古墳と神社の間
今日の1ページは守山区上志段味の勝手社。
志段味地区には多くの古墳がありながら古い神社がほとんどない。古墳の築造は7世紀末頃まで続いたのに、式内社とされる神社は東谷山山頂の尾張戸神社しかない。古墳数に対して神社数が少なすぎるのは何を意味しているのか。
古いとされる神社でも社殿の創建は飛鳥、奈良時代以降なのだろうけど、創祀自体はもっと古くから始まっていたはずで、そういった意味での古い神社も志段味地区では見当たらない。
吉根の八幡社はもともと八幡社ではない古い神社という可能性を感じるものの、それくらいのものだ。あとは中志段味の諏訪社くらいか。
古墳時代の集落は一般的に数軒から十数軒の規模といわれている。
志段味の場合は、400年以上にわたって古墳を築造する集団だったことからすると、もう少し規模が大きかったかもしれない。
数十人、数百人で数十メートルの古墳を築造しようとすると数年はかかる。土を運んできて、それを盛って形を整えて、埴輪なんかも焼かないといけない。石で葺くなら大量の石を拾ってこなければならない。当然、その仕事を専属でやっているわけにもいかない。
彼らは古墳時代が終わった後もこの地にとどまったのか、他へ移っていったのか。
志段味よりも西の小幡、守山地区の方が発展的な感じがするから、丘陵地帯から平地に近い方に移っていったのかもしれない。
勝手塚古墳はやや特殊な位置づけの古墳に思える。6世紀前半といえば古くもなく新しくもないのだけど、これだけぽつんと離れているのには何か理由があったのだろう。
その上に水野良春が勝手明神を祀ったというのも何かありそうだ。
古墳絡みのことを調べていくと、毎回被葬者が分からずに行き詰まるのが嫌だ。石棺に名前を刻む風習が何故なかったのか。
古墳と神社をつなぐ鍵が見つけられない。