富士山と桜の女神というだけではない
富士山の女神であり、桜の象徴神というイメージを持っている人が多いと思うけど、この女神の実体はもう少し複雑だ。 天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギ)の女であり、天皇につながる祖であり、機織女であり、多くの氏族の母方の祖神でもある。 いくつかの別名を持つことも、この神の多面性を示しているといえる。 記紀やその他の歴史書や神社の由緒などを細かく見ていくと、そのあたりのことが見えてくる。
『古事記』が描くコノハナサクヤヒメの物語
『古事記』、『日本書紀』ともに、天孫降臨したニニギが地上で見つけて見初めた場面で初めて登場する。 『古事記』は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』は神吾田津姫、または神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)といっており、木花之佐久夜毘売/木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を別名としている。 つまり、コノハナサクヤヒメ本来の名前はアタツヒメだということだ。 ここで注意しておくべきは、”神”の名を持つ姫という点だ。名前については後回しにして、ニニギとの出会いから婚姻、出産までを見ていくことにする。
国譲りのあれこれが片付いたあと、天孫の天津日子番能邇邇芸命(アマツヒコホノニニギ)は天降ることを命じられ、天の浮橋から浮島に降り、そこから竺紫(筑紫)の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたき)に天降ったと『古事記』はいう。 その土地が気に入ったニニギは、太い柱を立て、高い宮殿を建てて住むことになる。 このあと、猿田毘古神(サルタヒコ)と天宇受賣命(アメノウズメ)の話を挟んで、舞台は笠沙御崎(かさのみさき)に移る。 一般的に日向の高千穂は宮崎県の高千穂で、笠沙御崎は鹿児島県の薩摩半島にある野間岬のこととされている(個人的には信じていない)。 場所はともかくとして、そこでニニギはひとりの麗しい美人に出会い、訊ねた。 おまえは誰の女(娘)か、と。 それに答えて、私は大山津見神(オオヤマツミ)の女で、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)またの名を木花佐久夜毘売といいますと。 現代の感覚でいうと初対面の異性に名前を訊ねるのは普通のことなのだけど、古代においては異性に名を訊ねることは求婚であり、答えることはそれを受けることを意味した。 名は体を表すというように、名前は自分自身であり、名を明かすことは身を委ねることになるからだ。逆に言えば、名を知られると相手に支配される恐れがあるので名前は秘すのが普通だった。特に身分の高い人間はそうで、下の者が名を呼ぶことは失礼に当たる。 ここではカムアタツヒメは名前と身分を明かしていることになる。 更にニニギはあなたに兄弟はいるかと訊ねる。この意味がちょっと分からない。家族構成を知りたかったという以上の意味があると思うのだけど読み取れない。 カムアタツヒメは石長比売(イワナガヒメ)という姉がいますと答えた。 それを知って納得したのかどうか分からないけど、ニニギは「吾汝に目合せむと欲ふは奈何に」といきなりストレートな誘いをかける。これではほぼナンパだ。結婚の申し込みとは思えない。 ニニギが国津神の娘ということで低く見ていたということなのか、カムアタツヒメがそういう女性だったのか。 ただ、自分には答えられないので父に訊いてくださいといい、オオヤマツミに伝えたところ、オオヤマツミは手放しで喜び、頼まれもしていないのに姉のイワナガヒメも一緒にどうぞと差し出し、たくさんの贈り物をニニギに与えたのだった。 イワナガヒメについて『古事記』は”甚凶醜”とひどい書き方をしている。はなはだ凶悪に醜いとはどれほどのものだったのか。 畏れをなしたニニギはイワナガヒメを送り返してしまう。 これに怒ったのが父のオオヤマツミで、大いに恥じて、コノハナサクヤヒメ(カムアタツヒメ)が仕えれば花が咲くように繁栄して、イワナガヒメが仕えれば岩のように永久不変でいられたのに、イワナガヒメを返したばっかりに天孫の寿命は短くなってしまうだろうと、呪いの言葉を送ったのだった。
