今日の1ページは南区源兵衛町の須佐之男社。
江戸時代に天王社を創建する場合、どこから勧請したのだろう。
近場なら津島神社だろうし、そうでなければ京都の祇園社(祇園感神院)だったと考えていいだろうか。
源兵衛町の天王社の場合、どこから勧請したかという情報がなく、判断ができない。明治の神仏分離令で津島社とせず須佐之男社としたということは、祇園社だったのか。もしくは別の可能性もあるのか。
祇園社も神仏分離令を受けて明治元年に八坂神社と名を改めた。
高島礼子の京都の番組で八坂神社のことをやっていた。そこでは祇園社では牛頭天王を祀っていたとしながら、牛頭天王と須佐之男はほとんど同じものと考えられていたという話になっていた。それは本当だろうか?
祇園社の創建は古く、社伝では斉明天皇時代の656年に朝鮮半島の高句麗からやってきた調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が創建したとしている。
高句麗人が何故神社のような寺を建てたのかはよく分からない。当初は牛頭天王でも須佐之男でもなかったといわれている。
祇園社の祭神が牛頭天王とされたのは平安時代なのか鎌倉時代なのか。
いつ誰が牛頭天王と須佐之男は同一だと言い出したのか。習合していたという知識はあっても当時の人たちの感覚的な部分が分からない。京都の町人たちは祇園社に参りながら須佐之男のことを思っていただろうか。
このあたりの問題が相変わらず解決しないままになっている。誰が答えを知っているのか。
名古屋の須佐之男社はだいたい終わったと思っていたらこんなところにまだあった。港区や緑区にもまだ見ぬ須佐之男社があるだろうか。
なかなか須佐之男社からは解放してもらえない。
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