『古語拾遺』のみ登場する女神
一般的に機織(はたお)りの神とされ、七夕の女神とも考えられている。 『古事記』、『日本書紀』には書かれず、斎部広成が書いた『古語拾遺』(807年)で天之岩戸隠れ(天石窟幽居)の場面で登場する。 岩戸隠れについては『古語拾遺』も、素戔鳴神(スサノオ)が天照大神(アマテラス)と誓約(うけひ)を行った後、スサノオが乱暴を働いた(天津罪)ためアマテラスが天石窟に隠れてしまったという展開は変わらない。ただ、ちょっと面白いのは高皇産霊神(タカミムスビ)が八十万の神を集めて謝罪の仕方を相談したとしている点だ。原文では”議奉謝之方”となっている。 記紀ではアマテラスのご機嫌を取って出てきてもらうという作戦だったのに、『古語拾遺』では謝罪して許してもらうという話になっている。 ここで活躍する神の顔ぶれも違っていて、記紀では出てこない神が何人か加わっている。 考えを巡らせたのは思兼神(オモイカネ)で、これは同じだ。神祇関係を主導したのは太玉神(フトダマ)ということになっていて、天児屋命(アメノコヤネ)は補助的な役割になっている。これは忌部(斎部)の祖がフトダマで、忌部の家に伝わった伝承を元に書かれているためとされる。 登場する神たちそれぞれの役割分担はこうだ。 石凝姥神(イシコリドメ)に天香山から採ったの銅(あかがね)で太陽の像の鏡を作らせ、長白羽神(ナガシラハ)には青和幣を、天日鷲神(アメノヒワシ)と津咋見神(ツクイミ)には白和幣を織らせた。 また、天羽槌雄神(アメノハヅチオ)には文布(しつ)を、天棚機姫神(アメノタナバタツヒメ)には神衣を織らせたとしている。 神衣は和衣のことで、古語で爾伎多倍(にきたへ)というと記しているので、文布は荒衣(あらたへ)のことを指しているのだろう。 更に、櫛明玉神(クシアカルタマ)には八坂瓊五百筒御統玉(やさかにのいほつみすまる)を作らせ、手置帆負(タオキホオヒ)と彦狹知(ヒコサシリ)には瑞殿(みずのみあらか)を建てさせ、御笠、矛、盾も作らせたとする。 こうしてもろもろの準備を整えた後、天香山から五百筒真賢木(いほつまさかき)を掘り出してきて飾り付け、天鈿女命(アメノウズメ)が踊ることになる。 ただし、そこでアマテラスが出てくるには至らず、フトダマがアマテラスを褒め称え、アメノコヤネが祈祷をしてようやく少し扉を開いたので、天手力雄神(アメノタヂカラオ)に戸を開けさせ、新殿(にいみや)に移っていただいたという流れになっている。 こういう細かい役割分担については『日本書紀』も第七段一書第二に少し書いているのだけど、ここまで詳しくはない。 特に、神の衣を織ったというのは『古語拾遺』独自のもので、記紀を補完したような内容になっている。 これらの行事は現在も続く天皇代替わりの大嘗祭に通じるものとなっている。言い方を換えれば、後の大嘗祭はこの天岩戸開きを模したものという言い方ができる。
機織り女は神に仕える者
以上のように、日本神話からアメノタナバタヒメについて知ることができることは少ない。 しかし、神社の祭神として祀られているということは、古代以降、機織りの女神の存在が人々の心の内にあって、祀るに値する存在という認識があったことを意味している。天棚機姫神を祭神とする神社が全国にあることもその証拠と言える。 機織りということでいうと、アマテラスは機織りと関わりが深い。 『日本書紀』第七段本文では、スサノオは田んぼを壊して収穫の邪魔をしたり、新嘗祭の神殿に大便をしたり、齋服殿(いみはたどの)にアマテラスがいるのを見て皮を剥いだ天斑駒(あめのふちこま)を放り入れたりした。 このとき、アマテラスは機織り機の梭(ひ)で傷を負ってしまい、それが原因となって天之岩戸に隠れたとしている。 齋服殿というのは神事で神に供えるための神衣を織る場所のことで、ここにアマテラスがいたということはアマテラスがそれを織っていたことを示している。 一書第一では、齋服殿にいたのは稚日女尊(ワカヒルメ)で、スサノオが投げ入れた斑駒に驚いたワカヒルメは梭に体を突かれて死んでしまったとする。 一書第二は、アマテラスを思わせる神の名を日神尊として、機織りの話はなく、新嘗祭のときの席にスサノオが大便をして、知らずに座った日神が臭くなって天岩屋に隠れたという話になっている。 稚日女尊や日神尊をアマテラス本人と断定することはできないのだけど、『日本書紀』が特に貴い神に対する”尊”を使っている点は無視できない。 