上のやりとりの中で注意しなければいけない点がある。 それは、”弟木花佐久夜毘売を留めて一宿婚為たまひき”という表現で、簡単にいうと、コノハナサクヤヒメは一夜妻でしかなかったということだ。 木花佐久夜毘売の頭につけた”弟”は姉のイワナガヒメに対する妹という意味とされるのだろうけど、”オト”には何か別の意味があるようにも思う。 オトヒメというと竜宮城の乙姫が思い浮かぶし、弟橘媛(オトタチバナヒメ)はヤマトタケルが危機に陥ったとき、自ら海に身を投げて海神の怒りを静めた女性として描かれる。弟姫命/弟日売命は応神天皇の妃とされる尾張氏系の女性だ。 尾張氏といえば乎止与も”オト-ヨ”だ。
話を戻すと、続く記事はこういう書き方をしている。 「後に木花佐久夜毘売参出て白しけらく、”妻は妊身めるを、今産む時に臨りぬ”」 後になってコノハナサクヤヒメはニニギの前に現れて、私妊娠してそろそろ臨月ですと伝えたというのだ。 コノハナサクヤヒメは、天津神の子なので私一人で産むのはよくないと思って訪ねてきたのですという。 いきなりのことに戸惑ったニニギは、いくらなんでも一晩で妊娠するわけがない。それは自分の子じゃない、他の男(国津神)の子に違いないと突き放した。 なんだか現代にもありそうな話だ。 それを聞いたコノハナサクヤヒメは内心の怒りを表に出さず、それじゃあこうしましょうと提案する。 戸のない産屋(八尋殿)を作って中に入り、戸をふさいで火を放ち、もし国津神の子なら助からないでしょう、でも天津神の子なら無事に生まれるでしょうと言い、その通りにしたのだった。 大脱出のマジックショーみたいだけど、これは一種の誓約(うけひ)であり、盟神探湯(くがたち)のようなものだ。古代における無実の証明方法といったらいいだろうか。 火が燃えさかるときに生まれたのが火照命(ホデリ)、次に産んだのが火須勢理命(ホスセリ)、次に産んだのが火遠理命(ホオリ)で、またの名を天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホデミ)だと『古事記』は書く。 子供たちが無事に生まれたことに対するニニギやコノハナサクヤヒメの反応や態度については何も書かれていない。ニニギはここで唐突な退場となり、以降出てくることはない。どこで死んだかや、どこに陵(墓)があるかについても何もいっていない。 コノハナサクヤヒメについても同様だ。コノハナサクヤヒメの墓とされる伝承地はいくつかあるも、子供を生んだあとの足跡についてはほとんど何も伝わっていないのではないかと思う。 それがどうして富士山の女神となったのかについては後から考えたい。
『古事記』はこのあと、海幸彦(ホデリ)と山幸彦(ホオリ)の話に移っていく。
『日本書紀』での違い
コノハナサクヤヒメとニニギの出会いと出産にまつわるゴタゴタについては以上のように『古事記』の物語を思う人が多いというか大部分ではないかと思う。 しかし、『日本書紀』における記述はいろいろと違っている部分がある。次にそれを見ていくことにしよう。
第九段は国譲りからニニギの天孫降臨を経て、コノハナサクヤヒメとの出会いと出産までが描かれ、一書は第八まである。 本文では国譲りがすんなりいかずに苦労する話があり、經津神(フツヌシ)と武甕槌神(タケミカヅチ)の活躍で大己貴神(オオナムチ)に国譲りさせることになり、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギ)が天降って日向の襲高千穗峯(そのたかちほのたけ)に降りたち、槵日二上(くしひのふたがみ)の天浮橋から最終的には吾田(あだ)の長屋笠狭(ながやのかささ)の岬に着いたという展開になっている。 『古事記』がいう笠沙御崎と『日本書紀』の吾田の長屋笠狭が同じなのか違うのかは分からない。長屋笠狭は今の鹿児島県南さつま市とされる。 ここで事勝国勝長狹(コトカツクニカツナガサ)という一人の人間と出会い、ここに国はあるかと訊ねるとあると答えたので、ニニギはここに留まって住むことにする。 