尾張戸神社の里宮?
読み方 | さんしゃ-だいみょうじんじゃ(なかみずのちょう) |
所在地 | 瀬戸市中水野町1丁目579 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十等級 |
祭神 | 天香山命(アメノカグヤマ) 天火明命(アメノホアカリ) 建稲種命(タケイナダネ) |
アクセス | 愛知環状鉄道「中水野駅」より徒歩約16分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月第1日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
中水野村について
このあたり一帯を古くは水野郷と呼び、中世には上郷、中郷、下郷と呼び習わしていたのが、江戸時代に上水野村、中水野村、下水野村となった。
その中の中水野村の氏神だったのが、この三社大明神社だ。
中水野村は、愛知環状鉄道「中水野駅」(地図)の東側で、北は庄内川、南は名鉄瀬戸線までの縦に細長いエリアが村域だった。
定光寺(地図)があるあたりもかつては中水野村だったのが、江戸時代に沓掛村として独立した。
歴史的なことでいうと、中水野地区内で縄文遺跡や古墳などは知られていない(私が把握できていないだけかも)。
定光寺に尾張藩初代藩主の義直の霊廟が作られたことで歴代の藩主が墓参りのために訪れることになり、その道が整備されて定光寺街道や御成道などと呼ばれた(明治以降に殿様街道とも呼ばれた)。
中水野村はその街道沿いに当たり、東光寺(地図)は藩主たちの休憩処として使われた。
江戸時代中期の1781年(天明元年)には水野代官所が中水野村に設置された。
初代代官として御林方奉行の水野正恭が就任し、その後、1813年(文化10年)には陣屋として整備された。
管理する範囲は愛知郡、春日井郡、美濃国可児郡の111村と広く、業務は年貢関係から訴えの処理、庄屋の任命など多岐にわたるもので、なかなか忙しかったのではないかと思う。
藩主が定光寺参りをするときのお世話もあっただろう。
東谷山の尾張戸神社の里宮?
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
創建は明かではないが、東谷山鎮座ノ尾張戸神社は遠く参詣に不便なためこの地三社大明神を建立したと『尾張志』に記るす。
明治5年村社に列す。同40年10月26日、供進指定社となる。
同43年1月10日、同村字七郎左の高倉神社と字山ノ神の山神社を本社の境内社に合祀した
尾張戸神社(地図)は東谷山(名古屋最高峰の198メートル)の山頂にあって、現在の整備された山道(半分くらいは階段)でも登るのに15分くらいはかかる。
中水野の集落から歩けば1時間くらいはかかりそうだから、参拝するのが大変だったに違いない。
だから里宮として三社大明神を建てたというのは理にかなってはいる。
けど、本当だろうかと疑わしく思う。
『尾張志』(1844年)にあるというけど、探しても見つからない。
「山神ノ社 高蔵社 三社大明神ノ社 三社ともに中水野村にあり」とあるだけで、尾張戸神社の項にもそんなことは書いてない。
瀬戸ペディアは以下のように書いている。
社伝が消失して創建年月日は明らかではないが、往昔、上水野村、中水野村、下水野村の氏神として崇敬されている。祭神は天香語山命、天火明命、建稲種命を祀る。本宮は尾張戸神社であるが、遠く参詣に不便なため、この地に三社大明神を建立したと「尾張誌」に記されている。
ここでも『尾張志』に記されているとあるので、やはり『尾張志』のどこかに書いてあるのだろうか。
しかし、「社伝が消失」といっているのと、「往昔、上水野村、中水野村、下水野村の氏神として」という部分に引っかかりを覚える。
