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オオヤマツミ《大山祇神》

オオヤマツミ《大山祇神》

『古事記』表記大山津見神
『日本書紀』表記大山祇神
別名大山積神、大山罪神、和多志大神、酒解神
祭神名大山祇命・他
系譜(親)伊弉諾尊伊弉冉尊(『古事記』)または軻遇突智
(子)木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)、石長比売(イワナガヒメ)足名椎、手名椎、神大市比売、木花知流比売、天之狭土神、国之狭土神、天之狭霧神、国之狭霧神、天之闇戸神、国之闇戸神、大戸惑子神、大戸惑女神
属性山の神、海の神、武神、他
後裔天皇家、他
祀られている神社(全国)大山祇神社(愛媛県今治市)をはじめとする全国の山神社、三嶋大社(静岡県三島市)をはじめとする全国の三嶋神社、大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)、梅宮大社(京都府京都市)、全国の浅間神社
祀られている神社(名古屋)山神社(松原)(中区)、山神社(下山町)(瑞穂区)、山神社(田代町)(千種区)、山神社(道徳)(南区)、山神社(上宿)(西区)、山神社(知多町)(港区)、お福稲荷社・山神社・白竜社(守山区)、大山祇神社(翠松園)(守山区)

ヤマツミは本当に山の神という意味なのか?

現代人の感覚でいうと、ワタ+ツミだと思いがちだけどたぶんそうじゃなくてヤマ+ツ+ミだ。
一般的に”ツ”は現代でいうところの”の”に当たる助詞で、”ミ”は神霊を意味するとされる。海の神のワタ+ツ+ミと同じパターンだ。
ただ、個人的には本当にそうだろうかという疑いを持っている。”ツ”はもう少し違うニュアンスの気がするし、”ミ”はもっと別の意味があるのではないか。
本居宣長は『古事記伝』の中で、山津見は山津持の意味だという賀茂真淵の説を紹介している。山を持っているということだ。
確かに、ツ+ミは別の言葉から転じた可能性は考えられる。
”ミ”は蛇を表す巳で蛇神ではないかという説もある。

 大山祇の父はイザナギかカグツチか

『古事記』、『日本書紀』ともに系譜の中で名前がちょくちょく出てくるものの、その具体的な活躍についてはほとんど描かれない。
山の神とはいっているものの三輪山の大物主神(オオモノヌシ)のような具体的な人格は与えられておらず、限定された土地の神ともされていない。
出自について『古事記』は、伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)が国生みに続いて神生みをした際に風の神、木の神、野の神とともに山の神の大山津見神が生まれたとしている。
大山津見は、草と野の神である野椎神(ノヅチ/鹿屋野比売神)とともに山と野において次の八柱の神を生んだといっている。その神の名は以下の通りだ。

天之狭土神(アメノサツチ)
国之狭土神(クニノサツチ)
天之狭霧神(アメノサギリ)
国之狭霧神(クニノサギリ)
天之闇戸神(アメノクラト)
国之闇戸神(クニノクラト)
大戸惑子神(オオトマトヒコ)
大戸惑女神(オオトマトヒメ)

山と野でそれぞれ天の神と国の神を生んだとしているから、山を天、野を国に当てている。
ただ、最後の大戸惑子と大戸惑女は男女神のような関係性になっていて、その属性はよく分からない。

『日本書紀』の第五段本文には出てこないものの、一書第六に伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が生んだとあり、これは元ネタが『古事記』と共通のものかもしれない。
表記は”山祇”(ヤマツミ)となっている(”大山祇”ではない)。
一書第六は、イザナギが火の神の軻遇突智(カグツチ)を生んで命を落とし、それに怒ったイザナギがカグツチを斬り殺し、カグツチの血から様々な神が生まれたといっていて、その中に闇山祇(クラヤマツミ)の名もある。
イザナギとイザナミが生んだのが”山祇”で、カグツチの血から化成したのが”闇山祇”となっているから、これはやはり別と考えるべきだろうか。
しかし、一書第七では、イザナギがカグツチを三段斬りにしてそこから雷神、大山祇神(オオヤマツミ)、高龗(タカオカミ)が生まれたといっており、ここではカグツチから生まれたのが”大山祇”ということになっている。イザナミが生んだのではない。
一書第八は、カグツチを五段斬りにしたといい、首から大山祇、体から中山祇(ナカヤマツミ)、
手から麓山祇(ハヤマツミ)、腰から正勝山祇(マサカヤマツミ)、足から䨄山祇(シギヤマツミ)が化爲したとする。

