『古事記』と『日本書紀』で食い違う記述
『古事記』では天宇受売命(天宇受賣命)、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。 『古事記』、『日本書紀』で天宇受売命/天鈿女が登場するのは二ヶ所。天照大神の岩戸隠れの場面と、瓊瓊杵尊(ニニギ)の天孫降臨のところだ。 しかし、その描かれ方はかなり違っている。
『古事記』における天岩戸隠れと天宇受売命
『古事記』によると、須佐之男命(スサノオ)は伊邪那岐神(イザナギ)の言うことを聞かずに亡き母の伊邪那美神(イザナミ)恋しさから妣の国根の堅州国に行きたいと駄々をこねるので根の国に行ってしまえと追放処分となり、その前に姉のいる高天原に挨拶に行き、国を奪われると武装して待ち構えていた天照大神と誓約(うけひ)で身の潔白を証明することになった。 それが上手くいって調子に乗った須佐之男は高天原で好き放題暴れまわり、怒った天照大神は天岩戸にこもってしまった。 その後、こう続ける。 「是を以ちて八百万の神、天安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日神の子、思金神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」 天安の河原に神々が集まって、高御産巣日神(タカミムスビ)の子の思金神(オモイカネ)が知恵を出して天照大神が出てきてもらう作戦を練ったということだ。 天津麻羅(アマツマラ)と伊斯許理度売命(イシコリドメ)が鏡を作り、玉祖命(タマノオヤ)が勾玉を連ねた首輪を作り、天児屋命(アメノコヤネ)と布刀玉命(フトダマ)が占いをして祝詞を唱え、天手力男神(アメノタヂカラオ)を岩戸のそばに隠れて立たせ、準備は整った。ここで天宇受売命(アメノウズメ)の登場となる。 「天宇受売命、天の香山の天の日影を手次に繋けて、天の真拆をかづらと為て、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の石屋戸にう気伏せて蹈み登抒呂許志、神懸り為て、胸乳を掛き出で裳緒を番登に忍し垂れき」 蔓(かずら)をたすき掛けにして、髪に飾り、手には笹の葉を束ねて持ち、桶を伏せてその上に立って踏み鳴らし、その後、天宇受売は神懸かりとなって胸をはだけ、女陰まで晒した。 すると、「爾に高天の原動みて、八百万の神共に咲ひき」となる。神々が盛り上がって高天原が動いたようになり、八百万の神々は共に咲ったというのだ。 場面や状況としては想像ができるのだけど、よく考えてみるとおかしな点がいくつかある。 まず、高御産巣日はどうしてこのとき出てこなかったのかということだ。八百万の神というからには天照大神を除くすべての神が集まったということのはずなのに高御産巣日は指揮をとっていない。須佐之男がこのときどうなっていたかについても触れられていない。 八百万の神が集まっているはずなのに、天宇受売が”神懸かり”になったとはどういうことなのかという疑問も湧く。それはどの神なのか。 天宇受売はどうして裸になる必要があったのか。それ見て神々たちはどうして”咲った”のか。 この場合の”咲”は”笑”のこととされ、一般的には高天原が動くくらい神々がどっと笑ったという解釈がされている。 けれど考えてみるとこれはおかしくないだろうか。天照大神が岩戸に隠れて世界が真っ暗になっている深刻な状況で、天宇受売がハダカ踊りをしたからといってそんなにのんきに笑っていられるものだろうか。これは重要な祭祀で、笑いが起こるようなものではない。女芸人がテレビで服を脱いで踊って笑いが起きるといったこととは違う。少なくとも、「八百万の神共に咲ひき」は現代人が思うような受けて笑ったということではないのだろう。 外が盛り上がっているらしいのが気になった天照大神は天の石屋戸を少しだけ開いて様子をうかがった。