そのクニに美しい人がいて、名前を鹿葦津姫(カシツヒメ)といい、またの名を神吾田津姫(カムアタツヒメ)、または木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)だと書いている。 『古事記』のように出会っていきなりナンパして一晩の関係を結ぶという話は国の正史にはふさわしくないと考えようで、そういった記述はない。 このあと、誰の子かというやりとりがあるのだけど、ここでのカシツヒメの答えが引っかかる。 「妾是、天神娶大山祇神、所生兒也」 私は天津神が大山祇神(オオヤマツミ)をめとって生まれた子ですと答えているのだ。 この通りだとすると、天津神が男で、大山祇神は女ということになる。 しかし、別の箇所では大山祇神は父といっている。 この矛盾をどう捉えたらいいのだろう。 あと、少し脱線して書いておくと、カシツヒメが自分のことを”妾”(わらわ)といっている点も気になる。 ”妾”は現代では愛人のお妾(めかけ)さんのように使われるのだけど、もともとは立と女の間に十が入る字で”辛”は刺青を彫るための針を表し、神に捧げるために刺青を入れられた女のことを指す言葉だった。 『日本書紀』をすべて確認したわけではないのだけど、”妾”と称された女として、上にも出てきたオトタチバナヒメと、履中天皇が妃にしようとして先に弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつひこ)に犯されてしまった黒媛(くろひめ)、山幸彦が海神の宮で結ばれることになる豊玉姫(とよたまひめ)が自分のことを妾といっている。豊玉姫は本来の姿の八尋大熊鰐に戻って出産しているところを山幸彦に見られてしまい、怒って海に帰ってしまった。 ここではコノハナサクヤヒメが妾と称している。何か共通項があるように思える。
話を戻して本文の続きを読むと、姉のイワナガヒメのことは出てこず、いきなり一晩で妊娠して出産の場面になる。 ここでもやはりニニギは妊娠したのが自分の子と信じず、怒ったカシツヒメは入り口のない小屋を作ってその中に入り、火を放って天津神の子なら無事に生まれるはずだといい、火闌降命(ホノスソリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、火明命(ホアカリ)の三人を産んだと書いている。 生まれた子供の順番や顔ぶれにはいくつかの伝承があったようで、一書の内容がけっこう違っている。 本文はこの三人で、ホアカリについては尾張連の始祖といっている。
続いて長い歳月が経ち、ニニギが亡くなったので筑紫の日向の可愛之山(えのやま)に葬ったといっている。 日向の可愛之山については鹿児島県説と宮崎県説があるものの、明治になって新田神社(鹿児島県薩摩川内市)境内の神亀山にある陵と治定された。
一書第二は、当初天降るはずだった天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)が生まれた子の天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギ)と代わることになり、日向の槵日(くしひ)の高千穂の峰に降りたって国見をして事勝国勝長狹(コトカツクニカツナガサ)を見つけ、国譲りをさせて宮殿を建てて住むことになる。 海辺へ行ったときニニギは美人を見つける。例のやりとりがあり、名前を神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)とし、別名を木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)といっている。 ここで磐長姫(イワナガヒメ)が出てきて、二人一緒にめとらせようとした”父”の大山祇神に対し、イワナガヒメは醜いという理由で送り返され(謂姉爲醜不御而罷)、生まれた子は花が落ちるように短い命になってしまうだろうとイワナガヒメは呪いの言葉を発する。 ここでも一晩で妊娠したカムアタカシツヒメとそれを疑うニニギのやりとりがあり、火がついた産屋で生まれた子を火酢芹命(ホノスセリ)、火明命(ホアカリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)またの名を火折尊(ホノオリ)としている。 基本的には『古事記』と同じ伝承を採用しているようだけど、少し違っているところもある。 生まれた子供の順番の違いが何かを意味しているのかどうかはよく分からない。