いろんな山祇がいて混乱するのだけど、このように細かく見ていくと、大山祇はイザナギとイザナミが生んだというよりイザナギがカグツチを斬ったときに生まれたという話の方が主のように思える。
こういった寓話を現実の話に当てはめると、大山祇の父はイザナギではなくカグツチなのではないかとも推測できる。カグツチはある意味では消されたような存在となっているのだけど、実際はイザナギの跡取り息子で、多くの神(氏族)の祖というべき立場にあった人物かもしれない。
三段斬りや五段斬りされて血から多くの神々が生まれたというのは、殺されたというのではなく本家から分かれて分家が出たと考えることもできるのではないか。

ニニギを呪ったのは大山祇か磐長姫か

大山祇(大山津見)自身の活躍が『古事記』、『日本書紀』に描かれることは少ないものの、一ヶ所だけ大山祇本人が出てくる場面がある。天孫の邇邇藝命/瓊瓊杵尊(ニニギ)が木花之佐久夜毘売/木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を見初めて大山祇が姉の石長比売/磐長姫(イワナガヒメ)も一緒につけたら送り返されたという有名なあれだ。
ただし、『古事記』と『日本書紀』とでは重大な違いがある。

ニニギが地上で神阿多都比売(カムアタツヒメ/木花佐久夜毘売)に出会って口説くと、父の大山津見に聞いてほしいというので使者をやると大山津見は喜んで承諾し、たくさんの贈り物と一緒に姉の石長比売(イワナガヒメ)もつけたところ、ニニギはイワナガヒメはみにくいからいらないと送り返してきたという話の展開は共通している。
違いはこの後で、『古事記』では長寿の象徴であるイワナガヒメをめとらなかった天孫の寿命は儚いものなるだろうと呪ったのは大山津見になっているのに対し、『日本書紀』(第九段一書第二)は、呪いの言葉を吐いたのはイワナガヒメ本人になっている。
当事者であるイワナガヒメが嘆いたのは致し方ないにしても、父である大山祇が天孫であるニニギに対して呪いの言葉を吐いたという意味は重い。
ニニギとコノハナサクヤヒメとの間に生まれた子供が初代神武天皇(カムヤマトイワレビコ)へつながることからすると、これはちょっとまずいのではないかと『日本書紀』の編纂者たちが考えて変えたのかもしれない。
大山祇はニニギの義理の父でもあるし、初代神武天皇から見て曾祖父に当たる。その人物が天孫の寿命を短くするような呪いをかけたのであれば、やはりそれはかなり問題がある。
しかし、天皇家が大山祇を恐れたという話はなく、大国主命(オオクニヌシ)のように丁重に祀った様子もない。そもそもあまり重要視していないように思える。
ただ、大山祇が大国主系統の祖でもあることからすると、天皇家が大山祇を重視していなかったと考えるのは早計かもしれない。

