今日の1ページは南区星﨑の市杵島社。
山田重忠創建というのがどこから出てきた話なのか知らないけど、辯才天だったとしてもまずあり得ないことだ。
私は山田重忠が好きなので、山田重忠の足跡は嬉しいことではあるのだけど、やっていないことをやったことにされるのは納得がいかない。
そもそも鎌倉時代初期に年魚市潟に社を建てることができるはずもないし、後から移したにしても、そこまで古い社が現代まで残ることは稀なことだ。
それにしても、星﨑にこれほど山田重忠の名前が出てくるということは、ここに拠点があったのは事実なのかもしれないと思い始めている。
1181年の父と兄の死から1183年の京都進攻までの間に星﨑にいた時期があったかどうか。
山田荘の地頭になった1185年以降はむしろ可能性が低い気がする。
ようやく少しずつ笠寺台地の地形が見えてきた。熱田台地と年魚市潟を挟んだ笠寺台地、火高の海岸線と鳴海潟あたりの地形が見えていないと、古墳や遺跡や神社の配置や位置関係が理解できない。
何故そこに建てられたのかは、地形を知ればある程度理解できる。
古代から中世、近世にかけての海岸線の推移も把握しておく必要がある。郡境や川の流路の変化なども重要な要素だ。
神社は歴史的な事実だけを追いかけても理解できない部分が残る。地形も大事だし、氏族や土地の勢力図も頭に入れないといけない。
他にもいろいろ考え合わせるべき要素がたくさんあって、神社を理解することは難しいとあらためて感じている。
いずれにしても、すべては人がやることだ。人の思いを置き忘れた神社理解は真の理解ではない。
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