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まだまだ須佐之男社

 今日の1ページは東区新出来の西之切須佐之男社
 中之切、東之切の須佐之男社と違ってここは遷座しているのだけど、昭和区や中村区に移ったのとは違ってすぐ近くへの引っ越しだったから、さほど大きな変化はなかったんじゃないかと思う。
 ただ、昭和59年というとすでに神社前の出来町通には基幹バスのバスレーンができている。バスレーンが誕生したのは昭和57年だった。わざわざこんな交通量の多い道沿いに建てなくてもよかったと思うけど、ここしか土地を確保できなかったということだろうか。
 昭和59年以前はどんなふうだったのか、写真だけでも見てみたい。中之切や東之切みたいな感じだっただろうか。

 次の徳川町須佐之男社を登録すればしばらく須佐之男社はないと思っていたのだけど、昭和区広路町の須佐之男神社をまだやっていないことに気づいた。これも東区からの引っ越し組ということで、この際まとめてやってしまおう。昭和区汐見町の須佐之男社はもう収録した。

 江戸時代までの天王社にどれくらいスサノオの影があったのか。牛頭天王=スサノオという図式が彼らの中にあったかどうか。庶民、神社人、学者ではそれぞれ見解も認識も違っただろうけど、江戸時代の人たちにとってスサノオとはどんな存在だったか知りたい。
 江戸時代の人たちはどの階層まで『古事記』、『日本書紀』を読んで日本神話をどの程度知っていたのか。
 記録には残らない人々の感情的な部分を知る方法はないだろうか。

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