氏族の源流としての大山祇

コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ以外にも大山祇/大山津見を父といっている人たちがいる。
高天原を追放された須佐之男命/素戔鳴尊(スサノオ)は地上で泣いている少女とそれを慰める老夫婦に出会う。よく知られた八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の話だけど、その老夫婦の足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナヅチ)は自分たちを国津神の大山津見神の子だといっている。
ただしそれは『古事記』の話で、『日本書紀』は脚摩乳(アシナヅチ)・手摩乳(テナヅチ)の系譜には触れていない。
八岐大蛇を退治した後に結婚することになる二人の子供の奇稻田姫/櫛名田比売(クシイナダヒメ/クシナダヒメ)は大山祇の孫ということだ。
スサノオから見れば大山祇は義理の祖父に当たる。
だいぶややこしくなってきたけど、ややこしいついでに書いてしまうと、『古事記』の系譜の中で出てくる神大市比売神(カムオオイチヒメ)も大山津見の娘とされ、カムオオイチヒメはスサノオに嫁いで大年神(オオトシ)と宇迦之御魂神(ウカノミタマ)を生んだことになっている。
大年神は年末年始に迎える歳神(年神)のことで、宇迦之御魂神は稲荷神として祀られている神だ。
さらにややこしいのが、イワナガヒメと同一視されることもある木花知流比売(コノハナチルヒメ)はスサノオと間にできた八島士奴美神(ヤシマジヌミ)に嫁ぎ、この系譜の子孫が大国主神(オオクニヌシ)となる。
言葉で説明されただけでは理解するのが難しいだろうけど、大山祇は天津神の外戚であり、国津神の祖でもあるということを認識しておく必要がある。ただの山の神さんというのではない。
どんな人物でどんな活躍をしたのかはともかく、系譜上で重要な位置にあるとは言える。
ついでに書くと、コノハナサクヤヒメとニニギとの間に生まれた天火明命(アメノホアカリ)は尾張氏の祖とされるので、大山祇は尾張氏から見ても遠祖ということになる。

記紀以外の史料が語る大山祇

『先代旧事本紀』には、神生みのところと神吾田鹿葦姫(木花開耶姫)のところで大山祇神の名前が出てきており、『古事記』と『日本書紀』をあわせたような内容になっている。
磐長姫がニニギに返された場面では、呪いの言葉を磐長姫が吐き、大山祇がその理を説いたといっている。

『古語拾遺』に大山祇の名は出てこない(見落としがなければだけどあるかもしれない)。

『釈日本紀』(卜部兼方/1300年頃)に引用された『伊予国風土記』(逸文)に気になる記述がある。それが以下の一文だ(口語訳)。

「御嶋

伊豫の國の風土記に曰はく、乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。
是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の國より渡り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。
御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり」

難波高津宮御宇天皇は第16代仁徳天皇のことで、津の國の御嶋は今三島鴨神社(web)があるあたり(大阪府高槻市)のこととされる。
その時代に百済國から大山祇(大山積)は渡来したというのだ。一名の和多志の大神は”渡し”つまり渡来から来る別名ということなのだろう。
これはにわかには信じがたい話なのだけど、この後、大山祇神社や三嶋大社について書くところで再検討することにしたい。

『新撰姓氏録』に大山祇の直接的な子孫を思わせるような一族は載っていない。
上にも書いたように天皇家の外戚であり、大国主系の祖神といえばそういうことになる。
少なくとも平安時代の畿内に自分の一族は大山祇から出たといっていた氏族はいなかったと理解していいだろうか。