一書第三は生まれた子供の順番を火明命(ホアカリ)、火進命(ホノススミ)またの名を火酢芹命(ホスセリ)、火折彦火火出見尊(ホノオリヒコホホデミ)とする。 続いてカムアタカシツヒメは占いをして神に供えるための卜定田(うらへた)を狹名田(さなだ)と名付け、その稲で天甜酒(あめのたむさけ)を作り、渟浪田(ぬなた)の稲で炊いた米とともに新嘗祭に奉納したという独自の伝承を伝える。 後の時代の祭祀者のような役割を担う女性だったということのようだ。
一書第四にカシツヒメは出てこないのだけど、事勝国勝神(コトカツクニカツ)は伊奘諾尊(イザナギノミコト)の子で、鹽土老翁(シオツチオジ)だと正体が明かされる。
一書第五では、吾田鹿葦津姫はすでに生まれていた子供を連れてニニギの前に現れるという設定になっている。 ここでもニニギは自分の子とは信じず、あざ笑うような態度を見せたのでカシツヒメは腹を立て、子供たちと一緒に小屋に入って火を付け、天孫の子なら無事だろうと誓約をして、その通りになる。 他と違うのは子供の数で、ここでは火明命(ホアカリ)、火進命(ホススミ)、火折尊(ホオリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)の4人になっている。 ニニギは自分は本当は疑ってなかったんだけど周りの人間が疑うだろうからわざと試すようなことをしただけだと言い訳をして誤魔化した。 なかなかの最低男ぶりをここでも発揮している。御曹司の悪いところが出てしまった。
一書第六は、火酢芹命(ホスセリ)と火折尊(ホオリ)を生み、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)は火折の別名としているので、子供は2人ということになっている。火明は出てこない。 誓約のあと、豊吾田津姫(トヨアタツヒメ)はニニギを恨んで口をきかなくなってしまったので、ニニギは歌を歌って慰めたという話になっている。
一書第七は系譜の別伝承を伝えている。 それによると、高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘の天萬栲幡媛命(アマヨロヅタクハタチハタヒメ)の娘に玉依姫命(タマヨリヒメ)がいて、天忍骨命(アメノオシホネ)との間に天之杵火火置瀨尊(アメノギホホオキセ)を生んだとしている。 他では見ない変わった系譜ではあるのだけど、『日本書紀』がこういった唐突に思える異伝を差し込んでくるときは本当の可能性が高い。 別伝として、勝速日命(カチハヤヒ)の子の天大耳尊(アメノオオミミ)が丹舄姫(ニツクリヒメ)をめとって火瓊瓊杵尊(ホノニニギノミコト)を生んだという系譜も紹介する。 更に別伝として、天杵瀨命(アメノキセ)が吾田津姫(アタツヒメ)をめとって火明命(ホノアカリ) 火夜織命(ホヨリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)を生んだと伝える。
一書第八も系譜の異伝となっており、ここでは正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)が高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘の天萬栲幡千幡姫(アマヨロズタクハタチハタヒメ)をめとって天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノイコト)を生んだとし、天照国照彦火明命が尾張連の娘の木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)をめとって火酢芹命(ホスセリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)が生まれたとする。 尾張氏の始祖であるはずのホアカリが”尾張連の娘”であるコノハナサクヤヒメをめとってホスセリとホホデミが生まれたというのは普通は信じられないだろうけど、もしかすると核心を突いているかもしれない。 コノハナサクヤヒメの系譜についてはあらためてのちほど検討することにしたい。