『古事記』は天照大御神(アマテラス)が忌服屋で神衣を織っているとき、スサノオが皮を剥いだ天斑馬を投げ入れ、それに驚いた天の服織女が梭で女陰を突いて死んでしまったことになっている。 何が言いたいかというと、アマテラスはもともと祀られる側ではなく神を祀る側だったと考えられるということだ。直接にせよ間接にせよ神衣作りを行っているというのはそういうことを意味している。 機織り機の梭で死んだのがワカヒルメ=アマテラスだとすると、一度死んで天之岩戸に隠れて出てきたとき、祀る側から祀られる神になったということを記紀は言いたいのかもしれない。 天棚機姫神(アメノタナバタヒメ)というのは一個人ではなく、機織り女の象徴であり、元を辿ればアマテラスの一側面という言い方ができるように思う。
棚機女という伝統
織物は縄文時代にはすでに行われていてし、さかのぼれば旧石器時代でもやっていただろう。縄文人を動物の皮を着た原始人のように思うのは間違いだ。 機織りの原形といえる編布(あんぎん)を行う女性のことを棚機女(たなばたつめ)と呼んでおり、棚機を”たなばた”というのはここから来ている。 織物を表す”布帛”(ふはく)という言葉がある。 布地は大きく分けると織物と編物があり、縦糸と横糸が直角に交差させるのが織物、糸で輪を作って絡み合わせるものを編物として区別する。 布帛の布は麻や綿など素材としたもので、帛は絹織物のことをいう。 絹織りが日本でいつから始まったのかはよく分かっていないのだけど、少なくとも弥生時代にはあったし、もしかすると縄文時代には行われていたかもしれない。 大嘗祭の他、伊勢の神宮(web)の神御衣祭(かんみそさい)では和妙(和衣)と荒妙(荒衣)が奉納されるように、古くから布帛は一対として考えられていたようだ。 それを製作するのはもっぱら女性で、それは神に仕えることも意味した。
機織りはどうやら水辺に関係がある。 旧暦の7月15日に、水の神が天から降りてくると信じられていて、海や川辺に棚(神聖な借宿)を建てて、村の中で選ばれた穢れのない少女がその中で機を織って神に捧げる儀式が行われたという。 同時にそれは少女自身を神に捧げ、客神(まろうどがみ)の一夜妻になって神の子を宿す役割も担っていた。 『日本書紀』の中にもこれと似た話がある。 第九段一書第六、天孫降臨した天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)は吾田(あた)の笠狹之御碕(かささのみさき)にある長屋の竹嶋(たかしま)に登ってあたりを見渡すと事勝国勝長狹(コトカツクニカツナガサ)を見つけた。 ここに国はあるかと訊ねるとあるという。 あそこで浪穗の上に八尋殿を建てて手に玉飾りを巻いて機織りをしている乙女は誰の子かと訊ねた、という話だ。 これが木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)と磐長姫(イワナガヒメ)の姉妹で、大山祇神(オオヤマツミ)の娘たちだった。 ニニギは美しくない姉のイワナガヒメを断り、コノハナサクヤヒメを娶ると、コノハナサクヤヒメは一晩で身ごもることになる。 本文には採用されなかったものの、コノハナサクヤヒメは神に仕える機織り女で一夜妻だったという伝承があったことが分かる。 一晩で身ごもるのはおかしいとニニギに疑われたコノハナサクヤヒメは、産屋に火を放ち、そこで無事に出産して身の潔白を証明する。 そして生まれたのが火闌降命/火酢芹命(ホスセリ)、火明命(ホアカリ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)の火の三兄弟で、それぞれ天皇家や尾張氏へとつながっていく。 山神の娘で桜の化身ともいえる機織りの女は、水辺で機織りをして神を迎え、火の子たちを生む、という物語が描かれている。
”タナバタ”つながり
七夕は普通、”たなばた”とは読めない。中国の五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)のひとつ七月七日の七夕(しちせき)や織姫と彦星の伝説などがあわさってたなばたに”七夕”の字を当て、七夕行事として定着していった。 この話は単純なようで複雑で、いくつもの風習や伝統、伝説などが習合したものとなっている。 中国で生まれたとされる七夕伝説は日本でもよく知られている。天帝の娘で機織りの織姫が彦星と結ばれて機織りに精を出さなくなったことに腹を立てた天帝が、天の川の両岸に二人を引き離して、一年に一度、7月7日だけ会わせることにしたというあれだ。 