いつ誰が大山祇を祀ったか

大山祇/大山津見は最初にも書いた通り、山の神とされている。『古事記』や『日本書紀』などもそう書いている。
しかし、大山祇が日本全国の山の神代表かというとそうとも言えない。後述するように山神社の祭神を大山祇神としたのは多くの場合、明治維新以降のことで、それまでの人々は山の神や山神の社で祀っている神を大山祇とは考えていなかったのではないかと思う。
では、大山祇の本拠はどこかといえば、伊予国、今の愛媛県今治市の大三島になるのだと思う。広島県との間の瀬戸内海に浮かぶ島だ。そこに現在、大山祇神社(web)が建っている。
とはいえ、最初からそこが大山祇の本拠だったかといえばそうとも言えない。『伊予国風土記』(逸文)に百済國から津の國の御嶋に坐したというのも引っかかる。
大三島や三島神の”三島”は、もともと御嶋から来ていると推測できる。”御嶽”とか”御前”とかの”御”はおそらく最上級の冠詞で、”嶋”は必ずしも海に浮かぶ島というだけでなく土地や縄張りといった意味にも
使われる(うちのシマを荒らしやがってみたいに)。
津の國は大阪府摂津市のこととされるのだけど、本当にそう決めつけていいのかどうか。
御嶋は現在三島鴨神社がある大阪府高槻市のことではないかという説があるもはっきりしない。
摂津国一宮はよく知られる住吉大社(web)なのだけど、実はもう一社、坐摩神社(いかすりじんじゃ/大阪府大阪市/web)も摂津国一宮を称している。
住吉大社同様『延喜式』神名帳で名神大社となっている坐摩神社は、古くから井戸水の神を祀る珍しい神社だ。
三島鴨神社と住吉大社、坐摩神社との関連はあるのかないのか。
三島鴨神社の鴨は加茂氏(賀茂氏)が関係しているのだろうし、住吉大社はイザナギの禊ぎから生まれた住吉三神を尾張氏の津守氏が古くから祀っていた神社で、坐摩神は宮中で天皇を守護する神とされて忌部氏が何らかの形で関わっている。

大山祇が百済國から津國御嶋に来たという話がどこから来たのかはよく分からないし、それが本当ならどういう経緯で津國御嶋から伊予国に移ったのかも不明だ。
大山祇神社もまた伊予国一宮で延喜式内の名神大社だ。
瀬戸内海の中央部に浮かぶ大三島にある鷲ヶ頭山(わしがとう/436m)の西の麓に鎮座する。ただし、古くは島の南東部にあったとされる。
祭神は大三島名神などと称されたことから島の名前が大三島になった。
そもそもでいうと、鷲ヶ頭山を神体山とする古く信仰があって、島が御嶋と呼ばれて、後に神社が祀られて御嶋社/三島社と名付けられたという流れも考えられる。
あるいは、島を神聖視したのが先で、その島にあった山を神体山としたという順番かもしれない。どちらにしても神社は後のことだ。

大山祇神社の社家を長らく務めた越智氏(おちうじ)の社伝によると、大山祇神の子孫の小千命/乎千命/小致命(おちのみこと)が大三島に勧請したのが始まりという。
この小千命は物部氏の大新河命(おおにいかわのみこと)の孫で伊予国初代国造だと『先代旧事本紀』はいっている。
大新河命は三輪山に大物主を祀った伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の息子に当たる。
伊香色雄命は宇摩志麻治命(ウマシマジ)が宮中で祀っていた布都御魂剣を外に出して石上神宮(web)を創建した人物としても知られる。
実は”三”というのがひとつのキーワードとなるのだけど、それは後からもう一度考察したい。
ちなみに、『新撰姓氏録』も越智直を神饒速日命(ニギハヤヒ)の後としていて、越智氏はやはり物部系の一族ということになりそうだ。
越智氏については、中央豪族が伊予国に派遣されたという説と、もともと伊予国の在地豪族だったという説がある。どちらもある得る話で一方に決めつけるわけにはいかないのだけど、物部系の越智氏がどうして大山祇神を祀ったのかについては考えなければならない。

社伝では越智氏は自分たちを大山祇の子孫だといっているのだけど、『古事記』、『日本書紀』を読む限りニギハヤヒや物部氏と大山祇を結ぶ線は見当たらない。大山祇はイザナギもしくはカグツチの子という位置づけで、ニギハヤヒは別系統の天孫としている。
大山祇はスサノオやオオクニヌシとの関係も深いけど、物部とはどうやってもつながりそうにない。
越智氏が伊予国に派遣された中央豪族であれば、朝廷に命じられて伊予国に大山祇を祀った可能性はあるし、伊予国の在地豪族なら大山祇は伊予国の地主神だったのかもしれない。
そう、大山祇は中央神なのか地方神なのか、という点がひとつ大きな問題としてある。