社伝を失ったのなら尾張戸神社云々というのは言い伝えということなのか。
”往昔”というと一般的に中世以前の古代のことで、その頃に中水野村はまだない。水野の中郷という呼ばれ方はしていたかもしれないけど。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)で場所を確認すると更に違和感は増す。
東谷山があるのは西の下水野と中志段味村の境で、三社大明神はそれよりずっと東に祀られている。
水野川沿いから少し内に入った田んぼの中で、樹林マークが描かれているから田んぼの中の鎮守風景が思い浮かぶ。
端的に言って、この場所は東谷山の尾張戸神社の里宮として相応しくない。
水野郷全体の氏神ということで三郷の中間あたりに祀ったという可能性はあるかもしれないけど、それにしても東谷山の方を向いているわけでもなく、田んぼの中というのはどうなんだろうと思う。
三郷の人間が参拝しやすいようのというなら、もっと道沿いとか集落の中の方が行きやすい。
尾張戸神社の里宮かどうかについてはいったん置いて、とりあえず情報を集めることにする。
江戸時代の書に見る中水野村の寺社
江戸時代前期の1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』の中水野村の項はこうなっている。
家数 三拾壱軒
人数 弐百弐拾七人
馬 拾七疋禅宗 京妙心寺末寺 応夢山定光寺
禅宗 寺内八瀬拾歩 備前検除 薬王山東光寺
社三ヶ所 内 大明神 山之神 毘沙門
当村祢宜 弥五右衛門持分
社内七反歩 前々除
家数が31軒で、村人は257人なので、中規模の村だ。
下水野村の29軒・149人よりも多く、上水野村の76軒・456人と比べて半分くらいだ。
この頃はまだ定光寺は中水野村に属していた。
東光寺については後回しにする。
神社は大明神、山之神、毘沙門で、このうちの大明神が三社大明神社だ。
山之神は後に合祀され、毘沙門は高倉社と呼ばれるようになる。
村には祢宜がいて、すべて前々除(まえまえよけ)なので1608年にはすでにあったことが分かる。
続いて江戸時代後期の『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。
社四区(ママ)覚書ニ大明神、山ノ神、毘沙門社内七段歩前々除、当村祢宜弥五右衛門持分
当村祠官菊田和泉太夫書上ニ、三社大明神社内二段五畝歩、勧請ノ由来ハ不知、正保五子年水野三村氏子共再建ス
末社、八幡社、源太夫神社本社境内ニアリ
山神社内二段二畝歩、高倉社内二段歩、山神社内五畝歩何レモ前々御除地ナリ、
此高倉社覚書ニハ毘沙門トアレトモ是ハ後寺社帳訂シ替レル由
社が4社というのは間違いなのだけど、この頃までには三社大明神となっている。
勧請年については不明で、正保5年(1648年)に水野村の三村の氏子が再建したといっているので、この神社が中水野村だけでなく上下も含めた三村の神社という位置づけだったようだ。
こういう例はあまりない気がする。
”三社”というのがどういう意識のものだったのかは分からない。天香山命・天火明命・建稲種命の三柱ではないと思うけどどうだろう。
境内社に源太夫神があるということは、尾張氏の神社の色合いが濃いのは間違いない。
源太夫は建稲種の父の乎止与(オトヨ)のこととされ、熱田神社の近くでも祀られていた(現在の上知我麻神社)。
高倉社を『寛文村々覚書』は毘沙門と書いているけど寺社帳で訂正したということもいっている。
この高倉もまた熱田尾張に関係する神社で、今の高座結御子神社に関連する社だろう。
それがどうして毘沙門と呼ばれていたのかについてはよく分からず、少し引っかかりを感じる。ただの間違いではないように思う。
『尾張志』(1844年)は上にも書いたように「山神ノ社 高蔵社 三社大明神ノ社 三社ともに中水野村にあり」としている。