『古語拾遺』と『新撰姓氏録』では
『古語拾遺』(807年)は興味の対象が偏っていて、斎部広成(いんべのひろなり)にとってどうでもいいことは大胆に省略してしまっている。 天津彦尊(ニニギ)の天孫降臨の場面は猨田彦大神(サルタヒコ)と天鈿女命(アメノウズメ)のやりとりについては書いているものの、降臨したあとの話は一切なく、場面は急に彦火尊(ヒコホ)が海神(ワタツミ)の娘の豊玉姫命(トヨタマヒメ)をめとって彦瀲尊(ヒコナギサ)を生んだところに飛んでしまう。 なので、コノハナサクヤヒメなどはまったく出てこない。
『先代旧事本紀』(平安時代初期)は、『古事記』と『日本書紀』のいいとこ取りのようなまとめ記事になっていて、ある意味では一番話が分かりやすい。 ただ記紀が書いていない重要なことを書いている。 木花開姫(コノハナサクヤヒメ/豊吾田津姫/鹿葦津姫)が波が打ち寄せる浜辺に大きな御殿を建てて手に巻いた玉の音を涼やかに鳴らしながら機織りをしている、としていることだ。 水辺で機織りをするというのは、神のための衣を織りながら客神(まろうどがみ)を待ち、一夜妻になって神の子を宿す役割を担っていた棚機津女(たなばたつめ)のことだ。 記紀がそれとなく匂わすだけだったことを『先代旧事本紀』はもう少し分かりやすい書き方をしているということがいえる。 ここまで記紀を見てきて分かるように、カシツヒメ/コノハナサクヤヒメは一晩で妊娠して子供を生んでいる。しかし、ニニギの妻になったわけではない、ということに気づかないといけない。 一夜きりの関係で、月日が流れて産み月になってニニギの前に姿を現している。その後、結婚して一緒に暮らしたという話も、ともに子育てをしたという話も出てこない。 ニニギはニニギで別の女性と結婚したのかどうかも書かれていないので分からない。 ただ、ふたりの間に生まれた子供が初代神武天皇につながっていくのだと記紀はいっている(ニニギとコノハナサクヤヒメは神武の曾祖父母)。 逆に言えば、結果としてカムヤマトイワレビコが天皇に即位し、そこからさかのぼってこの話が作られたという見方もできる。
系譜と後裔について
記紀が採用した伝承でいうと、カシツヒメの父はオオヤマツミということになる。 オオヤマツミは伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が生んだ子なので、カシツヒメはイザナギ・イザナミの孫に当たる。 しかし、『日本書紀』の一書が伝える異伝の系譜の方が気になるし惹かれる。 一書第七がいう天杵瀨(アメノキセ)というのは、ニニギの別名なのか、別人なのかがよく分からない。 問題はやはり一書第八で、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を尾張連の娘といっていることだ。 では、この尾張連とは誰なのか? 天照国照彦火明命を尾張氏始祖の天火明(ホアカリ)とするならば、ホアカリはコノハナサクヤヒメの子供ではなく夫ということになる。 ここを始祖とするならその前の代ということだけど、系譜にないのでよく分からない。 ただ、”尾張連”というのはどうなんだろうという違和感を抱く。”連”というものがその時代すでにあったかどうか。 世代で考えると、ニニギの父は天忍穗耳尊(オシホミミ)だ。ひょっとするとコノハナサクヤヒメの父もオシホミミという可能性があるだろうか。 オシホミミは天照大神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)の誓約で生まれた五男三女神のうちのひとりとされているから、兄弟の天穂日命(アメノホヒ)、天津彦根命(アマツヒコネ)、活津彦根命(イクツヒコネ)、熊野櫲樟日命(クマノクスビ)のいずれかがコノハナサクヤヒメの父ということもあり得るのか。