史料に見える大山祇神

文献上の大山祇神社について見ておくと、『続日本紀』の天平神護2年(766年)条で、大山積神に従四位下の神階を授けるとともに神戸5烟を充てるという記述がある。
たとえば熱田神宮web)が初めて従四位下の神階を与えられたのが822年(『日本紀略』)だからそれよりも早いということになる。
少なくとも奈良時代前期には伊予国において大山祇(大山積神)を祀っていたのは間違いない。
『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう)の大同元年牒(806年)にも伊与国から神部5戸が充てられとある。
ここで気にしなければいけないのが、大山祇を祀るもうひとつの総社ともいうべき三嶋大社(web)との関係だ。
大山祇神社と三嶋大社は関係があるのかないのか。どちらが先でどちらが後なのか。
大山祇神社から大山祇を勧請して三嶋大社を建てたという考えもあるけど、事はそれほど単純ではない。
ここでもやはり、”三嶋”の”三”が出てくる。

三嶋大社はいつから大山祇を祀っているのか

現在、三嶋大社は東海道新幹線の三島駅にもほど近い静岡県三島市内の大宮町に鎮座している。
しかし、元からこの場所にあったわけではなく伊豆諸島のどこかで祀られたのが始まりの可能性が高い。
『延喜式』神名帳では伊豆国賀茂郡の所在となっており、賀茂郡は伊豆半島南部と伊豆諸島のこととされる。
『和名抄』(和名類聚抄/930年頃)には賀茂、月間、川津、三島、大社の5郷が載っており、三島(三嶋)は伊豆大島または三宅島のこととされる。
そのことからしても、古くは伊豆大島にあったと考えるのが自然だと思うけどどうだろう。
伊豆諸島全体の尊称として御嶋と呼ばれていたともいう。
三嶋大社の祭神についてははっきりしないところがある。現在の三嶋大社では、大山祇命と積羽八重事代主神(ツミハヤエコトシロヌシ)の二柱を祀っている。
しかし、『延喜式』神名帳には伊豆三島神社(名神大/月次新嘗)とあり、一座であることから平安時代は一柱の神を祀るという意識だった。
いつから大山祇を祀るとするようになったのかもよく分からない上に積羽八重事代主神(コトシロヌシ)をいつ誰が祀るようになったのかも不明だ。江戸時代の終わりに積羽八重事代主神を主祭神としていた時期があったようだけど、何の根拠もなくコトシロヌシを出してくるとも思えない。
コトシロヌシといえば、『古事記』、『日本書紀』において父のオオクニヌシに代わって国譲りを決めた神とされている。
先に書いたように大山祇はオオクニヌシ系の遠祖ではあるのだけど、ここでコトシロヌシが出てくるのは唐突な印象を受ける。伊豆諸島とコトシロヌシの接点もよく分からない。
ただ、賀茂郡という地名が示す通り、賀茂氏が持ち込んだ可能性があるだろうか。
『伊予国風土記』がいう津の國の御嶋と考えられる場所に三島鴨神社が建っていることからしても、どこかで賀茂氏が絡んできている。

三嶋大社の創祀、創建については、誰がいつどこでというのがよく分かっていない。
三嶋大社の社家だった矢田部氏に伝わる『伊豆宿禰系図』によると、天足別命(アマタリワケ)の子の天御桙命(アメノヌホコ)の8世孫の若多祁命(ワカタケ?)が神功皇后の時代に国造に任じられたとあり、天足別は天児屋命(アメノコヤネ)と同神とされるから鹿島神の武甕槌命(タケミカヅチ)系となり、またややこしいことになる。中臣、おまえもか!? もうこれ以上登場人物を増やさないでほしい。
『先代旧事本紀』は物部連の祖の天蕤桙命(アメノミホコ)の8世孫の若建命(若多祁命?)が神功皇后のとき伊豆国造に任じられたとする。
伊豆国造が三嶋大社(伊豆三島神社)創建に関わったと決めつけることはできないにしても、何らかの関係があったと考えるのが自然だ。
関係といえば、『延喜式』神名帳にある名神大社、伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は三嶋神の后神で、もともとは三宅島にあっとされることから、伊豆大島の三島神社と対の関係だったと考えられる。
その伊古奈比咩命神社の相殿神の三嶋大明神は三嶋大社の祭神で事代主命(コトシロヌシ)としていることをどう捉えるべきなのか。伊豆の三島神は本来、大山祇ではなくコトシロヌシだった可能性もあるのか。
いつから三島神社(三嶋大社)の祭神が大山祇神とされたかについても考えてみる。

