神武天皇以前
初代神武天皇の即位前の名前とされるのがカムヤマトイワレビコだ。 『古事記』では神倭伊波礼毘古命、『日本書紀』では神日本磐余彦天皇と表記される。 『古語拾遺』は最初から神武天皇としており、『先代旧事本紀』は皇孫本紀で磐余彦尊とし、天皇本紀では神日本磐余彦天皇、または彦火火出見尊とし、幼名を狭野尊(サヌ)といっている。 記紀その他の日本神話では、日向で生まれ育ち、大和へと向かう途中で大変な苦労をして、大和で初代神武天皇として即位した物語りが語られる。
記紀のやむにやまれぬ嘘
いきなりだけど、『古事記』、『日本書紀』の作者たちは典型的な嘘つきの特徴をよく表している。 嘘をつくときは必要以上に口数が多くなり、言いたくないけど言わなくてはいけない本当のことは何気ない言葉でボロが出るように漏らし、本当にまずいことはだんまりを決め込む。 記紀ともにカムヤマトイワレビコ(神武)東征の話をやたら詳しく書いている。これはもうどう考えても嘘というか作り話だ。 記紀は真実に基づく物語(based on a true story)だろうけど、テレビドラマでよく見かけるように、「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」でもある。 これは断言してもいいのだけど、記紀は人物名や地名を実際のものとは変えている。だから、カムヤマトイワレビコが日向から大和に”東征”したというのも本当ではない。 あるいは、日向は九州の宮崎ではないし、大和は奈良県でもない、と言った方がいいかもしれない。 語られている話も当然ながら事実そのものではない。
カムヤマトイワレビコという名前は明らかに個人名ではない。カム(神)は神一族、ヤマトは日本国、イワレは大和地方の古名、ヒコは男という意味で、名前に実体がない。日本武尊(ヤマトタケル)や大国主命(オオクニヌシ)などと同じだ。 では、カムヤマトイワレビコというのはまったく架空の人物かといえばそうではない。天皇制というものが存在する以上、初代天皇は必ずいるし、それが天皇制以前だとしても、それに相当する人間はいた。 カムヤマトイワレビコの物語は、ヤマト王権の成立過程を物語仕立てにしたものというのが実際のところだろう。 国譲りという名の権力の強奪の話と言い換えてもいい。 誰が誰から権力や土地を奪ったのか? それはある意味ではとても具体的で、現実に誰かが誰かを殺してその地位を奪ったということがあったのだろう。 そのことがあったから、カムヤマトイワレビコという架空の人物像を作り出して物語仕立てにして語るしかなかった。 ”誰”に当てはまる人物は、我々が別の名前として知っている人物だ。ある種の人たちにとっては公然の秘密と言ってもいいかもしれない。
以上を踏まえた上で、『古事記』、『日本書紀』が何を書いているかを見ていくことにしたい。同時に何が書かれていないかも。 全部が全部創作ではなく、事実を元にしている部分も少なくないだろうし、ヒントはたくさんちりばめられている。 記紀の作者は意味なく嘘をついたのではない。やむにやまれぬ事情があった。その中でも後世に本当のことを伝えたいという誠実さは失っていなくて、そのままは書けないけど察してくださいねというメッセージを我々は読み取らなくてはいけない。 それと、記紀は”日本の歴史書”ではなく、”天皇家の歴史書”だということを忘れてはいけない。客観的な歴史として書かれたものではなく、あくまでも天皇家側から見た歴史ということだ。 だからといって、天皇家にとってまずいことは書かなかったとかそういう狭い了見で書かれたものではない。言うなれば大事なものを守るための嘘だった。 書かれていないことにこそ重要な真実が隠されているといのはそういうことだ。
『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』が伝える系譜の違い
天孫の天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(ニニギ)が大山津見神(オオヤマヅミ)の娘の神阿多都比売(カムアタツヒメ/木花佐久夜毘売)と出会って火照命(ホデリ)、火須勢理命(ホスセリ)、火遠理命(ホオリ/天津日高日子穂穂手見命)が生まれ、このうち末っ子の火遠理命が海神(ワタツミ)の娘の豊玉毘売命(トヨタマヒメ)と結婚して天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズ)が生まれた。 そのウガヤフキアエズとトヨタマヒメの妹の玉依毘売(タマヨリヒメ)が結婚して五瀬命(イツセ)、稲氷命(イナヒ)、御毛沼命(ミケヌ)、若御毛沼命(ワカミケヌ)の四兄弟が生まれる。 