高倉(高蔵)と山神については『愛知縣神社名鑑』が書いているように、明治43年に三社大明神社に移されて残っていない。
「本社の境内社に合祀した」という微妙な言い回しになっているのだけど、本社に合祀したのではなく境内社にまとめたということだろうか。
中水野村の変遷を辿る
中水野村の様子について『尾張徇行記』は以下のように書いている。
此村落ハ、定光寺街道通リニアリ、又街道ヨリ東へ入前山御林ト御鳥林ノ北麓へ付テ農屋多ク建ナラヘリ、一体村立ヨキ所ニテ農業ヲ以テ専ラ生産トス、其内街道トホリへ付テハ商ヒヲ兼ル者モアリ、酒店モ一戸ア リ、然シ山間ノ僻地故ニ、塩味噌溜リ其外薪白木類ヲ商ヒ不自由ナル所ナリ、此水野三郷ハ田面一般ニツツ キ、中央ニ水野川流レ回リ平衍ノ地ナリ、此水野川ノ水源ハ片草村白岩村品野村ノ群山ヲ経テココニ至レ リ、因テ上ニテハ品野川ココニテハ水野川ト云、末ハ下水野村ノ支邑入尾ニテ玉野川へ落ル
支邑三区アリ、横山片落稲込ト云、横山ハ南ノ方今村界ニアリ、是ハ延享元子年ココニ家ヲ移セリ、片落ハ北ノ方玉野川ノ辺リニアリ、農屋僅ニ三戸アリ、是ハ宝暦七丑年ココニ家ヲ移セリ、稲込ハ定光寺街道ヨリハ東へ入山中ニアリ、是モ農屋僅ニ二戸アリ、是ハ宝曆九卯年ニココニ家ヲ移セリ
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ながら読むとイメージしやすい。
定光寺街道(殿様街道)は名古屋城下から定光寺に至る6里(24キロ)の行程で、中水野村はその街道沿いに民家が固まっていた。
現在の地名でいうと、中水野交差点を北上して水野大橋を渡り、東光寺の横を過ぎて山道に入って山越えをすると定光寺に至る。
説明板や石碑も建っており、一部は殿様街道ハイキングコースとして整備されている。
今昔マップに目を戻すと、水野川沿いに田んぼが広がり、川の北岸と南岸の山の縁に民家が建ち並んでいた様子が見て取れる。
街道沿いで商売をしたり、酒屋も一軒あるといっている。
ただ、奥地ゆえに塩や味噌、薪といった生活必需品の入手には苦労していたようだ。
支邑(村)は横山、片落、稲込と3つあって、いずれも江戸時代中期(延享元年は1744年で、宝暦七7年は1757年)に移されたもので、わずかに2、3軒とある。
自分たちから移ったのか、尾張藩から移れといわれたのか、そのあたりの事情は分からない。
現代の地図(マピオン)で村域を確認しておく。
中水野村の中心は名鉄瀬戸線の「水野駅」近辺ではなく、愛知環状鉄道「中水野駅」の東側だった。
町名でいうと中水野町2丁目、1丁目と、川北の三沢町1丁目がそうだ。
すぐ東の上本町や水北町は上水野村の村域だ。
北側の玉野川(庄内川)のあたりは、鹿乗町は下水野村で、川平町が中水野村になる。
南はイオンあたりが下水野村と中水野村の境界で、名鉄瀬戸線の「水野駅」から「新瀬戸駅」あたりまでは中水野村、「瀬戸市役所前」あたりはもう上水野村だ。
瀬戸線の南は今村だった。
今昔マップの1920年(大正9年)ではもう瀬戸線が通っている(前身の瀬戸自動鉄道の開通は1905年)。
中水野村は南から先に発展したということだ。
集落の中心あたりはまだほとんど変化がない。
この後地図は1968-1973年(昭和43-48年)に飛んでしまうのだけど、鉄道沿いの南地区は激しく民家が増えている。
集落の中心だった北側もそこそこ家が増えて道路が整備された。
中でも一番大きな変化は、手つかずだった山を切り開いて宅地化されたことだ。
大規模団地の走りである水野団地が建ち(昭和50年)、小中学校もできた。
現在このあたりは、みずの坂やふじの台などといったひらがな表記の町名となり、民家がびっしり建ち並ぶエリアになっている。
中水野村は瀬戸市内でもっとも大きな変化を遂げた地区といういい方ができるかもしれない。