そこで天宇受売はあなたよりも高貴な神がいるので嬉しくて皆喜んで咲い楽しんでいるのですと答え、天児屋と布刀玉が天照大神に鏡を見せると不思議がってのぞきこんだので、すかさず天手力男が天照大神の手を引っ張って岩戸から出した、というのが『古事記』における岩戸隠れの後半部分の顛末だ。 これではまるで天照大神が鏡を見るのが初めてみたいに受け取れるけど、実際にそういう設定なのだろうか。しかし、鏡を作ったということは鏡という概念がすでにあったわけで、天照大神がこのとき初めて鏡というものを見て不思議に思ったというのは無理がある。 ただし、このときのエピソードが後に天孫降臨の瓊瓊杵に鏡を与えて天照大神が自分だと思って祀るようにと命じる話につながっていくので、ここで鏡が登場しなくてはいけないというのはある。 天照大神が出てきたので高天原にも葦原中国にも太陽の光が戻ったといっているので、これを日食のこととする説もあるのだけど、そんな単純な話ではない。いろいろと不自然に思える部分に多くの示唆があるように思う。
『日本書紀』の中の天石窟隠れと天鈿女命
『日本書紀』の内容も話自体はだいたい同じで、天鈿女(アメノウズメ)が登場するのは第七段の本文だ。 天照大神と素戔鳴尊の誓約のあと、素戔鳴は天照大神の稲作や機織りを妨害し、馬の皮を剥いで齋服殿(いみはたどの)に放り込むという暴挙をしでかし、驚いた天照大神は機織り機の梭(ひ)で傷を負ってしまい、天石窟に閉じこもってしまった。 『古事記』では天照大神とともに髪に捧げる機を織っていた女が女陰に梭が突き刺さって死んだとなっているので、ここにもひとつ大きな違いがある。 天照大神に出てきてもらうために知恵を出したのは思兼神で、それぞれの神がそれぞれの役割を果たし、天鈿女が踊るという展開は『古事記』と共通している(頭に鬘(かずら)を巻いて、たすき掛けにしたのは蘿(ひかげ)だったりと細かい違いはある)。 焚き火をして、桶を伏せて神懸かりになったというところまでは同じなのだけど、ここでは踊ったとは書かれておらず、裸にもなっていない。八百万の神々が咲ったという話もない。原文はこうなっている。 「猨女君遠祖天鈿女命、則手持茅纒之矟、立於天石窟戸之前、巧作俳優。亦、以天香山之眞坂樹爲鬘、以蘿(蘿、此云此舸礙)爲手繦(手繦、此云多須枳)而火處燒、覆槽置(覆槽、此云于該)、顯神明之憑談(顯神明之憑談、此云歌牟鵝可梨)」 踊ったという表現ではなく「巧作俳優」となっている。俳優(わざおき)を巧みに作したとはどういうことをいうのか。 後に海幸・山幸のところでも、弟に嫌がらせをした兄は復讐されて、自分はあなたの”俳優の民”となるから命だけは助けてほしいと命乞いをする。この俳優と天鈿女の俳優は同じなのか違うのか。 素直に解釈すると、祭祀や神事にまつわる何らかの芸というか所作のようなものをしたということなのだろう。それがある種の巫女踊りのようなものだったというのならそうかもしれない。それを巧みにしたということは、他の誰でもできることではないということだ。 外が騒がしいのが気になった天照大神が天石窟を少し開けたところを手力雄神が引っ張り出したという展開は『古事記』と同じだ。 天照大神岩戸隠れの第七段には一書が第三まであるのだけど、そのいずれも天鈿女の話は出てこない。 一書第三では、太玉が祝詞を歌うと、こんな素晴らしい歌は聞いたことがないと天照大神は岩戸を開けたという話になっている。 一書第三は他にも変わっていて、天照大神が天石窟から出てきた後、素盞男がつぐないをさせられ根の国に追放が決まるのだけど、その前に天照大神に挨拶するため高天原に上っていくところを天鈿女が見つけて日神に報告するという話になっている。 この後、天照大神と素盞男は誓約をして子供を生み、素盞男は自ら去っていったという展開となっている。これもちょっと不思議な伝承だ。
『古事記』における天孫降臨と天宇受売命