後に神武天皇となるカムヤマトイワレビコは四男、末っ子の若御毛沼で、別名として豊御毛沼命(トヨミケヌ)、または神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)ともいった。 三男の御毛沼命は海を越えて常世の国へ行き、二男の稲氷命は母の国の海原へ行ってしまったため、長男と末っ子が残されることになった。 以上が『古事記』の語るカムヤマトイワレビコ誕生から東征前までの物語だ。 まずはここまでを把握しておいて、次に『日本書紀』がどう書いているかを見てみる。
まず第九段本文では天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)と鹿葦津姫(カシツヒメ/神吾田津姫/木花之開耶姫)との間の子供が『古事記』と違っている。 ここでは火闌降命(ホノスソリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、火明命(ホノアカリ)が生まれたといっており、兄弟構成が異なっている。 火須勢理命と火闌降命は共通で、火遠理命(ホオリ)の別名を天津日高日子穂穂手見命としているから彦火火出見尊と共通とすると、『古事記』がいう火照命は火明命のことということになる。 ただ、それでも順番が違っている。 第九段一書第二では、火酢芹命(ホノスセリ)、火明命、彦火火出見となっていて、順番の違いが見られる。 他にも異なった系譜について一書で紹介しているのだけど、ややこしくなるのでここでは省略する。 彦火火出見尊と豊玉姫との間に彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズ)が生まれたところまでは第十段の本文で、第十一段本文にウガヤフキアエズの子の系譜を簡潔に書いている。 妻となったのはトヨタマヒメの妹の玉依姫で、彦五瀬命(ヒコイツセ)、稻飯命(イナイイ)、三毛入野命(ミケイリノ)、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ)が生まれたという点については『古事記』と共通している。名前が少し違っているだけで順番も同じだ。 一書の第一から第四までに兄弟の異伝を伝えているのだけど、気にしておく必要があるのは一書第二の幼名を狹野尊(サノ)というといっている点だ。何かを暗示していそうだけどよく分からないので保留としたい。 一書第四では磐余彦火火出見尊(イワレヒコホホデミ)を二男としている。 磐余彦と火火出見をくっつけた名前になっている点に少し引っかかりを感じる。
ついでに『先代旧事本紀』も見ておくと、「皇孫本紀」のコノハナサクヤヒメ(木花開姫/豊吾田津姫/鹿葦津姫)の生んだ子供のところで火明命、火進命、火折命、彦火々出見尊の四兄弟としておきながら、山幸・海幸の話では兄の火酢芹命を海幸彦命といい、弟の火折命またの名を彦火々出見尊を山幸彦として物語を展開させている。火折命と彦火々出見尊を一緒にして火明命がどこかへ消えている。 山幸彦の彦火々出見尊が海神(ワタツミ)の娘のトヨタマヒメと結婚して彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊が生まれ、トヨタマヒメの妹の玉依姫命との間の子として五瀬命、稲飯命、三毛野命、磐余彦命を挙げるのは『古事記』、『日本書紀』と共通している。
意外と遅かった神武東征
神武東征について、まずは『古事記』から読んでいく。 カムヤマトイワレビコ(神倭伊波礼毘古命)は兄の五瀬命(イツセ)と高千穂宮にいて、どこへ行けば平和に国を治められるだろうかと相談してやはり東だろうということになり、日向を出て筑紫に向かったというところから神武東征の話が始まる。 二男の稲氷命と三男の御毛沼命は出てこないので、このときすでに死んだことになっているようだ。 『古事記』は神武東征の年を書いていないのだけど、『日本書紀』は45歳のときと書いている。出発が遅くないか? と思うのだけど、そういう設定にしたのは何か意味があるのだろう。 東征の話は長いので簡単に要約する。 ルートとしては九州を北上して海を渡り、瀬戸内海沿いを進んで大和に向かったという書き方をしている。 途中、安芸で7年、吉備で8年も滞在しているので、一気に攻め上ったという感じではない。旅行でも移住でもなく、安住の地を求めてさすらったというようにも受け取れる。天照大神(アマテラス)を祀る場所を探して各地を巡った倭姫命(ヤマトヒメ)の話にも通じる。 