長久手市の多度社(前熊村)と秋葉社(前熊村)を書いた。
多度社は以前から本当に多度社なのかなと疑問に思っていたのだけど、今回あらためて調べ直してその思いを強くした。
私が多度社の本質が見えていないだけかもしれないのだけど、天津彦根を祀るというのもよく分からない。
そもそも前熊にはどういう人たちが暮らしていたのだろう。
もう一つの氏神だった八劔社ではなく多度社を残したのが何故だったのかも気になる。
立地だけのことではなかったと思うのだけど。
長久手はもともと尾張氏が開拓した土地だったのが、途中のどこかで別の勢力が入ってきて乗っ取られた感がある。
古い神社に神明を被せてきているのもその表れの一つだ。
次は長久手最後の北熊の神明社で、そこで何か見えてくるものがあるかどうか。
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