この日雨が降ると天の川の水かさが増して二人が会えなくなるので晴れるように人々が願ったということと、女性が織物や裁縫の上達を織女星に願う乞巧奠(きっこうでん)ともあわさって七夕の日に願い事をするようになった。 これに収穫祭や盆の行事も絡んで更に複雑になる。 お盆というと今は8月15日と思う人が多いだろうけど、もともとは太陰暦の7月15日だった。8月になったのは明治以降のことだ。 そしてお盆はもうひとつの正月ともいえる行事だった。 それは古くから大祓(おおはらえ)が6月末と12月末に行われていたことが関係する。 大晦日に大祓があって正月になったように、6月の大祓が明けた7月1日はもうひとつの新年だった。 7月15日のお盆は正月でいうと小正月の左義長(どんど焼き)に相当する。 七夕の笹竹は正月の門松ようなもので、帰ってきた先祖の霊の依り代の意味合いもあった。 この時期は収穫祭も行われ、そこで供えられたナスやキュウリは7月の正月飾りに当たり、馬や牛に見立てて祖先神の乗り物といった風習も生まれた。 上に書いたように7月15日は棚機女の行事が行われる日でもあった。
『万葉集』には七夕にまつわる歌が百首以上も収録されている。それだけ七夕伝説は日本人の心に訴えるものがあったということだ。 多くは天の川によって隔てられた男女の恋歌といったもので、”七夕”という言葉は出てこない。905年選の『古今和歌集』にあるので、平安時代初期以降に”七夕”の文字が当てられるようになったと考えられる。 それにしても、奈良時代の人たちにこれほど深い感銘を与えた七夕伝説が外国から新しく輸入された物語とするのは無理があるように思う。やはり、日本古来の伝承が下地としてあったからに違いない。 そして、忘れてはならないのが、タナバタヒメが信仰の対象として神社に祀られているということだ。中世から近世にかけての信仰の移ろいや流行にも左右されず現代まで残っているという事実がある。 記紀には登場せず、『古語拾遺』にだけちらっと出てくるタナバタヒメをどうして人々は神として認識したのか。 古くから風習としてあったタナバタツメと結びついたのだとしても、人々が共通認識とする具体的なイメージがあったのではないか。 もっと言えば、タナバタヒメに相当する人物がいて、人々はその人のことを知っていたのではないかということだ。 あるいは、機織りの女神を祀るという信仰が先にあって、後からタナバタヒメという人物を創造してそれに当てたということかもしれない。
タナバタヒメを祀る神社
タナバタヒメを祀っている神社を大きく分けると3つのグループがある。 ひとつは伊勢の神宮(web)の神衣関連から生まれたところで、もうひとつは機織りを職掌とした倭文氏(しとりうじ)が祖神として祀った神社、その他だ。 長く続く神社も、長い歳月の中で祭神が変わったり、別の神が同一視されたり、混同したりして形を変えて今に伝わっているので、今タナバタヒメを祀る神社となっていても最初からずっとそうだったとは限らない。その点はひとつ注意が必要だ。 ただ、『延喜式』神名帳(927年)に載る神社のいくつかがタナバタヒメを祀るとしていることからすると、タナバタヒメに対する信仰はかなり早くからあったと考えていいだろう。平安時代あたりに生まれた”新しい信仰”ではない。 ちなみに、『延喜式』神名帳には倭文神社が12社載っていて、これらは倭文氏が祖神の建葉槌命(タケハヅチ)を祀ったものが多い。 これらの神社でタナバタヒメやそれに類する女神を祀る神社も少なくない。
タケハヅチは『日本書紀』で、天孫降臨前段階の国譲りの場面で出てくる。 第九段本文で、一説によるとという追記の形でこう書いている。 經津主神(フツヌシ)と武甕槌神(タケミカヅチ)によって大己貴神(オオナムチ)に国譲りさせることには成功したものの、星神の香香背男(カカセオ)だけは従わなかったため、倭文神(しとりがみ)の建葉槌命(タケハヅチ)を遣わせたところ服従したと。 倭文神についての説明がないので、武力で従わせることができなかったカカセオをタケハヅチがどうやって服従させたのかは分からない。 『古語拾遺』では天羽槌雄神(アメノハヅチオ)が登場することは前半に書いた。これは建葉槌命(タケハヅチ)のこととされる。 アメノハヅチオが文布(しつ)を作り、天棚機姫神(アメタナバタツヒメ)が神衣(和衣)を織らせたとしているから、タケハヅチは織物の男神ということになる。 このことからアメノハヅチオ/タケハヅチを祖とする倭文氏がアメノハヅチオを祀る神社を建てたことは自然なことではある。