何人かとの出会いがあり、浪速渡(なみはやのわたり)を通って白肩津(しらかたのつ)で船を泊めると、そこに登美(とみ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が待ち構えていた。 白肩津は今の東大阪市日下あたり、登美は生駒山の西、奈良県富雄町のこととされるのだけど、最初にも書いたように記紀は地名を変えているのでその通り受けることはできない。 それはともかく、このナガスネヒコがカムヤマトイワレビコ最大の敵として行く手を阻むことになる。 初戦において兄の五瀬命はナガスネヒコの矢を受けて負傷し、その傷が元で命を落としてしまう。 その後、一行は南へと下り、熊野村では全員が気を失い、高倉下(タカクラジ)がもたらした横刀(佐士布都神/甕布都神/布都御魂)によって危機を脱し、道に迷ったところを八咫烏(ヤタガラス)に助けられ、そのほかあれこれあって、いよいよ登美毘古(登美のナガスネヒコのこと)との決戦を迎えることになるのだけど、その前に歌を歌ったりしていると、ここで唐突に、邇芸速日命(ニギハヤヒ)が一行の元にやってきて、なんだか知らないうちにイワレビコは荒ぶる神たちを説得したり撃退したりして畝火(うねび)の白祷原宮(はしはらのみや)で天下を治めましたと話が完結してこちらはあっけに取られてしまう。 ナガスネヒコの決戦シーンがナレーションで終わった? 途中でつまらなくなった連ドラが打ち切りになって急に最終回を迎えたような尻すぼみで、なんでこんなことになってしまったんだろうと戸惑う。これなら途中の長々した話はいらなかっただろうと思う。 それとも、何か書けない理由があったのだろうか。
『日本書紀』は神武天皇記の人代から基本的に一書がなくなって一本道の話になる。異伝については本文の中でその都度挿入する格好になっている。 神武東征について、『日本書紀』は『古事記』以上に細々とした出来事を長々と書いている。こんなちっちゃいエピソードいるかなという話もある。 即位前紀として、15歳で太子となり、日向国の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(アヒラツヒメ)をめとって妃とし、手硏耳命(タギシノミミ)が生まれたといっている。 しかし、第二代綏靖天皇(すいぜい)になるのはこの手硏耳ではなく、橿原宮で即位した後に皇后とした媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の子の神渟名川耳尊(カムヌナカワミミ)だった。 神渟名川耳尊の兄に神八井命(カムヤイ)がいるのだけど、こちらも天皇にはなっていない。 しかし、『日本書紀』は東征に出たのが45歳のときで、途中何年もかかって大和に至っているから、神渟名川耳尊は神武天皇が高齢になってからの子ということになる。そのあたりの矛盾をいちいち指摘していたらきりがないのだけど、どうしてこういう整合性のない話になったのかが疑問だ。その気になればもっと話を上手く作れただろうにそうしなかったということは、このあたりにも何らかの意図があったと汲むべきだろう。 即位したという辛酉年を西暦にすると紀元前660年になって、これも現実的とはいえないのだけど、この年に設定したことには何か意味があるに違いない。 『日本書紀』はおかしなところだらけに見えても実際は緻密に計算して細かい部分まで作り込んでいる。適当に書いているところはほとんどないと思うべきだ。
話を元に戻すと、東征の理由について、『古事記』は平和に国を治めるための土地を探して東に向かったといっているのに対して、『日本書紀』では鹽土老翁(シオツチノオジ)から東に良い国(美し国)があると教えてもらって、そこには饒速日(ニギハヤヒ)がいるだろうからそこを都にしようということになって出発したことになっている。 なんとなく東に向かった『古事記』と、ニギハヤヒから国を奪ってしまうことを目的とした『日本書紀』とでは設定が大きく違っている。 この点はひとつ、押さえておくべきポイントだ。