三島神はどこで大山祇となったのか

史料上初めて現れるのが『伊豆国神階帳』で、天平宝字2年(758年)に伊豆三島神に対して封戸9戸が与えられたというものだ。
神階関係でいうと、『釈日本紀』に引用された『日本後紀』逸文に天長9年(832年)に名神にあずかったとある。
嘉祥3年(850年)には三島神に従五位上が与えられている(『日本文徳天皇実録』)。
このあたりの史料からは、三島神/三島明神が大山祇のことを指しているのかどうかは判断できない。
中世には伊豆国一宮と伊豆国総社を兼ねるようになり、南北朝時代のものとされる『伊豆国神階帳』には正一位三島大明神と記載されている。
伊豆に流されていた源頼朝は平家との戦いを前に三島神社で戦勝祈願を行っており、鎌倉時代以降は北条をはじめとする武家からの篤い崇敬を受けることになる。
彼らが三島明神を山の神の大山祇と思っていたかどうかは定かではない。それはひょっとすると近世以降かもしれないし、意外にも古いのかもしれない。
というのも、伊予國の大三島(大山祇神社)の大祝家が江戸時代に編纂した『三嶋宮御鎮座本縁』に、光仁天皇の宝亀10年(779年)に「諸山積の神徳を伊豆国加茂郡に鎮め坐す」という記述があり、この”諸山積”が大山祇のことを指しているとすれば、少なくとも伊予の大三島側も伊豆三島側も大山祇(諸山積)を祀るという意識があったことになる。
ただし、これは江戸時代に書かれたものなので無条件に信じるわけにはいかない。
三島明神はもともと三宅島にあった今の伊古奈比咩神社で、三嶋大社の三島明神は後付けではないかという説もあり、三島神は伊豆半島の白浜に一時移されており、そこから分かれて三嶋大社と伊古奈比咩神社になったという話もある。
そもそも伊豆の三島で祀っていたものを伊予に移して、伊予からまた伊豆に戻したのではないかという考えもあり、とにかくややこしくてよく分からないので、この話はいったん保留とするしかない。

伊豆諸島の歴史について

ついでに伊豆諸島の歴史に少しだけ触れておくと、遅くとも縄文時代から人が暮らしていたことが分かっている。
現在までに発見された最も古い遺跡のひとつ、静岡県沼津市の井出丸山遺跡は約3万7000年前のものとされ、ここから見つかった黒曜石は伊豆諸島の神津島で採れたものとされている。
伊豆諸島から旧石器時代の遺跡は見つかっていないものの、旧石器時代から人がいた可能性はある。
縄文時代の遺跡は多数見つかっており、伊豆諸島で採れた石器などが本島でも出土する。
弥生時代の祭祀遺跡も知られている。
伊豆諸島の歴史は噴火の歴史でもあり、そこで暮らす人々が山の神を祀って祈ったのは自然なことだ。その神を大山祇としたのはずっと後の時代だろうけど、山神を祀る歴史は縄文時代からあったに違いない。