ただ、倭文神社でタナバタヒメを一緒に祭ることになった理由や経緯についてはよく分からない。 『古語拾遺』でもタナバタヒメの系譜には触れておらず、『新撰姓氏録』にも棚機姫を祖とする氏族は載っていないはずだ。 アメノハヅチオの系譜に取り込まれたのか、そもそもタナバタヒメなる神は存在せず、七夕伝説が浸透した後に織姫の擬人化のようにして作り出されたのか。 そのあたりについては難しくてこれ以上踏み込めない。 アメノハヅチオの系譜については、神産巣日神(カミムスビ)の5世孫の天日鷲命(アメノヒワシ)の子で、県犬養氏、美努宿祢、鳥取部連、巨椋連などの祖とされる。 倭文氏系の総本宮的な位置づけの神社としては、奈良県葛城市の棚機神社(葛木倭文坐天羽雷命神社の旧地とされる/web)とされることが多いようだ。その他、山梨県韮崎市、静岡県富士宮市、群馬県伊勢崎市、京都府与謝郡、鳥取県鳥取市などに倭文神社がある。 三重県鈴鹿市の加佐登神社(web)に合祀された倭文神社(伊勢国鈴鹿郡)は伊勢の神宮系の神社の可能性が高い。 三重県松阪市の星合神社(式内・波氐神社の論社/web)は天棚機姫神だけを主祭神として祀っていることからも倭文氏とは関係ない伊勢の神宮ゆかりの神社だろう。 静岡県浜松市にある初生衣神社(うぶぎぬ)は、三河地方で紡がれた赤引の糸を使って織った生地を伊勢の神宮に奉納していた神社で、天棚機姫神を祭神としている。 ここでは古くから神服部氏(かんはとり)が役割を担ってきたとされる。 服部氏も織物、服飾系の職能集団が元になっていて、服部神社も織物関係の神を祀っているところがある。 伊勢の神宮に納める神衣を織る場所が、三重県松阪市の神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ/web)と神麻績機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ/web)という神社になっており、前者では和妙を、後者では荒妙を織っている。 荒妙は古くから神麻績氏(かんおみ)が担っており、祖神として天八坂彦命(アメノヤサカヒコ)を祀っている。
名古屋の七夕神社
名古屋には七夕にまつわる神社が二社ある。 ひとつが北区の多奈波太神社、もうひとつが西区の星神社(上小田井)だ。 多奈波太神社は名前がすでに”たなばた”で、主祭神として天之多奈波太姫命を祀っている。 星神社は主祭神として天香香背男神(アメノカカセオ)を祀り、それ以外に牽牛星・織女星という祭神名で祀っている。 多奈波太神社は『延喜式』神名帳にある多奈波太神社の論社で、星神社は山田郡坂庭神社の論社とされる。 どちらも創建のいきさつはよく分かっていないものの、かなり古い神社ではありそうだ。 繰り返しになるけど、長い歳月の間に祭神が変わったり消えたりすることはよくあるので、これらの神社が機織りの神を祀る神社として創建されたかどうかはなんとも言えない。 これらの神社につていて詳しくは本編をお読みください。
織姫と彦星は誰のことか?
最後に少しだけ付け足しを。 タナバタヒメを栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ/萬幡豊秋津師比売命)と同一神とする説がある。 栲幡/萬幡の”ハタ”が機織りに通じるところから来ているようだ。 タクハタチヂヒメは高皇産霊神(タカミムスビ)の娘で、思兼神(オモイカネ)の妹に当たる。 天照大神(アマテラス)の息子の天忍穂耳命(アメノオシホミミ)と婚姻して天火明命(アメノホアカリ)と天津彦根火瓊瓊杵根尊(ニニギ)を生んだと『日本書紀』は書く。 尾張国一宮の真清田神社(web)の主祭神はアメノホアカリで、境内にある別宮・服織神社(はとりじんじゃ)では萬幡豊秋津師比売命を祀っている。 天若日子命(アメノワカヒコ)、味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)、アジスキの妹でワカヒコの妻の下照姫(シタテルヒメ/高比売命)との三角関係と尾張氏に伝わる裏伝承を織姫・彦星を絡めて書こうかと考えたのだけどやめておく。それをやるとあまりにも複雑怪奇で頭が混乱して収拾が付かなくなってしまうから。 いつかどこかで書けたらいいけど、とりあえずここではタナバタヒメ=栲幡千千姫命説は保留としたい。
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