町名変更についても書いておくと、明治22年(1889年)の町村制施行により中水野村、上水野村、下水野村が合併して水野村となり、昭和26年(1951年)に瀬戸市に編入された。
昭和39年(1964年)に大きな町名変更があり、大字中水野という字は消滅した。
東光寺について
東光寺についても簡単にまとめておきたい。
定光寺については神明神社(定光寺町)に書いたのでそちらをお読みください。
『寛文村々覚書』は「禅宗 寺内八瀬拾歩 備前検除 薬王山東光寺」と書いている。
『尾張徇行記』はもう少し詳しい。
東光寺、府志日、在水野村号薬王山、臨済宗、属同村定光寺
覚書ニ寺内八畝十歩備前検除
当寺書上ニ境内一段五畝十歩内八畝十歩備前検除、田畑七畝歩村除、定納山ノ内薪山七段五畝歩村除、薬師堂境内三段歩、毘沙門堂境内三段步共ニ御除地、此寺草創ノ由来不詳、開山雪心和尚ハ永正十年酉霜月没ス、明暦年中僧義湛ヨリ寺相続ス
草創の由来は不詳で、備前検除といっているので1608年の備前検地のときに除地になったようだ。
それ以前から除地だったところを前々除といっており、備前検地ということはやや新しいのか。
開山の雪心和尚についてはよく分からないのだけど、永正十年は1513年なので、創建は戦国時代だったかもしれない。
定光寺に属すともいっている。
明暦年中は1655年から1658年を指す。
ネット情報になるのだけど、開山は1504年(永正元年)で、山号の薬王山は行基作とされる薬師如来が伝わっているためなのだとか。
秘仏らしいのだけど、今も残っているのだろうか。
行基は小金山の金神社(小金町)や岩屋堂のところでも出てくるので、瀬戸ではお馴染みといっていい。
これだけ伝承が残っていると、まったくの作り話とは思えない。
三社とは何のことか?
三社大明神の三社とは何のことだろう、という疑問がずっとつきまとっている。
天香山命・天火明命・建稲種命の三柱を祀っているから三社なのだといわれてしまうとその通りなのだろうけど、だとしてもどうして”三社”なのだろう。
そもまま取れば3つの社ということになるけど、祭神の三柱を別々に祀っていたというような話はない。
そもそも、この三柱の顔ぶれはけっこう違和感がある。
尾張氏系の系図では天火明を初代として、その子の天香山を二代としている。
建稲種はというと、十二世孫とか十三世孫とかそのあたりで(系図によって違いがある)、だいぶ飛んでいる。
建稲種は尾張熱田社の縁起で日本武尊(ヤマトタケル)の東征の際に副将軍として従って、帰り道の途中の駿河の海に落ちて死んだことになっている人物だ。
日本武尊の尾張の妃、宮簀媛(ミヤズヒメ)の兄とされ、この兄妹の父が乎止与(オトヨ)、母が真敷刀俾(マシキトベ)ということになっている。
このあたりの話をすると長くなるのでやめるけど、組み合わせとしてしっくりこない。
東谷山の尾張戸神社は宮簀媛が祀ったのが始まりという話があるものの、最初からこの三柱を祀るための神社だったとは思えない。
というのも、『延喜式』神名帳(927年)に載っている尾張国の神社は121座121社で、平安時代中期の時点ではすべての神社が一柱の神を祀っていたことになっているからだ。
その最初が天火明だったとして、その後追加された香久山や建稲種を同列に扱うだろうかと考えると不自然に思える。
上にも書いたように、祀られている場所にも違和感がある。
尾張戸神社の里宮というには中途半端というか、関係性が薄いように思う。
ここじゃないだろう感がある。
古くは水野三郷共通の氏神だったという話は無視できず、それはあり得ることだと思う。
東谷山と水野郷との結びつきが強ければ、尾張戸神社の里宮の可能性はあるだろうけど、それにしても三社大明神という社名も合わないような気がする。
五社大明神との関連は?