東征の途中でいろいろな国津神と出会ったり、安芸国や吉備国に滞在したり、長髄彦(ナガスネヒコ)との初戦で兄の五瀬命が命を落としたりといった話の筋は『古事記』と共通している。細かい比較をすればあれこれ違いがあるのだけど、そのへんはあまり意味がないのでここではしない。 大きな違いとしては、『古事記』では東征の前に兄たちは亡くなっていたのに対して『日本書紀』では稻飯命(イナイ)と三毛入野命(ミケイリノ)は共に東征に参加しており、ふたりは熊野の海で死んだことになっている。 この時点で生き残りはカムヤマトイワレビコと一人息子の手硏耳命(タギシノミミ)だけとなった。 この後、更にピンチに陥った一行に高倉下を通じて韴靈剣(フツノミタマ)や頭八咫烏(ヤタガラス)がもたらされて危機を脱し、兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)の話があり、八十梟帥(ヤソタケル)との戦いの後(この話がまた長い)、ようやく長髄彦との再戦の場面となる。 『古事記』はここで唐突な終わり方をしているのだけど、『日本書紀』はちゃんと最後まで描いている。 原文は”皇師遂擊長髄彦、連戰不能取勝”と、何度戦っても勝てなかったといっている。 そこへ吉兆をもたらす鵄(鳶)がやってきたことで一行は戦意を取り戻し、久米歌を歌って盛り上がる。 南宮大社(web)の社伝ではこの鵄を南宮山に祀ったのが神社の始まりといっている。 この後、和平交渉となるも、長髄彦側がカムヤマトイワレビコを信用できないということで交渉は決裂となる。 事態を動かしたのは長髄彦の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ/鳥見屋媛)をめとって可美眞手命(ウマシマデ)が生まれていた饒速日命(ニギハヤヒ)で、抵抗をやめない長髄彦を殺して饒速日命は一行に従ったという。 ここでも強引な国譲りを美談に仕立てている。 しかし、話はここで終わらず、新城戸畔者(ニイキノトベ)や居勢祝(コセノハフリ)、猪祝(イノハフリ)、磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)といった人々との戦いが描かれ、ようやく畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)に宮を建てたのは東征に出てから6年後のことだった。
即位後に神武天皇がやったことに関してはこれといったものがない。 東征のときに功績のあった者たちに褒美を与えたり、即位31年に国見をして感慨にふけったりしたくらいだ。 即位42年にようやく神渟名川耳尊(カムヌナカワミミ)を皇太子に立て、即位76年に127歳で崩御したと『日本書紀』は書いている(『古事記』は137歳)。
カムヤマトイワレビコの婚姻と子供たちについて
カムヤマトイワレビコ(神武天皇)系譜は記紀に違いがある。 『古事記』は、日向にいたときに阿多の小椅君(オバシノキミ)の妹の阿比良比売(アヒラヒメ)をめとって多芸志美美命(タギシミミ)、岐須美美命(キスミミ)が生まれたとし、神武天皇即位後に富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)をめとって日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカハ)の3人が生まれたといっている。 一方『日本書紀』は阿比良比売(アヒラヒメ)との間の子供を多芸志美美命(タギシミミ)のみとし、媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)との間の子を神八井命(カムヤイ)と神渟名川耳尊(カムヌナカワ)の2人とする。 『古事記』がいう岐須美美命と日子八井命が抜け落ちてしまっている。 『日本書紀』は後出しじゃんけんだから、意図的に省略したと見るべきだろう。初代神武天皇の子の系譜だから、あまり重要人物ではないから省略したなどということは考えづらい。 これらの子を書かなかった理由は何なのだろう。
『古事記』によると、神武天皇の死後、アヒラヒメ(阿比良比売)の子のタギシミミ(多芸志美美命)が義理の母に当たるイスケヨリヒメ(富登多多良伊須須岐比売命)をめとって、イスケヨリヒメの子の三兄弟を殺そうと企んで返り討ちに遭って殺されてしまうという事件が起きる。 このとき兄のカムヤイミミ(神八井耳命)はタギシミミを殺そうとして手が震えて殺せず、弟のカムヌナカハミミ(神沼河耳命)が殺したことで兄は弟に天皇を譲ったというのが『古事記』の展開だ。 『日本書紀』ではタギシノミミ(手硏耳命)が皇后のイスケヨリヒメ(媛蹈韛五十鈴媛命)をめとったことにはなっていない。はばかられて省略したか。 タギシミミが神武天皇の喪中(諒闇)に二人の弟を殺そうと企むも発覚し、カムヤイミミは殺せず弟のカムヌナカハミミが殺して綏靖天皇として即位したという展開は共通している。 しかしながら、これらの話は結果的に即位した人物に合わせて作られた話で、実際にあった出来事ではないだろうと思う。
