MENU

お願い事は控えめに

 今日の1ページは南区鳴尾町ハノ割の稲荷社
 ここも新田の稲荷社だ。南区の南エリアはこのパターンが多い。江戸時代中期の人たちにとって五穀豊穣を願うなら稲荷さんというのが共通認識だったのだろう。それだけ強い力を持った神様だったということもでもある。

 稲荷神はひとたび関係を結んだら一生つき合わないといけなくて途中でやめると怖いことになるという話がある。いつからそんなことを言われるようになったのかは知らないし、実際のところどうなのかは知りようもないのだけど、そういう話が生まれる背景はあったのだろうと思う。
 稲荷神に限らず、神は人間が便利使いしていいような存在ではなく、願いを叶える一方で祟りもする。
 祟り神を祀って味方に付けるというのは日本的な発想で、ある意味では毒をもって毒を制すといったやり方だ。疫病を司る神を祀って疫病除けにしようというのもそれで、これは本来非常に危ういやり方だ。一歩間違えると攻撃の矛先がこちら側を向くことになる。
 触らぬ神に祟りなしとはよく言ったもので、現代人はこの感覚を失ってしまっている。神は本来祟るものという発想が日本人の中にはあった。だからこそ畏れもしたし敬いもした。取り扱い方を間違えると危ないということを本能的に知っていたのだろう。
 神社を参拝することは基本的にはいいことだし、願い事をすることも悪いことではない。一心に祈れば神に願いが通じるということもあるだろう。
 ただ、物事には必ず反作用があるということも忘れてはならない。願い事をしてそれが叶ったならせめてお礼参りはしておくべきだ。せっかく願いを叶えてやってお礼のひとつも言ってこないとなれば神様も気を悪くする。神様にも見返りを要求する権利がある。命までは取られないにしても、何かを差し出すことになるかもしれない。
 私はどの神社に行ってもなるべく願い事はしないようにしている。特に自分のことは願わない。後が怖いから。
 これだけたくさん神社を回っていていちいち願い事をしていたら莫大な借金を背負うようなもので返しきれないのは目に見えている。
 神社の神様とは縁を結ぶつもりで出向いていく。こちらが要求せずに好意でしてくれることならありがたく受け取りたい。受け取ったものは自分のところでとどめずにどこか別のところに渡すようにすれば、好意は連鎖し、次々につながっていく。
 有名神社をたくさん巡るのもいいけど、身近なところで行きつけの神社を持っておく方がよさそうだ。いざというとき頼りになるのは遠くの有名神社よりも近くの神社の神様だろうから。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次