中水野村の隣の下水野村の鹿乗町に五輪大明神(鹿乗町)という小さな社がある。
調べてもどういう性格の神社かよく分からなかったのだけど、そこで春日井側の五社大明神(地図)のことに触れた。
庄内川(玉野川)を挟んで南に東谷山、北に高座山があり、高座山の中腹に五社大明神が祀られている。
祭神は大碓尊(オオウス)、素盞嗚尊(スサノオ)、菊理比売姫(キクリヒメ)、日本武尊(ヤマトタケル)、天目一命(アメノマヒトツ)で、東谷山の天香山命・天火明命・建稲種命とは被っていないのだけど、社名がここまで似ていると関連を考えたくなる。
五社大明神は熱田高蔵宮の奥宮という言われ方をしており、熱田の高座結御子神社では高倉下命(タカクラジ)を祀っている。
東谷山の神は最初に高座山に降りた後、東谷山に移って鎮座したという伝承も何かを伝えようとしているように思う。
確実に言えることは、尾張氏が深く関わっているということだ。
境内社に源太夫があり、村内に高倉神があったことからもそれは明かだ。
かつて上水野の小金山に祀られていた金神社祭神の尾治金連(カネ)は系図では十五世孫となっており、これが本当であれば建稲種の3代後ということになる。
頭の中がグルグルするけど上手くまとまらない。
何故、成務天皇?
瀬戸ペディアが書いていることで非常な引っかかりを覚えたことがある。
「明治43年(1910)、同村の高倉神社の祭神成務天皇と山神社の祭神大山祗命を本社の境内に合祀した」という部分だ。
どこからの情報か分からないのだけど、高倉神社の祭神を成務天皇といっている。
これは本当だろうか。
成務天皇といえば、第12代景行天皇(大足彦天皇)の第四皇子で、母は美濃の八坂入媛命(ヤサカイリヒメ)ということで、日本武尊の異母弟に当たる。
日本武尊が亡くなってしまったので景行天皇の後を受けて第13代天皇として即位し、皇后も皇子もいなかったため、日本武尊の子の仲哀天皇が即位したというのが『日本書紀』の話だ。
どこまで事実を反映しているか分からないのだけど、ここで成務天皇の名前が出てくることは意味がある。
尾張氏の家に伝わる「さるかに合戦」が興味深い。
ここでは親申(サル)が乎止与、子申が建稲種で、親カニが両道入姫、子カニが仲哀王子となっており、臼が大碓・小碓、成務天王は蜂とされている。
これは事実を元にしたおとぎ話(昔話)だそうで、そこに出てくる成務天王(皇)が高倉神として祀られていたということは関係者がいたということかもしれない。
となると、そこには三河も関わってくるということになる。
猿投山まで話を広げるととりとめがなくなるので、ここではやめておく。
まとまらないまとめ
金神社の公式サイトに興味深い情報が載っている。
6月30日の夏越しの祓神事で、茅の輪くぐりや子供たちのお狩場太鼓と少女の巫女踊りが行われるという。
茅の輪くぐりはスサノオ(牛頭天王)系の神社で行われることが多いのだけど、ここは猿投神社の影響を受けているのかもしれない。
大人ではなく子供がやっていることは何か意味があるに違いない。
熱田の高座結御子神社は子供の守り神とされていて、そのあたりの関係もあるだろうか。
結局のところ、この三社大明神社の性格についてはよく分からないというのが結論となる。
尾張戸神社の里宮というのは納得できていないのだけど、そういう話があること自体には意味があって、尾張氏との関係が深いことは分かる。
実際のところ、非常に古い時代からあって、水野郷一帯の総氏神的な神社だった可能性はある。
現在の神社にそういった空気感は感じられないので、場所が違っているような気がする。
ここじゃないんだよなという感覚が最後まで残った。
作成日 2025.1.31