『古事記』、『日本書紀』ともに、次に天宇受売命/天鈿女命が登場するのが天孫降臨の場面だ。ここでもいろいろ違いがある。 『古事記』の国譲りでは経津主は登場せず、大国主に国譲りを迫ったのは建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)だった。 抵抗した建御名方神(タケミナカタ)を建御雷がやっつけて国譲りは成り、天照大御神と高木神(高皇産霊)は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(オシホミミ)に天降ることを命じる。天忍穂耳は天照大神と須佐之男との誓約で生まれた神だ。高木神の娘の栲幡千々姫/万幡豊秋津師比売(タクハタチヂヒメ)と結婚しているので、高木神から見ると義理の息子に当たる。 しかし、天忍穂耳は天降ることを断固拒否。なんだかんだで先延ばしにいていたら天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ)が生まれたのでこの子を降ろしましょうと、息子に押し付けて自分は逃れた。 天忍穂耳と万幡豊秋津師比売との間には長男の天火明命(アメノホアカリ)もいたのに、何故か弟の邇邇芸が天降ることになった。この邇邇芸の系統が後の天皇家につながるのだけど、天火明は尾張氏の祖とされるので、尾張氏は天皇家の兄弟の家系ということになる。 そんなすったもんだのあげく、邇邇芸が降臨しようとしていると、天の八衢(やちまた)に高天原と葦原中国を照らす神が立っている。 このとき、天照大御神と高木神は天宇受売に何者か訊いてくるようにと命じる。「汝は手弱女人にはあれども、伊牟迦布神と面勝つ神なり」といっている。面勝つというのは分かるようで分からない表現で、物怖じしない、にらみ合いでも負けないといった意味だろうか。 その神は、自分は国つ神の猿田毘古神で、天つ神の御子神が降りてくるというので待っていたと答えた。 そんなわけで天児屋命(アメノコヤネ)、布刀玉命(フトダマ)、天宇受売命(アメノウズメ)、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)の五伴緒(いつとものお)をお供につけてもらって邇邇芸は天降ることになる。それに加えて、八尺の勾玉、鏡、草那芸剣を与えられ、常世思兼神、手力男神、天石門別神(アメノイワトワケ)も一緒についていくことになった。 邇邇芸は、天八重多那雲を押し分けて、天浮橋から浮島に降り立ち、筑紫の日向の高千穂に降臨したと『古事記』はいう。 共に天降った神たちは氏族の祖とされるのだけど、天宇受売は猿田毘古の正体を明らかにしたということで猿女君という名を与えられたという。邇邇芸は天宇受売に猿田毘古を送るように命じる。 送った経緯については書かれておらず、猿田毘古は阿邪訶(あざか)で漁をしているときに比良夫貝(ひらふがい)に手を食われて海で溺れて死んでしまったとしている。 かなり唐突な展開でついていけない。阿邪訶は今の三重県松阪市とされ、それに由来する阿射加神社がある。 猿田毘古が海で溺れたとき、底度久御魂(ソコドクミタマ)、都夫多都時(ツブタツミタマ)、阿和佐久御魂(アワサクミタマ)が生まれたという。 天宇受売がどうなったかというと、猿田毘古を送り届けた後、帰ってきたことになっている。帰ったということは日向に戻ったということで、猿田毘古と天宇受売は結婚していないと取れる。猿田毘古が溺れ死んだので戻ってきたというニュアンスでは書かれていない。 天宇受売は海にいる魚たちに天津神の御子に仕えるかと問い、海鼠(なまこ)だけが答えなかったので天宇受売は小刀で海鼠の口を拆いたといっている。 これもよく分からない話だ。海鼠が今の私たちが思っているナマコのことだとすると、ナマコの口が裂けているかというと裂けてはいない。口がないから天宇受売の問に答えられなかったという解釈もあるのだけど、ナマコにもちゃんと口はある。 猿田毘古が比良夫貝に殺されたということと天宇受売が海鼠の口を拆いたというのは何かを暗示しているのだろう。
『日本書紀』における天孫降臨と天鈿女命