『古語拾遺』は神武東征から即位までをごく簡潔に書いているだけだ。 功績のあった日臣命(ヒノオミ)や饒速日(ニギハヤヒ)、椎根津彦(シイネツヒコ)、八咫烏(ヤタガラス)などの名を挙げているのは、これらの後裔の氏族が現在(平安時代初期)不当に扱われていることを訴えるためだっただろう。 この後、大嘗祭などの祭祀における忌部氏の役割について述べ、次は第10代崇神天皇(磯城瑞垣朝)に飛んでしまう。
『先代旧事本紀』の系譜や神武東征は『日本書紀』と『古事記』をあわせたような内容になっている。 違いとしては、長髄彦(ナガスネヒコ)を殺したのがニギハヤヒではなくニギハヤヒの子の宇摩志麻治命(ウマシマジ)になっている点だ。 神武天皇即位後にウマシマジは天皇側近として活躍したことが書かれている。 神武天皇の子供としては、吾平津媛(アヒラツヒメ)との間に手研耳命(タギシミミ)が、媛蹈鞴五十鈴姫命(イスズヒメ)との間に神八井耳命、神渟名川耳尊、彦八井耳命がいたと書いている。 『古事記』がいうアヒラツヒメとの間の岐須美美命(キスミミ)は抜けているものの、『日本書紀』では抜けている日子八井命(ヒコヤイ)が彦八井耳命として入っている。
神武天皇の関係系譜
神武天皇の後を継いで第2代綏靖天皇になったのは、天皇即位後に皇后としたイスズヒメとの間にできたカムヌナカハだったという点においては『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』とも共通している。 神武天皇の子供に関してはそれぞれの書によって違いがあることは上に書いた。 共通しているもう一点は、カムヤマトイワレビコ時代にできたタギシミミに子供がいなかったということだ。記紀ともに後裔についての記述はなく、『先代旧事本紀』は子孫はないと書いている。 それぞれの子供たちの後裔について、それぞれの書は以下のようになっている。
『先代旧事本紀』
神八井耳命 意保臣(おお)、島田臣(しまだ)、雀部造(さざきべの)等の祖
彦八井耳命 茨田連(まんだ)等の祖
『古事記』
神八井耳命 意富臣、小子部連(ちいさこべ)、坂合部連(さかあいべ)・火君(ひ)、大分君(おおいた)、阿蘇君(あそ)、筑紫の三家連(みやけ)、雀部臣(さざきべ)、雀部造、小長谷造(おはつせ)、都祁直(つけ)、伊余国造(いよ)、科野国造(しなの)、道(みちのく)の石城国造(いわき)、常道(ひたち)の仲国造(なか)、長狭国造(ながさ)、伊勢の船木直(ふなき)、尾張の丹波臣(にわ)・島田臣(しまだ)等の祖
日子八井命 茨田連、手島連(てしま)の祖
『日本書紀』
神八井耳命 多臣(おお)の祖
『新撰姓氏録』
神武天皇皇子 神八井耳命の後 多朝臣、小子部宿祢、小子部連、島田臣、雀部臣、志紀首、志紀県主、紺口県主、火、肥直、薗部、松津、首、
神八井耳命男 彦八井耳命の後 茨田連、茨田宿祢、茨田連、豊嶋連、下家連
彦八井耳命七世孫 久米津彦大雨宿祢命の後 尾張部
概ね共通しているのだけど、『古事記』は日子八井命の後裔についても書いており、『先代旧事本紀』もそれにならっている(彦八井耳命)。 注目すべきは『新撰姓氏録』で、彦八井耳命を神八井耳命の子としていることだ。 『古事記』は神八井耳命の後裔をたくさん挙げているから、天皇位は継げなかったものの、多くの氏神の祖となったようだ。 神武天皇を架空の存在と考える人もいるけど、平安時代に神武天皇の子供の後裔を名乗る氏族がこれだけいたという事実がある以上、まったくの創作とは言えない。 『古事記』が挙げている日向時代の岐須美美命(キスミミ)の後裔については『古事記』にも記述がないため、不明となっている。
神武天皇を祀る神社の少なさ
神武天皇を祀る一番有名な神社は橿原神宮(かしはらじんぐう/web)だけど、実際に行ったことがある人はそれほど多くないのではないか。 神武天皇が即位したとされる地(奈良県橿原市)に明治23年(1890年)に創建された神社だ。 更に歴史の浅い大正9年(1920年)創建の明治神宮(web)と比べても知名度、人気ともに遠く及ばない。その理由は立地の問題だけではない。 はっきり言って神武天皇は人気がない。家の近所に神武天皇を祀っている神社があるという人はほとんどないことからも分かるように、全国的な信仰の対象となってこなかった。初代天皇なのだからもう少し特別扱いしてもよさそうなのにそうしてこなかった理由はよく分からない。 宮中三殿のうちの皇霊殿も、歴代天皇を祀るということで神武天皇は別扱いになっていない。 神武天皇を祀るとする古い神社は、宮崎県宮崎市の宮崎神宮(web)など、九州に数社あるだけだ。 