とあって、誰だ、竹内大臣って、と思ったら、武内宿禰(タケウチノスクネ)のことだった。これもどういう経緯で祀られることになったのか分からない。
 一番不思議なのは、この中に磐長姫命(イワナガヒメ)が入っていることだ。大山祇神(オオヤマツミ )の娘で木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ )の姉に当たる。
 天孫の 瓊々杵尊(ニニギ)に妹の木花開耶姫と一緒に嫁ぐことになるも、美しい妹と違って醜かったため瓊瓊杵尊に突き返されてしまう。磐長姫は長寿の象徴なのに、それを拒否した天孫族は寿命が短くなるだろうと父親の大山祇神は怒って呪いの言葉を吐いた。
 その後、磐長姫がどうなったのかは描かれていない。
 全国の浅間神社で木花開耶姫とセットで祀られることはあっても単独で祀っているところは少ない。静岡県松崎町の雲見浅間神社(公式サイト)や、静岡県伊東市の浅間神社(公式サイト)、岐阜県岐阜市の伊豆神社(公式サイト)などだ。どうやら伊豆とゆかりが深いらしい。
 名古屋で磐長姫を祀っている神社はここしかない。

作成日 2017.6.14(最終更新日 2025.8.12)

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