『播磨国風土記』では許乃波奈佐久夜比命(コノハナサクヤヒメ)は伊和大神(イワノオオガミ)の妻とされていて、これも見逃せない伝承だ。 イワノオオガミは播磨国では古くから信仰の対象とされたようで、イワノオオガミを祀る古い神社が何社かある。 その後、出雲神の大国主(オオクニヌシ)に取り込まれる格好で同一視されるようになった。 どういう経緯でコノハナサクヤヒメが播磨国の王と婚姻したという話が生まれたのかはよく分からない。
後裔については、コノハナサクヤヒメの後裔と称している氏族はいないと思われる。 ニニギとの間の子が天皇家につながっていくので、ニニギを始祖と主張する氏族はいないのかもしれない。 ただ、山幸彦以外にも海幸彦がいるし、ホアカリもいるから、ニニギの後裔というのはいてもおかしくない。 ホアカリを始祖とする尾張氏はどうしてニニギを始祖としなかったのだろう。天皇家に遠慮したということだろうか。
富士山の女神となった経緯について
コノハナサクヤヒメというと富士山本宮浅間大社(web)を始めとした浅間神社の祭神となっていることからも、富士山の女神というイメージを持っている人も多いと思う。 どうして富士山の神としてコノハナサクヤヒメが選ばれたのかはよく分かっていない。それほど古い時代からのことではなく、近世に入ってからだという説もある。 そもそも浅間神社の祭神は浅間大神(あさまおおかみ)とされていた。 活火山で噴火を繰り返す富士山と、火の中で子供を無事に生んだとされるコノハナサクヤヒメを結びつけたともされるのだけど、いつ誰が言い出したことなのかははっきりしない。 一番ありそうな説としては、江戸時代の儒学者である林羅山が『丙辰紀行』の中でオオヤマツミを祀る三嶋大社(web)と富士山は親子の関係で、オオヤマツミの娘がコノハナサクヤヒメならば富士山の神はコノハナサクヤヒメではないかと書いたのがきっかけというものだ。 中世の史料に富士山の神をコノハナサクヤヒメとしたものはないとされる。 神仏習合時代は本地仏を大日如来とする浅間大菩薩と称されていた。
南北朝時代の『神道集』にかぐや姫と富士山の話がある。 子供ができずに嘆いていた老夫婦の前に竹から生まれた女の子が現れたので赫野姫(かくやひめ)と名づけて育てたところ、成長して美しい女性となった。しかし、あるとき、自分は富士山の仙女であなたたちと前世で縁があったのでこうして生まれてきたのですが、恩返しも済んだのでもう帰りますと言い残して姿を消してしまったという内容だ。 直接コノハナサクヤヒメと関係しないものの、間接的にコノハナサクヤヒメはかぐや姫と関係がありそうだ。
浅間神社の祭神としての一面
コノハナサクヤヒメを祭神とする浅間神社は全国に約1300社ほどあるとされる。 『延喜式』神名帳(927年)には駿河国と甲斐国に浅間神社があり、すでに名神大となっている。 富士山本宮浅間大社の社伝によると、古くは山頂の山宮のみで祀られていたものを平安時代初期の806年に麓でも祀られるようになったといっている。 そこには延喜式内社の富知神社ががあって、湧玉池を祀っていたという。 そもそもは水の神だったのが、奈良時代以降に噴火が頻発するようになって火の神という性格が強くなっていったようだ。 甲斐国側の浅間神社(あさまじんじゃ/web)は、864年の貞観大噴火をきっかけとして翌年に創建されたと伝わる。 笛吹市の浅間神社、南都留郡富士河口湖町の河口浅間神社、西八代郡市の一宮浅間神社の三社も論社とされる。
コノハナサクヤヒメは安産、子育ての神という一面も持っているため、子安神社(伊勢の神宮の内宮所管社)でも祀られている。 ニニギが高千穂に天孫降臨したという記紀の伝承をもとに、宮崎県や鹿児島県でコノハナサクヤヒメを祀る神社がある。 式内社とされる宮崎県西都市の都萬神社(つまじんじゃ/web)や、宮崎県宮崎市の木花神社(きばなじんじゃ/web)、などががそうで、宮崎県西臼杵郡の高千穂神社(web)や鹿児島県霧島市の霧島神宮(web)でも祭神に名を連ねている。 京都宇治市の縣神社(あがたじんじゃ/web)や京都市の梅宮大社(web)などでも祀られており、京都にも少し痕跡がある。 福岡県糸島市の細石神社(さざれいしじんじゃ/web)はコノハナサクヤヒメとイワナガヒメを一緒に祀る珍しい神社だ。 鎌倉時代に伊豆山神社(web)とともに二所権現として厚い崇敬を受けた箱根神社(web)祭神の箱根大神は、ニニギ、コノハナサクヤヒメ、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)の三柱の総称とされる。