神武天皇信仰を頑張っているのは九州だけという言い方もできる。 高千穂や日向を九州のことと信じる人たちとって神武天皇ことカムヤマトイワレビコは故郷の自慢だから大事にしたいという気持ちは理解できる。私がもし九州生まれ九州育ちなら、そう信じて疑わなかったかもしれない。 それにしても、記紀や『新撰姓氏録』に神八井耳命の後裔として載っている氏族たちはどうして神武天皇を祖神とする神社を建てなかったのか? という疑問を抱く。 歴代天皇を祀る神社自体が少ないから、天皇は神社で祀る信仰の対象ではないと考えることもできるけど、各氏族たちは自分たちの祖を祀ることを当たり前にやっていたわけで、神八井耳命の後裔たちがそれをやらなかったのは不自然に思える。 やはりカムヤマトイワレビコは別の祭神名で知られる人物だったのではないか。たとえばそれがニギハヤヒだったらどうだろう。そうではなかったとしても、我々は記紀の作者たちにミスリードされているように思えてならない。
神武天皇(神日本磐余彦命)の主な神社を挙げておくと、狭野神社(さのじんじゃ/宮崎県西諸県郡/web)、その境外末社の皇子原神社、皇宮神社(こうぐうじんじゃ/宮崎県宮崎市)、一宮神社(福岡県北九州市)、岡田宮(福岡県北九州市/web)、多家神社 埃宮(広島県安芸郡/web)、神武天皇社(奈良県御所市)、神武天皇社(福岡県遠賀郡)などがある。 こうして見ると、九州と大和、それから広島あたりに限定されていることが分かる。神武天皇東征跡地の伝承もそのあたりに伝わっている。 名古屋(おそらく愛知県内にも)に神武天皇/神日本磐余彦尊を祀る神社はないのだけど、一ヶ所だけ伝承があって、それが東区の物部神社だ。 ここは『延喜式』神名帳(927年)に載る物部神社の論社とされているものの、江戸時代までは石神さんと呼ばれる庶民的な小さな神社だった。社の下に大石が埋まっていて、神武東征の際に尾張国の要石としたものという言い伝えがある。 普通に考えれば作り話でしかないのだけど、神武東征の後、天皇の命を受けた天香具山(アメノカグヤマ)と宇摩志麻遅命(ウマシマジ)が物部の一族を率いて尾張、美濃、越国を平定したという話が石見国一宮の物部神社(web)に伝わっていることからすると、まんざらでたらめではないのかとも思う(詳しくは天香山のページで)。
天皇とは何か
『古事記』、『日本書紀』ともに(『先代旧事本紀』も)カムヤマトイワレビコ東征について必要以上に詳しく書いているにもかかわらず、神武天皇としての事績についてはほとんど何も語っていない。そのせいもあって、我々は神武天皇について知っているようで知らない。イメージに具体性がなく、実体が掴みづらい。 しかし、初代天皇に当たる人物がいたには違いない。そうでなければ天皇制は始まっていない。 天皇制以前の天皇を大王(おおきみ)とするのは明らかに間違っている。大王というのはたくさんいる王の中の代表という意味で、天皇はそれに当たらない。 天皇は民(君)の上にある天主であり君主だ。王と同列ではない。 何をもって天皇を特別とするかの定義は難しいところなのだけど、別格であるとしなければ天皇制は成立しない。 首相や大臣などがよく国民の皆さんなどと口にしているけど、おまえも国民だろうと言いたくなる。天皇は国民ではなく、国民の上(または外)に在る。だから天皇だけが国民に対して国民という資格がある。 王は国民の代表だけど天皇は国民の代表ではないということだ。 それは中国にも朝鮮にも他の王国にもない日本独自の思想で、だから天皇は交代という概念が存在しない。王朝交代説などというものも、天皇制の本質をまったく理解してない人間の論理だ。 権力は常に入れ替わる。しかし、権威としての天皇が入れ替わることはない。たとえば、足利義満も織田信長も絶対に天皇にはなれない。そういうことだ。 いつどのように天皇というものが誕生したのかについてはテーマが大きすぎてここでは語りきれないけど、初代神武天皇という存在もしくは概念は絶対的で決定的なものだ。 日本国を語る上でもここは必ず通らなければならない。 あらたに天皇が即位が際は神武天皇陵(畝傍山東北陵/うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に必ず挨拶に出向く。それは決して形だけのものではないし、儀式や習慣というだけでもない。 神武天皇は今も確かに実在し、現在までつながっている。日本国が存続する限りそれは今後も変わることはない。
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