『日本書紀』の天孫降臨の段は本文の他に一書が第八まであって、その内容に違いが大きく、複雑になっている。 まず本文では、国譲りと天孫降臨を主導したのは高皇産霊となっており、天照大神は関わっていない。天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊と高皇産霊の娘の栲幡千千姫が結婚して天津彦彦火瓊瓊杵尊が生まれ、高皇産霊はこの子を特にかわいがって葦原中国の主にしようと決めて大国主に国譲りを迫るという展開だ。 最初に派遣した天穗日命(アメノホヒ)やその子の大背飯三熊之大人(オオソビノミクマノウシ)、更には天稚彦(アメノワカヒコ)を使者とするも上手くいかず、最終的には武甕槌神と経津主神を送って半ば脅し取る形になった。 地上の平定が済んだところで高皇産霊は瓊瓊杵を地上へ降ろすことになるのだけど、ここでは忍穗耳が天降るのを嫌がったという話はない。猿田彦も天鈿女も登場しないので、道案内云々ということもなく、瓊瓊杵は単独で日向の高千穗に降り立ったことになっている。 更に大きな違いとして、瓊瓊杵は吾田長屋笠狹之碕で鹿葦津姫(神吾田津姫/木花之開耶姫)と出会い、火闌降命(ホノスソリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、火明命(ホノアカリ)を生んだといっている点だ。天火明は『古事記』では瓊瓊杵の兄だったのにここでは瓊瓊杵の子になっている。系図としては大きな違いだ。 それぞれの一書では、この本筋を補足する形でいろいろな話が語られる。 一書第一では、国譲りと天孫降臨を指揮したのは天照大神となっていて、ここで猿田彦と天鈿女が出てくる。逆に高皇産霊は登場しない。本文では高皇産霊の娘とされた萬幡豊秋津媛命は一書第一では思兼神の妹になっている。 初め、天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊を葦原中国に降ろしたところ、地上は騒がしくて嫌だと戻ってきてしまったため、武甕槌神と経津主神を派遣して地上を平定し、さあお膳立てはできたから降りるのだと天忍穗耳に命じると、天忍穗耳は天津彦彦火瓊瓊杵尊が生まれたからこの子を降ろそうといって自分は行かなかった。 それを受け入れた天照大神は、瓊瓊杵に八坂瓊曲玉、八咫鏡、草薙劒を与え、天児屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命を同伴にさせたというのは『古事記』と共通している。 ただ、ここから先の部分が注意に必要だ。 瓊瓊杵が天降る前に地上の様子を見に行った者が戻ってきて報告するところによると、天八達之衢に立っている神がいて、それは鼻の長さが七咫、背は七尺もあって、口の端は光り、目は八咫鏡のように光り輝っていて赤酸醤(ほおずき)のようだという。 そこで同伴の神たちに何者か訊ねてくるようにいったところ、怖くて誰も目を合わせられないものだから、天鈿女が見てくることになった。「汝是目勝於人者、宜往問之」とあるから、天鈿女だけが目ヂカラで勝てるということだったようだ。 ここで意外な展開になる。 「天鈿女、乃露其胸乳、抑裳帶於臍下、而咲㖸向立」 天鈿女はいきなり胸をはだけて乳房を出し、上着の紐をヘソまで下げて笑いながら猿田彦の前に立ったというのだ。 完全におかしな女だ。『古事記』では天照大神の岩戸隠れのときに神憑りしてハダカ踊りをした天鈿女だったけど、『日本書紀』では岩戸隠れのときは神懸かりになっただけで裸にはなっていない。逆に天孫降臨の場面では『古事記』では猿田彦に正体を訊ねただけなのに、『日本書紀』では猿田彦の前でいきなり裸になっている。この食い違いというか行き違いは一体何を表しているのだろう。 猿田彦も驚いた、天鈿女よ、どうしておまえはそんなことをするのかと訊ねている。それはそうだろう。いきなりすぎてひるむ。それが天鈿女の作戦だったか。 猿田彦は自ら名乗り、瓊瓊杵たちの道案内をすることを申し出るのだけど、この後の展開が『古事記』とは少し違っている。 