名古屋では中川区の浅間社(下之一色)、中区の富士浅間神社(大須)などの浅間社・富士社の他、名東区の和爾良神社、千種区の上野天満宮、北区の山田天満宮、千種区の城山八幡宮、南区の神明社(呼続)、南区の神明社(鳥栖)でも祭神に名を連ねている。
桜とコノハナサクヤヒメ
コノハナサクヤヒメは桜の女神というイメージで語られることが多い。 桜の語源はコノハナサクヤヒメから来ているという説がある。”サクヤ”が”サクラ”に転じたというのだ。 桜の由来については諸説あってはっきりしないのだけど、サクラ=サクヤ説をとるのであれば、コノハナサクヤヒメが先で、桜の花を見た人がコノハナサクヤヒメみたいだと感じてサクラと名づけたということになる。 今は主流となっているソメイヨシノは江戸時代に品種改良にとって生み出されたものだけど、自生していた野生種を古くから愛でる風習が日本にはあった。 『古今和歌集』(905年)に収録された在原業平の”世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし”はよく知られているし、平安時代の歌人、西行が歌った”願わくは 花の下にて春死なん その如月の 望月の頃”の花はいうまでもなく桜のことだ。 『日本書紀』の履中天皇記に、季節外れの桜の話が出てくることからしても、すでに奈良時代には桜を愛でていたと考えていい。 その頃の人たちも桜が咲いて散る姿にコノハナサクヤヒメを重ね合わせていたのかもしれない。
コノハナサクヤヒメの正体とは
『日本書紀』一書の中で、カムアタカシツヒメは占いをして神に供えるための卜定田(うらへた)を狹名田(さなだ)と名付てその稲で天甜酒(あめのたむさけ)を作り、渟浪田(ぬなた)の稲で炊いた米とともに新嘗祭に奉納したという伝承を伝えている。 そのため、酒造りの神という一面を持つ。 父親とされるオオヤマヅミの別名を酒解神(サカトケ)といい、京都の梅宮大社で祀られている。 梅宮大社といえば酒造りの神としてよく知られる神社だ。祭神の一柱の酒解子神(サカトケコ)はカシツヒメのこととされる。 『日本書紀』に「この神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」という歌が載せられている。 オオモノヌシを祀ったあと、崇神天皇に酒を捧げる際に歌われたものだとする。 同じような歌に「この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少名御神の 神寿き 寿ぎ狂ほし 豊寿ぎ 寿ぎ廻おし 献り来し御酒ぞ あさず食せ ささ」というのがあり、これは息長帯日売命(神功皇后)が帰還した息子のホムタワケ(応神天皇)を祝うために歌ったものだと『古事記』は書いている。 ”醸(か)む”というのは、米を口で噛んで唾液で発酵させて酒を造ることをいい(口噛み酒)、かつては神に仕える巫女がそれを行っていた。 映画『君の名は。』でも出てきたので覚えている人もいると思う。 つまり、カシツヒメ/コノハナサクヤヒメはそういう役割も負う女性だったと考えらえる。
上にも書いたように、コノハナサクヤヒメの名は別名で、もともとの名はカシツヒメ/カムアタツヒメだ。 『先代旧事本紀』は豊吾田津姫(トヨアタツヒメ)または鹿葦津姫(カアシツヒメ)といっている。 阿多/吾田(アタ)を南九州の地名とする解釈が一般的だけど、個人的には疑っている。 それよりも重要なのは頭に付いている”神”であり”豊”の方だ。 ”神”族であり、”豊”一族でもあるとすれば、それは三河のタカミムスビ、またはカミムスビ系の一族かもしれない。 どうしてそういうことになるのかを説明するのは難しいし長くなるのでここでは書かないけど、一応、指摘だけはしておきたい。分かる人にはピンとくるかもしれない。 その推測が的外れだったとしても、コノハナサクヤヒメは尾張にゆかりがある巫女的な役割を持った女性ということはいえるのではないかと考えている。
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