三が意味するものとは何か

上の方で三島は御嶋から来ているのだろうと書いたけど、三という漢数字にも何か意味がありそうだという気がしている。
伊予と伊豆の両方が三島神と三を使っており、三嶋大社と大山祇神社の神紋は少し形が違うものの三の漢数字をかたどった折敷に三文字になっている。どちらも三へのこだわりが見て取れる。
伊予の大山祇神社の社家の越智氏は遡ると伊香色雄命に行き着き、大物主の大三輪や物部の石上神宮とつながる。
大神神社の鳥居は中央の鳥居の左右に小さい鳥居がくっついた珍しい形で知られる三ツ鳥居だ。
『伊予国風土記』が伝える大山祇が最初に坐したとする津の國の御嶋に建つ坐摩神社もまた、三ツ鳥居となっている。
伊豆の三島神が最初に坐したともされる三宅島もまた三だ。
ここまで三が重なると偶然とは思えず、三島は御嶋から来ていると決めつけるわけにもいかなくなる。
三位一体ではないけれど、三には何かありそうだ。三貴紳だったり、三女神だったり、二でも四でもなく三であることに意味があるのだろう。

山の神以外の属性

大山祇が本質的に山の神であるには違いないのだけど、同時に海の神であり、酒の神でもある。
別名の和多志神が示すように、ワタシは”渡し”であり海を意味する”ワタ”の性格も併せ持っている。
祀られている伊予の大三島も伊豆諸島も島であることからしてそれは当然のことだ。瀬戸内海全体や伊豆地方全体の守護神として長く信仰される中で海の守り神となっていったのだろう。
酒の神とされるのは、『日本書紀』第九段一書第三で、神吾田鹿葦津姫(コノハナサクヤヒメ)が子供を産んだ祝いとして、占いで定めた卜定田(うらへた)をを狹名田(さなだ)と名付けて収穫した稲から天甜酒(あめのたむさけ)を醸して新嘗祭に奉納し、渟浪田(ぬなた)の稲を炊いたという記事から来ている。
大山祇がやったわけではなく娘のカムアタツヒメがやったことなのになんとなく大山祇がやったようなことになっている。それで酒解神(さけとけのかみ)という別名も与えられ、アタツヒメは酒解子神(さけとけこのかみ)として梅宮大社(web)などで祀られるようになった。
瀬戸内海で暴れ回った村上海賊の氏神として、また頼朝以降は武家の神としても信仰されていき、その流れは太平洋戦争までつながっていくことになる。
戦争当時、大山祇が陸海空軍の守り神とされたことはあまり知られていない。

 大山祇を祀る山神社

現在、大山祇を祭神とする神社は少なくない。それは大きく分けて二種類で、ひとつは上で見てきたように伊予や伊豆の三島神を勧請したもので、もうひとつは明治維新以降に山神として祀られていた社の祭神を大山祇にしたパターンだ。
山神自体は古くから相当数あったようで、江戸時代の史料にもたくさん出てくる。その中で大山祇を祀ると意識されていた例はそれほど多くなかったはずだ。
それでも、大山祇神社系の神社は全国で900社ほど、三嶋大社系の神社が400社ほどあるというから、古くからある程度は大山祇神に対する信仰というものはあったのだろう。
ただしそれらは西日本と関東が主で、全国区というより地方神という性格が強い。
江戸時代から明治、大正、昭和初期にかけての鉱山開発の際に山神は祀られ、それが大山祇とされたりもした。
あと、ちょっと変わったところでは軍艦島として知られる端島にあった端島神社(1936年創建)の祭神が金毘羅大権現と大山祇神だった。
現存する神社は全国で3000社ほどあり、その中で愛知県に300社ほどあって一番多いそうだ。どうしてそういう傾向になったのかはよく分からない。
小規模神社や境内社をあわせると1万社を超えるというから、山神信仰は根強いものがある。

名古屋に現存する山神社としては、中区の山神社(松原)、瑞穂区の山神社(下山町)、千種区の山神社(田代町)、南区の山神社(道徳)、西区の山神社(上宿)、港区の山神社(知多町)、守山区のお福稲荷社・山神社・白竜社がある。
守山区の大山祇神社(翠松園)は昭和初期に山を切り開いて住宅地にしたときに祀ったもので新しいものだ。
その他の神社でオオヤマツミが祭神に加わっているのは、明治以降に近隣の山神を合祀したものだ。

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