今日の1ページは西区押切町の白山神社(榎白山)。
歴史的には非常に興味深い神社ではあるのだけど、神社としてはあまり雰囲気がないなというのが正直な感想だった。大正時代に名古屋十名所に選ばれるくらいだから、空襲で焼ける前はかなりいい神社だっただろうに、惜しいことをした。
神社の変遷というのはある意味人知の及ばないところあり、一方で人間次第で良くも悪くもなるものだ。
なんでもない村の小さな社から始まって式内社とされる神社に成り上がったものもあれば、式内社だったのがなんでもないような名もなき神社に成り下がってしまったところもある。
宮司によっておかしなことになってしまった神社も実際あるし、その逆もある。
すべては人のやることで天のせいにはできないといえばそうだ。
神社は人々の手で育てるものだといういい方もできる。一度駄目になったらそれでおしまいというわけでもない。100年、200年という単位でみれば、廃社同然になっている神社を今から復活させることも可能だろう。
神社もまた生きていて、辿り着いた今がすべてではない。過去があり、未来がある。
参拝者にできることは少ないけど、まずは参拝することだ。
地方の鉄道に乗ると、乗って残そう何々鉄道、みたいな標語をよく見かける。その理屈でいえば、参って残そう神社、ということになる。
1000年後の日本で神社がどうなっているかは分からない。人々が必要としないものは残らない。残すためには、ひとりひとりが必要としなければならない。そういう意味でいえば、神社の存続はわれわれひとりひとりにかかっているといえるだろう。
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