天鈿女は猿田彦に皇孫(瓊瓊杵)はどこへ行くのかと訊ねると筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(くじふるのたけ)に行くべきでしょうと答え、おまえはどこへ行くのかと訊くと、自分は伊勢の狹長田(さなだ)の五十鈴の川上に行くと答えている。その上で、自分を伊勢まで送ってほしいと天鈿女に頼んでいる。 このやり取りを瓊瓊杵に報告すると、瓊瓊杵一行は猿田彦の提案通り日向の高千穂に向かい、猿田彦は天鈿女に送られて伊勢の狹長田の五十鈴の川上に向かうことになった。つまり、猿田彦が瓊瓊杵を高千穂まで案内したわけではなく、猿田彦と天鈿女は瓊瓊杵たちとは別行動で伊勢に行ったということになる。 一書第一ではこの後、猿田彦と天鈿女がどうなったかについては書かれていない。天鈿女が猿女君の祖となったと書いているだけだ。 一書第二から第八に猿田彦と天鈿女は出てこない。
『古事記』と『日本書紀』を継ぎ接ぎしてはいけない
以上のように『古事記』、『日本書紀』を詳しく見てみると、一般に語られる日本神話が『古事記』と『日本書紀』を都合よく組み合わせて作った自分勝手なストーリーであることが多いということに気づく。 猿田彦の話にしても、『古事記』の話を元に『日本書紀』一書第一の記述を付け加えて話を作ってしまっている。天狗のような姿形をした大男というのも、『日本書紀』一書第一にあるだけで『古事記』にはそんなことは一切書かれていない。 『古事記』と『日本書紀』はまったく別物だからきちんと区別しなくてはならないのに、専門家ですらごっちゃになってしまっていたりする。『日本書紀』が一書という形であえて別伝を載せているのも意味があってのことで、本文と一書は別として扱う必要がある。それを勝手に混ぜてしまっては『日本書紀』がしようとしたことを台無しにしてしまうことになる。 もちろん、『古事記』、『日本書紀』に書かれた内容がそのまま真実というわけではない。ただ、嘘や作り話でもなくて、あえて伝承をそのままの形で載せている部分が多いと捉えるべきだ。そして、どうしてこういう内容や記述になったのかを考える必要がある。当時の人たちがこれでよしとしたことには意味と理由がある。 1300年以上の歳月に耐えてきたという事実は重い。神話をただの作り話として軽視していいわけがない。
ウズメとは何を意味しているのか
天宇受売命/天鈿女命の系譜については『古事記』、『日本書紀』とも書いていない。両親が誰だとか、子供がいたのかいなかったのかなど、まったく記述がない。 後に猿女君という一族(神祇氏族)がいたということは子供がいたということになるはずだけど、記紀はそこに触れていない。 天宇受売命(アメノウズメ)のウズメの語源には諸説ある。 宇受賣も天鈿女も当て字だろう。髪や冠に花や枝をさして飾る髻華(うず)から来ているという説や強女(おずめ)から転じてウズメになったという説がある。 巫女のように描かれていることといい、強い女でもあり、その両方が掛かっているかもしれない。 猿女君の子孫に稗田氏がいるとされ、『古事記』編纂に関わった稗田阿礼もその一族だ。個人的には稗田阿礼が神代文字で書かれた伝承を太安万侶に教え、太安万侶がそれを万葉仮名で書いたものが『古事記』の元になったのではないかと考えている。稗田阿礼女性説に私も賛同する。
芸能や芸術の神として
天宇受売は芸能の神、芸術の神、神楽の神、舞楽の神、俳優の神などとされ、芸能関係者の信仰が厚い。 「おたふく」や「おかめ」として福の神としての信仰もあった。 単独で祀られることはあまり多くないものの、猿田彦の神社の境内社としてはけっこうあって、代表的なところとしては三重県鈴鹿市の椿大神社(web)内の椿岸神社や伊勢市の猿田彦神社(web)内の佐瑠女神社などがある。 その他、芸能神社(web/京都市の車折神社内)、千代神社(web)、荒立神社(web)などが知られる。 名古屋では鈴宮社(戸田)(中川区)、笹社(熱田区)、鈴之御前社(熱田区)、千代ヶ丘椿神社(千種区)で祀られている。
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